第六十五話 王妃の日常
領土を拡大した後は、戦士たちを引き連れて新領土内を巡り、住民たちに王の威容を見せつけながら支配を宣言するのが恒例。冬が明けると、エドウィンは昨年の晩秋に征服した旧バーデン領の農場や村、その間に点在する職人たちの家々や祭司たちの管理する神殿に赴き始めた。
王が不在の間は、王妃クレアが名代として留守を守ることになる。王国統治の実務に関しては側近たちが多くを担っているため、クレア自身が何か具体的な仕事をする場面は少ないが、主に非常時の形式的な責任者や来客があった際の応対役として館に控えながら、普段通りの生活を送りつつ王の帰還を待つことになる。
小国とはいえ一国の王妃であるクレアの日常は、優雅と言って差し支えないもの。
地主家の令嬢だった頃はドーラの料理や洗濯や掃除などの手伝いも行っていたが、今は家政を担ってくれる女性家臣たちの仕事を奪わないよう配慮する意味もあり、そうした家事からは離れている。手や服を汚し疲労を伴う家事から解放されている……という事実は、旧ロドニア帝国領土の文化圏においては、地位と富のある女性の何よりの証とされている。
一方で、女性の伝統的な仕事とされている糸紡ぎや機織りや刺繍といった作業は、己の手で形あるものを作り上げるという個人的な楽しみを兼ねて続けている。そして、今のところクレアの生活の中心となっているのが、子供たちの世話。幼い王子エゼルウルフと赤ん坊の王女アリスを慈しみながら大切に育てることが、クレアの最大の使命であり喜びとなっている。
「わあ、ははうえ、ウサギさんがいるよ! みてみて!」
よく晴れたある日。館の裏手でエゼルウルフの散歩に付き合うクレアは、嫡男が指差す方を見ると、笑顔を浮かべる。
「あら、本当ね。大きくて立派な兎さんね」
館の裏手、戦士たちの訓練場として使われている空き地には、野生動物が時おり姿を見せる。おそらくは近くの森からやってきたのであろう野兎に、エゼルウルフは興味津々の様子。まだ都を出たことがない幼い王子にとって、こうして直に野生動物を見る機会は貴重なものだった。
「ほら、アリスも見える? あれが兎さんよ。耳が大きくて可愛いでしょう」
「うぅ~?」
腕に抱いているアリスにクレアが語りかけると、先の冬の間に一回り成長した王女は目を丸くしながら、平地を飛び跳ねる野兎を興味深そうに見つめる。昨年の秋まではゆりかごに寝転がるばかりの日々を送っていた彼女は、野生動物を見るのはこれが初めてのこと。
「クレア様。お疲れじゃありませんか? アリス様の抱っこを変わらなくて大丈夫ですか?」
「ありがとう、アンナさん。それじゃあ少しの間お願いしていいかしら」
傍らから声をかけてきたアンナに、クレアは微笑で応えてアリスを手渡す。戦士長ジェラルドの娘であるアンナは、普段からこうして王族の身の回りの世話を担ってくれている。
「わっ! ウサギさんこっちにきた! ははうえ、さわってもいい?」
「ああ、駄目よエゼルウルフ。野兎は見た目は可愛くても、野生の動物なんだから。蹴られたり噛まれたりしたら大変よ。離れて眺めるだけにしておきましょう」
野兎は見た目に似合わず気性が荒いことも多い。大人でも蹴られて骨折したり、噛まれて大怪我をしたりすることもあるのだから、幼子が不用意に近づいては危ない。そう思ってのクレアの言葉に合わせ、エゼルウルフを野兎から守るように立ったのは、アンナと共に傍に控えていた女性戦士だった。
「ありがとう、ジルヴィアさん」
「いえ、これも私の仕事ですから」
そう答えた女性戦士ジルヴィアは、エドウィンやクレアよりも一回り年上で、成人男性の平均を上回る高身長と、その恵まれた体格に見合う強さを持っている。戦士団においては、前身となる傭兵団にエドウィンの父が団長を務めていた頃から所属していた最古参の顔ぶれの一人で、現在は王家の親衛隊に所属する唯一の女性戦士。エドウィンからの信頼も厚く、こうして王妃と王子王女の身辺警護を任されている。
「あっ、ウサギさん帰っちゃう……ばいばーい」
「ばー」
一瞬こちらに視線を向けた後、すぐに興味を失ったのかどこかへ駆けていく野兎を、エゼルウルフは残念そうに見送る。兄を真似たのかアリスも小さな手を掲げて言い、その可愛らしい振る舞いにクレアもアンナもジルヴィアも笑みを零した。
「あらあら、クレア様もお子様方も。皆さんお揃いでお散歩中ですか?」
「今日はお散歩日和のいい天気ですものねぇ」
そこへ新たに声をかけたのは、ジェラルドの妻であるリンダと、サベルトの未亡人であるヘルガだった。二人の手には、これから干すのであろう洗濯物が入った籠が抱えられている。
「ええ。ついさっきまで野兎がいて、子供たち二人とも興味津々だったの」
「あら、そうなんですか。お二人ともあんまり動物は見たことがありませんものね」
「王子殿下、野兎は見た目は可愛いけど、けっこう厄介なんですよ。野菜畑は荒らすし、追い払おうとしたら跳び蹴りを見舞ってくるし……だから、見つけたらとっ捕まえて丸焼きかシチューにするのがいちばんいいんです」
「そっかぁ。かわいそうだけど、ウサギのお肉おいしいもんねぇ。むつかしいもんだいだねぇ」
腕を組んで唸るエゼルウルフの大人ぶった仕草に、クレアたちは再び笑みを零す。リンダとヘルガも、幼い王子の振る舞いに表情をほころばせる。
「王妃殿下、それに皆さんも。昼食の用意ができました」
リンダとヘルガが洗濯物を干し終えた頃、館から歩いてきたドーラが皆に呼びかけた。家政の統括や王家の財産管理など重要な仕事を任されているドーラは、しかし個人的に料理は好きであるらしく、半ば息抜きとして今も皆の昼食作りを担っている。
「ありがとう、ドーラ……ほら、エゼルウルフ。館に帰ってお昼ご飯を食べましょう」
自身にとっては母親代わりのような存在であるドーラに返し、クレアはエゼルウルフの手を引いて館の方へ向かう。その後ろに、アリスを抱きかかえたアンナと、リンダとヘルガとジルヴィアが続く。
これが、クレアの日常の光景。クレアは美しく優しい王妃として皆に慕われながら、愛する子供たちと頼れる家臣の女性たちに囲まれて日々を幸福に暮らしている。
・・・・・・
館に戻ったクレアたちは、既にパンとスープの昼食が並べられた大テーブルを囲み、それぞれの定位置の席につく。ドーラと、屋内で事務仕事に励んでいた祭司長フィオナも一緒に食卓を囲む。
皆で賑やかに、かつ和やかに食事を楽しみ、食後のお茶が出された頃。戦士を幾人か連れて自ら都の周辺の見回りに出ていた戦士長ジェラルドが館に帰ってきた。
「ジェラルドさん、お帰りなさい。見回りご苦労さまでした」
「恐縮です、王妃殿下」
王妃の労いにジェラルドは軽く頭を下げながら返し、歩み寄ってきた妻リンダに脱いだ外套を預ける。
「随分と遅かったですね。正午までにはお戻りになるって仰ってたのに」
「ああ、予定外の事態が起こってな。ひとまずの対応をするのに手間取った……殿下、報告いたします。王国領土の南の海岸、アイヴァー川河口よりも少し西の位置に、大陸から海を渡ってきた難民の集団が上陸しました」
伴侶に答えたジェラルドは、クレアに向き直って表情を引き締めると、そう状況を語った。
「な、難民、ですか……?」
「はい。人数は百人以上にもなります。全員がキラケス人だそうで、この地にキラケス人の王が治める国があるという噂を聞き、大陸の混乱から逃れるために流れてきたとのことです。割合としては女や子供が多いので、侵略者や掠奪者が嘘をついている可能性は極めて低いと考えていいかと思います。私がリンダム王家に仕える戦士団の長だと語ると、王家からの保護を求められましたが……いかがいたしましょう」
「まあ、それは大変。すぐにでも助けてあげたいところだけど……でも、百人以上というのはとても多いわ。それに、王家の保護となると私の一存では……とりあえず、水と食料をあげて、領土内で休むことを許可して、国王陛下が帰還された後に本格的な対応のご指示を仰ぐのがいいかしら」
困り顔になりながらも素早く考えをまとめて言ったクレアに、ジェラルドは頷く。
「それがよろしいかと存じます。加えて、一時的な保護と治安維持のための監視を兼ねて、戦士を二十人ほど傍に置いておくのがいいかと」
「では、そのように対応をお願いします。委細についてはジェラルドさんの判断で対応なさってください。陛下には、私が王の名代として諸々の許可を出したとお伝えします」
「承知しました。戦士たちには出動に備えるよう既に命じていますので、準備が終わり次第とりかかります」
そう答えたジェラルドは、パンをスープで流し込むようにして手早く昼食を終えると、再び広間を出ていった。




