上洛の日が来た
上洛の日が来た。
その日は夜明け前から家臣衆、屋敷方衆、下働き衆が総出で屋敷を出入りして、屋敷の中はまるで昼間のように活気付いていた。
鎧甲に身を包んで今や遅しと出立の刻限を待つ家臣衆。
仕事残しはないか最後の確認に走り回る屋敷方衆。
そして猿夜叉や藤吉郎たち下働き衆もまた慌ただしい朝を迎えていた。
陣幕、陣柱、杭柱、槍に刀に弓に矢の束。
下働き衆たちは荷物を抱えて、城の倉庫と荷馬隊の間を幾度と無く往復して合戦の支度を整えると、その蟻の行列のような下働き衆の合間を下働き頭の佐平が怒声を上げて走り回っていた。
「よし、荷物を運び終わった者は、朝餉の用意じゃ。
もうすぐ定頼様と公方様が起きなさるからな。
すぐに朝餉となるように支度せい。
それから誰でも良い、誰か手の空いた者は騎馬の用意をせい。」
重い荷物を運び終わってようやく一息ついた下働き衆に佐平は矢継ぎ早に指示を出していた。
「よし猿夜叉、儂等は馬屋に行くぞ。」
大人に混じって荷物を抱えていた猿夜叉と藤吉郎。
二人はほんの一時の休憩に息を整えて、肩を叩いて走り出した。
馬屋には荒々しい馬の嘶きが鳴り上がっていた。
馬とはいえ生き物である。
寝惚けもするし寝起きが悪い時もある。
まして今日は夜が明ける前に起こされたのだ。
機嫌が悪い馬たちを宥めて毛繕いをして、飼い葉を与え、馬具を付けるだけでも大仕事だった。
「いかん、猿夜叉。
後ろからは近付くな。馬に蹴り飛ばされるぞ。
今日は馬も気が立っておる。
そうじゃ、ゆっくりと前から近づくんじゃ。」
そう言う藤吉郎の声にコクリと頷いて猿夜叉は、前も見えない程に沢山の飼い葉を抱えて馬屋の中にゆっくりと入っていった。
今朝の馬屋にはいつも以上に馬がいた。
馬屋の主である定頼の馬や六角家の馬の他、義藤や義晴の馬、それに加えて今朝は上洛の為に集結した家臣衆の馬も馬屋に預けられていたのだ。
猿夜叉はその馬たち一頭一頭に飼い葉を与え、毛繕いをし、全てに馬具をつけ終わる頃には、義藤や義賢の側仕えが騎馬に仕立て上げられた馬を引きに馬屋へ集まり始めた。
「いよいよじゃな。」
側仕え達が次々に馬屋から騎馬を連れ出していく。
そうして空っぽになった馬屋を見渡して猿夜叉と藤吉郎は、ようやく忙しかった上洛の支度から解放されて大きく身体を伸ばした。
屋敷の方でも支度が済んだのか下働き衆達がバラバラと出てくるとその中から一人、猿夜叉と同い年くらいの少女が駆けだして来た。
「おお、お久殿。そっちの支度も済みましたかな?」
「うん。もうお屋形様にも朝餉をお出ししたよ。
父様が、お屋形様と公方様の朝餉が済んだらいよいよ出陣だって。
猿夜叉、父様を見送りに行こ。」
お久は馬屋まで駆け寄った勢いそのままに猿夜叉の手を掴み取ると、そのまま屋敷の門を潜った。
屋敷の外にはもう人盛りが出来ていた。
その人盛りの真ん中にいたのは上洛のために集められたら兵たち。
兵たちは皆、勇ましく飾り付けられた兜を被り鎧に身を包んでいた。
そして、早春の風にはためく色取り取りの旗幟。
その上洛軍の出陣の晴れの舞台を一目見ようと町衆が集まれば、屋敷の前はまるで祭りの日のようだった。
「おや、お久様。
もうじき平井様がおいでなさいますよ。
ささ、前へ。」
人垣を作る町衆が、お久の姿に気が付いてその背を前へと押しやると、お久はにっこりとお礼を言って人垣を割って前へと出た。
そして手を引かれた猿夜叉が遠慮がちにお久の隣に立ち並ぶと、丁度その時、お城の大手門の方からワッという人々の歓声が上がった。
「お屋形様じゃ」「公方様じゃ」
口々に歓声が上がる。
その姿を一目見ようと町衆が前へ前へと詰め寄ると、後ろから詰め寄られたお久が、アッと群衆の中で体勢を崩して転んだ。
しかし周りの人たちは間近に迫った公方様の上洛の行列に夢中で、お久が転んだことにも気付かない。
お久。
慌てて手を差し伸べる猿夜叉。
それでも周りの人たちは足下にいるお久や猿夜叉に構わない。
揉みくしゃにされ、踏みつけられる。
その時。
上洛の行列から鎧甲に身を包んだ厳めしい鎧武者が抜け出して、群衆をかぎ分けてお久を抱き上げた。
「このような晴れの場で転んでは縁起の無い。
お久、怪我はないか。」
聞き慣れた野太い声。
見慣れない甲冑に身を包んだ鎧武者の正体は平井定武だった。
義藤はいよいよ上洛の軍勢を率いて出立する日を迎えた。
先祖伝来の鎧甲に身を包み、手にした太刀は太祖尊氏が愛用したと伝わる藤四郎。
今朝方に猿夜叉と藤吉郎が仕立てた騎馬に、そうとも知らずに跨がれば、側仕えの者が騎馬の手綱を引いて、同じく騎馬に跨がる六角義賢の隣へと並ばせた。
その義賢の騎馬の傍では、六角定頼が何度も上洛の心得を説き聞かせて、騎上の義賢を頷かせていた。
そして定頼は、義藤の姿を見ると頭も下げずにニタリと笑った。
「上様、この度はいよいよのご出陣お目出とうございます。
真であらばこの儂も騎馬を揃えて都までお送り致しますところ、このような場所でお見送りするご無礼お許し願います。」
「おお、定頼殿か。
あの宴の日より体調が優れぬと聞くが大事ないか。」
「大事などございませぬ。
儂ほど歳を取れば十全で有る方が稀にてございますれば、上様のご心配には及びませぬ。
なれどご当主様から養生せいとお命じがあれば、儂のような隠居者など大事にする他ございませぬ。」
などと言われては立場の無い義賢は、口元をへの字に変えて、父親の狂言を止めようと「いやいや」「まぁまぁ」と必死の有り様だった。
そんな義賢をフンと笑い飛ばせばたちまちに定頼の目には蛇のような鈍い光が宿った。
「よいか。半ばは戯れ、じゃが、半ばは真じゃ。
儂は隠居者で当主は其方。
陣中にあっては儂のことなど慮らず、存分に采配を振るえ。
よいか、其方が当主じゃ。
万一、儂の名など持ち出して其方の命に従わぬ者があらば切って捨てい。
では、良い知らせを待っておるぞ。」
定頼の頭痛はあの宴の日から止むことはなかった。
自らの身体の変調に、いよいよ自分が表舞台から身を引く覚悟を決めた定頼は、名実ともに六角家の当主として京へ上り、天下に号令を掛けんとする息子の勇姿を見送った。
「では、参ります。」
義賢の声に定頼が道を開けた。
まっすぐと屋敷の門まで遮る物はなかった。
そしてその道は京の都まで続いているのだろう。
いよいよ義藤を乗せた騎馬が、そして一歩遅れて義賢を乗せた騎馬が嘶きを上げて歩み始めた。
目前の屋敷の門の向こうからは、人々の歓声やそれに混じって笛や太鼓の音までが聞こえてくる。
その門に向かって騎馬が歩みを進めれば、「御出陣!!」と陣太鼓が打ち鳴らされて屋敷の門が開かれた。
その瞬間、「お屋形様じゃ」「公方様じゃ」と寄り集まった人々の歓声がワーッと大きなうねりになって義藤の身体に押し寄せた。
義藤が屋敷の門を潜れば、門の向こうには観衆が人垣を作り上げていた。
その人垣はまるで黒い波のように義藤に押し寄せては側仕えの者に押し返されていた。
「御出立!!御出立!!」側仕えの者が喉が枯れるほどの大声を上げて一行の行く道を切り開けば、その後を六角家の重臣たちが、そして騎馬に乗った足利義藤と六角義賢が押し進んでいった。
そうして誰もが狂乱の中、それでも大した混乱もなくこの出立の列が通り過ぎと信じていた時、
突然、行列の中にいた平井定武が持ち場を離れて人垣の中へ駆けだしていった。
「定武!何事じゃ。」
馬上から聞こえる義賢の声も届かず、定武は人垣の中に飛び込んだ。
定武の目に映っていたのは、人混みに押されて転び、歓喜と狂乱に沸く人混みに揉みくちゃにされそうになっていたお久と猿夜叉の姿だった。
「このような晴れの場で転んでは縁起の無い。
お久、怪我はないか。」
日頃見ることのない戦姿の父親にお久は息もするのを忘れてキョトンと定武の見つめていると、それに気付いた定武がワハハと笑い声を上げた。
「父はのう、今より戦に参る。手柄を立てて来る故にな。大人しく待っておるのだぞ。」
「父様、お気をつけて。」
ようやく気を落ち着けて見送りの言葉を贈ったお久を、定武はゆっくりと地に下ろして、お久と猿夜叉の身を引き寄せて、一声「うぬ」と頷いた。
屋敷表の大手道の人盛りからは期待と感嘆の歓声が鳴り止まないでいた。
その声は門を閉ざし雨戸を閉ざした京極屋敷の寝所にも届き、布団にくるまっていた京極高吉を一層苛立たせた。
「高吉様。公方様の上洛ですぞ。せめてお見送り下さいませ。」
「うるさい。下人が要らぬ気を使うな。」
恐る恐るに進言した下働きを追っ払って、高吉はますます勘気を拗らせた子供のように布団の中に潜り込んでいった。
真であれば儂もあの行列の中、義藤様や義賢と馬を並べて京へと向かっていたはずだった。
それが何故、このような事になっているのか。
それもこれも全てあの定頼めのせいじゃ。
儂が、儂が、どれだけ北近江守護に執念しとるか知っとるくせに。
それを、よりにもよって北近江を廃止するとは何じゃぁ。
儂の、儂の念願を、知って、叩き潰しおって。
上洛の行列は、大手道を下り、閉め切られた京極屋敷の前を通り過た。
そして、街道で待機していた兵六百の中に混じっていった。
ここから京までの道中、その先々で、行列は各地の部隊と合流して、瀬田に着く頃には五千人を越えるという。
その本陣となるべき六角家精鋭の部隊に義藤、義賢が到着すれば、その瞬間に「応!!」と六百人の声が天を突き抜けるほど合わさって、いよいよ上洛の軍勢は京を目指して歩み始めた。




