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神曲  作者: もてぃまー
24/30

伊織②

須藤 伊織

17歳

高校生

開始前

2022年7月29日 千葉 午前8時42分


須藤(すどう) 伊織(いおり)はぼーっとしていた。


昨日の出来事は、僕の中で急速に薄れつつあった。


購買でのベリーベリークリーム争奪戦(財布を忘れて敗北)という悲劇的敗北と、

空腹に耐えながら聞いた、あの胡散臭い占い師の変な話。

昨夜はなんとなくその言葉を反芻して寝た気がするけれど、

翌朝の太陽を浴びればただの「道端の奇妙な迷惑客」という記憶のカテゴリーに整理されていた。


教室に入ると、杉原が例の調子で話しかけてくる。

「アンタ、昨日購買で財布忘れたんでしょ?

 遠くから見てたけど、あんな情けない走りを晒せるのはアンタくらいよ」

「・・・うるさいな。あれは戦術的撤退だよ」

「へえ、戦術的撤退ねえ。次は財布の中に空気を詰めていったら?」


クラスメイトたちの「昨日の事件」についての噂話が、ザワザワと教室に満ちている。

ニュースでは被害者が増えているとか、犯人はまだ捕まっていないとか。

そんな緊迫した空気をよそに、僕と杉原の会話はいつもの通り平坦で、くだらない。


昨日の占い師の言葉なんて、授業中の退屈な時間と共に、完全に意識の外へ追い出されていった。


結局、現実は現実だ。

お腹が空けば腹が減り、財布がなければパンは買えない。理不尽な教師にゲンコツを食らえば痛い。

それだけで十分だ。


2022年7月30日 千葉 午後5時05分


部活もせず、かといって補習があるわけでもない。

ただなんとなく、少しだけ遠回りをして帰ることにした。

夕暮れ時の街は、昨日襲撃があったというニュースのせいか、どこか緊張した空気が漂っている。

いつもは賑やかな通りも、心なしか人影がまばらだ。


家まであと数分、という角を曲がったときだった。


・・・あれ。


昨日の、あの占い師がいた。

心臓がキュッと跳ねる。また変な話をされるんだろうか。

面倒だな、と眉をひそめ、足早に通り過ぎようとした。


だが、違和感があった。

男は、昨日のような胡散臭い笑みを浮かべてはいなかった。

客引きもしていなければ、誰かに話しかけるわけでもない。

ただ、道の端にぽつりと立ち、空の一点を見つめている。

その姿には、昨日感じた「インチキ臭さ」とは別の、ぞっとするような「異物感」があった。


(……絡んでこない?)

僕の存在に気づいているはずなのに、男はピクリとも動かない。

まるで、最初からそこに存在していない風景の一部か、

あるいは、そこにだけぽっかりと穴が空いているかのように。


通り過ぎる瞬間、ふと男の視線が、わずかにこちらを掠めた気がした。

その瞳には感情がなかった。

あるいは、感情というものをとうの昔に置き忘れてきたような、無機質な透明感。


背筋を氷の粒が滑り落ちるような感覚に襲われ、僕は思わず駆け足になった。

角を曲がりきり、家の玄関が見えてくるまで、一度も振り返ることはできなかった。


「ただいまー」

玄関のドアを開けると、リビングからはまた騒々しいニュースの声と、母の料理する音が聞こえてきた。

いつもの、平穏で、理不尽で、騒がしい日常。


キッチンに立っていた母が、僕の顔を見るなり、包丁を置いて言った。

「おかえり。さっきから変な人が家の前の通りに立ってるのよ。

 ずっと動かないで、こっちを見てるみたいで気持ち悪いから、さっき窓から見ないようにカーテン閉めたんだけど」


僕は靴を脱ぎながら、喉に詰まった湿った塊を飲み込むように答えた。

「変な人がいたよ、確かに」


男の無表情な顔が、脳裏から離れない。

「何なのよ、あんなの。近所の人にも言ったほうがいいのかしら。

 ・・・て、あんた、また何か余計なことして怒らせたわけじゃないでしょうね?」

「・・・ただの通りすがっただけ。変なことを言う、変な人だったよ」


僕はそう言って、リビングへ続く扉を閉めた。

外の「悪夢」を切り離すように。あるいは、これから始まる何かから逃げ込むように。

須藤 伊織

17歳

高校生

開始前

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