お父さんとお母さん
兄貴はそのとんでもない何者かを吐き出してから、ひどく咳込んだ。
「リアス!」
美人さんが悲鳴を上げるように兄貴にすがる。兄貴は、体中の血が全部出ていくような量の血を吐いたのだ。
これでは助からない、と私は固まって動けない。
あれだけ強い兄貴が、うずくまって背中を丸めて血を吐き出す。その血が、異様にどす黒いのが、血を見る経験がそれなりに多かった私には違和感として感じられる。
兄貴の血が、なんであんなにどす黒いんだろう。あれじゃあ、静脈血の色よりもずっと黒い。
魔物の血は紫でもっと明るい色だ。黒ではない。
何が起きて。兄貴は何をして。
何を腹の中に隠していた?
私の視線は兄貴から、巨体の何かへ持ち上がる。
それは、じっと、兄貴しか見えていないように、兄貴だけを見つめている。
そこで気付いた。あれは、本来、一つの存在だけにすべての意識を傾けるものではない。
とてつもなくたくさんのものすべてに、等しく、意識を向けるべきものが、兄貴だけをじっと見ている。
兄貴に取りすがる美人さんも、隣の私も、あっけにとられている大聖堂の結婚式の招待客も見ていない。
「いや、リアス、リアス!」
美人さんが叫んでいる。彼女は治療する手立ての持ち合わせがきっと無いのだろう。私にもないように。
「……」
私は、ありったけの勇気を振り絞った。振り絞って、その、人間が絶対に一人で向かい合っちゃいけないものに、怒鳴った。
「兄貴に何をしたんだ!!」
それ、が。私の方に一瞬だけ目を向けた。
「ひゅっ」
体中の血のすべてが凍るような冷たさが、私を襲った。ただそれは圧倒的に生きている何ものとも違うものだった。
震える事すら許されない極寒の寒さというものを、私は体感したような気分だった。
「神様。俺の大事な相手に、そのお力を欠片でもかすめさせないでいただきたい。俺ではないのです」
気も失えない恐ろしい寒さに、叫ぶ行為だって認められていないような寒さに固まっていると、不意に。
兄貴が、口元を拭いながら、それを見上げて、願った。
「娘は、俺とは違うのです。そんな事、存じ上げていらっしゃいますでしょう。俺の神様」
娘?
私の思考がまた停止しそうになる中で、美人さんが、兄貴とそれを交互に見ている。理解を追いつかせようとする行動だ。
「我が繭は、歴代随一の頑丈さか」
それは、兄貴だけを見て、そう言った。
「お前の兄が穢した我を、清める眠りにつかせるための繭よ。繭は破られれば意味をなくすというのに。生きているとはたいしたものだ」
「頑丈な俺はお嫌いですか」
「腹の中から感じておったが、お前は実に愉快だったぞ。お前の兄が我を支配しようと画策し、いびつな術を使い、我を堕とそうとし失敗し。お前も嫉妬心から殺されかけながら。我が穢れた故に起きる世界の災いを案じ。御子殺しの罪の余波を受ける妻と子供を守ろうとし。お前は何かを案じてばかり。我を清める繭となれば、その繭が破られた時に待ち受けるのは楽ではない死と知りながら。お前は数拍もためらわずそうなった」
水神の御子の消息はわからない。だが御子は水神を支配しようとして失敗した。それは砂漠ではとても有名な罪の話だ。
「兄貴は御子の弟?」
他にありえない。兄貴が、心底大嫌いだと口にし続けた実兄。それが、神の怒りを招いた御子ならば、納得できる嫌われ方だ。
色々なものがめちゃくちゃだ。整理する時間が欲しい。
でも、それと、兄貴の対話は続く。
「お前は我の繭になったがゆえの力を私欲に使わなかった。お前の頑強極まりない肉体はそれゆえよ。濁った力の使い方は力そのものを濁らせる。だがお前はそうしなかった。濁らぬ力は体に並ではない強さを与える。お前が死なぬはそれゆえよ」
「俺は欲深く生き続けましたよ」
「それはお前の視点での話だ。我が繭よ。これまで大義であった。お前の妻がお前を忘れぬはお前と契ったそれゆえよ。お前は我の前で妻に誓った。我らの前での契を甘く見る事など、お前もなかったであろうがな」
「神様の前で契約はいつでも恐ろしいというわけですか」
兄貴が愉快そうに笑う。顔色はとても悪いのに、それを見上げる視線はきらきらして楽しそうで、それを見る普通の人の目じゃない。
そこで、私は、兄貴のあの特徴的な銀の目が、見慣れた……私と同じ茶色の瞳になっている事にも気がついた。
あの銀の目すら、あの存在が宿っていた印だったというのか。繭という役割のための。
「リアスの神様?」
美人さんが、かすれた声で言う。美人さんの中で、点と点がつながったような調子だった。
「繭よ。お前の背負う罪はもうない。お前の贖罪は終わった」
それが言い、そして。
大聖堂を壊す事なくすり抜けて、空に上っていった。
固まっていた空気が動き出す。
「兄貴!」
そこでやっと兄貴に私は触れられた。兄貴の体は冷え切っている。どうしたらいいんだろう。
あれの何かだったなら、普通の方法では兄貴を救えない。
兄貴に死なれたくない。どうしたら。
「やれやれ、水の神は本当に綺羅星を愛していらっしゃる」
混乱する私や美人さんだったが、そこで。
あの老爺が近付いてきたのだ。
老爺は座り込んでいる兄貴を見下ろして言う。
「この場にわしを導いたのも、また、水の神のお考えでいらっしゃるのじゃろうな。おじょうさん、花嫁さん、少しばかり綺羅星に触れるぞ」
「何すんだジジイ」
「荒野の御方は綺羅星が救ったものどもを覚えておいでだ。だからほんの爪先程度の救いを与える事をお認めくださる」
「荒野のに何かしたか俺様……」
「覚えておらんでいい」
「じゃあ思い出さねえわ」
兄貴は真っ青な顔で、でもいつもの調子だった。その調子で、老爺が兄貴の額に触れて何事か唱えると、兄貴にまとわりついていた死の気配に似たものが遠ざかったような気がした。
「リアス、ああ、リアス。嘘だったらどんなにいいかと思っていたの。あなたがお兄さんを刺して暴れて、船が沈んだなんて嘘だって」
美人さんが兄貴にすがって震えながら言う。きれいな純白の花嫁衣装はすでに血みどろだ。兄貴の血で。
美人さんと兄貴の間に擦った揉んだがあったのは分かった。でも私は兄貴を問い詰めたい事があった。
「兄貴、私の事を娘って。……どういう事? 兄貴は兄貴分じゃなかったの?」
「おー。俺の神様がもう喋っていいってお許しくださってるから大丈夫か」
兄貴が美人さんの背中に片手を回しながら言う。
「アイーダ。お前はなあ」
俺が嫁さんと嫁さんの腹の中の子供を守るために、対価として俺というものを忘れられる前に作った、俺の実の娘なんだわ。
「はあ? 兄貴、私が生まれた時九歳くらいだったって」
「支払った対価がでかかったんだよ。生きてた年数も結構取られちまったんだ。結構生きるの大変だったぜ、誰も何も俺の事覚えてねえし知らねえし。培ったものはなんにもなし! まさに対価だな」
私は想定していない事が多すぎて目眩がしそうになっていた。
でも。
「だから、兄貴、砂漠の神殿で私の事家族だって探してもらえたんだ」
長年の疑問が解けたのも事実だった。ずっと不思議だったのだ。肉親しか探せない砂漠の術師が、どうして、血の繋がりがないはずの妹分である私を、兄貴が探したいと駄々をこねたからと言って探し出せたのか。
本当に血の繋がりがあったから、探し出せたんだと思うと腑に落ちる。
「で。そっちの美人さんとの関係は」
「お前自分の母ちゃんの面覚えてねえのかよ」
「は? はあ!? まってこんな光り輝くえれー美人さん私のお母さん!? 兄貴どうやってたらしこんだの!?」
てっきり火遊びでもしたのかと思ったら、とんでもない爆弾が投じられて、私は思いっきり叫んだのであった。
そんなごちゃごちゃな時。
「……認めない」
どろりと濁った声が響いた。それから哄笑が。
「私の皇女様が、そんな野蛮な男の妻だったなどありえない! そんな無作法な醜い娘を産んだわけがない! そうだ、そうだ、そうだ! 皇女様は洗脳されていらっしゃるのだ!! 兵士達よ、その不審者どもを捕らえよ! 抵抗したら殺してしまえ! 不届き者だ!!」
そんな風に狂ったように笑っていたのは、花婿衣装の男で、私の背中を切った男だ。
男は戸惑う兵士達に執拗に命令をしている。でも兵士達は、今見ていたものの結果、私にも、まして兄貴にも手が出せない。
私はともかく、兄貴はあのとんでもない存在と会話して認められていたのだ。そんな相手を傷つけられないのだろう。
「公爵よ。いささか混乱しておるようだ。兵士、公爵を別室に」
「はい!」
「私は正常だ! 真っ当だ! 皇女様をお救いするのは私だ!」
花婿が兵士達に両腕を取られて引きずられていく。命じたのは王様だ。
王様はまた私達に近付いて、静かにこういった。
「治療するための部屋を用意させていただきたい。あなたが何者であろうとも。我が国のもっとも憂うものを解決してくださったのは事実なのですから。それに、家族での会話もありましょう」
「えー、面倒くせえなあ。そういうのなくていいわ」
兄貴がそう言って立ち上がろうとして……思いっきり体勢を崩した。
「あれ?」
「あれだけ血を吐いたのだから簡単に立てるか馬鹿者」
老爺が呆れ果てたという調子で言い切り、美人さん……私のお母さんを見て言う。
「この綺羅星をしっかり見張ってほしいぞ。どうも花嫁さんの涙にはとびきり弱いようだ」
「はい。しっかり、王家の威信をかけて治療させてもらいます」
こうして、何がなんだかわからないあれこれの末に、私も兄貴……お父さんも、王宮で看病される事になったのだった。




