第16話 三十年前の、名前
建国祭から、三日が経った。
衣装室は後片付けと、祭りのあいだに傷んだ衣装の手当てで忙しい。お直し部屋の扉の依頼札も増えた。裾の擦り切れ、外れた留め具、葡萄酒の染み。祭りというのは、布にとっては小さな戦なのだと思う。
ステラ様は、あれきり衣装室に姿を見せていない。目玉の御衣装の一件は表向き伏せられたけれど、広間の針子たちの目は、もう以前と同じではなかった。
朝のうちに、王女殿下付きの侍女が、畳んだ銀鼠の一着を抱えて訪れた。
「殿下の御言付けにございます。『また袖を通したいから、手入れをしておいて』と」
祭りの一夜だけの代役ではなく、また着る。それがどれほどの言葉か、侍女の物柔らかな笑みが教えてくれた。
銀鼠を衣桁に掛けて灯りにかざす。大階段を降りた裾にほんの少しの擦れ。緩んだ掛かりが二か所。あの夜は時間に追われて見えなかった細かな癖が、今日はよく見えた。
古い針目は、どこまでも丁寧で——それでいて、どこか、急いでいた。
丁寧さと速さは、両立する。けれど両方が極まった針目は、めったにない。この縫い手は、急ぎながら、一目も捨てていない。
いったい、どういう人が縫ったのだろう。そう思ったのを覚えている。
——この縫い目を、私は知っている。
式のあとの控えの間で、王太后様は、そう仰った。その先は仰らなかった。あの静かな声が、三日経ったいまも、耳の奥に残っている。
*
使いが来たのは昼下がりだった。
年配の侍女が、お直し部屋の戸口に立った。衣擦れの音まで整った、位の高い方付きの侍女だった。
「王太后様が、お召しです」
部屋の空気が、糸を張ったように固くなった。
「針と、針箱を持って参るように——との、仰せにございます」
針箱を、と。
仕事なら、布が先に来る。咎めなら、道具は要らない。針箱だけを持って来い、という召し出しの意味が、私には読めなかった。
「リディアさま……」
ポレットが、袖を握った。それから慌てて手を離し、針山を差し出した。
「お、お守りです。あたしの針、一本入ってます」
「心強いこと」
支度をして廊下へ出ると、マダム・ジョゼットが待っていて、無言で私の襟元を直した。指の早い、正確な直しだった。
「王太后様は、嘘とお世辞がお嫌いです」
それだけ言って広間へ戻っていった。
*
西離宮は渡り廊下の先にあった。
本宮の華やぎから、薄紙を一枚隔てたような静けさ。磨かれた床に燭台の影が伸びて、行き交う侍女たちは声を持たないかのようだった。
通された部屋で、王太后マルグリット様は窓辺の椅子におられた。
控えの間で拝したときと同じ、小柄な白髪の貴婦人。ただ、あの日より近い。近いということが、こんなに背筋の伸びることだとは知らなかった。
「手を」
最初のお言葉が、それだった。
進み出て両の手を差し出す。老いた指が、私の指先を検めていった。針だこの位置。左の親指の付け根の、当ての癖。指貫の当たる場所の、皮の厚み。
それは貴人の手遊びではなかった。針子の手を、針子の目で検める手つきだった。
「……針箱を」
祖母の黒檀の針箱を、卓に置いて、蓋を開けた。
王太后様の目は、中の道具を通り過ぎて——蓋の裏で、止まった。
銀糸で刺された、小さな指貫の図案。
長い、沈黙だった。
「エディス」
と、王太后様は言われた。
私は息を呑んだ。
名乗っていない。祖母の名はこの宮の誰にも告げていない。配属の書き付けにも、祖母の名までは載らない。
「なぜ、その名を——」
「三十年前、私はその針箱を、毎日のように見ていました」
王太后様は、蓋の裏から目を離さずに続けられた。
「あなたの祖母は、この宮の針子でした。先代の、筆頭。針の速さで並ぶ者はなく、それでいて、新しく縫うより直すことを好んだ——変わり者」
「若い針子たちは、二つ名で呼んでいました。『銀の指貫』と」
お直し部屋の壁が、頭の中に浮かんだ。
羽目板に並ぶ、歴代お直し係の小さな刺繍印。その一番古い場所にある、銀糸の指貫。針箱の蓋裏と同じ図案に、見覚えの理由を——私はずっと、考えないようにしてきた。祖母は市井の針子で、王宮など生涯知らずに逝った人の、はずだったから。
「祖母は……王宮のことを、一度も」
「言わなかったでしょう。あの子は、そういう子です」
祖母の手を思い出していた。
町はずれの小さな家。窓辺の裁ち台。近所の繕い物を一日中引き受けて、夜は私に針を持たせた人。縫い目は筆跡。捨てるドレスはございません。針を置くなら、まず灯り。——あの教えの一つ一つが、王宮の筆頭針子の水準だったことに、いまさら音を立てて、辻褄が合っていく。
八つの子供に、王宮仕込みの始末を教えていた人。
「建国祭の、銀鼠の一着」
王太后様が、初めて私の顔を見られた。深い色の目に灯りが揺れていた。
「……はい。今朝ほど、王女殿下からお手入れに預かっております」
「そう」
一拍だけ、間があった。
「あの子の針は、まだ働いているのね」
あの子。
「あれは、エディスが仕立てたものです。三十年前の春に、あの子が裁って、あの子が刺した。——私のために」
息が、止まった。
「伝来の御様式の写しでございます、と。『古い物ばかり直しておりますと、古い物の良さが手に移りますので』と、生意気を言って」
王太后様の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。すぐに戻った。
「私が袖を通す前に、あの子は宮を去りました。一着だけが庫に残って——三十年。まさか孫の針があれを直して、姫の肩に載せるとは」
似ている、どころではなかったのだ。
あの銀鼠の、膨らみのない、まっすぐな肩線。抜くことを拒んだ、裾の金糸の針目。丁寧で、急いでいる縫い目——宮じゅうの針を束ねる筆頭が、合間を盗んで主のために縫った一着なら、あの針目のわけも合う。
縫い目は筆跡。けれど筆跡は年と共に変わる。私が知っているのは、六十を過ぎた祖母の、ゆっくりと確かな針だ。三十年前の、盛りの頃の『銀の指貫』の針を、私は知らない。
それでも、どこか懐かしいと思ったのだ。殺せる糸目ではないと、思ったのだ。
膝の上で指先が冷えていた。
「恐れながら……祖母は、なぜ宮を」
聞かなければ、と思った。祖母ほどの針子が、なぜ名も告げずに市井にいたのか。なぜ王宮を一度も語らなかったのか。なぜ壁の印だけを残して消えたのか。
王太后様はすぐには答えられなかった。窓の外の、冬の名残の庭に目をやって、それから、静かに仰った。
「探せなかったのです。三十年、私は、あの子を探すことを——許されなかった」
許されなかった。王太后ともあろう方が。誰に、とは、聞けなかった。
「……エディスは、罪人として、この宮を出たのです」
控えていた侍女の肩が、微かに強張るのが見えた。
罪人。
その言葉と、竈の前で背を丸めて針を運んでいた祖母とが、どうしても重ならなかった。
膝の上の針箱が、急に重くなった気がした。
私は蓋をそっと閉じた。乾いた木の音が、静かな部屋に、思いのほか大きく鳴った。
お読みいただきありがとうございます。
三十年前、王宮には『銀の指貫』と呼ばれた針子がいました。
次話——罪人と呼ばれた祖母の、三十年前の火事の話が語られます。
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