第15話 建国祭の夜明け
建国祭の前夜、最後の仮縫いのために、オーレリア王女殿下が衣装室へお渡りになった。
十六におなりの、小柄な姫君だった。広間に入ってこられたときも、椅子ひとつぶんの静けさしか連れていない。仮縫いの台に上がって、王女は少しだけ笑った。
「大げさね。わたくし一人の衣装に、こんなに大勢」
深紅の御衣装が、着せかけられていく。金のモール。肩から裾へ流れる飾り紐。商会の職人がふたりがかりで裾を整え、番頭が揉み手で控え、ステラ様が扇の陰から満足そうに眺めていた。
王女が、裄を確かめようと、右腕をゆっくり上げた。
みし、と、布の鳴る音がした。
絹の鳴りではない。織の目が、泣いた音だ。私の位置からでも分かった。右の肩線に沿って、縫い目が——生地ごと、口を開けていた。
「……あら」
王女ご自身が、いちばん先に気づかれた。
「わたくし、太ったのかしら」
場を和ませようとした声が、かえって広間を凍らせた。職人が飛びつき、番頭が青くなる。開いた口は肩から背へ、指二本ぶんも走っていた。裂けたのではない。縫い目の際で織そのものが解けたのだ。
「な……何をしたの、あなたたち!」
ステラ様の声が裏返る。
「着せ方が乱暴だったのよ! それとも寸法を間違えたの!? 直しなさい、今すぐ!」
「こ、これは……縫い直しても、また開きます。生地が、その、目が」
職人の声は正直だった。正直なぶんだけ、遅かった。
マダム・ジョゼットが台に寄り、開いた口の縁を検めた。それから、まっすぐに私を見た。四日前、力布と言った私を。
「新調は」
「間に合いません。今からでは、裁ちにも掛かれません」
職人の答えに広間が沈んだ。明日の正午、大階段。王女殿下の御登壇は式次第の要だった。
私は一歩前へ出た。
「——一晩、いただけますか」
*
納戸から運んだ銀鼠の一着を、燭台の輪の中で広げた。
膨らみのない、まっすぐな肩線。裾にぐるりと、金糸の緞刺しの花文様。ステラ様が眉を吊り上げた。
「それ、わたくしが返した古着じゃないの! 王女殿下に古着を着せる気!?」
「様式は、古うございます」
私は認めた。それから、裾の文様を燭台に寄せた。
「建国のころの様式の、写しでございます。この花は、建国の御旗の花。——建国祭の御装いとして、これより正しい意匠を、私は存じません」
王女は台を降り、銀鼠の絹に、ご自分から近づいてこられた。裾の花文様をじっと見る。
「……きれい」
顔を上げたときには、姫君の目に、決めた者の色があった。
「これにするわ。建国祭に、建国のころの装い。道理ですもの」
「殿下! そんなぼろを——」
「ステラ」
王女の声は高くなかった。
「明日、わたくしを階段に立たせてくれるのは、どちら?」
扇が、止まった。マダムが進み出て深く腰を折った。
「衣装室が、お請けいたします」
*
夜のお直し部屋は糸と蝋の匂いがした。
肩を三分落とし、身幅を詰める。衣装は肩で着るものだ。肩さえ合えば、七割は合ったも同じ——祖母の教えのとおり、まず肩線から地図を引き直す。
裾の金糸は、抜かない。いつの、誰の手かは知らない。ただ丁寧なその針目を残したまま、緩んだ掛かりだけを、庫の奥の古い金糸で掛け直していく。
ポレットは糸を巻き、しつけを打ち、四つ目の欠伸を噛み殺した。
「寝なさい、ポレット。夜明け前に起こします」
「やです。……弟子ですから」
夜半を過ぎたころ、扉が細く開いて、マダム・ジョゼットが入ってきた。何も言わず、燭台をひとつ裁ち台の右に増やして、しばらく私の手元を見ていた。
「……針目、乱れていないのね。この刻限で」
それだけ言って出ていった。扉の閉まる音は、来たときより柔らかかった。
次に扉が鳴ったのは、夜のいちばん深い刻限だった。
「進み具合を聞きに来た」
アルヴィン局長は盆を自分で持っていた。湯気の立つ茶がふたつと、継ぎ足しの炭。
「式次第を組み替えた。王女殿下の御登壇は、正午から半刻あと。それ以上は動かせん」
「半刻……。十分です」
「無理はするな、と言いたいところだが」
局長は裁ち台の銀鼠を一瞥して、燭台の芯を、指先で摘まんで整えた。
「蝋燭は、いくらでも使え。今夜だけは、惜しむな」
『冷徹の吝嗇卿』の言葉とも思えなかった。私は針を持ったまま、少しだけ笑ってしまった。笑ったら指がほどけて、針は、また速くなった。
*
夜が、明けた。
最後のしつけ糸を抜き、糸端を鋏で払う。銀鼠の絹は衣桁の上で、朝のいちばん薄い光を纏っていた。
古いのではない。長く、正しく、待っていただけの一着だった。
「——見事だ」
いつからいたのか、局長が戸口に立っていた。
「見事だ、リディア・アシュフォード」
名を、呼ばれた。
この王宮で、役名でもお直し係でもなく、名前を呼ばれたのは——初めてだった。返事の代わりに深く頭を下げたのは、礼のためで、それから、顔を見られたくなかったからでもある。
「御衣装、納めに上がります」
*
正午半、大階段。
祭りの楽が鳴り止んで、オーレリア王女殿下が、光の中へ出ていかれた。
銀鼠の絹が石段の白に映えて、裾の金糸の花が、一段ごとに揺れた。ざわめきは一拍遅れて来た。
「……建国期の御様式だ」「御旗の花か」「なんと由緒正しい」
老臣たちのどよめきが、やがて拍手に変わった。王女は階の半ばで一度止まり、招きの口上を、澄んだ声で読み上げられた。
どこかでステラ様が扇の陰に立ち、セドリック殿下が誇らしげに笑っているはずだった。私はもう、そちらを見ていなかった。裾の金糸が揺れるたび、針目がひとつも泣いていないことだけを、耳で数えていた。
*
式のあと、控えの間に呼ばれた。
入ってすぐ、息が止まった。王女の御衣装が衣桁に掛けられ、その前に、小柄な白髪の貴婦人が立っていた。侍女が三人、息を殺して控えている。
王太后マルグリット様だった。
王太后様は、私に目もくれず、銀鼠の裾の前に膝を折られた。侍女が悲鳴のように何か言いかけて、手で制された。
老いた指が、金糸の花文様を、一輪ずつたどっていく。それは検分の手つきではなかった。長い長い文を指で読み返す手つきだった。
やがて王太后様は顔を上げられた。
「この掛け直しの金糸は、今の手のものね。——古い糸目を、殺していない」
「恐れながら。……殺せる糸目では、ございませんでした」
王太后様はそこで初めて私を見た。深い色の目だった。
「……この縫い目を、私は知っている」
静かな声が、控えの間の空気を、糸のようにぴんと張った。
私の帯に提げた小鋏が、ちり、と小さく鳴った。
お読みいただきありがとうございます。
銀鼠の一着は、古かったのではなく、待っていただけでした。
次話——王太后様の御前へ。三十年前の名前が、呼ばれます。
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