ゆめ (2)
「おれ、にいちゃんの、えーっと……五つかな? 下の弟なんだよ」
苦しくない時に、問いかけると、弟はにこにこと笑顔で答えた。
「体ばっかりでっかい、うすのろ、なんだって? うすのろってなんだろう?」
約五歳の子供なら、色々な言葉に疎くて当然だった。
「大人は怒ってばっかり。ここに入っちゃだめっていうから、なんでって聞いたら、にいちゃんがいるって。おれ、にいちゃんほしかったんだ!」
お兄ちゃんが欲しいと思う、小さい子供がありふれていたから、その言葉だけなら普通だった。
だから、普通の子だな、と思ったのだ。
「にいちゃんに会いたいって村長さんに言ったら、じゃあ、お前がこれからずーっと、にいちゃんの面倒見るなら会いに行っていいぞっていうから、来たんだ!」
あどけない笑顔が、なんの敵意も悪意も害意もなしに、向けられていた。
「にいちゃん、いっぱい熱が出るんでしょ? でも、もう、おれがいるから、大丈夫! にいちゃんが元気になるように、がんばるね!」
この子は、自分の死にかける回数を知らないのだ。教えてあげなければ。
数日に一度死にかけるような兄など、捨て置けと。
言わなければ、言わなければ。
そう言おうとした。言えるはずだった。だが。
「おい、うすのろ! やめると言ったら、お前を魔物の餌にするからな!」
息も絶え絶えな自分を見て、のどが渇いているんだと思った弟が、にいちゃん、お水ほしいの? 水瓶探してくるね! と納屋の扉を開けて閉めたその瞬間に、聞こえた村長の罵声を理解できてしまったから、教えられるわけがなかった。
「変な村長さん。おれ、ぜったいにやめないのに。すごく怒ってた」
ぎりぎり使える水差しを、えっちらおっちら抱えて持ってきた弟が、首を傾げて不思議がっていた。
本当にこの子は、自分と一緒にいると決めているのだ。
声が、出た。
「弟くん、君の、名前は?」
誰の名前も教えられた事のない、一人ぼっちの問いかけに、弟はぱっと顔を輝かせて、頬を興奮から紅潮させて、きらきらとした瞳で、こう名乗った。
「リアス! うれしい! おれ、名前ちゃんと呼んでもらった事ないの! にいちゃんの名前は?」
「イッサだよ」
「かっこいい! おれのにいちゃん、名前かっこういい!」
笑う弟、リアスを見て、知らない感情が出てきた。
ああ、この子を死なせたくない。
生まれて初めて、思った、”願い”だった。
それから、長い長い、死にかけ続ける自分と、それを小さな子供の知恵と体力とその他で看病する弟の、戦いの日々が始まった。
何度、死の淵に立たされただろう。一体何回、血を吐いただろう。食事を吐き、苦痛にのたうち、呼吸もままならなくなり、熱でうなされ、そのたびに、リアスが、必死に必死に、その死の淵から自分をすくい上げた。
「大丈夫。にいちゃん、大丈夫。おれがここにいる。ここにいる、だから、そっち行かないで」
どれだけの夜、苦しみから空をかいた手を、力いっぱいに、握りしめられただろう。
声をかけ続けられただろう。願われだろう。
その言葉が、手の温度が、自分が生きる全てだった。
リアスの献身的な看病のためか、体が楽な日が、時折出てくるようになった。
そういう日は、外に行っていいよ、と言った。
「やだよ、近くに居たいの」
「リアス、兄ちゃんずっとこの場所しか知らないんだ。お外を見た事、一回もないんだ。だから、外の事、何でも見たいし、知りたいんだ。リアス、僕の代わりに見てきてよ。兄ちゃんが元気な時に、いっぱいお話して、兄ちゃんに、教えて?」
本当はそばに居てほしいと思っていた。でも、リアスをこの納屋の中だけに入れておきたくないとも思ったのだ。感情は矛盾した。
矛盾する自分の心がわからなかったけれども、自分のわがままよりも、弟が外の世界を知る事を優先した。
兄の心の中身を知らないリアスは、納得して、外に出ていくようになった。
外から戻ってきたリアスは、何でも聞きたいという兄の言葉を信じ込んでいて、びっくりするくらいにお喋りをしてくれた。
その、お喋りが、心底、そうだ、心底うれしかった。
死にかけて、本当にたまにやってくる少し楽な日に、弟から外の話を聞く。そんな日々に、ある時転機が訪れた。
自分は本というものを、何故か知っていた。そういう物があると知っていて、リアスが外にいる間、読みたいと思っていた。
「本がほしいな」
何気ない、呟きだった。弟が、不思議そうな顔で聞いてくる。
「ほんってなあに、にいちゃん」
弟は看病しか知らない生活だから、文字を読めなかった。誰も教えていなかった。自分も、教える時間の余裕を持たなかった。
だから、簡単に、どんなものかを教えた。
「文字っていう、ほら、これに書いてあるようなのが、いっぱい書いてある、こんなふうなものだよ」
ヒビの入った古い水差しには、よく、祈りの言葉が書かれている。だから水差しに書いてあるそれを、文字だと教えた。
形も、教えた。糸で綴じられた、装丁されたものを。
「兄ちゃん、その、字っていうのが読めるの? すごい! 兄ちゃん頭いい!」
「ありがとう、リアス。でも、いらないかな。リアスがいれば、それでいいよ」
「そうなの?」
「うん」
「そっか。そうだ! 兄ちゃん、今日ね、魚とりのお手伝いしてきたんだ。網をこんな風に投げ入れてね」
リアスはその日、村の大人達から魚とりの手伝いをさせられてきていたようだった。この季節は、魚が採れるくらいに、近くの川の水が増えるらしい。
常識は知っているが、知識はなかった。見た事のないものの殆どを知らなかった。知っているものがある方が、逆に不思議なくらいで、それに違和感を覚えなかった。
弟が、どんな魚が取れたのか、どれくらい大きいのがいいのか、を身振り手振りを交えて教えてくれる。
その時間が幸せだった。そんな時。
「その時ね、川の砂の中で、こんなの見つけたんだ!」
弟が、何気なく、他意など欠片もない調子で、懐から取り出したのは。
「すごい、きらきらしている」
「ね、きらきら、お日様をいっぱい固めたみたい!」
かなりの大粒の、砂金だった。夢の中の自分はその頃は、それが砂金だとわからなかった。
すごいきらきらした物という認識だった。
「すごいねえ、きれいだねえ。宝物みたいだ」
「たからもの?」
「そう。宝物っていうのは、見ていると心がきらきらしてくる大事なものの事だよ」
そう、リアスみたいな。リアスのような。
一遍の迷いもなく、リアスは自分の宝物だった。
しかし、リアスは初めて聞いた宝物という言葉を、難しいものを聞いたという顔で聞いていて、それから頷いた。
「じゃあ、これ、宝物だね!」
「そうだね」
その次の日に、この時期いつも村に寄って商売をする、隊商の一団がやってきた。
その日も具合がよくて、だから、リアスの言葉で隊商がどんな風だったかを聞きたくて、お願いをした。
「リアス、僕の代わりに、隊商を見に行ってきて。元気な時に、隊商がやってくるなんて、なかったんだ」
「うん!」
簡単なお願いだった。それくらいならとても簡単だった。体が楽だった。リアスが離れてもいいと思ったくらいに。
そのためリアスは、隊商を見に行くために納屋を飛び出した。
そして数時間たっぷり外に出て、戻ってきた時に、本当に驚いた事に、分厚い本を抱えていた。
「どうしたの?! 取っちゃったの? だめだよ、盗んじゃ」
「違うよ、兄ちゃん! あのね、あのね」
きらきら、本当に、宝物だった!
興奮気味にリアスが言う事をまとめると、こうだった。
隊商を盛り上がって見ている他の大人と子供を見ていて、何を兄ちゃんに話そうかと考えていた時に、リアスは、商人の一人が、絨毯に並べた商品の中に、兄が言っていた、”本”と同じ見た目のものを見つけた。
ほしいと思った。でも、どうすれば手に入るかわからなかった。
そこで他の村人がどうやって欲しいものを手に入れるのかを見たのだという。
……今だからわかるけれども、村はかなり鄙びた村だったものだから、貨幣ではなく、物々交換が主流だった。
大人も子供も、自分の持っている物と、欲しいものを交換していた。
リアスはだから、何か交換できる物はないかと、懐をあさり、あの、きらきらだけしか持っていなかった。
宝物だと兄が言うから、持っていたかったけれども、その、”本”の方が、ずっと欲しい物だった。
だから、その商人に、勇気を出してこういった。
「おじちゃん、その、”本”っていうのと、おれのこれ、取り替えっこして」
「なんだ坊主、これって……!? ……!!??」
商人は、村人の中で一番ボロボロの身なりで、ぼさぼさの髪の毛で、そんなリアスが商品と交換できる何かを持っているなんて思わなくて、けんもほろろな態度をしようとして、でも、リアスが手のひらに乗せたあの川で拾った大粒のきらきらを見て、目を思い切り見開いて、言葉を失い、それからこう言った。
「……坊主、正気なのか? 本当に、それと、この本だけで、いいのか?」
「ほかに、”本”ある?」
「待ってくれ、仲間に今すぐ聞いてやる。他の誰にもそれ、渡すんじゃないぞ!!」
商人が念押しし、慌てふためきながら他の仲間に聞き始める。なんだなんだと村人達も、商人達の状況に不思議がりだす。
リアスはすぐに懐にきらきらをしまい込んだ。
だが。
「お前、なんかいいものもってんだな!」
村の大人が、リアスから無理やり、きらきらを奪い取ったのだ。
そして目の色を変えた。
「おい、商人さん、砂金とそっちの全部と交換してくれ!」
大騒ぎになった。だが、商人達はこう村人に言った。
「だめだ。その砂金は、そっちの坊主の持ち物だ。盗んだあんたが取引しようなんて思うんじゃない! 我らの神はそんな真似を認めない!!」
険しい砂漠を渡る隊商の商人は、身を守ってくれる事を神に祈り、神が背中を向ける行為を嫌う者が多い。
それゆえに、抵抗するリアスから砂金を奪い、商売をしようとした村人を突っぱねた。
村人は、商人達の前で、リアスを殴った。
「砂金を俺達に譲るんだ!」
「おい、やめるんだ、そんな子供に!」
商人達は止めようとした。その時。
「えっとね、おれ、ね。その、さっきの、”本”一個だけで、いいや。ねえおじさん、そのきらきら、”本”と交換しても、もっと欲しいもの、交換できるんでしょ?」
村人が、砂金一粒と、大量の商品を交換しようとしたのを見たから、リアスはきらきらが、”本”を手に入れてもまだ、他のものと交換できるものだと理解した。
だから。
リアスは、とっさにこれ以上騒ぎにならないようにしようとそう、言ったのだ。
商人達は難しい顔になった。
「坊主、それでいいのかい」
「うん。だって、おれ、その”本”がほしかったんだもん」
その”本”と大量の商品が、砂金ひと粒と速やかに交換された。
そうして、弟は、”本”を手に入れた。
「兄ちゃん! あげる! 兄ちゃん、本だよ!!」
古ぼけた装丁の、箔押しされたとても分厚い、子供がえっちらおっちら運ぶような本。
「ねえ、なんて書いてあるの? 読んで、兄ちゃん!」
「うん。ええっとね……」
本のタイトルは
”大盗賊 カシミーアと大秘宝を巡る人生”




