猿夜叉をむざむざと見殺す訳にも参りませぬ
大広間で軍議が行われていた頃、西條之綱は猿夜叉や小野の方と共に離れの小屋にいた。
粗末な小屋の板張りの上に敷かれた汚れきったペタンコの布団。
その中で猿夜叉は小さく寝息を立てていた。
「西條様。私たちこれからどうなってしまうのでしょう。」
小野の方の白く小さな手が猿夜叉の柔らかな髪を撫でる。
か細い蝋燭の灯が揺れるばかりの小屋からは大広間の様子など分かるはずもないが、それでも小野の方は壁の向こうの大広間へと視線を向けた。
今、大広間で行われている軍議の戦の相手は浅井。
なのだから、浅井の人質として六角屋敷に囚われている猿夜叉と小野の方についても何か話が進んでいるはずである。
しかし、之綱は「どう…かな。」と重々しくも首を捻った。
なにも小野の方に気遣いした訳ではない。
本当に見当が付かないのだ。
人質を処断する。
これは、考え難い。何も得る物がないからだ。
なら、浅井へ送り返すのか。
これも有り得るはずがない。
では、見せしめにすると言っても、もう六角家での猿夜叉と小野の方の扱いは下人のものとかわらなくなっている。
とは言え、このまま何も無いはずもない。
「さて、どんな知らせが来るやら。」
之綱の語る言葉も尽きて蝋燭の灯に揺れる床の木目に目を落とせば、小野の方が再び猿夜叉の額を撫でた。
「真であれば、この子は今頃は小谷の城で何不自由なく暮らしておるはず。
それがこのような扱いを受けて今や明日をも知れぬ命。」
小野の方の指がゆるりと猿夜叉の額から離れると、小野の方は之綱の正面へと向き直り額を床に擦り付けた。
「西條様。この身はいかように使ってくれても構いませぬ。
どうか、どうか猿夜叉だけはお守り下さい。」
「ちょ、お、小野の方!?!?」
この身をいかようにもと言われて之綱の喉に生唾が流れ込む。
いや待て、之綱。そう言う意味ではあるまい。
之綱の膝元へとにじり寄り真っ直ぐに之綱の眼を見つめる小野の方の瞳には決意の涙が浮かんでいた。
之綱は小野の方の細い肩に手をやって小野の方の身体を受け止めた。
しかし、しかしだ。安請負はできない。
ここで俺に任せておけ。などと言えれば、言ってしまえばどれほど気も楽になるだろう。
しかし俺は六角家の家臣。定頼や義賢が決めてしまえば、その決定に逆らうことはできんのだ。
「西條様。西條様。」と念仏のように唱える小野の方に之綱は「出来る限りの事はする。」と答えるのが精一杯だった。
二人は無言のまま微妙な間合いを保っていた。
それ以上離れる事も近付くこともなく、それでも之綱と小野の方は目を離せずにいた。
そうしたままどれほど時間が経ったのだろう。
小屋に近づく足音に気付いて之綱はそっと小野の方から手を離し、小野の方も身を引いた。
「おう。やはり此処におったか。」
そういって小屋の戸口から姿を現したのは平井定武だった。
「定武。軍議は、軍議はどうなった」
定武が腰を降ろす間も惜しく、之綱は答えをせっつくと、「うぬ」と頷いて板張りの上に腰を降ろした。
「それがな、お館様が軍議の最中に倒れた。
その後は義賢様が軍議を仕切っておったがな、それで猿夜叉の話は出んかった。」
それを聞いて之綱はフウと息をついた。
首の皮一枚繋がったということか。
何れかの後には何らかの沙汰が下るだろうが、直ちに処断などという最悪の事態は逃れられた。
しかしそれでも猿夜叉の処分が決定した訳ではない。
「なぁ、定武。どうなると思う。」
「そうだな。正直儂にも分からん。
処断せよ。と言う奴もいるだろうが、浅井の嫡男を殺すのは下策だろう。
後々の事を思えば生かしておく方が良いに決まっておる。
では、このままかと思えば、それでは示しがつかん。
まさかこのまま六角家から追放するはずもない。」
「しかし、分からない中で目が大きいのは…」
「うむ。」
定武と之綱は小野の方の前である事を気遣って、これ以上の事は言葉にはしなかった。
「西條様。平井様。
どうか、どうか、猿夜叉をお救いくださいませ。」
小野の方が額を床に擦り付けて懇願した。
「お願い致しまする。お願い致しまする。」
今回ばかりは猿夜叉の身が危ない。
それは三人とも感じ取っていた。
今回は今までとは違う。
なにしろ浅井家が直接、六角家の客将に兵の向けたのだ。
「定武。なんとかならんか。」
「お館様からの沙汰ならば、なんともし難いのはお前でも分かるだろうが。」
之綱の問いに定武は顔をしかめた。
結局、主からの命となればそれに従わざるを得ない。
「ならば、ならばいっそこの屋敷を出ます。」
万策尽きた二人に小野の方が声を震わせて言った。
「お二人にはご迷惑となりますが、どうか門の外まではお目を瞑り下さい。
その後は猿夜叉と二人で北近江まで逃げまする。」
「まて、早まってはいかん。
子供と女御の足で逃げられる訳がない。
それに、それにじゃ。まだ猿夜叉の沙汰が決まった訳ではない。」
「決まってからでは遅うございます。」
どうにか思い止まらせようと伸ばした之綱の手を、小野の方は払い落とした。
「お二人は六角家の家臣故、致し方の無い事とお恨みも致しませぬ。
しかし、我が子を、猿夜叉をむざむざと見殺す訳にも参りませぬ。」
そう決意して立ち上がった小野の方を之綱が背中から抱き抱えた。
「ならん。行かせる訳にはいかん。
北近江まで逃げ切れる訳がない。屋敷を抜け出せば必ず、間違いなく処断される。」
その言葉を聞いて小野の方はハラハラと涙を溢して膝を崩した。
「なんとかならんのか。定武。」
「分かっておる。分かっておるわ。」
猿夜叉が生まれた時から定武は見張り役として猿夜叉の側に居た。
猿夜叉が初めて立ち上がった時も、初めて言葉を発した時も側に居て、
まるで父親のように見守ってきたのが之綱と定武だった。
その我が子のように育ててきた猿夜叉がむざむざ殺される様をただ見過ごす訳にはいかん。
そうは分かっていても定武に打てる手はなかった。
小屋に沈黙が広がった。
皆どうにか猿夜叉を救おうと知恵を絞っていた。
そうして暫くの後、之綱がボソリと呟いた。
「やはり、猿夜叉を屋敷から連れだそう。」
「馬鹿か。それでは処断を招くばかりだとさっき言ったばかりではないか。」
「いや、そうじゃない。京へ連れて行けばいい。」
「京へ?」
顔を上げて之綱の言葉に耳を傾ける小野の方の声と、思いも寄らない考えに気の抜けた定武の声が重なった。
「そうだ。とにかくこの屋敷から遠ざければいい。
お館様だって人質を殺してしまうのは下策だと分かっているはずだ。
しかし、この屋敷に猿夜叉が居てはどうしても他の家臣の手前もある。
何らかの沙汰は下さざる得ない。」
「そこで、他の者の目の届かぬ京へ連れて行くという訳か。」
之綱の腹積もりに定武は眉をひそめた。
行き先は分かった。
しかしそれだけのこと。そもそも屋敷から連れ出す算段が立たない。
「定武。上洛の支度を取り仕切っているお前なら支度もできるだろう。」
こんな当たり前の事に気付いていないのか之綱は揚々と定武の肩を叩いた。。
「支度をするだけならばな。
しかし、出来るのはそれだけ。
一体如何にして猿夜叉を屋敷から連れ出すつもりじゃ。
猿夜叉を京へ連れて行くなどと言っても誰も承知せんだろうし、儂にもそれ以上の事はできんぞ。」
如何に平井様が上洛の支度を取り仕切っていると言っても人質の猿夜叉を連れて行くなどできるはずがない。
やはり手はもうないのか。と小野の方が身を伏した時、之綱から意外な言葉が出てきた。
「ダメ元なんだがな、ここは公方様にお願いしようと思う。
側仕え…は無理でも、いやいっそ小間使いで良い。
公方様にお目を掛けていただく。
そうすれば京へ連れて行く理由になるし、お館様とて公方様の言う事を無視はできまい。」
おそらく公方様は猿夜叉を気に掛けている。
今朝のあの剣の稽古の様子を思い返せば、そう思えて仕方が無い。
そうあの時、「立ち合いを許す」と言った時、公方様は間違いなく猿夜叉に助け船を出したのだ。
そしてその後の叱責も今から思えば猿夜叉の事を気に掛けているからこその言葉とも思えた。
「誠にそのような事が上手くいくでしょうか?」
之綱の説明を受けても小野の方や定武は之綱の案に賛成しかねた。
「しかし、手を打っておいて損はない。
なに、俺が言えば家中に話しが広がっても、またも戯けの西條か。と言われて終いだ。
失敗しても損がないなら、手を打たぬのは損だろう。」
そういうと之綱は背を正して立ち上がり小野の方に一つ頭を下げた。
「出来る限りなどといってもこの程度の事。
済まぬ。」
そうと決まれば之綱は離れ小屋から屋敷に上がり、足利義藤の居る奥屋敷へと向った。
「さてどう話しを切り出すかな?」
思案を巡らせても思い立ったのが今さっきの事。
突然に良い言い方など思い浮かぶはずもなく、こうなれば包み隠さず公方様にお願いするほかないと之綱は腹を括った。
なるべく人に会わないように気を配りながら之綱が奥屋敷まで来てみれば、若将軍義藤が一人で廊下の端から端を行き来していた。
何をやってんだ。
これは見なかった事にした方が良いのではないか。などと真剣に考えたが、ここで引き返すわけもいかない。
その間にも行ったり来たりを繰り返す義藤の様子に観念して、之綱は失礼のないように音もなく義藤の居る廊下に居出て平伏した。
義藤は之綱の気配に気付かずに、背を向けたまま廊下の端へと足を進めていた。
その徐々に遠ざかる義藤の足音。
之綱は顔を上げず平伏したままで義藤の様子を推し量った。
足音はさらに遠ざかる。そしてその後、折り返してこちらへ向き直る。
そして俺に気が付く。
「何者だ。」
之綱の予想通り、廊下の端で向き直った義藤が之綱の姿に気が付いた。
廊下の端と端。二人の間には一間の開きがあり手も刃も届かない。
それが功を奏したのか、義藤の驚きの声の中に恐怖の色はなかった。
「ハッ。西條之綱と申しまする。」
之綱は顔を落としたまま義藤の問いにだけ答えた。
いかに実権を失おうとも公方様は公方様だ。
本来ならば六角家の家臣ごときがこうして屋敷を訪れることも言葉を交わすことも許されるはずはない。
しかし、之綱には確信にも似た予感があった。
あの時、あの剣の稽古の時に直接湯呑を受け取り、一言付け言う公方様ならば、間合いを誤らなければお願いを申しあげる事もできるのではないか。と。
そしてその読みは大方外れていなかった。
「西條か。余に何か用か。」
離れた廊下の端から義藤の声が届く。
どうやら無礼者と話も聞いてもらえない最悪の事態は免れたようだ。
「実はお願いしたい事がございます。」
之綱は義藤が声を掛けるまでの間アレコレと問答を考えていたが、結局包み隠さず全てを有りのまま伝えることにした。
小細工無用の直球勝負だ。
「一人。公方様の小間使いにお使い頂きたい者がおりまする。」
「小間使いにとな。
それを言うためにわざわざ寝所まで来たのか。
余が無礼者と其方を手打ちにしたらなんとする?」
「無礼は承知の上でのお願いにてございます。」
ホウと義藤は眉を吊り上げた。
公方の側仕えとなればいづれは将軍家の直臣として幕府の要職に取り立ててくれるかもしれん。と、時折自らの身内を紹介するものは少なくない。
しかし小間使いはそうではない。ただの雑用係としてこき使われて出世するなどありえない。
そんな小間使いに命懸けで紹介するという事に義藤は関心を抱いた。
「命を懸けて小間使いを紹介するのか。面白い。
小間使いなど六角家で勝手に都合すれば良いものを。
それは誰じゃ。して、何故わざわざ余に許しを請う。」
之綱は平伏したまま背中に冷たい汗が流れたのを感じた。
小間使いを公方様に付けるだけの事に、どうしてわざわざ公方様の許しが必要なのか。
之綱は一番に言い難い事を見抜かれたかのような気になった。
ここからは一言一句言い誤りは許されない。
之綱は義藤に猿夜叉を小間使いとして使ってくれるよう、一語一語租借するかのように言葉を選んだ。
「その者は猿夜叉と申します。
今朝方剣の稽古にて亀松丸様のお相手を務めた者にてございます。」
その之綱の言葉に義藤はああと頷いた。
この反応は悪くはない。
「この者、まだまだ若年者なれど気が回り雑用も苦にも思いませ…」
「何故わざわざアヤツを余に紹介する。」
之綱が手応え有りと踏んだ瞬間、その床が抜けたかのように途端に義藤の声が険しくなった。
「そ、それは年の割にしっかりとしており、働き者故…」
「ならば今の余に仕える者は稚児にも劣る怠け者と言う訳か。」
「いえ、そうような訳ではございませぬ。」
「ならばわざわざ小間使いを増やす事もなかろう。」
わざとだろうか。義藤はわざわざ之綱の言葉尻を掴んでは之綱の言葉を奪っていった。
遂には之綱は言うべき言葉を失い、「お願いでございます。」と床に額を打ち付けた。
その之綱の態度を待っていたかのように、義藤は自分の胸の内を語った。
「猿夜叉は北近江の浅井からの人質と聞いておるぞ。
そのような者を小間使いとして使っては、定頼が黙ってはおらんぞ。」
ハッと小さく返事をした之綱に義藤は言葉を続けた。
「そうじゃな。余から言えば、たかが小間使いの事、定頼も承知するやも知れんな。
なるほど、それでこのような場所で余に直訴したと言う訳か。」
途中、義藤と之綱の問答に気付いた屋敷の者が近付いてきたが、これを義藤は手を差し止めて制した。
「之綱、正直に申せ。何故あのような者にそこまでするのだ。」
人払いまでして発せられた義藤の質問。
之綱は腹を括ってその真意を打ち明けた。
「それがしはあの猿夜叉が生まれた時から守り役を仰せつかっております。
猿夜叉が生まれた時からの付合いなれば、それがしにとって猿夜叉は弟のような子のような存在でございます…」
「此度の合戦の事か。」
何と聡い若将軍であろうか。
之綱のいくつかの言葉から義藤は之綱の真意を汲み取った。
「仰せの通りにてございます。
浅井は当家に猿夜叉という人質がいるにも関わらず兵を向けました。
猿夜叉へのご沙汰が如何なるものかは未だ分かりませぬが、子や弟のような猿夜叉が処断されるのではと思うと気が気ではありませぬ。
どうかお願いでございます。
小間使いで充分でございます。どうか御慈悲を下さいませ。
一度も顔を上げる事もなく、終いには涙を流して懇願する之綱に、義藤は一言吐き捨てた。
「アヤツにそこまでする価値があるとは思えぬ。」
「ど、どういう意味でございまするか?」
「今朝の事じゃ。アヤツは立てと言った余の言葉を無視して泣き伏せておった。」
「それは猿夜叉には剣の稽古など初めてだった故。」
「常に亀松丸に追い回され泣いておると聞いておるぞ。」
「亀松丸様には逆らえぬ故。」
「浅井家は嫌だ。六角家になりたいと申したとか。」
「生まれた時から六角家の下で過ごします故、そのような言葉は出たのかと存じます。」
そうした一問一答についに義藤が切れた。
「之綱!!余は一々の事を言っておるのでない。
猿夜叉には気概が欠けておる。
自らが自らの為に抗おうともしない。そうした者を庇い立てしてどうする。」
なにが義藤の逆鱗に触れたか分からない。しかし、義藤の声は怒りに打ち震えていた。
「しかしながら猿夜叉はまだ五つ。抗おうにも何も出来るはずがありませぬ。」
そういった之綱に義藤は静かにそして恐ろしく自分の体験を語った。
「余は四つの時に人を殺めたぞ。」
その言葉に之綱は返事すらできなかった。
「あれは京から南近江へ逃げ落ちる途中の事。山科を抜けて、後は峠一つ越えれば南近江というところで追っ手に追いつかれた。
父は咄嗟に馬に乗って逃げられたが、別の駕籠に乗っておった余は逃げ遅れた。
幸い追っ手は少数で側仕えの者でなんとか応戦しておった。
そしてじゃ。」
義藤は一つ息を整えると忌まわしい記憶の封を解いた。
「そして数に劣る追っ手は一斉に余に斬りかかってきた。
父を逃しても余を討ち取れば立派な手柄首だからな。
咄嗟に側に居た者が追っ手を押し倒し、その刃は余には届かなかった。
その時、その時にな。側仕えの者が余に切れ。と命じたのじゃ。
追っ手は側仕えの者に押し倒されておるが直ぐさま抜け出そうと藻掻いていたし、追っ手は他にもいる。
余はもう無我夢中で側仕えの脇差しを引き抜いて追っ手の脇腹へと押し込んだ。
余は四つで人を殺めた。自分の身を守るためにじゃ。
そしてそれ以来、朝に夜にこうして剣の稽古をしておる。
それがアヤツはなんじゃ。
自らの命運に何一つ抗おうともせず、泣いておるばかりではないか。
そのような者をなぜ、この余が助けねばならんのだ。」
その言葉に之綱はもう何も言う事ができずに、義藤が立ち去るまでただただ頭を下げ続けていた。




