第九十八話 戦いの傷
戦闘が終わっても、戦争は終わらない。ガレア王国軍が後退した後の戦場では、負傷者の手当てや死体の片付け、捕虜の拘束や戦利品の回収といった事後処理が始まる。
「パトリシアさん! 清潔な布がなくなりそうなの! とってきて頂戴!」
「パトリシア、ついでに水も持ってきてくれ! 傷口を洗い流すための水がもうすぐなくなりそうなんだ!」
「は、はい! すぐに!」
負傷者の手当てに関しては、動員されている祭司を中心に、非戦闘員が中心となって行われるのが一般的。つい半年ほど前に一人前の祭司となったばかりのパトリシアも、王家よりこの戦争に動員されている一人として忙しく働く。先輩祭司たちの指示を受け、後方の野営地から布や水を運んできた荷馬車のもとへ走る。
持てるだけの布を片手に、水の入った桶をもう一方の手に抱えると、先輩祭司たちのもと――野営地へ運ぶ前に応急処置の必要な重傷者たちの並べられた場へと急ぎ戻る。そして指示されるままに、優先的に手当てを受けるべき職業軍人たちの傷口を洗い、薬を塗り、清潔な布で縛って止血を施す。
服も手も重傷者たちの血で汚れ、むせかえるような戦場の悪臭に苛まれながら、しかしそれどころではないので懸命に働く。聖職者として社会に奉仕する誓いを守るため、一人でも多く助けようと努める。
そうしながら、手の空いた僅かな時間で呼吸を整え、未だ混沌としている戦場跡を見回す。
「……大変なんだなぁ」
口を突いて出たのは、そんな言葉だった。
父が一地域の支配者だった頃は、その愛娘として、戦場とは直接縁のない生活を送っていた。バーデン家の拠点の大農場へ生還を果たした戦傷者などを目にしたことはあったが、パトリシア自身はあくまでも、大人たちが決断しくり広げる戦いを傍観する立場だった。
一祭司として、非戦闘員ではあるが直接関わる立場になると、戦争の過酷さを生々しく実感させられる。多くの死と苦しみを生むこの光景こそが戦争なのだと否応なしに理解させられる。こんなにも無慈悲なものを、それでもときには避けられない現実の厳しさを突きつけられる。
「祭司様! こっちに来てくれ! こいつまだ息がある! 味方の職業軍人だ!」
「は、はい! 今行きます!」
ゆっくりと考えに耽る時間はない。パトリシアは呼びかけを受け、再び奔走する。
・・・・・・
この会戦における連合軍の損害は、死者と重傷者を合わせて二百人弱。対するガレア王国軍の損害は、死傷者が推定で四、五百人ほど。それに加え、多くの民兵が散り散りになって逃亡したようで、偵察に出た騎兵たちの報告によると、敗走の後に再集結した敵側の残存兵力は一千に届かないものと思われた。
「申し分ない結果だな。王は三人とも無事で、敵軍は敗走して兵力の半数以上を失った。大勝利と言って差し支えあるまい」
負傷者の手当てや死体の片付け、捕虜の拘束や戦利品の回収が進められている戦場の後方。連合軍の野営地に置かれている司令部天幕で、エドウィンはブレドリックとファーガスと共にテーブルを囲みながら言った。
エドウィンはかすり傷を負った程度で、ブレドリックは完全な無傷。ファーガスは盾で敵の攻撃を受け止めた衝撃で腕を痛めたというが、骨は折れていない。三人とも戦列中央の最前列に立ちながら、生きて戦いを終えている。
「そうだな。これも神々の祝福と、そしてリンダム王国とベルノニア王国の加勢があってこその結果だ。貴殿らにはあらためて感謝しなければ」
ファーガスの言葉にエドウィンは軽く手を掲げて応え、一方でブレドリックは、目の前に置かれたエールの杯に視線を落としながら微妙な表情を浮かべる。
「……敵側の職業軍人をほとんど狩れなかったことが悔やまれるな。大勝利を成したからこその贅沢な後悔だが」
「同感だ。そこまで叶っていれば、イゾルデ女王の権勢自体を弱体化させることができた。そうなれば大勝利を超えた完全勝利を宣言できただろう……見事なものだったな、ガレアの戦士どもの逃げ様は」
ブレドリックの言葉に頷きつつ、エドウィンは鼻で笑うように言った。それに、ファーガスは微苦笑交じりに首肯を返す。
「角笛の合図を受けて敵主力の全体が速やかに退いていったところを見るに、劣勢となったときの逃げ方も開戦前に計画されていたのだろう。イゾルデ女王も用意周到なことだ」
「開戦前の威勢の良さや、これまで聞こえてきた噂から受ける印象に反して、ただ勇ましいだけの野心家ではないらしいな。正直に言うと予想外だった」
「加えて言えば、定められた計画を迅速に実行できるあたり、職業軍人たちの練度も敵ながら大したものだ。我がベルノニア軍団にも劣らないだろう」
前進の際は民兵を肉の盾とし、連合軍の戦列に肉薄した後は温存された主力が素早く前に出て戦い、不利となったら再び民兵を防壁としながら主力が最優先で後退を果たす。騎兵部隊は連合軍の騎兵に対して牽制を為し、味方の後退を掩護する。イゾルデ・ガレア女王の戦術は、民兵の使い方に関しては賛否が分かれるだろうが、巧みであることは認めざるを得なかった。
結果的に、連合軍はガレア王国軍を壊走せしめたが、失われた敵戦力の大半は替えの利く民兵であり、貴重な職業軍人はほとんど損耗していない。イゾルデの狙い通り、ガレア王国は傷を最小限に抑えて戦いを終えている。
彼女の引き際の巧みさを受けて、エドウィンが思い出すのはかつての敵であるダグラス・バーデン将軍だった。劣勢と見るや迷いなく後退を決断する度胸がある、という点ではイゾルデもダグラスも同じだが、戦力を保つための賭けにダグラスが破れた一方で、イゾルデはともすれば卑劣とも見られる策を用い、強引に勝ちをもぎ取って主力の後退を成功させている。
戦いの才覚に関しては、イゾルデはダグラス以上の強敵であると見るべきだった。
「……イゾルデ女王はこのまま素直に退くだろうか?」
「私が彼女の立場であればそうするな」
懸念を表情に示しながら疑問を発したファーガスに、エドウィンはそう答える。
「アロナ島南東部で争乱が起こっている隙を突き、現時点でも相当強引に民兵をかき集めて侵攻に臨んでいるであろうガレア王国には、国力の面でも時間の猶予の上でも、大規模な再徴兵を行って侵攻をやり直す余裕はないはずだ。かといって、こちらの半数にまで減った残存兵力で短期間のうちに侵攻を成し遂げようとするのは無謀もいいところだろう。まともに考えれば、撤退以外の選択肢はない」
「問題は、イゾルデ女王がまともに考えてくれるか否かだな」
偉そうに足を組みながらエドウィンが語る一方で、ブレドリックが眉根を寄せて腕を組みながら言った。
「そればかりは、あちらの理性に期待するしかないが……戦場であれだけ潔い判断を為せる人物だからな。敗北後の立ち回りも柔軟であってほしいものだ」
そう語るエドウィンの顔には、皮肉な笑みが浮かんだ。
・・・・・・
「あーあ、まったく。ここまで派手に敗けたのはアロナ島に来てから初めてのことね。私の不敗神話もとうとう終わってしまったわ」
民兵の過半を失ったが、自分と戦士たちの後退に関しては危なげなく達成した後。野営地で自身の天幕に戻り、椅子にどかりと腰を下ろしながら、イゾルデは深々と嘆息した。
配下を率いてアロナ島へ渡り、ガレア王国の再興を宣言して以来、イゾルデは常に勝利を重ねてきた。アロナ島中央部における土着の勢力は弱小揃いで、質と数の両面で優れた戦士団を中核とするガレア王国軍に倒せない敵はいなかった。
しかし今回、初めて敗北らしい敗北を喫した。実際の損害は民兵が大半なので、見た目の派手さほどには痛くないが、それでも端から見れば自分が敗けたのは明らか。致命的なものではないだろうが、強き女王としての威信には確実に傷がついた。
「お嬢様が奮戦している最中に後退を決断するのは、私としても心苦しかったのですが……」
「いえ、あなたの引き際の見極めは上手かったわよ、カドワロン。私の戦士たちが健在なのはあなたのおかげ。よくやってくれたわ」
他者の目がないときは自身のことを「お嬢様」と呼ぶ最側近から無念そうな顔で言われ、イゾルデはそう労いの言葉をかける。
心持ちとしては必勝のつもりで戦いに臨むが、だからといって敗けたときのことを考えないわけにはいかない。一国の征服を目指す以上、大きな損害を負いながら辛勝を成していては話にならない。攻勢が上手くいかないようであれば、傷を最小限に抑えて潔く退くべき。
そのような考えのもと、イゾルデは劣勢時の計画を事前に立てていた。中央突破に難儀し、先に敵軍の側面攻撃を食らいそうな状況となれば、戦士たちだけでも無事に後退させる。そう決めた上で、戦場後方に残したカドワロンに戦況の見極めを任せていた。
女王から最大の信頼を受け取っている戦士長は、その務めを見事に果たした。彼が躊躇うことなく後退の合図である角笛を鳴らしたからこそ、ガレア王国は致命傷を避けることができた。
「でも、こうなると今回のアクルード王国征服は諦めるしかないわね。現状だと残存兵力が足りないし、王国社会を壊しかねないことを考えると、民兵を集め直すことも避けたいわ」
嘆息を重ねながらイゾルデが呟いた言葉、その後半に関しては、民の心情や生活を慮ってのものではない。今後の収穫のためにも種籾を食べるわけにはいかない、という程度の意味合いだった。
「それに、時間の余裕もあまりないわね。南から引き抜いてた兵力をそろそろ戻さないと」
さらに言葉を続けながらイゾルデが思い出すのは、開戦の直前に入った報告。それによると、アロナ島南東部での争乱が一段落し、参戦した四か国ともが痛み分けのようなかたちで戦いを終えたという。
今回イゾルデは、南東部諸国が争乱に臨んでいる間に、平時は南の国境地帯を守っている戦士や南部貴族たちの手勢までを動員し、アクルード王国侵攻を為していた。南東部の争乱が終息したのであれば、再び南に兵力を置いておかなければならない。隣接するエリュー王国ユーゼリア王国も争乱で消耗しているはずなので、こちらに隙があってもすぐさま攻撃に及ぶことはないだろうが、だからといって悠長に隙を見せ続けるわけにもいかない。
その意味でも、ガレア王国にはこれ以上侵攻を続ける余裕が、それ以前に現状の兵力を維持する余裕がない。最初の戦いで敵軍を粉砕し、一挙にアクルード王国を征服できなかった時点で、今回の侵攻は失敗だった。
「では、敵側の三国に講和を持ちかけますか」
「……癪だけど、それが最善手ね。向こうもできるだけ早く終戦したいでしょうから、話し合った上で双方が速やかに軍勢を解散させる方がいいわ。それに、逃げ損ねて捕虜になった戦士たちも返してもらいたいし」
カドワロンの提言を受け、イゾルデは短い思案の後に答える。
翌日、連合軍の野営地に向けて使者が送られ、講和のための会談を求めるイゾルデの意思が敵側の王たちに伝えられた。連合軍からはその日のうちに会談に応じる旨の返答が為され、さらに翌日の正午、両軍の野営地の中間地点にて、双方の君主たちが顔を合わせることとなった。




