第五十話 満ち足りた日々①
アロナ島南西部の一角に位置し、五千に届く人口を有するリンダム王国。その政治や軍事、経済の中枢機能は、領土の南端付近に位置する大きな人里に置かれている。
アロナ島がロドニア帝国の支配下に置かれていた前時代には豊かな農場であったこの人里は、王とその家族が暮らす館を戴いていることから、建国の頃より人々の間で「王の都」と呼ばれるようになった。農場だった頃の人口は百人に満たなかったが、王とその戦士団、戦士たちの家族、王家の抱える職人や仕事を求めて移り住んだ労働者たち、さらには新たに誕生した幼子たちまで合わせた現在の人口は、三百人に迫ろうとしている。多くとも人口百人程度の村や、人口数十人程度の農場ばかりが並ぶアロナ島の農村社会においては、目立って大きな規模と言える。
リンダム王国の支配者たるエドウィン王の館は、都の北側に位置している。さらに北側、館の裏手には開けた空き地があり、王と戦士たちの訓練場として使われている。初秋のある日の午後、この空き地に戦士団の半数ほどが集まり、模擬戦を行っていた。
戦士団を率いて国を守る王は、自身も強く勇ましい戦士であることを求められる。武器こそ訓練用の木製だが、激しさを見れば実戦さながらの戦いがくり広げられる光景の中には、エドウィンの姿もあった。
「相変わらず信じられないほど堅い守りだな! そろそろ隙を見せてくれないか?」
「畏れながら陛下、そうはいきません。まだ隙を見せるほど疲れていませんので」
木剣を何度もぶつけ合った後に一度距離を開き、エドウィンは肩で息をしながら言った。それに対し、模擬戦の相手を務めている戦士長ジェラルドは涼しい顔のまま、家臣らしくかしこまった口調で答える。
エドウィンは戦士として弱いわけではない。むしろ、並みの軍人ではそうそう勝てない程度の実力は持ち合わせている。
身長はキラケス人の平均よりもやや低く、身体の線も細く、一戦士としては屈強な質とは言えない。それでも持ち前の器用さを活かして人並み以上に武芸の実力を高め、さらには体格の不利を補うために牽制や不意打ちを駆使する戦い方を身につけ、中の上、ジェラルド曰く「上の下にはあと数歩届かない程度」の実力には達している。
そのジェラルドは、己が付き従う主人をそのように批評するだけあって、誰が見ても上の上と評するであろう実力を備えている。戦士団の中では文句なしに最強、このアロナ島の中で最強でもおかしくないとエドウィンは思っている。
長身に見合う長い手足を活かした大胆かつ繊細な立ち回り。剣による鋭い斬撃と円盾による巧みな防御。体躯と技術を調和させたジェラルドの戦い方に、エドウィンは先ほどから翻弄され続けている。手も足も出ないというわけではなく、我ながらそれなりに上手く攻撃しているつもりだが、しかし決定打を与えられない。王の訓練相手として防御を中心とした戦法をとるジェラルドの、その堅い守りをどうやっても崩せない。
「では、あとどれくらい攻めれば隙を見せてくれる?」
「十年か十五年ほどでしょうか。それだけ経てば私も老い衰えて隙も生まれるでしょう」
「その戯言は聞き飽きた!」
涼しい顔のまま冗談を飛ばしたジェラルドに、エドウィンは薄く笑みながら攻めかかる。このような問いを投げたのは、もう何度も聞かされた定番の冗談を彼がまた言うと分かった上での戯れだった。
本気で攻めかっていいとあらかじめ言われているので、エドウィンは思いきり木剣を叩きつけてやるつもりで次々に攻撃をくり出す。しかしやはり、ジェラルドは守りを崩さない。牽制を織り交ぜながら死角への不意打ちを放っても、全て完璧に防がれてしまう。
やがて疲弊したエドウィンの方が大きな隙を見せてしまい、その隙を容赦なく突かれて足を掬われ、無様に転倒すると同時に顔の前に木剣の剣先を据えられ、敗北を認めざるを得なくなった。
「……最近は本気で思うようになったよ。僕が君に一度でも勝つには、本当にあと十数年も待たないといけないだろうと」
「そうでなければ俺が困りますよ。若様に敗けたときが、戦士長の肩書を返上して隠居するときだと決めてますからね。まだまだ現役でいさせてもらいます」
エドウィンが微苦笑を零しながら言うと、主君が立ち上がるのに手を貸すジェラルドも笑みを浮かべた。周囲の者に聞かれない程度の声の大きさであるためか、彼の口調は先ほどと違ってくだけたものだった。
「国王陛下ぁ! 見てましたよ、今回も派手に敗けましたねぇ!」
「お疲れさまでした、陛下。それに父上も」
そこへ歩み寄ってきたのは、既に自分たちの模擬戦を終え、主君と戦士長の戦う様を見物していたエドウィンの若き側近たちだった。陽気な気質のオズワルドは嫌味のない半笑いを浮かべて、ジェラルドの息子であるレオフリックは生真面目な表情でそれぞれ言った。
「なかなか見応えのある散り様だっただろう? 君たちの方はどうだった? 今回はどちらに戦の神ダノンが味方したんだい?」
「もちろん俺に……と言いたいところですが、またレオフリックが勝ちましたよ。これで三回連続だ。最近のダノンはこいつがよっぽどお気に入りなようで」
「これで俺が八回の勝ち越しです」
エドウィンの問いにげんなりとした顔でオズワルドが答え、一方のレオフリックは少しばかり得意げな表情になる。二人は子供の頃から模擬戦をする度に勝敗をいちいち数えており、どちらかが優勢な時期もあるが、年単位で見れば一進一退だった。
「そうか、それなら今しばらくはレオフリックの優勢が続きそうだね……他の皆も概ね決着がついたようだ。少し休憩といこう」
エドウィンは訓練場を見回して言い、そして戦士たちは小休憩に入る。エドウィン自身も、側近たちと共に訓練場の隅に移動する。
そこでエドウィンを迎えたのは、幼い男の子だった。
「ちちうえ~!」
ぽてぽてと可愛らしい足取りで歩み寄ってきたその幼子に、エドウィンは慈愛に満ちた笑みを向ける。
「エゼルウルフ、僕の戦いぶりはどうだったかな?」
「すごかった! ちちうえつよい! すごいねぇ!」
軽々と抱き上げられた幼子――エドウィンの嫡男であるエゼルウルフは、はしゃいだ様子で父の模擬戦の感想を語る。
「あははっ、強くて凄いか。それは何よりだよ。最後はジェラルドに敗けてしまったけどね」
「ジェラルドはさいきょうだから、しかたないよぉ」
「仕方ないか。それもそうだ……まったく、最強だとか仕方ないだとか、いつの間にそんな色々な言葉を使うようになったんだい?」
思わず苦笑を零しながらエドウィンが首を傾げると、エゼルウルフも父を真似てこてんと首を傾けてみせる。
「陛下、水をどうぞ」
そこへ、傍らから水の入った杯が差し出される。騒々しい訓練場においても丁寧な所作で王への給仕を務めるのは、十代半ばほどの少年だった。
「ありがとうウィトレッド。エゼルウルフは大人しくしていたかな?」
「はい。王子殿下はとても興味深そうに陛下の戦いを見ておられました」
ウィトレッドと呼ばれたその少年は、今は亡き側近の一人であるサベルトの次男で、オズワルドの弟にあたる。陽気な兄や亡父と違って大人しい気質の彼は、子供の頃の怪我がきっかけで片足を悪くし、日常生活を送る分には問題ないが戦いに臨むことは難しいため、将来は文官として王家を支えるべく家政や事務仕事を日々学んでいる。
今は訓練に臨むエドウィンの雑用係を務めつつ、訓練を見学したいとこの場についてきたエゼルウルフの面倒まで見てくれていた。
「ちちうえ! ちちうえたちもつよかったけど、せんしのみんなもつよかったよ! みんながんばってて、えらかった! ほめてあげないと!」
「はははっ、確かにその通りだ。頑張った家臣は褒めてあげなければね」
「ぼくがほめてくる! みんなのところにいってくる!」
「そうかそうか。王子の君が直々に褒めれば、戦士たちも喜んでくれるはずだよ。ほら、行っておいで」
そう言ってエドウィンが下ろしてやると、エゼルウルフは地面に座り込んで休憩している戦士たちのもとへ歩み寄っていく。
「みんなぁ~! おつかれさまぁ~! がんばっててえらいねぇ~!」
そんなことを言いながら雑談の輪の中に突入してきた小さな王子を、戦士たちは表情をほころばせて迎える。
「これはこれは、王子様が直々に褒めてくださるとは嬉しいなぁ。おい皆、ありがたく御言葉を頂戴しておけよ」
「ああ。こんな可愛らしい労いのお言葉をいただいたら、頑張った甲斐があるってもんだ」
「王子様、俺がこいつをぶん投げたところ、見ててくださいましたか? よければもう一度やってみせましょうか。きっと面白いですよ」
「いやいや、冗談じゃねえ。王子様の前でまた恥かいてたまるかよ」
戦士たちは小さな王子を囲み、和やかに笑い合う。エゼルウルフ当人も、おそらく皆の会話の全ては理解できないまま雰囲気に流されてにこにこと笑っている。
「相変わらず王子殿下は皆に人気ですねぇ。まあ、あれだけ愛くるしいんだから当然でしょうが」
「父親としては喜ばしいかぎりだよ。あの子があの愛嬌を損なわないまま育てば、次代においても戦士団の忠誠心は揺るがないだろうね」
オズワルドが感心したように言うと、エドウィンは楽しげに笑いながら返す。
幼子は皆愛くるしいものだが、親の贔屓目を抜きにしても、とりわけエゼルウルフは可愛らしい見た目をしている。容姿端麗な母を持つおかげか、あるいは周囲から美青年と評される自分も血を分けた父親として貢献できたのか、まだ幼い今のうちから美男子の片鱗を垣間見せている。普段エゼルウルフを目にしている家臣や都の民は、彼の愛くるしい容姿を「まるで神々が遣わした天使のよう」と評している。
王の嫡男という恵まれた立場とこの恵まれた容姿を併せ持つ彼に、優しく接しない者などこの都にはいない。エドウィンと妻クレアは大切な嫡男をとことん可愛がり、館で働く皆も、小さな王子を我が子のように大切に扱っている。厳格な家令のドーラでさえ、エゼルウルフには甘さを見せる場面が多い。
館に出入りする職人たちもエゼルウルフが話しかければにこやかに応え、訓練や任務の最中には激しい一面を発揮することもある屈強な戦士たちも、次代の主君にはこのように穏やかに笑いかける。エゼルウルフが館の前の広場に遊びに出れば、行き交う民の誰もが天使のような王子に頭を下げて挨拶し、ちやほやと可愛がってくれる。
普段接する全ての者が自分に優しく甘い環境で、エゼルウルフは何事も恐れることなくのびのびと育っている。この世の全てが自分を祝福する味方であると、今の彼はきっとそのような世界観の中で生きている。
愛息にはこのまま幸せに日々を過ごしてほしい。いずれは可愛がり甘やかすだけではいられなくなるだろうが、ともかくこの子には王子として、そしていずれは王として、幸福な人生を歩ませたい。エドウィンは心からそう思っている。
「……つくづく思うが、子供が育つのは早いものだね。少し前に生まれたかと思ったら、今では当たり前のように立って歩いて喋っているのだから」
エドウィンは感慨を覚えながら嘆息し、そして後ろを振り返る。そこにはすっかり住み慣れた王の館があり、その向こうには家屋や工房の群れがある。
いざ過ぎてしまえば早く感じる子供の成長も、都の発展も、しかし実際は一朝一夕に成されるものではない。
今は統一暦四一二年。エドウィンが現在の規模まで王国の版図を拡大してから、およそ三年の月日が経っていた。




