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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
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姉弟

 柔らかな阿久の母の指が猿夜叉の髪を梳いだ。

その指が猿夜叉の髪に触れる度に猿夜叉は母の事を思い浮かべて咽び泣た。

そうしてどれほどの時間が流れたのだろう。

ようやく涙の引いた猿夜叉からそっと手を離した阿久の母は「では、長旅の汚れを落としましょう」と猿夜叉の衣の帯を解きほどいた。


 長い間、下働きとして暮らしてきた猿夜叉の衣。

着替えなど(ろく)になく、汚れにまかしたままの七分袖は袖も裾もボロボロに擦り切れて、元の模様など殆ど分からない有り様だった。

そんな悪臭すら放つ着物を阿久の母は嫌な顔一つせず丁寧に折り畳むと、「さあ、こちらです。」と猿夜叉を湯屋の奥へと誘った。


 湯屋の奥には幼い猿夜叉でさえ頭を下げて潜らなければ通られないような背の低い潜り戸があった。

阿久の母が一足先にその先に身を屈めて入っていくと、そのしゃがんだままの格好で「こちらへ」と手を差し出した。

その手を取って潜り戸を潜り抜けるとその先には踏み段があって、「暗いので足元にお気を付け下さい。」と阿久の母は猿夜叉と共にその上へと踏み上がった。


 これが湯屋。

上がった踏み台の上はムッと熱気に包まれていた。

湯気を逃がさないように作られた湯屋には窓すらなくて、板張りの合間から僅かに差し込む日の光が薄暗く中を照らし出していた。

 その薄暗い湯屋にようやく目が慣れてきた頃、「お湯加減は如何でしょうか?」と板張りの壁の向こうから阿久の声が聞こえてきた。

そこにあったのは(もう)(もう)と湯気が立ち上る大釜。

どうやら外からその大釜に火を()べている阿久に阿久の母は「丁度良い加減ですよ。」と答えると「それでは火を止めて私は昼餉の支度に戻りますわね。」と阿久の声が遠のいた。

 火を止められてもなお、大釜からは濛々と湯気が立ち上り、猿夜叉の肌にはみるみる大粒の汗が噴き出した。

「では、垢を落としましょう。」

 阿久の母は用意していた水桶から手拭いを搾り取ると優しく猿夜叉の背に当てた。

「まずは、猿夜叉様。よくぞ無事でお戻りなされました。

小野の方様の事は私も心配しておりますが、けれども例え猿夜叉様だけでもお戻りになった事は嬉しゅうございます。

ここは猿夜叉様の故郷でございます。

ここが猿夜叉様の故郷でございます。

ですから、猿夜叉様。ご(ゆる)りと心ご安んじ下さいませ。」

 生まれて間もなくから下働き衆としてこき使われてきた猿夜叉の背の垢を、阿久の母はまるで我が子の身体を洗い清めるかのように優しく丁寧に何度も拭き上げた。

背から足、腰、腹、そして手拭いを換えて細やかに顔を拭き終わった頃、

「お亀様はここか?猿夜叉はどこじゃ?」と元気溢れる声がして、トトトトと軽い足音が湯屋の中に鳴り響いた。


「まぁ、お鞠様。満寿はこちらですよ。」

 満寿と名乗った阿久の母は、見る間でもなくその声が誰の声かと悟り、お鞠を湯屋の中に招き入れると、中に入ってきたのは年の頃十歳程の女の子だった。

()(ちら)が猿夜叉か?

暗ぅてあまり顔が見えないのぅ。

わらわは鞠。え〜っと、其方の……姉じゃ。」

 お鞠は満寿と猿夜叉の間に割って入ると、拭き終わった猿夜叉の顔をシゲシゲと眺めてから深く溜め息を一つ付いた。

「それにしても……。

あのようなボロ着を着てるとは、六角は猿夜叉を下人のように扱っておるって噂は真のようじゃ。

阿久姉様から着物を持ってくるようにと聞いたときは、何の事かと(いぶか)しく思ぅたが合点がいったわ。

良いか猿夜叉。其方は我が浅井家の嫡男なのじゃ。

あのようなボロ着を着るなんて(もつ)ての外じゃ。」

 会った早々に捲くし立てるお鞠になんと答えて良いかも分からずに、猿夜叉はただボソリと「ご免なさい」と呟くと、お鞠は慌てて首を横に振た。

「そうではない。其方が悪いのではない。

悪いのは全部……、そう、お浜じゃ。

父上の覚えが良い事を良い事に……、母上だけでは飽き足らずお亀様まで追い出して、例え父上を(だま)せてもわらわまでは欺せぬのだからな。」

 一体誰に怒っているのか。

お鞠はプクーと頬を膨らませて猿夜叉のガシリと掴み握ると、まるで猿夜叉が悪戯でもしたかの如くその肩を揺さぶった。

「これこれ、お鞠様。

ご挨拶もせずに欠礼でごさいますよ。」

 そう(たしな)める満寿の声にようやくお鞠は「あっそうか。」と猿夜叉から手を離した。

「わらわはお鞠。其方の姉じゃ。

それから……え〜っと」

 何しろ生まれてこのかた会った事のない弟との出会いに「初めまして」と言うべきか「お初にお目にかかります。」と改まるべきか、それとも「お帰り」と言うべきか、いや年上とは言え相手は嫡男。ここは畏まって「お帰りなさいませ」と言うべきか。と開けた口をモゴモゴさせて言い澱んでいるうちに、「それでは私からご紹介致しましょう。」と満寿が助け船を出した。


「猿夜叉様には他に四人のご(きよう)(だい)がいらっしゃいます。

一番上はお吹様。

お吹様は本当は久政様の妹君なのですが、美濃国の斎藤家への輿入れの時に斎藤様からお父上のお子として迎え入れたいと請われて、縁組みをしてお父上の子として斉藤義龍様の元に嫁がれております。

ですから猿夜叉様の一番上の姉、となります。

二人目の姉が阿久。

私の娘でごさいます。

私はかつてお屋敷で下働きをしておりましたが、その折りに久政様に見初められて子を宿し側室となりました。

今はもう屋敷を離れておりますが、阿久が幼い時には私も阿久も屋敷で暮らしておりましたのよ。

その次がお鞠様。

お鞠様は猿夜叉様と同じ小野の方がお産みになったお子。

小野の方は久政様が迎い入れられた正室でございますから、お鞠様と猿夜叉様は同腹の姉弟であり、浅井家の嫡流でございます。

そして最後に猿夜叉様の二つ年下の弟、五福丸様。

五福丸様はお浜様がお産みになった子ですの。

お浜様というのは、小野の方が南近江へ人質に出された後に側室に迎えられた方でございます。」

「姉様……弟……。」

 そう説明されてもトンと実感の湧かない猿夜叉は口の中で小さくそう呟くと、満寿は「心配はいりません。猿夜叉様は浅井家の嫡男でございますから。」と、力強く猿夜叉の背を押した。


 湯屋を出て脱衣所に用意されていたのは絢爛豪華な大名衣装だった。

猿夜叉は真っ新の(ふんどし)を巻き、柔らかな絹の小袖に袖を通し、鮮やかに藍染めされた

袴を穿くと、上から羽織られた肩衣は透き通る青空のような水色で両肩には大きく浅井家の家紋の三盛亀甲の紋様が抜き染めされていた。

「どう?やっぱり良く似合うでしょ?」

 猿夜叉の着替えを手伝い、得意げに腰に手を当てて満面の笑みを浮かべるお鞠とは対称に、満寿は顎に細い人差し指を添え「これは……どこからお持ちになったのですか?」とお鞠に尋ねた。

「五福丸の一番良いのを持ってきたのよ。」

「それは……宜しくありませんわね。」

 思量深く呟いた満寿の声に「どうしてよ。そもそもこれは浅井家の嫡男が着るべき服でしょ」と不服を言うと、満寿は小さく首を振った。

「いいえ、例えそうであっても相手はお浜様。

勝手に五福丸様の服を着ていれば、盗人呼ばわりされかねませぬ。」

「でも、みすぼらしい格好をしてたらそれこそお浜に何と言われるか分かったものじゃないじゃない。」

 声を荒げて言い返すお鞠に満寿は「ええ」と小さく頷くと、しばらくの思案の後に「猿夜叉様がお戻りになった事は城内に広がっていますか?」と尋ねた。

「それは……」と小さな手を額に当てて思案したお鞠は「たぶん……」と口を開いた。

「たぶん今は京極高吉様がお戻りになられた事で城内は大騒動になってると思うわ。

猿夜叉のことは阿久姉様からの使いがなければ私も知らなかったし、私は誰にも言ってない。」

「ならばまずは城内の赤尾様のお屋敷に参りましょう。

赤尾様なら着物も快く貸してくださいましょう。

それに……城内には目立たない格好で入る方が良いかも知れませぬ。」


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