しあわせのありか
「ひどい毒だ。人として生きていけなくする毒」
兄貴を連れて、目立たなくしてから、屋敷を脱走して。着いたのは、海辺の港町だった。
「ここは懐かしいな、兄貴、ここで暮らしただろ」
「忘れちゃったな、昔だもの」
「そうか」
懐かしそうに目を細める兄貴の言葉から、私は、この港町の周辺の海こそ、本物の、兄貴のお兄さん、神の御子が殺されて沈んだ場所だとわかった。
「もう昔だから、色々変わってて、誰もおれ達だってわかんねえな」
「隠れるのに都合がいいだろう」
「うん。多少路地の作りもわかるし」
一時的に隠れるならば、様子のおかしい兄貴を医者に見せて、治療する間なら。
大丈夫だと思って、私は、港町の小さな部屋を隠れ場所にした。
その後、少々手こずったけれども、自分も医者にかかるから、お前も一応かかろう、と兄貴を説得し、二人で魔術的なものすら治療する専門医にかかった。
そこで、私だけ呼ばれて、極めて難しい顔のお医者様が言った言葉が、それだった。
「ひどい毒って、どれくらいの」
「これは、飲んだら眠ってしまって、次に目が覚めて最初に目に入った人間を性的に襲って、疲れ果てるまで犯して、という代物だ。分析の結果はそうなんだ」
「そんな」
兄貴は、あの披露宴のどこかでそれを混ぜられた飲み物を飲んだんだろう。お酒に混ざったらあっという間に体に回ったのかもしれない。
でも、兄貴の様子はその毒の作用と大違いだ。
「だが、症状はこの毒を飲まされた患者の誰とも違う。違いすぎて、別の毒のようにすら思えるのに、検出された毒は間違いなくこれなんだ」
「知識のある毒なら、解毒剤とか、解毒の魔法とかが使えるんじゃ」
希望があると思った私に、お医者様が残酷に首を横に振った。
「作用が狂いすぎている。こんな状態では、もう、なんの解毒剤も、なんの魔法も、まるで意味をなさない」
「じゃあ、あのまま?」
「……」
お医者様は厳しい顔のままこう言った。
「効く可能性があるものを、とにかく、試す。彼の体が、毒に打ち勝つまで」
それしか、もう、道がない。
お医者様は毒の正体すら分かっているのに、治療の方法が何もなくなってしまっていて、打つ手が見つからなくて、こんな事しか言えなくて、自分の無力さが悔しくてたまらないという表情をしていた。
「信じましょう、兄貴の体が、毒に打ち勝つって」
「その間、君は」
「混乱させないように、兄貴の思い込んでいる、お兄さんのふりをします」
「それがいいだろうな。あれだけ認識がおかしくなっている人間を、変に刺激はできないだろう」
「ですよね」
私は、兄貴の体はとびきり頑丈で、神様すら頑丈だと感心したくらいだから、きっと、毒に打ち勝って、もとの兄貴に戻って、二人で逃げられると、信じる事にしたのだ。
それまでの間は、兄貴の大好きな、お兄さんのふりをして。
下手に怪しまれたら、生活に支障をきたすから、近所のおばさま達には、簡単な説明をした。
「逆恨みしてきた人が変な毒を飲ませたから、兄貴は、妹の事を、死んでしまった病弱な実兄が帰ってきたのだと思い込んでいる」
「毒が変すぎて、解毒剤も魔法も効果がない。兄貴の体が毒に打ち勝つのを待つしかない」
「その間、ご迷惑をおかけしますが、大目に見てください」
これ聞いた近所のおばさま達は、兄貴にも、お兄さんのフリをする私にも、同情的になってくれた。
変に嗅ぎ回る人が居ないようにしてあげる、と優しくしてくれる人も居た。ありがたい。ご近所への挨拶回りは大事だ。
「兄貴、体は大丈夫なのか、ふらふら歩いて、熱を出したりしないか」
「お医者様はそれくらいならもう問題ないって、言ってただろう?」
「でも。おれは不安なんだ。兄貴が、また熱で、苦しくなるのが」
兄貴は、そう言って慣れた手つきで、私の額に触って、熱を確かめる。
兄貴は、物心ついた頃から、お兄さんの看病と介抱をしていたらしい。会話の端々から知った。
慣れた手つきから、知った。
熱を測る手のさりげなさ。背中をさする手の力加減。少し私が疲れた様子を見せると、途端に抱えて運び出す時の、手際の良さ。
多分、薬を飲ませるのだってとても上手なのだろう。弱っている病人に食事を取らせる時の動作も慣れきっているのだ。
「大丈夫だよ、リアス。歩けるから」
「兄貴は、そうやってがんばったら、熱が出るんだ。咳が止まらなくなって、眠れなくて、元気になるのが遅くなるんだ。だからだめなんだ」
抱えられるたびにそう言っても、兄貴は信じる気配がない。それは、それだけ長く、神の御子が兄貴に看病されて、介護されていた事を意味した。
「兄貴は、五歳も年下のおれでも、抱えられるくらい軽いから」
そこで、私は、初めて、兄貴とそのお兄さんの結構な年齢差を知った。
「兄貴、勉強の本なら、おれが探してくるから。寝てて、休んでて、昼の休憩には飛んで戻ってくるから」
兄貴は、私を外で働かせようとはしないで、自分は外に働きに出た。でも、下手すると、一時間に一度戻ってくるような事さえあって、仕事やめさせられるんじゃと思った。
だが、兄貴は、そういう働き方にすら、慣れていた。慣れていたから要領がよいのか、やめるという話にならなかった。
兄貴は、体が大丈夫そうだった。元気だと、思えていた。
毒が変な作用をもたらしていても、きっと、毒に打ち勝って、私を認識できると、この頃は信じていた。
「兄ちゃん、元気そうだ」
額と額が重なって、熱を確かめて、兄貴が嬉しそうに、心底それだけの事が嬉しいんだと示す顔で、笑う。
「今日はどこで働くんだ?」
「建築現場! おれはでっかいから、下っ端作業が捗るんだって」
私の問いかけに、兄貴が、あっけらかんと答える。その、建築作業を請け負う人達が、兄貴が徐々に変わっていく事を聞きに来たのを、私は秘密にする。
簡単な事情を聞いた彼等は、絶句して、でも、働き者で善良で、一生懸命な兄貴を、普通の作業員のように働かせてくれている。
「心配だからって、仕事放り出して、帰ってきたら怒られるだろう」
「兄ちゃん、もう、いきなり倒れない?」
「今日は、熱もないし、倒れないよ」
「なら、信じる」
いってきますと兄貴が笑う。帰ってきた時に、私が待ってくれていると、無条件に信じている顔で。
「ほら、行ってこなくちゃ」
「じゃあ、兄ちゃん、行ってきますだから、手を握って」
「はいはい」
どうして、この手のひらの大きさの違いに、おかしさを感じられないんだろう。そう思うほど、大きさの違う、性別だって違う手を、兄貴が両手で掴んで、ぎゅっと握って、体温を確かめて、離して、家を出る。
「さて」
私は、手紙の代筆作業に移る。家の中から出なくていい仕事を、お医者様と相談して紹介してもらった。兄貴は機嫌を損ねるかと思ったのに、不安そうにこう聞いてきた。
「元気のお薬、お値段が上がったのか? おれの稼ぎだけじゃ、足りなくなった?」
「違うよ。貯金しなくちゃ。リアスの靴だって、買わなくちゃ」
「おれはいいんだよ。兄ちゃんが欲しいものを買って。おれは裸足でもいいんだから」
「だめ。僕の可愛いリアス、街で変なものを踏み抜くと、死ぬほど痛いんだから」
このやり取りを見ていたお医者様は、苦い声で私に伝えてきた。
「症状が悪化している。記憶の混濁がひどくなっている」
「ですよね」
「あの体だ。あの毒だって、普通の症状の場合は抜けているはずなのに」
何故そこまで症状が異なるのに、分析結果で出てくるのは、あの毒一つなんだ。何故。あの体には病の気配すらどこにもないのに。
お医者様は苦しんでいた。本来、もう、元気になっていなければおかしい、助かっていなければおかしい患者の状態が悪化しているから。
「もしかしたら、毒が抜ける時の、離脱症状というものが起きているのかもしれません。強い習慣性のある毒をやめた時の作用と聞きますが、症状が普通じゃないなら、もしかしたら」
「その可能性を信じよう。彼の体にまで異常がでたら、すぐに来てくれ。体まで異変が起きたら、逆に打つ手が見つかるかもしれない」
「はい!」
お医者様と悩んで悩んで、でも、希望になりそうな事を、願って、祈って、信じようとした。
「にいちゃん、お医者様は、にいちゃんの事、なんて?」
「もう、お外で走っても、大丈夫なくらい元気になれたよって」
「本当に!?」
お医者様の診察の結果を、両手を組んで、小さな子供が待っているような仕草で待っていた兄貴は、私とお医者様の口裏合わせの言葉を聞いて、きらきらした目になって、まだ診療所の中で、患者さんがたくさんいるのに、私に飛びついて抱きついて頭をすりつけてきた。
「うれしい、うれしい、にいちゃんが、走れる! にいちゃんが、走れるくらいに元気!」
「リアス、だから、もう、遅くまで働かなくても」
「にいちゃん! もう、病人の服じゃない服が着られる! 病人の靴じゃなくていい! にいちゃんの新しいの買わなくちゃ! おれ、がんばるね!」
「リアス、ここのところすぐに疲れているみたいだから、そんなに頑張ろうとしないで」
「にいちゃんが元気!! ねえ、にいちゃんが元気になったんだよ! おじさん、おめでとうって言って!」
「おめでとう」
「ね!」
診療所に来る患者さんの多くが、痛ましい目を向けてくるようになったのは、最近だ。子供としか思えない態度と口調で、人に話しかけるようになった兄貴に、皆、残酷な言葉など何も言わない。言えない。
この、兄であると信じ込んでいる、疑いもしないでいる男が、どこからどう見ても健康以外の何物でもない女の子が、元気になったのだと、大喜びして跳ね回るのを、止められる人は居ない。
ここは、診療所で、皆何かしら具合が悪かったりしているから、おかしいのが本当は兄貴で、どんどん子供の調子になっているのも、見てしまっている。
だから、言えない。
言えるわけも、ない。
「にいちゃん、おれ、もっと、いっぱいがんばって、にいちゃんが元気になって好きな事、いっぱいできるようにするね!」
一ヶ月前と比べて、明らかに筋肉が落ちて、体重だって落ちていて、ふらついて、顔色も悪い男に、言える人は居ない。
それだけ自分の具合が悪いのに気づく事もしないで、兄が元気になる事だけを、よろこんで、兄のためになんだってすると言い切る男を、止められる患者など、居ないのだ。
「リアス、お願いだから、無理をしようとしないで」
私が心配だという顔をして、お兄さんのふりをして止めても、兄貴は、自分が無理をしているという自覚がないから、子供が不思議そうに目を瞬かせるのと、同じ調子で、目を瞬かせて、首を傾げる。
「変なにいちゃん。にいちゃんより、おれのほうが、ずーっと、つよいし、体力もあるし、がんじょうなんだよ」
傾げた後に、あどけない顔で、兄貴が、私に、笑う。
「にいちゃん、帰ろう」
拒まれる事など想像もしない手が、あれだけ温かった大きな手が、今は信じられないくらいに冷たいのに、当たり前なんだという調子で私の手を握って、鼻歌を歌いながらご機嫌で歩き出す。
私は、お医者様が言った言葉を思い出す。
「どうして。どうして、あれだけ体が弱っていれば、回復魔法が効果を発揮し、毒にすら作用し、改善するはずなのに! 何故、彼には何一つ効果をなさないのだ。効くはずなんだ。効果は証明されているんだ、他の誰に使っても、皆回復するのに!」
お医者様は頭をかきむしらんばかりの勢いだった。それくらい、兄貴の体を侵す何かは、治療する側を嘲笑うようなのだ。
「何か、ないんですか。何か。体力を維持する薬でも、体を酷使しないように強制的に寝かせる薬でも、何でもいい! 兄貴が助かる方法は。治療法が見つかるまで、延命できる何かの手立ては!!」
「あらゆるものを試した。可能性のあるものは全て調べた。だが、あの体にだけは何も効果を見せてくれない」
「じゃあ、このまま、兄貴はどうなるんです。あんなに子供みたいになって。自分が弱りきっているのもわからないで」
「……」
苦しんでいるのはお医者様も同じだった。お医者様は治療を諦めていない。救う事を諦めていない。だから苦しんでいた。何も方法が見つからない現状に。
「……非常にこれを言うのは、無念だ、でもきちんと妹さんには伝えなければならない」
お医者様は血を吐くような苦しい声でこう言った。
「終わりの時まで、二人で過ごす時間を、大事にしなさい」
「……!!」
心底、耳をふさぎたいと思う言葉を聞いた。聞きたくない言葉だった。認めたくない言葉だった。
でも、あれだけ腐心してくれていたお医者様にそう言わしめるほど、兄貴は。
「……リアス。兄ちゃんのわがまま、聞いてくれる?」
「にいちゃんが、わがままいうの? なあに? あたらしいご本がたかいの?」
私は、必死に、優しいお兄さんの顔をしようと努めて、優しい声でこう言った。
「最近、にいちゃん、リアスが働いてばっかりで、すごくすごく、さみしくてしょうがないんだ。だから」
私は、泣いていないだろうか。
「リアス、一生分のお願いだから、にいちゃんと、ずっと一緒に居て」
誰でもいいです、何でもいいです、神様でも、悪魔でも、良いものでも、悪いものでも、なんだっていいんです。
私から、兄貴を、兄貴だけは、奪わないでください。
こんなに、小さな頃から、お兄さんのためだけに、生きてきていたんです。こんなに献身的ないい子だったんです。
お願いです、お願いです。
もう、私が、お兄ちゃんになります。そんな代償で済むんだったら、私が消え失せるくらいで支払いが済むなら、いいんです。
兄貴を、奪わないで。
そんな思いで心がぐしゃぐしゃな私の、お兄ちゃんぶったお願いごとを聞いて、兄貴は。
「うん! にいちゃん!」
ずうっと、ずうっと、いっしょ! お仕事、休むね! しごと先の親方、ずーっと、かえれとか、やすめっていうもの。にいちゃんのお願いだもの、やすんで、ずーっと、にいちゃんといっしょにいる!
なんで、そんな、とびっきりのごほうびをもらった顔で笑うの。
だめだ。涙腺が。
私は、ついに、耐えきれなくて涙が出てきた。噛み殺そうとしても、嗚咽が出てきてしまう。
「にいちゃん!? つらいの、いたいの、おいしゃさま、もどろう、にいちゃん、にいちゃんがなくくらい、つらいなんて」
「ちがうよ、リアス。リアスが、一生のお願いを聞いてくれるっていうのが、うれしくて、うれしすぎて、にいちゃん、泣くほどうれしいんだ」
誤魔化せ。兄貴を苦しめないように。嬉しいから泣くんだと、誤魔化せ。
それが出来ないのに、どうして、お兄ちゃんを演じ続けているのだ私は!
私は兄貴の頭を撫でた。お兄ちゃんが嘘をつくなんて思いもしない兄貴は、うれしそうに笑った。
「にいちゃんが、おれとずうっといっしょで、ないちゃうくらいうれしい! おれも!」
こんな死にそうな顔なのに、浮かべられた笑顔は、知っている全ての笑顔を上書きするほど、うれしそうな、幸せという色しか乗らない笑顔だった。
この笑顔を、私の方が、死んだとしても忘れられないと思うほどに。
三日間しか、なかった。
その三日間、私は、兄貴と外にも出なかった。
何でも一緒にやった。食事も遊びも、お風呂も。
性別の違いもよくわからなくなっていた兄貴は、ずっとお風呂に一緒に入ってくれなかったお兄ちゃんが、お風呂もと誘ってくれるのを喜んでいた。
「にいちゃんといっしょのおふろ!」
……私が小さな頃だって、一緒にお風呂に入る事なんてしなかった。だから、兄貴の全裸なんて、見た事はなかった。
だから、やせ衰えて、あばら骨から何からが浮く、兄貴を見るのが、兄貴の生まれたままの姿を見る最初だった。
「リアスは大きいねえ」
「にいちゃん、やわらかい。げんき! ふわふわ!」
柔らかい体を気に入ったのか、兄貴はそれから、ひっつきむしだった。
本来なら、いい年の男と、年頃の女の子が、一緒のお風呂なんて、おかしいだろう。
でも、私は、なんでもいいから、兄貴がもっと長生きしたいと、思える何かに、なれないかと、この時すら思っていた。
「じゃあ、リアスだけでいいよ。リアスだけが、兄ちゃんの裸を見るし、抱きついていい」
「うん!」
なんだってよかった。決定的な不道徳である、性欲でも。本来の血の繋がりだったら、実の父と娘だから、絶対に社会的に許されないとしたって。
兄貴の命を、兄貴の魂を、この世に、私のそばに、繋ぎ止められるならば。
どんな頭のおかしい、兄貴がそうであったから苦しみ続けた、倫理観の狂った事だって、かまわなかった。
でも、子供の心の兄貴は、そんなものを持たなかった。
ただ、やわらかくてあたたかい、大好きなお兄ちゃんを、ずっと独り占めできると、子供の純粋さで喜んでいた。
「ご飯食べてよ」
「うん」
食事を一緒にした。一緒に食べられるのを、兄貴は喜んでいた。でも、弱りきった兄貴の体は、もう、わずかな食事も、受け入れなかった。
だから、兄貴は、吐いた。
それを、何も言わないで掃除した。
「ごめんね、にいちゃん、かたづけるから」
「いいんだよ、いつも兄ちゃんが吐いてるんだから、今日は兄ちゃんが片付けるの」
「おこらない?」
「もちろん。食べられなくて、吐いちゃう苦しさは、兄ちゃんが、よく知ってるから」
今まで聞き続けた、お兄さんの体の事を、想像して、慰めた。
水は、飲めた。飲んでくれた。冷たい水も受け付けなくて、だから、人肌の、生ぬるいお湯を、作って、少しずつ、飲ませた。
「お腹が疲れてるんだよ。元気になったら、二人とも元気になったお祝いに、とびきり美味しいものを、食べようね」
「うん!」
こんな約束で生きながらえてくれるんだったら。そう願って言えば、兄貴はきらきらした顔で頷いた。
その夜、兄貴は、とっても浮かれていた。理由は、悲しいほど単純だった。
「にいちゃん、あした、おたんじょうびだよ! にいちゃんが、いちねん、いきてくれた!」
兄貴にとって、暦の上での、お兄ちゃんの誕生日は、毎年、悲願だったに違いない。
ずっと聞いていたお兄ちゃんは、とても病弱で、まともに治療も受けさせてもらえないで、兄貴が一人っきりで看病を続けていて、きっと、一日一日を生きるのに必死だった。
兄貴の願いは、お兄ちゃんが、次の誕生日を迎えるまで、生きながらえさせる事であり、元気にする事だったのだろう。
それゆえに、こんなに小さい頃の記憶しかないのに、暦は、読めるのだ。それにすがったから。
それに願って祈って、きっと、次の朝に、お兄ちゃんが息をする事に、感謝をしたのだろう。
浮かれ具合はそうでもなければここまでじゃない、と思うほどだった。
一緒に居続けて、お風呂に入って、その夜、兄貴は普段言わない事を言った。
「にいちゃん、だっこ」
体が大きいから、寝床だけは、別だった。それは、兄貴も体感していた。
それなのに、その夜、兄貴は、そう言った。
恥ずかしそうに、断られたくないなあ、という小さい子の顔で。
……だめだと、言ってはいけない。何かが私にそう告げた。
「おいで、リアス」
狭い寝台で。ぎゅうぎゅうにひっついて、私は兄貴の頭を抱きしめて、兄貴は私の胸に顔を埋めた。本当に、小さい子供の仕草だった。
「にいちゃん」
「なあに?」
「あしたは、にいちゃんのおたんじょうびだから、すきなこと、いっぱいして、すきなものいっぱいたべて、すきなところに、どこにだっていって、なんだってしてよ。おかねなら、しんぱいしないで。だいじょうぶ」
こんな時でも、おにいちゃんの事しか、考えないのか。
見上げてくる瞳は、少し眠たそうだった。
「にいちゃん、おれ、ね。にいちゃんが、げんきで、しあわせなのが、いちばん。それしか、いらない」
明日が誕生日だから。それを強く意識しているのか。
兄貴が、大きく息を吸う。吸って、吐き出して、また、吸って。
息をするのも、大変そうな調子で、呼吸して、それでも。
「にいちゃん
ずうっと ずうっと
だいすき」
唇をかすめたのは、兄貴の同じ部分だった。いたずらが成功した顔で、兄貴が、笑う。
普通の年の男がそんな事をするならば、欲望が乗る。
兄貴の顔には、そんなものがまるでない。
「にいちゃんしってる? いちばんすきなひとにはね、ちゅーするんだよ」
笑って、あくびをして、とても眠たそうにして、兄貴が言う。
「にいちゃん、ねむい。もっと、いっぱいはなしたい」
私は、抱きしめ直して、優しく言った。
「大丈夫。
朝まで、兄ちゃんが
お前を見ているから、眠って大丈夫だよ」
兄貴は安心したような顔になって、私に顔を埋めて、眠り始める。
一晩かけて、呼吸がゆっくり、間延びして、弱くなって、そして、明け方。
兄貴は、幸せそうな顔をして、永遠の眠りについた。
私はその安らかな顔を見守った後に、兄貴を弔う手続きをするために立ち上がって、お医者様が書いてくれたそういう手続の書類を入れた引き出しを開けた。開けなければ兄貴は死なないと、願掛けしたから、私はそこを開けなかった。
なのに。
「箱?」
そこには、小さな箱が隠してあった。そして、子供の拙い文字が、忘れないようにか、紙一枚に書かれていた。
港町では、一番大事な人を守りますっていう約束の印に、おそろいの指輪をするんだって!
それが、えいえんってやつなら、常識なんだって!
えいえんって、ずーっとってことなんだって!
にいちゃんにないしょのぷれぜんと!
よろこんでくれるかなあ。
小さな箱の中には、白い石でつくられた、そろいの指輪が入っていた。
子供が、子供の知識を全部つかって、一番大事な人の誕生日に、贈り物をすると決めていたのだ。
だから、あんなに、浮かれていた。きっと、内緒のプレゼントなんて、とびきりわくわくする、秘密だった。
「兄貴……」
もう、兄貴は、あの大きな手で、握り返してくれる事も、ない。




