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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
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約束は反故となった

 六角勢は将軍足利義藤を引き連れて京へ向かった。

今は京の外れの東山で、京を占拠している細川家の軍勢と睨み合いを続けているが、じきに細川勢を打ち破り、将軍を京へとお連れする。

そして、天下は六角家の手中に収まる。

誰もがそう思って疑わなかった。


 だからこそ、突然の浅井勢の攻勢に観音寺城は大混乱の渦の中にあった。

将軍と共に上洛をしている六角家に手向かうと言うことは、将軍に手向かうということ。

いかに今、南近江には軍勢が少なく手薄だと言っても、それは一時のこと、京へ向かった六千人の兵が立ち戻れば浅井の兵などものの数ではない。

それが、大方の予想を裏切って、浅井は南近江国に攻め入ってきたのだ。


 油断としか言いようがなかった。

まさか上洛の最中に南近江に攻め入るはずがない。と高を括っていた六角勢は、ロクな抵抗もできずに国境の葛籠の城、高宮の城と次々と攻め落とされた。

残る国境の城は琵琶湖の畔にある天神山城のみ。

この城は北の守りのかなめの城。

天神山に築かれたその城は山の地形を活かした造りで、他の城より堅城堅固に築かれている。

だからこそ、ここを落とされれば取り返すのは容易ではない。

辺り一帯は、完全に浅井勢に掌握されてしまうだろう。

六角屋敷で軍議を終えた重臣たちは、血相を変えて本領地へと駆け戻り、

または足軽長屋で兵を揃え、武具を備えて、天神山城救援の準備に駆け回っていた。


「急げ!!天神山の城が落とされれば、ここも危ういぞ!!」

 窮地に追い込まれたのは何も六角家の家臣や足軽たちばかりではなかった。

もし、観音寺城まで浅井勢がくれば、焼き討ちに遭い石寺の街は火の海になる。

石寺の市で店を開いていた商人、付近で暮らす民、百姓は家財や米、食料をまとめて、我先に観音寺城の中に逃げ込んでいた。




「ほぅほぅほぅ。愉快じゃ愉快。

あの六角家がこのように慌てふためいて、右へ左へ大騒ぎ。

定頼がどのような顔をしとるのか、拝めんのが残念じゃ。」

 人々が怒号と悲鳴を上げて詰めかける。そんな大混乱の大手道を見て、京極髙吉は一人、高笑いを上げた。

このような大騒動ももう髙吉には関係がないのだ。


 京極髙吉がこの南近江に身を寄せたのはもう三十年も前のこと。

兄の高延と京極家の家督を巡って争い、戦に敗れた髙吉は尾張国の斯波家の下に身を寄せた。

その時に「力を貸す」と話を持ちかけてきたのが南近江国の六角定頼だった。

北近江国の守護京極家と南近江国の守護六角家は、元は同じ佐々木源氏の一門でありながら、お互いが自分こそが佐々木源氏の総当主であると譲り合わず、代々仇敵の間柄だった。

そんな六角家からの申し出に、髙吉は「どうせ此方を北近江への侵攻の口実に利用するだけであろう。」と察したが、それでも兄高延に奪われた京極家当主の座を、南近江国を取り戻すため六角定頼と手を結んだのだった。


 それから三十年の時を経て、ようやく髙吉が北近江国守護となる機会が訪れた。

今や将軍を保護し、天下第一の大大名になった六角家が、将軍足利義藤を擁して上洛することになったのだ。

髙吉はこの機会をずっと待ち望んでいた。

この日のために髙吉は前の将軍義晴の下に足蹴に通い、北近江国守護の任命を懇願していたのだ。

全ては順調に思えた。

幾度も幾度も義晴の下に通い詰め、酒を飲み交わしている内に義晴も髙吉の境遇に胸を痛め、遂には「上洛の軍に参陣して手柄を立てればその褒美に北近江国守護に任じよう」と約束を交わしたのだ。


 ところが、その約束は反故となった。

髙吉の計画に気づいた高延が、髙吉の領地へ兵を出したのだ。

表向きは北近江国の内紛。

しかしこれは誰が見ても、六角家の上洛を阻止しようとする高延の企みだった。

「北近江国を放っておくわけにはいかん。

しかし、上洛を取りやめるわけにもいかん。」

 思案に暮れた定頼が思いついたのは、誰も考えつかないような奇手だった。

北近江国と南近江国を一つにして、近江国として、その守護に六角家が就任する。

いかに京極家であろうと守護家に逆らえば逆賊。

こうなれば六角家に逆らうことはできなくなる。

六角定頼は上洛の見返りに、北近江国と南近江国の戦を終わらすためにと北近江国、南近江国の廃止と近江国の設置、そして自身の近江国守護就任を認めさせたのだ。

こうして髙吉が北近江国守護になるどころか、北近江国そのものがなくなった。




 結局、此方はここで何をしておるのであろうな。

今まで三十年間。北近江国守護になる。ただそれだけを考えて生きてきた。

しかしそれが定頼の鶴の一声で何もかもが消えてしまった。

もう何もかもどうでもいいではないか。

そう思えば、屋敷の前の大手道を必死の形相で逃げ惑う者共の声を聞いても、何も感じることはなかった。

徳利を片手に縁側に座り込み手酌で酒を飲む。

塀の向こうで揺れ惑う松明の灯りは川辺を舞う蛍のようにさえ見える。

もう良いであろう。此方はようやった。

一時とはいえ兄を小谷城まで追いやり、北近江国の掌握まであと一歩のところまで追い詰めたこともある。

浅井亮政が死に家中の混乱を押さえきれぬ久政が正室の小野の方を人質に出したとき、その小野の方が猿夜叉を生んだとき、今度こそ北近江は此方のものになると思ったこともあった。

そうじゃな、ようやった。


 髙吉は手酌で酒を注ぐと、戦火の紅に染まる北の空を眺めながら一気に飲み干した。

来るなら来るが良い。此方はもう逃げも隠れもせぬ。

その時には一人二人でも道連れにして果ててみせる。

刃を抜き、戦の中で死ぬのなら、この戦い続けた三十年の最期に相応しい。

覚悟を決めた髙吉は震えの止まらない手で酒を注ぐと二杯三杯と煽り飲んだ。


「さて、来るにしてももう暫くは掛かるかの。」

 すっかり出来上がった髙吉に恐怖はなくなった。

空になった徳利の縁に残った酒を舐め飲むと、「もう一杯」とヨイセと腰を持ち上げた。


 屋敷には誰も居なかった。

下働き衆は戦の準備にかり出され、女衆はみな城内へと避難した。

自棄やけになり、惚悦に浸る髙吉と最期を共にしようとする者など誰一人居なかったのだ。

「酒に酔えば、斬られても痛くないかの。」

 ホゥホゥと声を上げながら、髙吉はおかわりの酒を求めて真っ暗な屋敷の中に消えていった。

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