わからない。わかれない。
命を取られるくらいなら、と。腹をくくったつもり、だった。
考えろ、考えろ、考えろ、まだ、マシ、と判断できる材料を導き出すんだ。
命は、多分、とられない。マシだ。
大勢にあれこれ、されるわけでもない。マシだ。
痛い事は、されない。マシだ。
何か言われるだろう。大丈夫、言葉は命にヒビを入れない。マシだ。
私が、ここで失くすだろうものは、ありふれた人生を送る中で、いつか無くなるものだ。失くすものとしては、マシだ。
薬で強引に、じゃない。マシだ。
術で支配されて無理やりじゃない、ほら、すごくマシだ。
気が済むまでで終わるんだ。永遠じゃないはずだ。マシに決まってる。
ほら、マシだ。マシだ。マシだ。
マシなんだ。これまでの人生の中で経験させられた、最悪に近い事と並べて比べてみたら、間違いなく、マシな側なんだ。
そう考えて、心を納得させて、と意識を持っていこうとするのに。
結構着るのが面倒くさくて、脱がすのも手間がかかる神官服を、男の指が思っていた以上に丁寧にほどきだしたあたりで、身体が、小刻みに震えだした。
泣くな。相手の性癖がどうだか知らないが、泣かれるのが好きだという厄介な性癖でもあってみろ、悪化する。
そう念じても、涙が、どうしても、浮かぶ。
どんな声も出すな。その声をどう捉えられるか分かったもんじゃないと、教わった事だってある。
婚儀の時とは別の意味あいで歯を食いしばる。喉の奥から出てきそうな何かを、封じ込めるように。
そんな私の心の内側と、そして心ではうまく取り繕えない体の動きに、私は気を取られてばかりで。
「……っ!?」
はっとした時には、ものすごく近い距離で、男の人間味があまりにもない水の色の瞳に、見つめられていた。
見つめられていた事に気がついて、視線が、ぶつかりあってしまう。
何か、が。動いた。何かというのがとても難しい何か。そして何かを、思い切り変える何か。何言ってんだろう。
目の前の三白眼が、大きく見開かれて、その中で、かすかに水の瞳が、揺れた。
それは私が感じ取れた限り、正しく、恐怖と言うものだった。
何に対しての恐怖なのか、はそれからは全く読み取れない。
男の太い喉の、喉仏が、動いた気がした。息を呑むような感じだった。
「……」
男が何かを言うように唇を開いて、すぐに、閉じた。
本当に、たった、それだけ。それだけだったのに、うん。
一回目を瞬かせた男が、私の上から、退いた。それから、丁寧に、私の服を整える。
何が起きたんだろう。男の気が変わった? あの状況でそんな一瞬で気が変わる? 何をして?
助かったんだという安堵に似た感情と一緒に、心臓が嫌な感じで大急ぎで動き出す。
男が退いて、寝台の端に座り直す。靴を、履き始めた。
私は急いで体を起こした。そんなこっちの動きが、背中越しでも伝わったんだろうか。
顔は見えないけれど、男が声を出したんだ。
「たしかに、な。お前はこんなやつと一緒に居たかねえわ。こんな逃げられないように追い込んで、手籠めにしようなんてクソと並んで歩きましょうなんか、どう考えたって受け付けねえわ」
軽い調子の言葉だった。自分というものを徹底的に侮辱する言葉を並べているのが、伝わってきた。
心境の変化の理由ってやつが、私にはわからなかった。
わかるほど、男の事も事情も何もかもを知らないんだ。
靴を履いて、乱れた上着を羽織って、男が立ち上がる。
「宿の支払いは三日分済ませてあるわけだしな、路銀も三日あれば多少は手に入る。神官見習いの顔をして手伝いでもすりゃあ、故郷に戻る路銀を稼ぐっていう言葉の裏は読まれない。……」
相手の顔も感情も何もわからない。見えないし、感じさせてもらえない。
全く読み取れないまま、男の言葉が一瞬だけ、何かを探すみたいに止まって、また何もなかったみたいに続いた。
「あばよ、もう二度とお前の前には出てこねえ。おれの影を探して怖がる事は、死んでもしなくていいぜ。そういう覗きはしねえんだ」
声は、微かに笑う調子が混ざっていた。私を安心させるような調子を何処かでにじませていて、我に返ったんだろうか。
耳に染み付いた抑揚と同じ調子の、言い回しの、でも声の質だけが決定的に違う声には、なんて言ったらいいんだろう。
染みつきすぎて、誰もどうにも出来ないくらいになった、孤独の色が混ざっている気がした。
今起きていた事は、間違いなく、怖かった。
理解できない事だったのも、間違いがなかった。
心と体がどうしても受け付けない事をされかけていたのも、間違いないんだ。
それを行おうとしたやつが、それをする前に、退いた。退いて、二度と会わないし、近付かないと言い切った。
普通とか、本当とかだったら、私はそれに安心するべきだったんだ。
誰だってこんな真似をされたら、普通は、一生会いたくないし、近付いてほしくないし、欠片でも関わりたくないに決まっているんだ。
相手の言葉がどこまで真実なのかはまだわからない状況でも、喜ぶべき方向なんだ。分かってる。ちゃんと。
それなのに、どうしてだ。
だめだ、と常識やら理性やら普通やらを、軒並み弾き飛ばして心の中で吼えたのは、そのどれでもない部分だった。
男が扉を開けるために歩き出す。狭い部屋だから、すぐ扉の前に立つ。男の歩幅は変わらない。だから本当にすぐで。
そんなゆっくりした調子でもない手が、ドアノブを掴んで、回そうとして。
「っ!?」
動きを、止めた。息を、呑んだ。
動きが止まったのは、その背中に、私がすがりついたから以外のなんでもない。
「……おい」
低い雷鳴の前触れの、不吉で危険で、昏い唸りによく似た声が、嗄れ気味にそう言う。
私は、よくわからない感覚に突き動かされたまま、男の服の背中を掴む指に、力を込めた。
「おい」
これは、相手の、とても短い、警告だ。
警告だと、声以外の空気とか響きが、ここまで分かりやすくていいんだろうか、と思いたくなるくらいあからさまに、伝えてくる。
離す意思がないんだ、と指先の力を強くする。さらに、額を押し当てる。
「おい」
警告の、最終告知。三回もそれを言わせている。それだけ言われて、行動を変えなかったら、何が始まってもおかしくない。
「……やだ」
細かくてまともで順を追ってという説明は、私の口から出てきてくれない。そもそも頭でそれを作れない。
私のほうが何がなんだか分かってないかもしれないくらいなんだ。本当に私はどうしちゃったんだろう。
泣いているわけじゃない。涙は浮かばない。耳だけがやたらに熱を持っている。
「そんな、お人好しでこの先どうするんだよ。そんな人生送っててよぉ」
ドアノブから、手が離れたのが、気配で伝わってきた。
しばらくそこで、そうしていた。




