↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
優しい世界じゃなくたって  作者: 家具付
アイーダ 十六歳?
42/55

お人好し

未曾有の大旱魃が始まる前、この季節の青の国では、よく雨が降った。十代のような若い子は知らないだろうが、男は雨が降っていた頃を覚えていた。

洗濯物が乾かない季節だと、よく手伝いをしていた洗濯女がぼやいていた。

世話焼きでおせっかいで、小さい子供に何かを食べさせたがる、本当に、面倒見の良い、人。

小さい子供なんて、お腹が空いたというのが日常だったから、その女がくれるパンの一切れに、たまに甘い蜂蜜を塗ったものが、とびきり嬉しかった。

才能のない男に失望していた母親よりも、その女に懐いていた。女みたいなお節介になるのだと、何も知らなかった頃は決めていた。

これくらい、お節介で、お腹を減らした子供に、子供でもできるお手伝いと引き換えという顔をして、何か食べ物をあげられる、そんな、人間に。

その、女は、大旱魃が始まった頃に、小さかった当時の男が、親に疎んじられている事を察して、ならば自分が引き取ると申し出て、その結果、死んだ。

殺された。男の一族が抱え持っていた秘密を知られないように。それが、知られて、外に漏れたら、とても危険だったから。

いつものように、手伝いに行って、その女がお酒に酔っ払って、暗い道の階段で足を盛大に踏み外して、運が悪い事に頭から落ちて、死んでしまったと洗濯女の仲間に聞かされた。

仲間は残念がっていた。とても性格の良い女だったから、子供好きで評判で、働き者で、顔こそそこまでじゃなかったけれども、同じような階級の男から、ちょっと上の階級の男まで、わらわらと求婚する女だったから。仕事仲間も、彼女に恋をしていた男達も、不運な、でも、街でありふれていた事故で亡くなった女を、悼んでいた。

男はその洗濯女が、お酒ににとても弱くて、さらに願掛けもしていたから、一滴だってお酒を飲まない事実を知っていた。

彼女と男だけの、内緒だった。願掛けの中身までは、知ると叶わないから内緒だった。

その事実を知っていたから、男は、子供だったけれども、家のしている仕事の中身を知っていたから、たった一人、彼女が自分と深く関わりすぎて口封じで殺されたのだと、気がついてしまった。

それから、その洗濯のお手伝いには行かなくなった。洗濯女達は、慕っていた女性が死んだ事で、来れなくなったのだろうと思っている様子だった。

男は死んだ女ほどではないが、それなりに好きだった他の洗濯女達まで、家の手にかからないように、子供なりに考えて行動した。


「手間を掛けさせるな」


一族の当時の当主が、ぞっとする眼差しで子供だった男に警告した。





一族の考え方を体と心に染み付かせる前に、外の世界の、それもかなりのお節介で世話焼きな女のところに入り浸った結果なのか、男は一族の考え方に染まれなかった。

一族の同年代の人間は、それを


「できそこないのお人好し」


「欠陥品の情」


と評した。男に一族の重大な仕事は与えられなかった。年下の一族の人間よりも、誰よりも、格下の扱いを受け続けていた。

何も特筆するべき、突出した才能などなかったから、男が居場所がなくとも、一族から逃げ出せるわけもなく、男はその扱いに甘んじた。

幼い頃に死なせてしまった、無関係で何も知らなかった、優しい女の事があったから、誰かと関わって助けてもらう事すら、夢想しなかった。





その険しい山を登れば、三方に道があり、砂漠に続く大河につながる港町と、貴重な香辛料の交易路である、風の吹きすさぶ荒野と、誰もが讃える金の帝国を目指す事ができるとあって、山を登る人間は多い。

その日の夜は、日中は曇っていたのだが、天候が変わってしまって、土砂降りの雨に見舞われていた。青の国の季節では、ありふれた天候だった。

男はその山を登り、山の途中の旅籠の一階の食堂で、酒を飲んでいた。そばには杖が置かれている。

酔っ払う人間の騒ぐ声が、とぎれとぎれの会話の中身が、少し面白いので耳を傾けていた男に、別の酔っぱらいが絡んできた。


「兄ちゃん、あんた、どうして杖なんかついてんだぁ?」


険しい山の道だった。ゆえに杖をついて歩く男盛りに疑問があったのだろう。ありふれた興味だった。珍しいとも思わない。

男は酒を飲みながら、けらけらと、なんて事のない笑い話のようにこう言った。


「街で、お節介にも大喧嘩する酔っぱらいの仲裁に入ってしまって、椅子で頭を殴られて足が不自由になってしまったんだ。酔っぱらいのお節介なんてするもんじゃなかったな。仕事先に説教されましたよ」


「そりゃあ大変だったな」


「刃物が出てこない喧嘩で本当に運が良かった。もう酔っぱらいの仲裁なんてするものか」


「ちがいない! 兄ちゃん損な性格だったんだな!」


酔っ払いはその言葉を聞いてまたたく間に興味を失った。酒場での喧嘩も、白熱しすぎて椅子が出てくる事も、頭を結果的に殴られた事も、それがもとで体が不自由になる事も。

一つ一つの要素は、珍しいとすら言われない。重なると、運が悪いんだな、で終わる程度の軽い事だった。

その酔っぱらいが仲間のところに戻っていく。

男は、酒に映った自分の顔をぼんやりと眺めて物思いにふけった。


もしも、あの時に、戻れたら。


自分は、あの発言をしただろうか。


考えても仕方がないし、自分の変われなかった性格を考えると、多分、その発言に近い事を口に出し、今と同じ結果になっただろうと分析する。



だって、あんまりにも、かわいそう、だったから。






男の一族は、青の国の王族に命じられたならば、どんな汚れ仕事でもこなす、影だ。普段は使用人の顔をして普通に世間に混ざっているふりをして、実際はどんな冷酷な事も、命じられたら行う。

とくに男の一族は、今の国王ではなく、金の帝国の姫を妻に持つ家の王族に、心酔し、敬愛し、偽りのない忠誠を誓っていた。

男は他の一族と違ってしまって、その忠誠心が足りないと思われていた。それもあって、見下されていた。

あの方達の素晴らしさがわからない、馬鹿だと。

そのため、当主が一族を集めて、大掛かりな命令を下した時に、声が出てしまったのだ。


その王族を、一族は旦那様と呼んでいた。呼び方一つで怪しまれないように統一されていた。奥様とも統一されていた。

旦那様の娘の事を、姫様、と呼んでいた。何一つ怪しまれない呼びかけ方だった。


「旦那様のご命令だ。良からぬ男に心を奪われている我らの姫様をお救いするぞ」


計画は、こうだった。

単に姫様の夢中になっている男を殺すだけでは、姫様の目は覚めない。覚められるなら、この十年の間に、我に返っている。

だから、姫様がその男の正体を知り、正常に戻るような方法を使う。男への偽りの愛が消え去るくらいの。

酒に混ぜれば大きな体の男でもすぐに巡って、効果を発揮する毒が用意された。


「酔っ払って見境なく盛る男を見れば、姫様も我に返るだろう」


失望するだろうし、夢も覚める。あんな男を愛していた自分の愚かしさに悲しむかもしれないが、その悲しみを癒す、旦那様のお眼鏡にかなった、あの公爵の真心を、愛情を、今度こそきちんと理解できるだろう。

公爵の心からの愛情を、訴えを、旦那様がお認めになったからこそ、一族は姫様にふさわしいのは、あんな野蛮で粗暴な、どこの生まれかもしれない男ではなく、財産を持ち、権力があり、夫として何一つ欠陥のない公爵であると考えていた。


姫様の愛する男を、同じ人間とすら考えていなかった。姫様を穢す害悪だと認識していた。

それゆえに、いくらでも非道な所業で排除する事を選んだ。


「飲めば眠り、次に目を覚ました時に最初に見た人間を犯す。疲れ果てるまで犯し続け、まるで盛りを制御できない獣のようになる。醜く浅ましい事しかできなくなる」


その毒を、人間の身体の許容量の、限界まで。死ぬ手前まで。飲ませる事が決定した。

それだけ飲まされれば、いかに毒に対して抵抗性があっても、盛る欲求を制御はできまい。目の前に、若い肌の女が現れたら、襲いかかるであろう。

計画のための、標的の相手になる一族の女は、そういった技術に長けているが、見た目は清楚で可憐で、弱々しい若い女だった。

そういった女が、死にものぐるいで悲鳴を上げ、助けを求めて、泣いていれば、誰もが、演技であると思わない。

そして女は、仲間が途中で止めに来るという計画だからこそ、徹底的な演技を貫くと意気込んでいた。それだけ演技されたら、知らなかったら騙される。

酔っ払って、嫌悪するべき野蛮な本性が出た男を、排除しようとまとも頭なら、動く。

それは、単に命を奪う以上の事だった。毒が抜けて我に返り、己の所業を否定しようにも、誰ももう、狂ったように盛った男を信じはしない。

それが飲まされた毒の結果だと、毒が抜けてしまっては誰も証明ができないのだ。

そこまで行ってから、王族への侮辱であると、間違いなく殺せば、あの男の排除は完璧だ。可哀想だと噂すらされない。当たり前に罰せられたという事しか人々の記憶に残らない。

騙され続けた姫様の名誉は、傷つかない。

ただ、男が邪悪だったと、醜悪な本性であったと、それだけが認識される。

男の尊厳を破壊する作戦だった。曇り続ける姫様の目を覚まし、あの麗しく可憐で何よりも誰よりも素晴らしい姫様が、今度こそ本物の愛と幸せを手に入れるための、計画だった。

成功させるためには、標的を観察し、的確な時に毒の混ざった酒を飲ませるための、目が必要だった。頭数が必要で、ゆえに、見下された男すら計画を聞かされた。

聞かされた一族の誰もが、幼い頃から何者よりも、誰よりも、女神よりも美しく、可憐で、賢く、そして……傷ついた心ゆえに騙されて、真実の愛すらわからないまま、卑しい男の子を孕んだ結果、屋敷にも戻れず長く貧しい生活で苦労した姫様を、本当の意味でお救いし、本物の幸せに満ちた生活を送ってほしいと意気込んでいた。

だが。

自分だけは、一人、声を上げてしまったのだ。


「当主様、その……その計画は、あまりにも、あの男がかわいそうすぎます」


「……ならばどう計画を立てる」


周りはまた、欠陥品が馬鹿を言い出したと思っている目を向けていた。当主の瞳は冷酷そのものだった。

しかし、自分は言える場を与えられたからこう言った。


「あの男は、大秘宝を探す命がけの夢がある様子です。しかし、一人娘の事がとても気がかり。自身は貴族社会に認められる事すら嫌そうでした。ですので、あの男に、夢を手伝ってやるし、娘は何不自由ない幸せな暮らしと結婚をさせてやるから、二度と姫様の目に触れる事も、耳に入る事もしないように逃げ隠れしろ、と言って、自主的に脱走させるんです。七年も立てば、両者がおらずとも正式な離婚手続きが可能です。そうすれば」


誰もとびきりかわいそうにはならない。姫様も自分より夢を選んだ男なんてと失望し、離婚に同意する。


そこまで言おうとした男は、当主にしたたかに殴られた。当主は激昂していた。


「馬鹿者!! 忠誠心が足りず、頭も悪く、愚かで、無駄な心を持っていると常々思っていたが!! そこまで馬鹿で物わかりが悪かったか! 貴様、七年も、我らの姫様があの男の妻という肩書を持つなど誰が許すか!! 姫様のご年齢を考えろ!! あの男に懸想し続けた結果、十六年もの長い歳月を姫様は奪われたのだぞ!! さらに七年! 旦那様が正しい血筋の正当なお孫様をお抱きになる事もできないではないか!!」


したたかに殴られ、さらに、集まっていた大勢の一族の者達からも怒りによる暴行を受け、結果、男は片足が不自由になったのだ。



「お兄さん、お酒がおいしくないのかい? うちで作ったんだが、今年の出来はいつもより悪かったかねえ」


酒の器を傾ける手が、思考により止まっていた。名酒と評判の酒を作る旅籠の女将が、酒の出来を気にした様子だった。


「いいや、特別に美味しいものだから、静かに思い出に浸らせてもらってしまって」


「そうかい。うちのお酒がまずくないならいいんだ」


女将はそういって他の客のところに向かった。男はそれをちらりと見て、思っていたよりも酒の度数が強いのか、それとも自分が自覚するよりも疲れているのかと思いながら、また思考が転がった。


あれは、男と姫様の娘が屋敷に連れてこられて、そんなに時間が経っていない頃。

姫様は、娘と一緒に食事をとりたがった。女の子の作法は、女親が教えてあげるものだからと、麗しい顔を一層麗しくさせていたから、使用人達は我慢している様子だった。

男の方は、あまりにも作法と縁遠い様子だったから、治療が終わっていなかったから、そういう誘いの時は常に一人、部屋にいた。

その日も姫様が娘との食事を望み、娘の方は父を心配しながらも、母の事を思ってか、食事をする晩餐室に出向いていた。

それゆえに、自分はそういう時のいつも通りに、食事を男がいる部屋に運んでいった。

言葉など交わす事もなく、平民が食べるような姫様の夫にはふさわしくない食事を並べて、出ていこうとした時。


「いつも、ありがとうな」


声がかけられて、足がどうしてか、止まった。相手が、使用人一人を認識できている事を驚いたのか。

振り返ると、男は、いたずらが成功したような顔で笑って、言う。


「お前さんさあ。びっくりしてる面だぜ。顔なんて覚えるだろ? いつも飯を持ってきてくれるやつの顔だぜ?」


粗野な外見に違わぬ、口調と、態度だった。

意外と他人を観察しているのかもしれなかった。

好奇心が勝り、足を止め、部屋に戻ってきてしまった自分に、男が言う。


「あんたのほかは、こういう時、誰も飯を持ってこないぜ。あんただけだ。そりゃあ、顔なんか覚えるに決まってんだろ?」


心底、驚いた。皆嫌っている。嫌がっている。それは事実だ。だが、この男は、姫様が心底愛していると口に出す男なのだから、食事を持ってこないなんてしないだろうと思っていたのだから。

びっくりして、びっくりして、それが、顔に全部出ていたに違いない。


「貴族は面倒だな。仕事してるあんたが頷けるわけもねえか」


けらけら笑っていた。食事を抜かれているのに。屋敷中の悪意は伝わっているに違いないのに。

その男は、けたけた笑っていた。


「おれぁ、飯が食えねえのも、無視されんのも、この人生だから慣れてんだよ。悪意もな。気にもならねえ」


屋敷の誰もが知ろうとしない、その男の人生の爪先程度の欠片が語られていた。


「あーあ、大秘宝を探しに行きたいぜ」


「姫様がいるのに?」


あれほどの麗しい方が、愛情しかない顔で見てくるのに。そばに居てと願うのに。

この男は、それをいらぬという調子だ。

普通の男の考えに思えなかったから、言葉が喉から転がった。


「変な顔だぜ。男なんて大秘宝だの大冒険だのが大好きだろ? ガキの頃から、二人で夢見て憧れたんだ」


何かが、香った気がした。男が香らせるつもりもない、気取られるつもりもない、何かが。

ただ、男の夢だからという調子に聞こえなかったのは、どうしてだろう。

声は軽い。お調子者のようだ。乱暴な感じがして、深い思慮など感じ取れない。

それなのに、違和感を抱いた気がした。


「一人ならなあ。こんな屋敷から逃げるの、簡単なんだぜ。おれの人生経験なめんな。大脱走なんか得意中の得意よ。それも、警備体制がざるこえて枠で、おれを引き留めようっていう意思もねえ場所なんだ」


きっと大秘宝を求める行動のさなかに、あれこれやらかしたのだろう。これだけ粗暴な態度の男だから、誰かの不興を買い、逃げる事なんて日常だったのかもしれない。


「でも。あいつの事だけで、迷っちまうんだ。あいつを誰が、ここで、身を張って守るんだよ。あんなに、おれと、おれの兄貴に似ちまって。ここで大事にされるために必要な、あいつの母ちゃんの血がどこにも見つけられないのに。ずーっと、親なんて、名乗りもしなかったけどよ。おれなんかが、親ってのも頭おかしいけどよ。ろくでなしの兄貴分にしか、なれなかったけどよ。おれだけなら逃げられる。どこにだって行くし、なんだってできる。危ない橋だって渡れるさ。命がけの冒険なんて楽しいだろ。でも」


あいつとは、一人娘を示す言葉のはずだった。言葉の単語だけを拾えば、間違いなくそうだった。

違う誰かを指しているような、違和感がほんの僅かだけ。脳裏をよぎった。違和感を、無視した。おかしな思考だと思ったので。

だが話を聞かされて、一層理由がわからなくなった。その姿をわずかでも垣間見て、遠目からでも顔を見て、言葉を欠片でも投げられたら、意識を向けられたら、ひれ伏し、敬い、憧れ、天にも昇る気持ちになり、他に目が向けられなくなると言われ続けているし、実際に事実である、我らの姫様に選ばれて、子をなした男が、姫様に心を向けていない。

姫様よりも、一人娘の事だけを、迷いとしている。

選ばれた自負からか? 自身にそれだけの価値があるという傲慢さを手に入れたのか?

違う。

頭の回転が悪いと言われ続けた自分の中の、何かが違うと告げていた。

混乱した頭の自分を相手に、男がからからと陽気な調子で笑いながら、言う。


「あいつに、危ない大秘宝探し、つき合せられないだろ? あいつだけが、ここに残っちまう理由なんだ」


どうして、こんな態度の、調子の、口調の、男を、自分は、かわいそうだと思ってしまうのだろう。

わからなかった。


「あんた、この屋敷の人間の中で、珍しく人間を見る目で見てるもんだから、話が通じそうだから、ついお喋りが長くなっちまったぜ。嫌な気分にさせちまったらごめんな。おれだって悪いと思ったら、謝るんだぜ」


もう、違和感の正体を見いだせなかった。




ある日には。

死んでしまった洗濯女との過去を夢見た。あの頃の日常を。取り戻せない、手のひらに残る事もさせてもらえない過去を。

そういう日は、どうしても、頭に痛みがあった。喉から苦しみがこぼれそうだった。顔色も、悪かっただろう。

顔色が悪くても、どうせ酒の飲みすぎだとか、賭け事で徹夜したのだとか、思われるのが普通だったから、誰も怪しいと思わなかった。

誰も気にしないだろうと思いながら、その日も男に食事を運んだ。粗末な。

食事を運び、無言で立ち去ろうと思った時に、男が何を考えたのか、腕を掴んできた。

体格と筋肉と、見た目に違わぬ力強さを感じさせる、温かな手だった。

なんだ、と思っていた。機嫌でも損ねたかとすら。

だが。

掴む手の力加減は、相手を慮るそれだった。振りほどけはしない。でも、痛みも違和感もない。それくらいの。


「あんた、顔色がひでえな。ははあ、さては夢見が悪かったな? その顔だ。死んで会えなくなった大事なやつが出てきたか」


言い当てられすぎて、そんなにわかりやすいのかと、驚いた。夢の中身すら言い当てるなんて、普通とは思えなかった。

男の見た目と、言動と態度とその他総合したものから考えても、そんな事ができるとは考えつかなかった。

言葉も失ってしまっているこちらと違って、男は笑っていた。

馬鹿にする調子は、なのに、一欠片もなかった。馬鹿にする事など、考えもしない顔だと分かった。

うらやましそうだと、どうしてか、思った。

そんな表情の動きはなかった。一族の目ざといのが見たってそうだったに、違いなかった。

それなのに、そう、感じたのが不思議だった。


「もったいねえなあ。喜べよ。会えたって。おれぁそういうの、ねえからな。苦しいとか、わかんねえ。そうだ、手のひらを出せよ。前に夢占いのばあさんに、そういう時に気が楽になるっていうまじないの形を教わったんだ。疑ってんな? そこじゃばあさん、凄腕の中でも凄腕って評判だったし、教えてやった奴ら、皆、楽になったって喜んでたぜ。覚えろよ。簡単だ。手のひらに、この形を描くんだ」


手のひらに、まじないの形が指でなぞられる。


「おれは……いらねえな」


何がいらないのだろう。問いかけても答えを返すはずもないと、感じていた。

それからは、洗濯女の夢を見ても、頭に痛みは覚えなかったし、喉から苦しみはこぼれなくなった。

洗濯女の夢を、暖かく優しい気持ちで見られるようになった。洗濯女の笑顔を、幼い自分を呼びかける声を、苦しくてつらい過去ではなく思えた。愛せる日々だったと。忘れなくていいと。そのまじないは、本物だった。


かわいそうだと、よくわからないのに、また、思った。



弱みでも探してこい、と。周りにちくちく言われて、夜中に様子を見に行った事が一度だけ。気配を消すのが下手だから、一度だけだった。

男は眠っておらず、隣の寝台で寝息を立てている娘を、なんの表情もない顔で立って見下ろしていた。

表情も感情も豊かだと常々思っていた男のそれは、誰も触れてはならないし、掘り起こしてはならない何かを感じさせた。

だから、見なかった事にした。

ものすごい寝相の悪さで寝ていた。寝入ったら簡単に起きない様子だと、適当な報告をした。

朝に見に行く他の一族が、寝起きの悪い男にしつこくうるさく声をかける、慣れた態度の娘を見ていたから、疑われる事なく報告は信じられた。



自分は、一族の中では一番観察眼がなくて、鈍くて、察しが悪いと評され続けた人間だ。

出来が悪すぎて、母親が失望し、その後に出来た優秀な妹を溺愛するほどの不出来な欠陥品だ。

そのせいだろう。

あの男を、ただ、よくわからないし説明もできる自信がないのに、とても痛ましくて、かわいそうだと、思ってしまって。

当主が決めた残酷な計画を、あんまりだと、思ってしまったのだ。思っただけではなくて、声が出てきて、止めてしまったのだ。


「……」


もう、良い時間だ。明日も山道。いい加減に眠りにつかなければ。

男は取った部屋に戻ろうとした。その時だ。

ぎいぎい、と、旅籠の扉が外からきしんだ。誰も出歩く事を選ばないような土砂降りの外から、こんな夜更けに、濡れそぼって、どこかで荷車の泥でも被ったのか、顔をしかめそうなほどの泥まみれの、背中の丸まった老人がよたよたと入ってきた。


「やっと、旅籠までつきましたわい……」


「なんだぁ、じじい、汚えな!」


「酔いも冷めちまうぜ! どっかいけよ!」


酔っ払いが騒ぐ。確かにその老人は、あまりにもみすぼらしく見えた。持ち上がった顔にはまった二つの目は、長い歳月の結果か、白く濁っていた。

ぼろを着た、みすぼらしい老人を、女将が嫌そうに見ている。宿代も払えないと考えているに違いなかった。

老人が、弱々しい声で、疲れ果てたと分かる震えた調子で、こう言った。


「もうし、一晩。泊めてくださらんか。外の雨が、あまりにもひどいものだから」


「あいにく、今日はどこの部屋も空いてないよ。出ていきな、じいさん」


「そうだ、そうだ、出ていけよじじい!」


女将の無情な言葉に、誰かが乗る。同調する酔っぱらいは、多かった。知らぬふりも。また。老人は困り果てた調子で言う。


「どなたか。部屋の片隅で結構なので、入れてくださらんか」


「きたねえシワだらけのじじいを、部屋に入れる趣味はねえよ!」


「ちがいない!!」


老人へ嘲笑が大勢から向けられる。女将は視線で出て行けと言っている。



自分は酒があまりにも美味しいものだから、相当に飲みすぎて、酔っ払っているのだろう。


「女将、あのじいさんに、温かい風呂と、清潔な寝間着と、普通の寝袋を一つ、場所は私の部屋に用意してくれないだろうか。お代は、私が支払おう」


そんな言葉が口から出てきていた。酔っ払い達は驚いていた。女将も驚いていたが、金になる方を選んだ。老人を泊める方に傾いた。


「どこの御方か存じませんが、心から御礼を申し上げさせていただこう」


このひどすぎる雨の中、出ていかなくて済む事を、安堵する老人を、部屋に連れて行った。部屋には簡易的な風呂である、湯を張ったたらいなどが用意された。粗末だが、清潔な寝間着も。旅籠が予備で用意しているのであろう、乾いた新しい藁を詰めた寝袋も。

温かい風呂。乾いている寝間着。眠れる寝袋。

何よりもこの雨風をしのげる部屋。

老人は心底感謝している調子だった。


「本当に、ありがとうございます」


「私も、足が悪いものだから。ついお節介を」


他に考えていた事はたぶんない。相当に酔っていた。


「いえいえ、こんなじいさんにこれほどの事をしてくださる方に、神様の御慈悲があるように」


老人は深くお祈りをする調子になった。





天候が悪いと、当主がほぼ手加減なしに殴りつけた頭と、一族が痛めつけた足が、耐えられなくなりそうなほど痛みだす。

この夜もそうだった。

この一年でそれもすっかり、悪い意味で慣れていたから、また来たのだと身構えた。

歯を食いしばる。痛みに呻く声を抑え込む。元々痛みになれる訓練をしていたから、まだ出来る。

寝袋の老人は疲れ果てていたのか、ぐっすりと眠っている様子だった。気づかれなくて結構だ。そのまま朝まで熟睡してほしい。

目を閉じる。痛みとただ、向き合う。眠れない夜が始まったはずだった。


「大丈夫か。ずいぶんひどく、痛むらしいな」


耐えていたはずなのに、ふっと、痛みが遠のいて、目を開いて天気が変わったかと確認しようとすると、あの老人が覗き込んでいた。

シワだらけの手が、痛む額に触れていた。

瞳は真っ白だ。白目と黒目の境すら分からないほど白い。

はて、歳月がもたらす濁りは、ここまでになっただろうか。

なるのだろう。目の前にそれがある。

それよりも、問わなければ。


「……じいさんが、助けてくれたのですか」


「部屋の礼だ」


「そうですか。ありがとうございます。……どうにも、天気が悪いと痛むもので」


鼻が鳴らされた。オオカミが鼻でも鳴らすようだ。

呆れ果てた調子で。


「お前さんは、そんな体で山越えか。何を探している? 風呂の礼だ、寝袋まで与えられた。なんだって探してやろう」


「どうして、探し物だと?」


「その体で山越えなんぞ普通はしないわ。痛みで山のどこかで倒れる。何かよほどの、暮らす街では手に入らない、求めるもの、つまり相当に探すものがある人間というわけだ」


口調が泊めた老人と大きく異なる事に、違和感を覚えなかった。

だが。


「私の探し物は……」


言おうとした口が、閉じた。自分の事情に、とてもでないが、巻き込めないと思ったのだ。


「どうした」


「言えません」


「そんなに、このじじいの実力を舐めているのか」


「いいえ、違うんです」


一族でも特に役立たずで、ついに忠誠心が足りなさすぎると不出来の烙印を更に押されて、作戦のほとんどに参加する資格を失ったというのに、この命令が下された理由が、そこにあった。

痛みがない事で、ゆるんだ口が話し出してしまう。


「私の探し物を探している他の誰もが、雷に打たれて、死んでしまったんです」





遠い遠い金の帝国まで、伝説にされそうなほどの美貌である姫様の、行方知れずの娘が妙齢で見つかった事が噂で届いた。

帝国の若き好色な皇帝が、その噂に興味を持ち、血筋も姫様のそれがあるし、父親が庶民でも、と、位は低いが後宮の妃として娘を求めたのだ。

あれほどの美しさの姫様の娘だから、庶民の血があろうとも、美しいだろうという期待を込めて。

孫娘を嫌っていたが、この申し出を利用できると判断した旦那様が、逃げた孫探しを始めたのだ。

気の狂った父親と娘が逃げて、一ヶ月ほどからそれは始まった。

一ヶ月の間、旦那様は、愛する姫様の醜聞を消すために奔走していた。遠ざけられても、さすがに知っている。

気の狂った父親が、酔いつぶれて、姫様と出会う前に関係を持った娼婦の話をしたのだと、言う事にした。

青の国の貴族は、あの騒ぎを聞いて最初は姫様を軽蔑したが、この情報操作に納得した。

あの麗しの姫様が、気高く気品のある方が、もっと素晴らしい男を夢中にさせられるであろう女性が、あんな男にそんなふしだらな真似をしたわけがないという考えからだ。

姫様はそれでも衝撃を受けていたし、部屋に引きこもって泣き暮らしていたが、風当たりはましになったわけだ。

その火消しも終わって、すぐに皇帝からの縁談の申し入れ。

孫娘を単純に失踪させたら、泣くのを終わらせたら姫様が、産んだ責任から探そうとするだろうと。皇帝の後宮に低級とはいえ、正式に妃として入れるなら、遠くに追い払っても、顔を合わせられなくなっても、姫様は良い縁談だと喜ぶだろうと。

打算と姫様への愛情から、旦那様は孫娘探しを始めたのだ。

一番に、血の繋がりがあれば、地の果てまで家族を探し出せる事で知られた砂漠の術を使う、砂漠で学んだ術者に依頼をした。

諸事情を省き、行方不明で市井で暮らした孫娘が、貴族社会に戸惑って失踪した、祖父として心配だ、探してほしいと。

変な噂にならないように、表面上はよい祖父を取り繕って、旦那様が依頼した。

砂漠では行方の知れない家族を探す事は、行商人が多くゆき交う土地柄かよくある話で、それに加えて身分違いの生活に戸惑う事も多かろうと、術者は信じて、快く術を使った。

砂漠の家族を探す術は、力を遠方まで広める際に、二日ほどの時間を使う。

青の国まで知られた常識で、術者は何も疑わず、行方はすぐに分かりますよ、お孫さんが心配ですね。大丈夫ですよ、と微笑んだ。

その夜、術者は雷に打たれて死んだ。

単なる事故だと処理された。雨が降っていた。背の高い木の下で雨宿りしていた。だからだろうと。

二人目の術者を呼んだ。同じような反応だったし、対応だった。

雷が、また、術者の命を容赦なく奪った。

三人目、四人目、五人目。ついに雷に打たれて死んだ術者は、二十人を超えた。


「きっと、あの野蛮な父親が、邪悪な呪いを使っているのだ」


誰かがそんな事を言いだした。二十人も死んだから、術者達の間で、その依頼を受けたら死ぬと広まって、砂漠の術者は拒否するようになった。

砂漠の術がだめならば。他の地方の術を。呪いがあるなら呪いを弾く術を。

無駄だった。どんな高名な他の地方の術者も、呪い返しの専門家も、その雷からもたらされる死を逃れられなかった。

一族の育ちの、術者も無論。

旦那様の命令を拒まずに、軒並み、死んだ。

一族生まれの術者は、絶えた。


呪いには抜け穴がある。術を拒む呪いならば、術ではない方法で。


皇帝が求めているから、迅速に見つけ出そうという事で、時間がかかる人海戦術を使わなかった旦那様は、呪いの抜け穴であろう方向から、孫娘の捜索を命じた。

高価な、効果の確かな雷除けの呪符を持ち、一族の優秀な、頭の切れる者達があらゆる場所に散っていった、はずだった。

雷除けの呪符は、誰も守らず焼け焦げて、探しに行った一族の誰もが、道半ばで雷に打たれて死んだ。

誰も彼もが、苦痛に歪んだ顔で焼けて死んだ。

誰を投じても、何を投じても、雷は逃さない。

皇帝はせっついてくる。己の求める女が手に入らないわけがないと、理解していたからこそ。いい加減ごまかし続けられなくなってきていた。帝国に睨まれたら、青の国は滅ぶ。明確すぎる力の差があったからこそ、旦那様はついに、一般に広く依頼をかけた。

失踪した孫娘を見つけ出せたならば、大変な大金を支払うという依頼を。

我も我もと報酬に魅力を感じた人間が手を上げて探した。

これだけの人数を使えば、流石に見つかる。安堵できたはずだった。終わるはずだった。


予想は裏切られた。


その全てが雷に打たれて死ぬなど、誰が想像するのだ。

噂は一気に広まった。一般に依頼をかけたから、本当にあっという間に。


あの王族の孫娘を探そうとすると、どんなお守りを持っていても、雷に打たれて死ぬ。


己の命に敏感な市民は、すぐに手を引いた。死ぬかもしれないならまだしも、襲い来る逃れられない雷による死が絶対だったからだ。

呪われているとさえ言われなかった。そんなものよりも異常で、不気味な事実しかなかったのだ。



旦那様はまた、一族に孫娘探しを命じた。皇帝は返事すらないものだから苛立っていた。ここにきてついに、青の国の存亡が関わってしまっていた。

国王の命令でも、誰も頷かなかった。絶対の死が待っているから、そして見つけられずに終わるから。

だが、命じられても一族はもう、まともな人材がいなかった。残っているのは、役立たずばかり。見つけ出せるわけもない能力の者ばかり。

役立たずすぎて、そういう探し方すら教育されていない、一族を絶やさないためだけに残されている、忠誠心はあっても、使い物にならない者ばかり。

当主は旦那様がこれほどの求めている孫娘を探し出せないままの、一族を恥じ、考え、ついに。


「探す方法を多少は教育したのだ。あの日処分しなかった恩を返すように」


突出した能力はなく、秀でた才能もない、だが、人探しの方法程度は教えられていた、役立たずにさえその命令を下した。



話を聞いた老人が、訝る調子で言う。


「このじじいは長く長く生きているものだから、古今東西、あらゆる術も呪いも聞いてきたが。血をたどる砂漠の家族探しの術に、死を与える呪いなどありゃせんわい」


「でも」


「血をたどる術は理解さえしていれば、感じるだけだ。通りがいいように術と言っているだけで、術という行為にもならないくらいの単純さだ。単純すぎて呪いがひっかかるところなんかない」


だから、砂漠では、ちょっと五分、祭りで迷子になった子供を探すとか、大喧嘩して真昼に家に帰らない娘を探すとか、そんなのにも気軽に使うんだ。

神殿も、手数料がつかないと格好がつかないから、銅貨一枚という、それだけでは何も買えないような安い値段で請け負うんだ。

それくらいの、軽い気持ちで。

酒飲みの亭主が、なかなか家に帰らないから、酔っ払って誰かに迷惑かけてるんじゃないかと、嫁さんが怒りながら術を頼むくらいに、ありふれていて、簡単で。

死なんか、呼ばない術なのだ。

老人は訝る調子のままそう言った。

砂漠で学んだ術者が、とても気軽そうに、大金をせしめようともしないで、旦那様の依頼を受けた理由が伝わった。

仰々しく使う事も砂漠ではない日常の中にある術だから。


……姫様の娘を探せば結婚すると言われた公爵が、その術を頼らなかったのは、愛しい女性がすでに誰かの肌を知っている事を認められなかったからだろう。

血をたどる術を使ってしまったら、姫様の血を継ぐ娘が実在し、姫様が他所の男に体を許した決定的な事を認める事になる。

公爵は、きっと、あの大火事の騒ぎで、娘が不運な事に死んでしまったという筋書きが欲しかっただろう。

そうしなかったのは、その筋書きにしたら、姫様が娘の喪に服し、いっそう結婚を拒む理由付けになるからだ。

女性の中には、愛する子供を失った事で、その生涯を喪に服し、縁組を断る人もいる。

喪に服す間は、期間を法的には決められていない。そして、喪に服す間は、再婚も結婚も拒める。

公爵は葛藤したが、より、姫様と結婚できる方を選んだのだろう。


「普通、どの神も単純に家族を探すだけならば、介入はせんのだが」


老人が、異質な言葉を吐き出した気がした。


「神、ですか」


「そうだ。話を聞く限り、邪悪な術だの呪いだのではないわい。まして、雷。神が、鳴らす、ものだぞ? 人間だなんだが使う、邪悪とされる術も呪いも、神鳴りだけは支配できん」


「……」


聞いた記憶が、ある。あらゆる魔法を修めるような、大魔術師でも。呪術者でも。賢者とされても。

神鳴りだけは、操れない。それだけは、出来ない。

そもそも、あらゆる魔法を修めるほどの才能のある人間は、もう何百年も居ないから、迷信に近いとされる話だ。

人間は、証明できない事を、信じない生き物だから。

自分が聞いたのだって、子供の頃に、おまじないのような中身でだろう。


「それが、そんなにぱかすかと、祖父が孫を探すだけで神鳴りを使って人を殺し回るものか。そんな事がホイホイ起きていたら、人間はとっくに滅んでおるわい」


それゆえ更におかしい事なのだと、老人が言う。


「ようし、話は大まかに分かったぞ。どれ、見てみよう」


「だめだ、じいさん。今の話を、理解できているんだろう? 死んじゃだめだ。自分の命を大事にしてくれ」


「わしが探せば、お前は死なないぞ。お前の仕えている旦那様が死んでおらんようにな」


「だめだ。私は、自分が死ぬのは、怖い。でも、自分が巻き込んだ人が死ぬのは、もっと、怖いんだ」


洗濯女の笑顔が浮かんだ。

老人の曇った瞳が、丸くなった。丸くなって、頷いた。


「優しいんだな、お前は。安心しろ、わしはくたばらん」


「危険だと思ったら、すぐにやめてくれるか。逃げてくれるか。自分を過信しないでくれるか」


「あいわかった」


老人が言い切ってくれたから、男はほっとした。これでこの老人が、雷に打たれて死んだら死ぬほど後悔しそうだったので。

少し目を伏せた老人の空気が変わった。不意に男は、びょうびょうと強い風が吹きすさぶ、荒野を連想した。

ほんの、数秒。

老人の空気が人間のものに戻る。老人は大きく息を吐きだした。


「この先の砂漠に続く大河につながる、港町を目指せ、坊主。探している娘はそこにいる」


だが、と老人は言葉を続けた。


「そこで、見聞きした事を、自分の頭で判断して、決めるがいい」


老人はそこで、小さく呟いた。


「やれ、年下の知り合いが、また一人いなくなったか」


目が、覚めた。どこにも老人はおらず、用意してもらった風呂のたらいも寝間着も寝袋も、最初から用意されていなかったようにない。

旅籠の女将にそれとなく問いかけても、夜中の老人の事をまるで覚えておらず、酒にずいぶん酔っていたようだから、夢を見たのではと言われた。

だが、あれを夢だとは思えなかった。

旅籠の近くを通りかかった荷車が、港町を目指すと言うから、頼んで同乗させてもらった。

頭も足も、痛む気配を見せず、軽くなっていた。

足に至っては、普通に歩けるようになっており、男は混乱しそうになった。

港町に到着したのは、その日の昼過ぎで、港町にいる、一族の知り合いの情報屋を尋ねると、該当する外見の娘は、兄と小さな部屋を借りていたと聞かされた。何故か情報屋はその娘に同情的だった。

それゆえ問うと、一族の今までのつながりのためか、答えてくれた。


「遠巻きに見ていても、見ていられないくらい、かわいそうな兄妹だったんだよ。……一昨日、兄の葬式でね」


兄と言うのが、気の狂った父親なのは間違いがなかった。だが、死んだ事は思いもしない結果だった。

一族が飲ませたあの、非道な毒は、命を奪うものではなかったのだから。

そして、服用させてから、一年も経過していれば、もう体から全て排出されていて、正気に戻っているはずだった。

一族は、当主は、毒による簡単な死すら、あの男に与えたくなかったのだから。

あの、強靭な肉体の男が。

何故。

詳細を聞こうとすると、情報屋は首を横に振った。


「かわいそうすぎて、自分の口から言えない。聞きたいなら、この診療所の医者が、この時間にこの酒場にいるから、様子を見て聞くといい」


ここまで言われる程の何が一年の間に起きていたのだ。男は調べる事にした。





「最初は、ちょっと混乱してるくらいに見えた。ちょっと雑なお兄さんの方が、病弱だったという上のお兄さんが帰ってきたって思い込んでしまったんだろうって。態度とか口調とかも、年齢相応の、男のそれで、でも妹さんをお兄さんだって信じ込んで、世話を焼くのとかは、手慣れている感じだった」


兄の方の葬式が済んだ後だからだろう。突き止めた二人の家の近隣の住人は、兄の知り合いなのだと言うと、教えてくれた。

葬式に間に合わなかった事を、残念だという態度でいると、話してもらえた。


「体も大きいし、頑丈そうだし、お兄さん、毒に勝って正気に戻って、よかったねって、言えると思ってたんだ、このあたりの人間は」


そうじゃ、なかったのだ。


「ここに来て、一年の間に。お兄さんの態度が、性格が、口調が、……どんどん、子供になっていって。それでも、上のお兄さんの事を心配し続けていて、上のお兄さんのためだって尽くしてて。妹さんが、お兄さんが混乱しないようにって、一生懸命に、上のお兄さんのふりを続けてて」


目元を抑えてしまう住人もいるくらいだった。


「本当に、小さな子供みたいな感じになって、それでも、お兄さんは、上のお兄さんだって、妹さんの事を思い込んでいて。無邪気そのものの顔で、声で、態度で、反応で、でも、上のお兄さんだって信じている妹さんに、大人だって出来ないくらいに献身的で」


誰も、真実をお兄さんに伝えられなかったと、残酷な事など言えなかったと、語る住人が居た。



「見てたくなかったな。どんどん小さい子になって、なのによお、自分がどんな目にあっても、兄貴が元気になったらそれでいいっていう態度なんだぜ? 今日は兄ちゃんの熱が出なかった、だの。今日は兄ちゃんが咳き込まなかった、だの。それで、浮かれきって大喜びして鼻歌歌って。もう、痛々しくてみてられないのに、兄ちゃんの治療のお金と、暮らすためのお金を、って、働くんだ。無茶だって思うくらいに力いっぱい」


兄がずっと働いていたという建築の関係者は泣きそうに言った。


「やめろも、やすめも、何一つ、届いちゃくれなかった」


兄ちゃんを演じる妹さんの言葉すら。


「兄ちゃんのためならなんだって出来る。やせ衰えて、死相が浮かんで、自分が壊れていっているのに、当然みたいに言うんです。兄ちゃんが幸せならそれがおれの幸せ。って。あれを聞かされ続けていた妹さんは、何を思っていたんだろうな」


娘に代筆を頼んでいたという人間は、痛ましいという顔でそれを語った。


夜に教えられた酒場に向かい、やけのように飲む医者に、通りすがりだという調子で話をすると、医者は無力だと泣いた。


「毒が何か分かっていた。解毒剤だって。術だって。なのにどれも効果がない。効きそうなものは徹底的にこの一年試し続けた。妹さんは上のお兄さんのふりを続けた。助ける方法を探し回った。調べ回った。どれも意味をなさない。こんなに自分が無力だと思ったことはない」


なあ、聞いてくれないだろうか。上のお兄さんだって信じ続けて、一緒にいるだけでそれだけで幸せだって言う態度のお兄さんだったんだ。他に何も見えていないんだ。自分の死すらわからない。上のお兄さんが元気になる事しか考えない。うれしそうに笑ってばっかりで。

妹さんの名前が呼ばれた事なんて、一回もないんだ。

どんどん何にもわからなくなっていくのに、上のお兄さんへの愛情だけは、変わらないんだ。いいや、増すように見えるんだ。

こんな悲劇が、どこに転がっているんだ。


医者はわんわんと泣いた。


「最後の三日間。お兄さんの死を見つめ続けた妹さんが、かわいそうで、痛々しくて、たまらない」


死亡証明のために、死を確認しに行ったのは私なんだ。だからお兄さんの死に顔をきちんと見ているんだ。

あれだけ弱っていたら、死ぬ時、呼吸ができなくなっていく時、怖くて辛くて苦しくて、そういう顔になる事も多いんだ。

顔を安らかなものにする仕事の人間がいるくらいなんだ。なのに。


「何にも怖いものなんてないし、苦しいものなんてないし、という、安心しきった心底幸せそうな、安らかな顔で」


医者はまだ泣いた。


「妹さんが、最後まで、お兄さんの心を、守り続けたんだ」


守り続けた妹さんが、見ていられない。



そこからも調べ、全てを聞き、遠くから娘を確認し、男は旦那様と当主が待つ都に戻った。

全部自分で見聞きした。考えて考えて考えた。

男が戻ってきただけでなく、娘を見つけ出した事に、旦那様も当主も絶句した。

誰も成功させられなかった事を成功させたのだから。

男はこう、報告した。


「娘の居所はこの港町です。父親は一年の闘病生活の結果死亡し、葬式も終わっておりました。旦那様」


男は覚悟を決めてこう、報告した。


「孫娘を、そっとしておいてやりましょう。気が済むまで、喪に服させてあげましょう。父親の喪だと帝国に伝えれば、皇帝も一定の理解を示します。孫娘は、父親の死が進むのを、一年、見続けたんです。旦那様、居場所は分かったんです。それでもう、いいじゃないですか。孫娘は、父親を」


覚悟は決まりきっていた。腹は括られていた。言わなければならないと、それだけをどうしてか思ったのだ。


「孫娘は、毒で気の狂ってしまった父親を、この世の何よりも、世界の道理を超えて、愛しています」





そうでなければ、あれほどに、父の心を守り、死を撤回しようとし、打つ手が尽きてそれが叶わなくなってしまったのに、全く視線をそらさず、死を見続けられなかっただろう。



永遠の愛を誓う指輪を、左手の薬指にはめていた事は、報告しなかった。

それを購入したのであろう父親が、心があまりにも幼く後退していたから、永遠を誓う愛の事も、左手薬指に指輪をはめる意味も、知らなかっただろうから。

そして、それを贈られたのは本当は娘ではなくて、実の兄だったから。

……指輪を指摘した近所の住人から、証言が取れていた。


「上のお兄さんを、永遠に守るっていう誓いの指輪だったんですよ。お誕生日に、大好きなお兄さんに、ずっと守るからねって、約束するための。私は、まだ、お兄ちゃんだから、それを受け取ったという事にして、けじめをつけたいんです」


住人に話した孫娘は、感情のわからなくなってしまった瞳で、死者と揃いの指輪をつけていたそうだった。



これはあまりにも痛ましくて、父親が死の世界に旅立っても、まだ父と何かのつながりを維持したいという思いを汲み取れてしまったものだから、男はこの事実に関してだけは、誰にも口外するまいと、誓ったのであった。




男は、雷に打たれる事はなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。