ゆめ (1)
一年。そう、たったの、一年。
でも、一年の間も。
一年という歳月は、短いと考えられる事も多くあれば、とても長いと感じられる事もあるだろう。
その間。ずっと。
「……兄貴の話を、聞いたからかな」
私は一人っきりになって、がらんどうのような気分に襲われる借りた狭い部屋の中の、売りに出さなかった方の寝台の上で独り言を呟いていた。
家族が死んだ後に、要らなくなってしまった家具や道具を売る遺族なんてありふれている。
私もそうした。毎日の生活のお金のために、あれこれと。
誰も、私と兄貴のどちらが使った寝台かなんて、知らないし、寝台というものは中古でも人気がある家財だから、簡単に売れた。
売った寝台が、私の使っていた寝台で、この家に残されているが、兄貴が使っていたそれだと知る人間は、誰も知らないから、言わなくていい事だ。
その寝台で寝ていると、兄貴が隣りにいてくれているような、そんな気分になる時がある。
小さかった頃、一緒に寝ていた頃の体温を、思い出すように。
兄貴は死んだ。死んだのだ。この世のどこにも兄貴の体すらない。ちゃんと私は見届けた。確認した。理解した。
それでも、それなのに、兄貴がまだこの場所に居てくれてほしいという矛盾した感情が、兄貴の使っていた細々としたものや、兄貴がいなくなって余計になった、一人暮らしでは必要ない家財を残してしまう。
私は、ちょっと心がおかしくなっているのかもしれない。
目を閉じる。まぶたに浮かぶ、兄貴の本当の最期。鮫が群がり、兄貴の死肉を食い漁る。骨すら残らず、とてもきれいに。
「っ……」
呼吸が、また、止まりそうになる。肉の塊に兄貴はいない。あの綺羅星と評されるに値していた、あまりにも美しかった魂は、天の国で、最愛の全てを投げ売ってでも会いたいと希った人のところにいる。
その人のそばで、きっと、あの幸せでいっぱいですという笑顔を浮かべているに違いないのだ。
あの死肉の塊に、痛みなど感じる事はない。あれは死肉だ。人間はそれを食べたりしないけれども、屠殺された後の豚や牛や鶏と同じように、痛みなど覚えない。
わかっている。理性はちゃんと、分かっている。
それなのに、その光景を思い出すと、私の息は苦しくなる。
「……」
薬を飲もう。あのお医者様のところに、葬式の業者が笑う私を担ぎ込んで、話を聞いたお医者様が処方した、心が少し楽になる薬だ。
頓服、という、苦しい時に飲む薬。一日に飲んでいい量は厳格に決まっていて、守ってくれるなら少し安い値段で出してあげようと言ってもらったそれ。
今が苦しい。飲まなければ呼吸もままならない。
寝台から起き上がる。よろめきながら薬と、水を飲む。また寝台に横になる。
苦しさの中で、もう一度まぶたを閉じる。
呼吸が少し、楽になった。
兄ちゃん。大丈夫。大丈夫だからね。
この人生で聞いたはずのない、聞き覚えがない、とても小さな子供の優しい声が、聞こえてきた。
薬で動けない日が続いて、でも薬をやめると苦しすぎて、どうしようこのままでは家賃を支払えない、滞納してしまう、と大家さんに頭を下げに行った日。
最初に説明した後からずっと、兄貴の事も気にかけてくれていて、どこから聞いたのか葬式で起きた事も聞いていたらしい大家のおじさんが、全く知らなかった事実を教えてくれた。
「あんたの兄ちゃんが、まだ年齢相応の言動と行動だった頃に、もしもの時にって、まとめてかなりのお金を渡してくれていたんだ」
教えてもらったその金額に驚いた。
「家賃と。水代と、薪代を、一年」
聞いた私は言葉を失った。それらの総額は、いくら小さな安い部屋を借りていて、共同の水道の水を使っていたとしても、薪を馴染みの商人から格安で仕入れていたとしても、結構な金額になる、それくらいどうしてもかかる生活費、その額を上回り、それどころか、普通の生活でも問題のない金額だったのだ。
兄貴の精神が年相応だったのは、この港町に来てからたったの一ヶ月半くらい。そこから徐々にじわじわと精神年齢は退行していた。
それを間近で見ていたから、一体どういう方法を使って、どういう稼ぎ方をして、そんな金額をかき集めたのか、わからなかった。
「借金とかをしているんだったら後々妹さんに迷惑だろう? 金の出処を聞いたんだ。そうしたら」
「そうしたら?」
「”兄貴が寝ている夜中に、真珠採りで海に潜った”って言っていたんだ」
「!?」
「無謀な事をする男だな、とその時はちょっと呆れたくらいだったよ。言動も行動も、お兄さん思いってところ以外は、年相応だったものだから」
真夜中の真珠採りなんて命がけだ。海は真っ暗で、ちょっと何かあったとしたって、助けられる可能性は極めて低い。
それに、真夜中の海は、夜行性の凶暴な魔物が泳ぎ回る。
そして真珠貝は、そこそこ深いところにいるのだ。
なんでそんなに、命がけの事を。
「無謀に慣れてるんだな、と思っていたよ。それに、話で聞いた真珠を買ってくれたという商人を確認してみたら、商人は、大粒で真円に近い、特級の虹の艶があるような、とびきり上等のものが入っている真珠貝ばっかり持ち込んで来るから、これからもって事で多めの金額で買い取ったと話してくれた」
「……」
「なんでそんな金額をまとめてとも、聞いたんだ。そうしたら、兄貴の体は、今は落ち着いているけれど、昔みたいに死にかけ続けたら、働きに出られない。長く稼げなくて、我慢の限界だって言われて追い出されたら、兄貴を休ませておく場所もなくなっちまう。そうしたら、死にかけまくる兄貴が、本当の本当に死んじまう。そんなのだめだ、だからだと」
「だから」
一気に、それだけの金額を、こしらえた。
もしもの時を、案じて。
不意に、水の神様が言っていた兄貴の評価を、思い出す。
お前は、案じてばかり。
確かにそうだ。案じてばかり。兄貴の見せなかった方の顔を知らなかった誰もが、そんな評価はちょっと変だな、と思った言葉は、ただの真実でしかなかった。
「だから、妹さん。あんたは、少し何もしないで、ゆっくり休んでいても、大丈夫なんだ。本当に、大変だったな。色々疲れただろう。安心するんだ。あんたの事は、一年追い出さないから」
「……はい」
それを聞いて、また衝撃を受けたまま、私は家に戻った。
それからの私は、外に働きに出る事も出来ず、かろうじて食事をして、時々体をきれいにして、寝ているか椅子に座ってぼんやりする生活だ。
そっとしておいてほしいという私の気持ちを汲み取ってくれているのか、近所の人達も、あまり様子を見に来ない。
それが救いだった。誰にも会いたくないし、話したくない。関わりたくない。ここで、じっとしていたい。
そして、大家さんから話を聞いた夜から、私は妙にくっきりと覚えている夢を、見るようになった。
ひどく咳き込む。息が苦しい。高熱なのか体がとんでもなく痛い。骨という骨が痛い。全てが痛い。動けない。
頭が痛い。苦しい。何もかもが苦しい。血を吐いた。手が空をかく。
誰も、何も、助けにこない。
それが夢の中の私にとっての、”当たり前”だった。
死なない程度に、薄い粥みたいなものを、苦しくても飲み込まされた。汚物まみれで、たまに、様子を見に来る人の限界の時に、寝転がるむしろが代えられて、とても乱暴に体を清められた。
誰と会話なんてしない。だから、本当なら、何もわからないはずなのに、自分の頭は、不思議と、普通、というものを理解している。
人の会話の中身が、年相応程度にはわかった。
外で遊んだりしている子供達のはしゃぐ声の、意味が分かった。
不思議だとも思う事がなかった。それが普通じゃないと指摘する相手も、いなかったものだから。
そんな状態で、それでも、生きていた。生き続けるのが不思議な位に、何かが介入していた。
それが、十一年。
十一年も、その状況で、自分は、息をし続けていた。
誰もまともじゃない。何にも救われる事なんてない。
そんなある日。いつも通りじゃない事が起きた。
誰も叩いたりしない、小さな明り取りの窓しかない、暗すぎる納屋の扉が、不器用な力加減で叩かれた。
叩いて、返事がないのに、納屋の扉が、ぎこちなく開けられた。
「……おれの、にいちゃん?」
軽い体重の人間が近付いてきて、苦しむ自分をこわごわとした調子で覗き込んでいるらしい。
息が苦しくて、苦しくて、手が、苦しさのあまり空をかいて、その時。
「だいじょうぶ。にいちゃん、だいじょうぶ。おれが」
きょうから、ずっと、いっしょ。
生まれて初めて、優しい言葉が与えられて、誰も握らなかった手が、人に握られる温かさを知った。
必死に必死に、目を開いた。その声の持ち主を、見たくて見たくて、苦しい中で、いっそ死に物狂いなほどに力の限り、目を開いた。
命が燃え上がるような、赤色の、でもぼさぼさの髪の毛の、声から感じた年齢よりも、やや大きな体の、子供が、目を開けた自分に、笑いかけた。
十一年、苦しみ続けて、ようやく救いが、現れた。




