無知の慟哭
違う、と言う言葉が喉から出てくるその前に。
「兄貴!」
お父さんが、他の感情など欠片も見いだせないほど、純粋な嬉しさしか乗らない声で、そう、大声で言って、私が抵抗する隙もなく、私を引き寄せて、抱きついた。
抱きついたんじゃない。しがみついているんだ。
それか、逃さないと捕らえたか。
それくらいに、抱きつくというものと、お父さんの行動は違っていた。抱きしめられた経験がほぼない人間でも、違いが明確にわかるくらいに。
「兄貴、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
次の声は、心の底から謝る声だった。こんな声で謝る人を、見た事も聞いた事もない。ただひたすら、ごめんなさいと、しか思っていないのだとわかる言葉だった。
どうして、あれだけ、大嫌いだと言い切っていた相手に対して、これだけの謝罪をするのだろう。刺してしまったから?
違う。そんな簡単な話じゃない。簡単な、何かじゃない。
「兄貴、おれが、おれが、おれが全部全部悪かった! おれが悪いんだ、おれが、何にも知らない事を、知らなかったから! おれが悪いんだ、おれだけが全部悪いんだ、兄貴、おれは、おれは」
泣いていた。泣きわめく人の顔など、兄貴の喧嘩沙汰とかで、結構見慣れていたはずなのに。兄貴の顔は、その誰もとも懸け隔てられていると思うくらいに、悔いていて。
悔いるという単語すら、甘っちょろい感情がそこにあった。
兄貴は体格のためか、地声がそもそも非常に大きい。秘密の話には向かない人で、内緒の話は聞き耳をたてなくても聞こえちゃって、だから秘密を喋るのが下手だって、弟分さん達が笑いの種にして、兄貴もそれに乗っかって、お酒の席で大笑いするくらいの、皆知っている事で。
その、元々大きい声が、普通に喋ろうとか、そんな普通の制御を完全に失った大きさの声で、泣きながら、私じゃない誰かに喋っている。
「知らなかった! あの村の倫理観が、手遅れなくらい狂っていた事だって! それを普通の常識だって思うのがおかしいなんて! 知らなかった! 知らなかった、だからおれが悪いんだ、おれがなんにも知らなくて、知らない自分を知らなくて!」
兄貴は、何を知らなかった事で、こんなに泣くほど謝っているんだろう。
しがみつかれて、逃がしはしないと抱え込まれて、私は兄貴の声を聞く。
「十四のガキに、十八の女が手を出す事がおかしいなんてのも、妊娠させるのがおかしいなんて、まして、まして」
声は大きい、でも震えていた。感情がそのまま声になっていた。
聞いている中身は、相当な衝撃で、でも言葉は続く。
「実の兄が、特別に大事にして、守りたがってる女だって知ってて、そういう事をしているのを、実の兄に相談するのが、おかしいなんて、知らなかった!!!」
血の気は完全に引いていた。でも、兄貴は、言葉が止められないままだ。
「普通は、十四のガキにそんな事しないし、妊娠して結婚を迫るなんておかしいし、声をかけるなんてそもそもしないのも、知らなかった!」
話は、どう聞いたって。
私がお腹に宿った時の話だ。
お母さんは、何をしたのだ。
「ちゃんと、兄貴が、一番大事にしてて、笑顔にしたい人だってのは、分かってた! 兄貴が幸せそうにしてたから! なのに、おれは、あの村の倫理観しか持ってなかったから、そこしか知らなかったから、声をかけられた時に、弱ってるんだな、可哀想なんだな、としか考えなかった! 愛する人を、平気な顔で寝取る弟なんてのが、異常なんてのも、思いもしなかった! そういう相談なんて、頭が狂ったって出来ない所業だって、考え付きもしなかった!」
兄貴が、鼻をすする。ひたすらに、私を誰かと思い込んで、泣いて喚いて、謝っている。
それなのに、その声の中に、どこにも、許してほしいという、逃げの感情が感じ取れない。
許してもらわなくていい、いいや、お願い、許さないで。
そんな子供の悲鳴が聞こえるようだった。
「おれが、馬鹿で、能無しで、考えなしで、異常で、常識ももたなかったから、兄貴をあんなふうになるまで苦しめた! 優しくて、あったかい兄貴を、あんなになるまで、おかしくさせちまった! 兄貴がおれをぶっ刺した時、兄貴、あんただけは他の誰とも違って、人殺しになんてさせたくなくて、おれはあんたに手をかけた。でも、でも! その後、ガキと、腹にガキがいる女に、神様のとばっちりだけは、受けさせるのはおかしいから、おれの罪だから、おれを全てから失わせて、体の時間もなくして、世間に出て! おれは、どんだけ、どんだけ頭がおかしい、気の狂った、倫理観が吹っ飛んだやつだったのかを、やっと、兄貴をなくしてから、知ったんだ!」
許さないで、お願い、聞いて。おれの言葉を、聞くだけ。それだけでいいの。
幼い子供の声が聞こえる気がした。失ったものが大きすぎて、心がずたずたに引き裂けて、でも立ち続けなくちゃいけなかった子供の声が。
「兄貴、おれは、知ってなくちゃいけなかった! 誘われたって、いやだって抵抗する事を! よそをあたれって、言う事を! おれはガキだって、伝える事を! そもそも、ガキにそういう事をするのが、暴力だっていう常識を!」
これだけ泣いているのに、苦しそうなのに、痛そうなのに、どうして、その欠片の中に、嬉しいという何かが感じられる気がするんだろう。
届かない声が、やっと届いたんだっていう狂喜に似たものがある気がするんだろう。
「だいきらい、だって」
やっと、出てきたのは、ろくな声じゃなかった。この状況で言う言葉でもないと、流石に思った。
なのに。
しがみつく兄貴の腕の力が、さらに強くなった。嫌われると思った、小さな小さな子供が、がむしゃらに、大好きな人をつかむように。
「大嫌いって言わなきゃ、頭がおかしくなりそうだった! 大嫌いなんだって、自分に言い聞かせなきゃ、生きてられなかった! 繭だから、繭を選んだから、全部分かっても死なせてもらえなかったから、死なせてもらえないから、生きるしかなかったから!! 嘘なんだ、嘘なんだ、嘘なんだ!! 一番言いたくない、言うたんびに、死にそうに思った、嘘なんだ! 兄貴、何が起きても、何があっても、大好き、大好きなんだ!」
お母さんにむける言葉の数々からは、髪の毛一本分も、感じ取れなかった熱量だ。
離すまじ、逃がすまじ、と絡みつく腕は離れる気配など欠片も見せない。
兄貴が、下から、私を見上げている。それは座る兄貴と、立つ私の体勢の問題で。でも。
一生懸命に、見上げて訴えかけている子供が、見える気がした。
「兄貴。あんたが、幸せで、元気なら、なんだって出来た。痛くても辛くて寒くても腹がどんなに減っても! ろくに動けなくなるくらいでも! 人様が、耐えるっていう事だって、耐えるなんて思わなかった。それが人様がおかしいと思うとしたって関係ない! おれと引き換えに、帰ってきてくれるなら、なんにも迷わねえしためらう理屈だって怖いと思う事だってない! おれはちゃんと、おれが悪かったってわかった! 知る時間がもらえた! 兄貴、おれがいなくなるくらいで、良かったなら。おれが、あんたとあんたの愛した女の前から、立ち去るだけで、それっぱかりで良かったなら!! おれは、あの頃のなんにもわからねえガキの頭でも、あんたの幸せがそれでやってきてくれんなら、迷う事なんて絶対に、なかった」
人間は、はたして、これだけの大好きという感情を、こんなに真っ直ぐに、献身的に、抱えて生きていられるものなのだろうか。
兄貴の叫びに、嘘の気配はどこにもなくて、だから、兄貴は心の底から、はらわたをめくったとしたって、そう思っていると伝わってくる。
兄貴が一生懸命に鼻をすする。今更なのに。
「兄貴。会いに来てくれたって事は、ここに来る方法が出来たって事なんだろ? どうすれば、兄貴、ずっと一緒に居られる? おれは、そのために、何をしたらいい? 何を支払ったらいい? 生贄は、兄貴が嫌いだろ。じゃあ、おれの目でも、足でも、腕でも、声でも、そうだ、命だって! 魂丸ごとだって! 払えるものならなんだって払う、兄貴が、帰ってきてくれるなら!」
ここまで来ると、もう、狂気だ。兄貴はこんな熱を、こんな思いを、抱えて、あんな顔で、あんな態度で、生き続けていたんだろうか。
がさり、とそこで、やっと、私は周りの音に気付いた。
「……あ」
衣装とかの豪華さからして、披露宴から、夜の部まで招待されている、たくさんの、貴族が、凍ったように、ことの成り行きを、兄貴の叫びを、聞いていた。
聞かれていた。
皆、蒼白な顔で、その誰よりも蒼白で、倒れそうな気配で、でも衝撃すぎて倒れる事も出来ない、お母さんを、……軽蔑した色を乗せて、見ていた。
祖父が、事態の収拾をしようとして、でも、出来ないほど混乱して立ち尽くしている。
祖母が、倒れているのを、誰も介抱できないくらい、衝撃を受けている。
この場に居続けても、いや、この屋敷に居続けても、もう、ろくな目には合わない。
お母さんがしてしまったのは、少年を暴行したという、貴族女性にとって生きていけなくなるほどの醜聞。
それを、何をどうしたのか、ずっと黙っていたのに、喋ってしまった兄貴を、祖父は生かしておく事など選ばない。
楽なのは、兄貴が錯乱して、デタラメを喋った事にして、王族への著しい侮辱だと言って、惨殺する方法。
そして、その血を引く私だって、醜聞を思い出させるから、生かしてはおけない。
この場が、混乱している間に、兄貴を連れて逃げて、明らかにおかしい兄貴を、医者に見せなければ。
私は、唇を舐めた。演る事を決めて、腹をくくった。
「リアス。まずはここを出ていこう。そんな面倒な服を脱いで着替えて」
「兄貴、まだ病気の服なのに」
「僕は、いいんだよ。お前の服は目立つから」
誰も立て直せない今しか、時間がない。私は、兄貴に、きっと兄貴のお兄さんが浮かべるだろう笑顔で、言い聞かせるように言った。
「急いで、リアス。時間との追いかけっこだ」
「おう!」
兄貴が私を抱えたまま立ち上がる。凍る人々の中を一目散に駆け抜ける。
逃避行が、始まった。




