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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
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兄弟

 高吉の行く先には北近江の田畑があった。

田植えを終えた小さく瑞々しい稲の葉が風に棚引いていた。

 高吉の行く先には北近江の村々があった。

村人の行き交う街道沿いには朝に琵琶湖で取れた魚が並び、活気溢れる商人が北陸道からの名品を声高らかに売りさばいていた。

 高吉の行く先には北近江の山々があった。

手前に見える小高い丘のような雲雀山。

その奥には遂に天下の堅城と謳われた小谷城の姿が見えた。


「これが儂が二十五年欲していたものか。」

 しかし高吉はそんな北近江の風景に郷景に溜息を一つ吐いた。

確かに村では村人が仕事に勤しみ、行き交う商人の声は熱気に溢れていた。

山の頂までに築かれた小谷城は確かに天下の名城に違いなかった。

しかし、それでも北近江の田も村も山城も南近江のものに敵うものではなかった。

 何故、儂はこんな場所におるのであろう。

思い出せば確かに北近江の山々には見覚えはある。

この往く道にも、その先に待ち構える小谷城にも。

しかし、夢に願っていたのは、北近江守護となって軍勢を率いてそれに相応しい威容を持って小谷城へ入ること。

それがまさかこの身一つで落ち延びるかのように北近江へ来ることになるとは。


 おもわず手綱を引いて逃げ出したくなる気持ちを知っているかのように、先を行く天真和尚は馬の歩を迷い子の手を引くように高吉を小谷城の城門へと誘った。




 城門で守りの兵と押し問答をして小谷城の城道を往く。

山上に築かれた本丸、京極丸に続く城道は寄せ手を阻む難道で、道は狭く山の尾根を右に左に曲がりくねりながら急な斜面が続いていた。

「まことにこのような場所に兄上が住んでおるのか。」

 高吉が息も切れ切れに天真和尚に問うのも無理はなかった。

城は敵が攻めてきた時に立て籠もる場所で、決して人が住むような場所ではない。

それはこの小谷城でも同じく、城主の浅井や家臣達は皆この小谷城の麓の清水谷に屋敷を構えていた。

それを兄上だけがこの山上に屋敷を構えて……幽閉されていた。


 何度かの休息を挟んで琵琶湖を眺め見下ろすほどに山を登ったその先に堅固な曲輪に囲まれた本丸と、その先にはいよいよ兄上がいる京極丸があった。

  

 これが北近江の主の屋敷なのか。

北近江での京極家の有様は南近江にまで聞こえておった。

多くの領地を失い碌に兵も揃えられぬ京極家。

家臣に実権を奪われただの傀儡となった京極家。

小谷城の山上に捕らわれて幽閉のみとなった京極高広。

 人の噂に伝え聞き想像こそしてみてもその現実を目の当たりにすれば、京極家の零落はいよいよ明らかだった。

そして儂もこの身一つで南近江から逃げ出してきた。

京極家の命運は……定まったか。

京極屋敷の軒先で、高吉の足はいよいよ重く、終には一歩も前には進めなくなった。

 いや、まだ儂には多賀の領地があるではないか。

奥歯を噛みしめ一歩を踏み出せば天真和尚もその後に続いて京極屋敷の中へと入っていった。


「お退きなさい。この国の主は浅井殿か京極様か、知らぬ訳ではありますまい。」

 城門で城道で言い続けていた天真和尚が最後の活を上げると屋敷の世話をしていた下働き衆は狼狽しながら奥へ駆け出し、二人を高広の元へと誘った。

 山上にあるとはいえ京極屋敷は守護大名が住むというには余りに貧相な館だった。

観音寺城の屋敷であれば禄の少ない低位の家臣の屋敷といったところか。

屋敷の戸を潜り土間の先にある板の間。

その土間を一角に座敷が二つ。あとは厨所と風呂は厠があるばかり。

その土間の先の座敷に兄上がいるという。


 土間から板の間に腰を下ろし草履を解く手が震える。

今更何を言うつもりか。

今更会って何がどうなるというのか。

板の間を横切り襖の引き手に手をやっても、手は震えるばかりで一向に力が入らない。おもわず額の汗を拭ったその時に、ここまで高吉を導いてきた天真和尚が何食わぬ顔で高吉の横から弾き手に手を伸ばし、「高広様、高吉様でございます。」と襖を開けた。



 兄上は布団に横になっておった。

張りもなく艶もなく、まるで枯れ木のような細い腕に力を込めると、漸くに身体を起こしジッと儂を見ておった。

 これが兄上……。

いや、間違いあるまい。確かに年老いた父上によう似ておる。


 しかしそれ以上、言葉は湧いて来んかった。

いつかその首を討ち取らんと思い続けておった相手。

京極家をここまで凋落させた大罪人。

三十余年の間に思い積もったことは山とあるのに、今この時、その言葉は一つも湧いて来んかった。



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