こたえ
私は、こんな自分を知らなかった。私は、ずっと、普通なんだって思って生きてきた。
うん、否定する人が多いんだろうってのも分かってるけど、自分は普通の側だってずっと思って生きてきたんだ。
兄貴みたいに身体能力が異様な高さなわけでもないし、ギルドにいるような魔法使い達や、神殿で術を使って沢山の人達を手助けする神官達みたいに、魔法や呪術が使えたりするわけじゃない。
訓練をしたわけでもないから、何かの薬の調合とかが優れているわけでもないし、商才があって色んなものが嗅ぎ分けられるわけでもない。
さらに言えば、一つ一つは平凡という程度でも、とても能力が広い、万能型のある種の才能があるわけでもない。
ギルドで喧嘩っ早い人達相手に言い争いが出来る、喧嘩っ早い、口が悪い、受付の女の子。
そんな子はそこまで少ないわけじゃない。全体数で言えばそこそこいるだろう。
護身術ができる子だって、程度の差はあれ、まあまあはいる。受付の子の半数は、何かしらの護身術を身に着けていたり、覚える講習を受けたりしているんだから。
小さい頃だってそうだった。小さい頃は、おばば様のところにいるたくさんの子達と同じような教えを受けて、同じような事で怒られて、普通の砂漠の人間が、普通に覚える事を教えてもらった、普通の子供だったはずだ。
王様の婚約者として内定して、次代様になってからは、色んな難しい事を覚えたかもしれない。
でもそれはあくまでも表面的なところで、本質的なところは変わらなくて、普通だったはずなんだ。
その”普通”が、はっきりと言い切ってくる。
お前がこの男の背中にすがるのは明らかに”異常”だ。
って。
私だってこんな事を選ぶ自分がいるなんて思ってもみなかった。どうして私は、この手を、額をこの男の背中から剥がせないんだろう。
この男は、私の前から去って二度と現れないとまで言い切ったのに、どうして。
頭の中がぐちゃぐちゃする。それを安心できない自分というものが、一番わけがわからない気がするんだ。
「おい」
男は、本当だったら簡単に振りほどけるのに、身動き一つしないで立ったまま、低い声で言う。ああ、この声、本当に違う。似ても似つかない。共通点なんてどこにもない、そんな声だ。
決定的に、■■とは別の人間だと私に知らせてくる声が、感情一つ見えない音を並べ始める。
「お前、自分が一体何に対してすがってんのか、わかってんのか」
かすかに言い方がおかしい気がした。その言い方のおかしさがよくわからない。でも、あれ、と思うのはどうしてなんだろう。
「お前、何をされかけてたのか、ちゃんと、理解できてるか」
それに対しては、黙って頷いた。そうだ、分かっているから、自分の行動がいっそう、わからなくて、意味不明なんだよ。
「理解できて、そうなのか」
また頷いた。それは正しくそうだった。理解している。ちゃんとわかってる。でもこの手を、額を、剥がせない。
そのしっかりした理由が、わからないのが、一番おかしい。
私の動きを背中で感じて、男はなにか考え込み始めたみたいだった。少し間があいた後に、また空気が揺れる。
「あんな事されても、まだ、頼りたいって思うくらいに、不安なのかぁ?」
「……え?」
言われた言葉がちゃんと受け取れなくて、顔を上げると、男が背中越しに私を見下ろしている。痛ましい人を見るようだった。
「そうかもなぁ。だーれも自分の話なんかろくに聞かねえ。ひでえ作用の薬を大量に飲ませてくる。挙句に自我ってものを奪い取って消し飛ばすような術までかけられて結婚させられそうになって。みーんな敵。一人も助けてくれやしない。……そんな中で、話を聞いてくれて、結婚ぶち壊してくれて、逃げてくれる男なんか、頼もしいよなぁ」
言葉が一つ一つ降り注いでくる。そうであってくれと言うような調子にどこか聞こえるのはどうしてだろう。
「不安だよなあ、家族だの親戚だの何もかもが、敵みたいなもんで。そりゃ怖いわ。おれぁしらねえ世界だが。不安だよなあ。これから先どうしようって。お前の交友関係とか知らねえけど、皇帝だ何だに太刀打ちできる後ろ盾とか普通いねえわ。皆お前の事差し出しちまうわ。差し出したくないまともな友達とかだったら、お前も逆に頼れねえわ。不安であっぷあっぷしちまうよなぁ」
一つ一つが、とても真っ当な理屈に聞こえている。どう見ても、真っ当な理屈を並べ立てるように思えない行動を取った人とは考えられないくらいに真っ当な言葉が出てきていて、ただ、何も言えないで言葉を聞いている。
「だから、あんな事しちまったような男でも、事情ってのを少しは知っているどころか、ほぼ共犯者なわけだから、だから」
そうであってくれ、と祈るような響きを含んだ声が、言う。
「おれが二度と会わねえっていうのが、怖くて怖くてしょうがねえから、そうやってすがるんだろう?」
他の理由なんて言わないでくれ、と願っているような調子だった。どうしてこの男が、そんな風に願うんだろう。ますますわけがわからない。男は腹の中身をまともに語っていた事が果たしてあっただろうか、と不意に思ってしまったのはなんでだろう。
答えに詰まった。何を言えばいいのか、なんにもわからなくなったから。何を言えばいいんだろう。なんて言ったら、私はこの手を離せるんだろう。
離したくない理由を、自分の中で見つけられるんだろう。
そんな何にも言えない私を見下ろして、男が身じろぎをする。あ、と思ったら私の手は離れてしまった。
行っちゃう。手が離れたら二度と、いや、だめ。
どうしてかまた手が伸びた私だったが、その手を、男が振り返って、無造作な調子で掴んだ。本当に、大きな手のひらだ。頭一つ以上は違う背丈からもわかる、男の大きさまた分かった気がした。そうだ、この男はとても大柄だ。
手を掴んで、男の背中が丸まった。ぐい、と顔が近付いた。近付いたんじゃない。目を合わせようとしているんだ。
「っ」
男の、水の色の瞳が、私を真正面から見下ろして、私だけを映している。
他に何も映り込んでいないような目をして、言葉が口から出てこない私に、問いかけてきた。
「お前は、おれに何を願う? 父親か? 兄か? 家族か? 保護者か? 何だっていいぜ、聞いてやらぁ。……たとえば、お前に本当に愛する恋人とかそういうのがいて、そいつのところまで行きたいあいだだけ、守ってくれる相手ってのでもいいぜ」
どうしてそういう事を言いだしたんだろう。考えが見えない。とても単純そうな調子で物を言うのに、底が知れない。この男の底ってどこまで深いんだろう。
「おれが馬鹿やってとんでもない間違いをしそうになったってだけだ。やらかしかけた中身を言えば、おれぁお前に即刻首を落とされても、あー……文句いえねえだろ、どう考えても。うん。だからその詫び? だ。うん。……お前が今は、おれを離したくない理由も、なんとなく読めちまった気がするしな。おれぁ心にふかーい傷がついちまった女の子に、そりゃあとんでもねえ真似をしそうになったのは間違いないんだが、それでもその女の子が、今は不安でたまらないから、色んなものがおれよりも怖いからそばにいてくれって願うんなら」
瞳が一回閉じて開く。ただの瞬きだ、そうに違いない。なのに、覚悟を決めたようななにかに見えたのはどうしてなんだろう。
「おれぁ、なんだってやってやるよ。どんな立ち位置でも、な。恋人のところまで送らせた後に、そいつに全部話して、そいつにぶち殺されてもまあ、しょうがねえって受け止めるぜ。おれがやらかしかけた事の尻拭いだ、自分のケツは自分で拭く」
きっぱりとした言い方だった。この男は、言った事を翻さないんだろう。私がそうなってほしいという立場になるつもりでいる。
それだけの罪悪感を覚えたんだろうか。覚えるに至った心境の変化ってやつは何なんだろう。読めない、わからない。
ただ、よく分かった事もあった。
私は。
私は、間違いがないくらいに。
目をそらしようがないくらいに。
「なににも、ならないで。あなたのまま、わたしのそばにいて」
男が言うどの役割も、男に求めたくないという真実が、わかってしまったんだ。
私を見る男の瞳を見返し続けていると、馬鹿みたいに心臓がうるさい。うるさすぎて押さえ込んで止めたくなるくらいで、わんわん鳴っていそうで、息が切れそうで、わけがわからない。
こんな自分を、私は、知らない。知る事なんて一回もなかった。間違いなく。
「父親も、兄貴も、家族も、保護者も、誰かのところまで連れて行ってくれる相手も、いらない。お父さんは死んだ。兄貴も死んだ。家族なんていない。保護者なんていらない。案内役だっていらない。いらない、いらない、いらない!! あなたがあなたのままで、そばに、いて」
相手の目が、本当に理解しようのない人間を見る視線で私を見下ろして固まっている。
言っている私の方だってわけがわからない。さっきからずっと、わけがわからないのに、腹の底からの言葉が出てきていて、腹の底から出てくる言葉が理性とかで制御できない意味不明さだから、しっちゃかめっちゃかだ。
この人を、何か他の形にしたくない。強制的な役割にしたくない。
それだけが、どうしてか、まっすぐに貫かれた考えだった。
あ。
その貫かれた考えが、私の中でちゃんと形として理解できたその時に、私は、どうしてこの人にされかけた事が、心底怖いと思ったのかを理解した。
この人が、この人が、自分自身を許せなくなる未来が待ち受けている気がしたから、怖かったんだ。
私は、私自身の体とか心とかよりも、そうする事でこの人が苦しみ続けそうな方が、怖かったんだ。
一瞬で、あいしてしまったから。




