第11話 あら、まだいたのね
ロベール次席の沙汰から、十日あまりが過ぎた。
お直し部屋の扉には、朝のうちに依頼の札が三枚下がるようになった。多い日は五枚。少ない日でも、必ず一枚。宛名はあいかわらず「お直し部屋へ」だけれど、札の字は、どれも丁寧になった。
「リディアさま、今日の字、書けました!」
ポレットが帳面を掲げる。毎日、針を十回、字を二つ。今日の字は「糸」と「布」だった。糸の字が少し右に倒れているのは、ご愛嬌だ。
「よく書けています。糸の字はね、糸巻きのかたちの写しなのよ」
「道理で! あたし、かたちなら覚えられるんです」
朝一番の依頼は近衛のギヨムだった。式典外套——ではなく、今日は小さな包みを抱えている。
「妹のだ。祝いの晴れ着の袖が、ほつれた。城の針に頼むほどのもんじゃねえが……あんたの針なら、妹に自慢できる」
「承ります」
仕事に貴賤なし、縫い目に貴賤なし。彼の受け売りを思い出しながら、私は包みを受け取った。
昼前には城下から文が届いた。メルヴィル伯爵夫人からだった。腰紐の加減はちょうどよいこと。体は健やかであること。あの青い礼装はあれから二度も着たこと。
結びに、一行。
『三月のちの約束も、変わらずに』
私は文を針箱の抽斗にしまった。張った糸は、緩めない。それだけ確かめて午前の繕いに戻った。
*
午後、衣装室に触れが回った。
第二王子殿下の婚約者様が、衣装室へ「ご挨拶」にお見えになる。針子は広間に整列のこと。——お直し部屋も例外ではないという。
ステラ・ブライト男爵令嬢は、約束の鐘から四半刻遅れて現れた。
侍女がふたり。荷を抱えた従者が三人。それから、商人ふうの羽織の男がひとり、反物の箱を捧げ持って続いた。
見事なドレスだった。流行の膨らんだ袖。腰の切り替えに銀糸の刺繍。裾には真珠の縫い留め。一目で金貨の枚数が浮かぶ仕立てだ。
枚数が浮かんでから、ふと思った。この枚数をどなたが払ったのだろう。男爵家の、と続きそうになった考えを、私は帳面の綴じ目に挟んで閉じた。詮索は、針の仕事ではない。
ただ——目だけは、勝手に縫い目を読んでいた。袖山の絎けが、急いでいる。真珠の留めの間隔が、わずかに詰まり、わずかに開く。上等な手だ。上等な手が、急がされている。
「皆さま、ごきげんよう」
ステラ様は広間の真ん中で、扇を胸に当てた。
「建国祭では、王家の装いを一新いたしますの。古びたものは、もう王宮には似合いませんもの。皆さまのお働きに、期待していましてよ」
針子たちが頭を下げる。上げかけたところで、扇の先が、列の端で止まった。
「あら——」
視線が、ゆっくりとこちらへ滑ってくる。
「まだ、いたのね」
広間が、静かになった。
「王宮は広いようで狭いこと。ねえ、その指、針で穴だらけになるんですって? 令嬢の手じゃなくなるわねえ」
私は膝を折って答礼した。
「お直し係を務めております。手は、道具になりました」
事実だけを置いた。ステラ様はほんの一瞬黙って、それから扇を開いた。
「そう。お似合いだこと」
絹擦れの音を引いて、行列は広間を出ていく。戸口で、ステラ様だけが足を止め、思い出したように振り返った。
「それから、マダム。納戸にわたくしの古いドレスが残っているでしょう。目障りですから、建国祭の前に、焼くなり払うなり、なさってちょうだい」
*
夕刻、マダム・ジョゼットに呼ばれて、納戸へ行った。処分の沙汰の、検分のためだ。
扉を開けると、しまい込まれた布の匂いが押し寄せた。
ドレスの山だった。衣桁に掛かりきらず、長持の上にまで畳まれて積まれている。数えると、二十七着あった。
「これ、ぜんぶ……ステラ様の?」
ポレットが目を丸くする。
「お召しになって、お気に召さなくて、お戻しになった分です」
マダムの声は平らだった。平らすぎてかえって重かった。
袖を通した跡のないものが、半分。裾に一夜ぶんの埃を吸っただけのものが、残り。真珠も銀糸も、仕立てられたときのまま眠っている。縫った手の熱だけが、まだ布に残っている気がした。
「沙汰は沙汰です。建国祭までに、片を付けます」
マダムはそれだけ言って、いちばん手前の一着の襟を、指先ですっと直した。処分を言い渡した者の、手つきではなかった。
捨てるドレスはございません——祖母の声が、耳の奥で聞こえた。
私はまだ、何も言わなかった。言う代わりに、山の高さと生地の目方を、頭の中の帳面に書き付けた。
*
お直し部屋に戻ると、ポレットが灯りの下で、字の復習いをしていた。糸。布。倒れていた糸の字が、二度目には立っていた。
「リディアさま。建国祭って、お忙しくなるんでしょうか」
「なるでしょうね。——たぶん、思っているよりずっと」
私は繕いかけの晴れ着を膝に広げ、針に糸を通した。指先でひと張り。きん、と細い音が鳴って、夜の仕事が始まった。
お読みいただきありがとうございます。
納戸に眠る二十七着と、急がされた縫い目のお話でした。
次話——建国祭の発注書が衣装室に届きます。新作十二着、期日は二十日。
続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




