足利将軍家の家紋『二両引』
猿夜叉や藤吉郎たちが観音寺城を出て四半刻(三十分)が経とうとしていた。
手に肩に陣幕や杭柱を担いだ下働き衆の額には汗が噴き出ていて、ようやく東の空を朱に染め始めた日の光がその姿を照らし出していた。
「佐平殿、どこまで歩くんじゃ。
まだ歩くんなら、ちと休ませてくれ。
もう歩けんぞ。」
誰からともなく根を上げる声が聞こえてきた。
その声にグルリと周囲を見渡した佐平は、「良し。ここらで良かろう。」と声を上げた。
そこは、沙々貴のお社のほど近く。
振り返って見れば、山一つが丸々、城砦となった観音寺城の天辺から麓までが一目で見える。
「やっぱり観音寺城は大きいのぅ。」
そう呟いた藤吉郎の一言に、猿夜叉は自分の生まれ故郷を褒められたかのように笑顔で「うん。」と頷いた。
そして、ようやく重い陣幕を草むらに放り出そうとしたとき、
佐平が血相を変えて飛んできた。
「陣幕を汚したらあかん。泥一つ付けたらあかん。
先に下に茣蓙でも敷いてその上に置き。」
その佐平の慌てぶりに藤吉郎は目を丸くして驚いた。
戦場では泥に汚れ血に塗れた兵たちが行き交うのだ。
陣は綺麗にこしたことはないが、泥一つ付けるなとは度が過ぎている。
訳も分からず、取りあえずは佐平の言う通りにと、藤吉郎は肩に背負った陣幕を佐平が用意して茣蓙の上に置いた。
そうしていよいよ陣張りが始まった。
地面に綱を張りそこに合わせて柱杭を置いていく。
柱杭の位置が決まれば、それを逆木槌で打ち込む。
瞬く間にあちこちで、息を合わせ逆木槌を振り下ろす男たちのエイサホイサの掛声が周囲を賑わした。
力の足りない猿夜叉と藤吉郎は陣幕の縄通し。
陣幕の天辺に縄を通して、縄が通った陣幕は次から次へと持ち去られていく。
そんな熱気に溢れた陣張りにあって、藤吉郎だけは作業に没頭出来なかった。
手にした陣幕は真っ白でシミ一つ無い。
掴んだ縄はこれもまたムラなく漆黒に染め上げられていた。
戦で使う陣幕に縄じゃ、もっと汚れたのもじゃと思っておったが、六角家ほどの大大名なら、これほどの綺麗な陣幕を使うのも当たり前なんじゃろうか。
そんな疑問に首をかしげている時、藤吉郎の後ろから歓声が上がった。
見ればピンとシワ一つなく綺麗に張られた陣幕の前に下働き衆が集まっていた。
その男たちの合間から見え隠れするのは一つの家紋。
丸に二条の横線。
その単純な模様の家紋を知らぬ者はいない。
足利将軍家の家紋『二両引き』だ。
「おうおう、どうじゃ。この家紋。
この家紋は、将軍家、足利様の御家紋じゃ。
じゃからなぁ、この陣はただの陣じゃないぞ。公方様の陣じゃ。
分かったら、泥一つ、シワ一つ付けるでないぞ。
さあさあ、よぅ拝んだら、早ぅ陣を立てるのじゃ。」
物珍しそうに二両引きの家紋の前に集まる下働き衆たち。
中には有り難そうに両手を合わせ深々と頭を下げるものもいた。
そうして満足のいくまでその家紋を拝んだ後、パラパラと持ち場に戻ると、先程より威勢良く力強い声がエイサホイサと沸き上がった。
合点がいった藤吉郎も幼く訳が分からぬ猿夜叉も、その拍子に合わせてスルスルと陣幕に縄を通していった。
「どうじゃ、捗って(はかどって)おるか?」
聞き慣れた声に顔を上げると、定武ともう一人見知らぬ男が佐平を捕まえて陣張りの様子を伺っていた。
「これは、お館様…、もういらっしゃんで…。
おい、陣座を二つ持って来い。
義賢様、定武様、陣立てにはもうしばらくかかります故、
もうしばらくお待ち下さい。」
二人がこんなに早くに来るとは思っていなかったのだろう。
佐平は目を白黒させて、何度もお辞儀を繰り返しては、下働きに取りに行かせた陣座を恭しく差し出した。
「うむ、手間を取らせるな。
儂が陣立ての邪魔になっては、な。
しばらく傍でおる故、儂に気にせず陣立てに励め。」
義賢と呼ばれた男は、佐平が差し出した陣座を片手で受け取ると、そのまま陣から離れて邪魔にならない所で腰を下ろした。
「定武もよいぞ。腰を下ろせ。陣が出来るまで暫し掛かろう。」
義賢の言葉を受けて、定武は深く頭を下げから、義賢の視界に入らないように、義賢のやや後ろに陣座を置いて腰掛けた。
「之綱は如何にしておる?」
しばらく遠くから陣立ての様子を眺めていた義賢は唐突に定武に尋ねた。
その言葉は、義賢と定武が二人きりとなったとき、必ず義賢が言い出す質問だった。
「之綱は相変わらず呆けております故、少々困っております。」
定武はこの自分より十ほど若い義賢が苦手だった。
義賢は決して自分の腹の底を人には見せない。
それに関しては血筋なのか之綱も同じであったが、
之綱は本心を陽気で包み、義賢は陰気で包む。
根が真っ直ぐで人の心の機微を読むことなどできぬ定武には、十も歳下の之綱や義賢の本心を窺い知ることはできなかった。
今の質問も義賢が真に之綱を心配しての言葉かが分からない。
果たして義賢は之綱の何を心配しているのか。
それを量りかねる定武は、いつも当たり障りのない答えを繰り返すのだった。
そして、それを聞いた義賢もいつも同じ返事をする。
「そうか…」と。
陣立ての様子は、公方様が来ると分かってからは一層に活気を増していた。
軍の練度は陣立てで分かるという。
陣立ても満足に出来ない軍勢が、戦に強い道理はない。
だからこそ、シワ一つユルミ一つない陣を仕立てて公方様を迎い入れる事は、六角家の名誉に関わる事だった。
猿夜叉は、公方様が来ると分かってから、一層活気を増した陣立ての様子にすっかり目を奪われていた。
「ねぇ、猿兄。公方様ってどんな人じゃろな?」
日頃から日陰者として目立たない暮らしをしていた猿夜叉に、このように大の大人を何人も浮き足立たせる公方という存在が気になって仕方がなかった。
「ほうじゃなぁ。公方様は偉い都人じゃからなぁ。
きっとワシ等と違って力仕事もせん。
ホッソリとしておろう。」
「ホッソリしておるのか!?」
「それに、ワシ等にみたいに野良仕事もせんだろう。
きっとワシ等みたいに日には焼けておらん。
色白じゃな。」
「色白か。ホッソリしてて、色白。
公方様っておなごみたいじゃな。」
「こりゃ、猿夜叉。
お前は、言うに事欠いて、公方様をおなご呼ばわりするか…。
全く、誰かに聞かれでもしたらエライ事になるぞ。」
猿夜叉と藤吉郎は笑いながら陣幕に縄を通していた。
大の大人が何人も担いで運んだ陣幕。
それもいつしか残り一枚となって、猿夜叉と藤吉郎は最後の一枚に綱を通すと、陣立ての喧騒の中に飛び込んでいった。
陣立ては思ったほど捗って(はかどって)いなかった。
佐平は本当に陣幕のシワの一つも見逃さずに見廻ると、
いちいち下働き衆に幕を張り直させていた。
そうして陣立てを始めてもう半刻(一時間)ほどが経とうというのに、
未だに、下働き衆は陣のアチラコチラで走り回っていた。
「おい、もっと引っ張れ。中が弛んどるぞ。」
縄を通し終わった猿夜叉も藤吉郎も遊んではいられなかった。
最後の陣幕を運んだ二人は、今度はその陣幕を張るようにと言われたのだ。
一人では杭柱の天辺には手が届かない。
都吉郎は屈んで肩の上に猿夜叉を乗せて、「よいせ」と持ち上げた。
「コレ、小猿!もっと力を込めんか!綱が弛んどる!
早ぅせんと公方様が来ちまうぞ。」
小猿と呼ばれた猿夜叉は力一杯に綱を引く。
けれども藤吉郎の肩の上では踏ん張りも利かないで、逆に反対側から力を込める男の力に負けて引っ張られてしまう。
「この役立たずのクソ猿が。
陣立てくらいの役に立ってぃ!足を引っ張るな!」
その男の罵声に腹を立てたのは猿夜叉ではなく藤吉郎だった。
「なにを~!」と歯を食いしばると、肩に掛かった猿夜叉の足をぎゅ~と押さえ込み、腰を入れて踏ん張った。
肩の上では猿夜叉も両手力一杯に綱を握りしめ、懸命に綱を引く。
そうして綱をピンと張ったそのままに杭柱の天辺にある金具に巻き付ける。
「猿兄ぃ、できた。」
嬉しそうに藤吉郎の頭をポンポンと叩く猿夜叉。
周りの下働き衆もようやく陣立てを終えて、気を抜き手を休めていた。
その時、藤吉郎の肩の上の猿夜叉が遠くから迫ってくる影を見つけた。
「猿兄ぃ、馬じゃ。誰か来た。」
遠くから馬の嘶きと蹄の音が聞こえてくる。
ようやく完成した陣の中に義賢と定武が入り、将軍義藤を迎える準備を整えると、
佐平を始め猿夜叉たち下働き衆は陣の片隅に退き、膝を付いて義藤が到着するのを待った。
「猿兄ぃ。公方様って、まことにおなごみたいなのか?」
「いやいや、あれは冗談じゃ。
力仕事もせんと旨いメシを食っとる公方様じゃ。
まぁ、丸々と太った大二郎殿みたいなのじゃろう。」
「ブクブクなのか?」
陣屋の端に控える下働き衆の中で猿夜叉と藤吉郎は声もなくクスクスと笑っていた。
「公方様が来たぞ」そんな佐平の言葉も二人には耳に入らなかった。
「いやいやいやいや、公方様は武芸好きじゃと言っておったな。
なら、定武様のようにムキムキの熊のようなお方かもしれん。
それとも佐平殿のような猪のようなお方かな?」
藤吉郎が鼻に指を押し当てて、目を釣り上げてブヒッと猪の真似をすると、
猿夜叉は堪えきれずに笑い声を上げた。
「そこの者、何を笑っておる?」
つまらない悪戯が見つかった。
二人はとっさに定武か佐平に見つかったかと思い、首をすくめたが、その声は定武や佐平のように野太い声ではなかった。
むしろ、その声は声変わりも済んでいない子供の声。
その聞き覚えのない声に驚いて、二人が顔を上げて声の主を探すと、下働き衆が地面に額をこすりつけて平伏しているその向こう側に二人が噂していた公方様の姿があった。
おなごの様なほっそりした姿。
脾肉の付いた丸々とした姿。
武骨に溢れた厳めしい姿。
けれども、将軍足利義藤の姿は、
猿夜叉と藤吉郎が噂していたどんな姿とも、まるで違っていた。
そう、その姿は未だ大人に成り切らない幼さを残した子供の姿だった。
歳の頃は十四・五。
それは藤吉郎と同じ年頃で、背丈も大人よりまだまだ小さく、これもまた藤吉郎とよく似ていた。
しかし着ている物は、藤吉郎のボロ着とはまるでかけ離れていた。
身に纏う狩衣は絹。
淡い真珠のような色合いで、胸から腰に施された金糸の鳳凰の刺繍が朝日に照らされてピカピカに輝いていた。
その絹の上衣の奥に見え隠れする袴もまた見事な深紺色に染め上げられていた。
その雅に彩られた狩衣を身にまとった公方様の姿はまさに都人というのに相応しい装いだったが、
一つ、その鷹のような眼差しだけは都人というには余りに猛々しいものだった。
「何が可笑しいか聞いておる。」
その若い公方は自分と同い年ほどの藤吉郎を射貫くように睨み付けると、
「もう良い」と馬から下りて陣の中へと姿を消した。
全く、あのような下人に八つ当たりしても始まらん。
それは、分かっておるのだがな。
義藤は機嫌に任せて荒々しく馬から飛び降りた。
そもそも、この六角家が足利家の陣を立てること自体忌々しい。
これでは足利家が六角家の傀儡であると認めている様ではないか。
しかし、それでは六角家の家紋の入った陣に自分が入っていく様子を想像すれば、
今度は自分が六角家の軍門に下ったかの様に感じる。
どうせ、どうあっても納得いく答えなどありはしないのに、
それでも若い義藤は今の状況を甘んじて受け入れる事はできなかった。
だから義藤は六角家の一挙手一投足が気に入らなかった。
いちいち朝駆けに恩着せがましく陣立して、六角軍の威勢を誇示する事も。
その陣立ての陣幕に足利家の二両引きの家紋を使うことも。
これ見よがしにシワ一つない陣を立てることも。
地面に額を付けて平伏する下働き衆も、幼稚な笑い声を上げた下人の様子も、何もかもが気に入らなかった。
義藤はその隅で素っ頓狂に義藤の姿を眺めている下人を睨み付けると、騎馬の手綱を佐平に任せて陣屋の中に入った。




