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夢流れ  作者: 大和 政
第一章 猿夜叉伝
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自信の芽

 公方様が上洛のため観音寺城を出て二ヶ月ぐらいが経った。

足軽長屋にいた大人たちの多くは公方様と共に京へ行って、屋敷でもお屋形様や定武様、その他の屋敷方衆が京へ行って、観音寺城下からは人気ひとけが無くなっていた。

 そのうえ遠く京から聞こえてくる噂話に良い噂は少なくて、「三好軍が京に陣を敷いた」とか「公方様は東山のお城に入って入京の機会を窺っている」とか「小競り合いばかりが続いて睨み合いが続いている」とか。

難しい話は分からない事も多かったけど、どうも公方様は苦戦をしている。そんな噂話ばかりが観音寺城に広がっていた。


 そんな陰気な空気が漂う街中を、猿夜叉は駆け抜けていった。

タッタッタッと軽い足取りにハッハッという小気味の良い息遣い。

猿夜叉の小さな体は春の風のように心地よくどこまでも走り続けられそうだった。

その猿夜叉の後に続くのは亀松丸たち。

バタバタと足を鳴らしてゼーハと息を乱して、「待て、待て、猿夜叉」と息も絶え絶えに猿夜叉を追いかけていた。


 もう怖くない。

今まであれほど恐れおののいていた亀松丸たちが、今はもう怖くはなかった。

猿夜叉は人通りの少なくなった石寺の市を駆け抜けて、のんびりと牛を追う百姓を追い越して中山道に出た。

 このまま沙々貴のお社までいこう。

もう猿夜叉を追いかける者は誰もいなかった。

猿夜叉のはるか後ろには豆粒ほどに小さくなった亀松丸たちが息を切らして立ち尽くして、遠く駆けだしていく猿夜叉を見送っていた。


 いつか公方様が帰ってきたときには、もう前のように負ぶわれることのないように、公方様の修練の邪魔にならぬように、そしていつか立ち稽古の相手が務まるように。

猿夜叉は義藤に負ぶわれて屋敷に帰った日から、暇を見つけては修練を重ねていた。




 あの日、沙々貴のお社までの道中で根を上げていた猿夜叉は、いつしか沙々貴のお社まで走りきるようになり、やがて折り返して屋敷にまで走って帰れるようにまでなった。

 そして訪れた上洛の日の前日。

いつものように朝早くから修練と義藤に連れられて沙々貴のお社まで遠駆けすると、「よう精を出した褒美じゃ。」と義藤からよく使い込まれた一振りの木刀を手渡された。

「これは余が初めて剣の稽古を始めた頃に使っておった木刀じゃ。

今では手にすることもないが、捨てるには名残惜しくて残しておった。

どうじゃ、余の初弟子に手渡すならば本懐じゃ。

遠慮せずに使え。」

 そういって手渡された木刀はズッシリと重く、正眼に構えようとしても、気を抜けばたちまち腕が下がってしまう。

「どうじゃ、程良い重さであろう。

真剣となればそれよりも重い。

そうじゃな、ひとまずはその木刀で百…いや二百、素振りをせい。

それができればいよいよ立ち会い、立ち稽古じゃな。」

 いつもながら勝手に話を進める義藤に、猿夜叉は明快に「はい」と答えた。

その返事が義藤の琴線に触れたのか、義藤は膝を折り猿夜叉に目線を合わせると「そうじゃな。」と言葉を続けた。

「もし、其方が余から一本取れたのなら褒美をやろう。

其方を余の家来にしてやる。どうじゃ。」

 額がくっつく程に顔と顔を寄せ合って、義藤の鷹のような目線が猿夜叉を貫いていた。

これは褒美などではない。

そう直感して猿夜叉がゴクリと喉を鳴らすと義藤が「そうじゃ。」と頷いた。

「これは余の下知じゃ。

もし其方が余から一本取れるほどの男に育ったのなら、余の家臣に取り立ててやる。

今、余の家臣には兵がおらん。皆、くらいはあっても名ばかりじゃ。

故に兵を持つ者に逆らえん。

しかし、其方は浅井の嫡男。

後々には家を継ぎ浅井家の当主となろう。

浅井家には領地があり兵がおる。

例え僅かであって、余は必ずやそれを足掛かりにして再び天下を足利家の下に取り戻す。

浅井猿夜叉。其方は余に仕え、余の刃となれ。

もう二度と六角家の人間になりたいなどと申すな。

これは余の・・・、願いだ。」


 願いと言う言葉を聞いて猿夜叉は慌てふためて額を地面に擦り付けた。

幼い猿夜叉でも分かる。

公方様は「願い」などという言葉を使う人間ではない。

一言、「下知じゃ。」と命令すればよいのだ。

それをあえて「願い」と言ったのだ。

猿夜叉はどう返事して良いのかも分からずに、ただただ地面に額を擦り付けていると、脂汗で塗れた背中を義藤が擦った。

「良いのだ。猿夜叉よ。

何の実権も持たず、名前ばかりの将軍が、僅か五つの稚児に下命しておるのだ。

このようなもの、ただの稚児の契り。笑いの種じゃ。

故にそれほどまでに畏まらんでも良い。」

 稚児の契りと言われて肩の重荷が下りたのか、猿夜叉がホッとして顔を上げれば、その隙を逃さず義藤は猿夜叉の肩を掴んで逃さぬと再び猿夜叉の顔を睨みつけた。

「とはいえ、余は本気じゃ。

かつて、源頼朝公は僅か50騎で伊豆を出て、遂には天下を治めたという。

余も頼朝公も同じ征夷大将軍。

余には乱世を治めた頼朝公、太祖尊氏公の血が流れておるのだ。

兵さえあれば必ずこの乱世を治めてみせる。

猿夜叉、其方はこの義藤の手足となり刃となれ。」


 言って義藤の腹の底から笑いが込み上げてきた。

これほど胸が通ったのはいつ以来の事か。

六角家の傀儡かいらいとなり、名ばかりの将軍として利用され続け、その間ずっと胸の内に秘めていた野望。

誰が聞いても笑い飛ばすであろう妄言を、目の前の稚児は一言一句聞き逃すまいと背を伸ばして聞いている。

なるほど、声に出せばどれ程に馬鹿馬鹿しい夢物語か。

しかし、目を逸らさずに真っ直ぐに余を見つめ、余の言葉を受け止めているこの猿夜叉を見ていると、その夢物語が本当になる。そんな気がしてならなかった。



 その日から猿夜叉は暇を見ては沙々貴の社まで走り、そこの片隅で木刀を振るうようになったいた。

沙々貴のお社まで休みなしに走り抜けて、重い木刀を五十、百と素振りを続ける。

その内に猿夜叉には徐々に自負や自信の芽が芽生え始めていた。

猿狩りと亀松丸たちに追い立てられても捕まることが少なくなり、捕まって打たれても、いつか公方様と木刀で立ち会いをする事を考えればただの平手打ちなど歯を食いしばり、悲鳴一つ漏らさずに我慢することもなんということもなかった。


 百九十二。百九十三。百九十四。

重い木刀に腕の筋肉は張り、フラフラと不格好に木刀を振り上げて、崩れるように振り下ろす。

とても剣の修練とはいえない様子だったが、それでも猿夜叉は二百を数えるまで木刀を離さなかった。

最初の頃、まともに木刀を振れたのは三十にも満たなかった。百を越えた頃には腕が張り木刀を持ち上げることもできなかった。

それが今では百を越えるまで木刀を振り、不格好ながらも二百を数え終わるまで木刀を離すことはなくなった。


 あと五つ。

猿夜叉には何故かは分からないが、この苦しいはずの修練が楽しくて仕方がなかった。

それは長い人質生活の中で、いつ終わるとも分からずにただただ虐げられ続けていた猿夜叉が、初めて日々を生きる目標を得た喜びだった。

 百九十八。百九十九。二百。

猿夜叉は額に溢れ出た玉のような汗をグイと拭って、木刀を大切な宝物のように抱くと、満面の笑顔でペタリと地面に座り込んだ。

 もう少し。二百まで素振りができたら公方様と立ち稽古ができる。

幼い猿夜叉にはその日が待ち遠しくては仕方がなかった。


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