↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星降譚―STELLA NOMINA―  作者: うめこまち
第一部 灰は軽く、風に乗る

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
64/165

背中と、見送り①

只今誠意執筆中_φ(ò_óˇ)ᕤ


どうストーリーが進んで行くか乞うご期待!!


現在は、第4部終盤の執筆に取り掛かっております!

残すは5、6、7部。

先はまだまだ長いですが、構想は終わっているので毎日楽しく執筆できております(●´ω`●)


皆様に少しでも楽しみに感じて頂ける作品になるよう私も楽しみながらやってきます!!

 焼けてから十日目の朝だった。


 杭を四十本並べる前に、空き地の土を見た。


 昨日の夜青い石を袋に戻した。二十九個目の外れ。今日は三十個目を選ぶ日だった。


 いつもなら、朝の一巡を撃ったあと土を掘って、その日いちばん気になった石を拾う。拾った石を十日シャツの胸に入れておく。


 今朝は、撃つ前からどの石にしようかと考えていた。


 考えている自分に少し驚いた。


 三年、選ぶ前から考えたことはなかった。拾ったときにこれだと思う。それだけだった。


 杭を並べて撃った。


 二十歩。三十五歩。五十歩。


 朝の一巡を撃ち終えて、杭を拾っていると、空き地の入り口に荷車が止まった。


 ゴドだった。


 宿の東隣の荷車を引く男。家をなくして、焼け残った荷車だけをどこへ行くにも引いていた男。


 荷車の上に布袋が一つ載っていた。


 ゴドは荷車の把手から手を離して、空き地を見回した。


 それから、リュカを見た。


「坊主」


「うん」


「今日、下りる」


 リュカは杭を拾う手を止めた。


「……下りる」


「地上層だ。弟がいる。ずっと来いと言われてた。行かなかった。家があったからな」


 ゴドは荷車の把手を手の甲で叩いた。


「家はなくなった」


---


 路地の端に人が何人か出ていた。


 粉屋のネラが戸口から見ていた。脛に布を巻いた男が家の前で足を止めていた。


 誰も声をかけなかった。


 声をかけると、引き止めることになる。


 引き止める者はこの街にいなかった。


 ゴドは、荷車を空き地の縁まで押してきた。


 石垣の脇。焼けた長屋の最後に残った柱の下。


 そこで止めた。


「こいつは置いていく」


「置いていく」


「籠には載らん。二つ目の坂も通れん。昔からそうだ。こいつはこの街の中しか走れん」


 ゴドは荷車の縁を掌で撫でた。


 木の縁が手の形に擦れて、黒く光っていた。


「三十年、これで三番街の荷を運んだ。坂の下の荷を路地の奥まで。お前が籠で上げ下ろししてくる荷を最後に家まで運んでたのはこいつだ」


 空き地の隅でルフが荷車の車輪の下を覗き込んでいた。


 鱗の尾を左右に振っている。


 車輪の軸のあたりに鼻を近づけて、それからゴドの足元に来た。


 ゴドはルフを見下ろした。


「……こいつも置いていくのか」


「ルフは宿のです」


「そうか」


 ゴドはルフの頭を一度だけ撫でた。


 ルフは嫌がらなかった。


 リュカは荷車を見た。


 三年、毎日のように見てきた荷車だった。詰所から担いで下りてきた荷を坂の下でこの荷車に渡した日もあった。


 ゴドの名前を知ったのは、焼けたあとの名簿の日だった。


「誰か使え」


 ゴドは言った。


「お前でもいい。宿の婆さんでもいい。瓦礫を運ぶのに要るだろ」


「……要る」


「なら、使え」


 ゴドは荷車から布袋を下ろした。


 肩に担ごうとして少しよろけた。


 リュカは布袋に手を伸ばした。


「担ぎます」


「いい」


「詰所まで」


「……」


「荷運びが担げば荷の運賃はかからない」


 ゴドはリュカの顔を見た。


 それから、布袋をリュカの肩に載せた。


 重さで中身が分かった。


 布と鍋と硬いものが二つ三つ。


 三十年ぶんにしては軽かった。


 軽いのは家がなくなったからだ。


 家にあったものは家と一緒に焼けた。持って出られたのは、あの夜荷車に載っていた分だけだった。


---


 坂の側の小路を上がった。


 ゴドはリュカの三歩後ろを歩いた。


 坂の側の小路の薬房の焼け跡の前でゴドが言った。


「ここの婆さんの代から薬を運んだ」


「ミラさんの」


「ミラの母親のそのまた母親だ。壺を割らずに運べるのは俺の荷車だけだって、いつも言われた」


 リュカは何も言わなかった。


 薬房の焼け跡は、壁に黒い線が何本か走っているだけだった。


 石段の途中鍛冶場の炉の脇を通るとき、ゴドは炉を見上げた。


「ザヴの親父の代から炭を運んだ」


「……炭」


「炭は重い。重いのに崩れやすい。右に寄せても、左に寄せても、揺れりゃ崩れる。だから、ゆっくり押した」


 ゴドは炉の石に少しだけ手を触れた。


 冷たかったのだろう。すぐに手を離した。


 四十二段の石段を上がりきった。


 途中で何度か振り返った。


 三番街の屋根のなくなった路地のほうを。


 振り返ってまた前を向いた。


 何も言わなかった。


 リュカも振り返らなかった。


 ゴドが振り返るのを背中で聞いていた。足音が止まる。少しして、また歩き出す。


 三度、止まった。


---


 二番街の焼け跡の脇を通るとき、ゴドが足を止めた。


 油屋のあったあたりだった。壁が一枚黒くなって残っている。


「……ここの油を三番街まで運んだ」


「毎日?」


「三日に一度だ。六合の壺を四つ」


 ゴドは壁を見ていた。


「壺は割れやすい。だから、荷車の真ん中に置いて、まわりを布で囲った」


「……」


「三十年で一つも割らんかった」


 ゴドはまた歩きはじめた。


 リュカは布袋を担ぎ直して、後ろについた。


 二つ目の坂を上がった。舗装の割れた坂だ。荷車はここを通れない。


 三十年、ゴドの荷車はこの坂の下までしか来なかった。


 詰所の前に列はなかった。


 朝の籠の前だった。


 柱に板が打ちつけてある。片道、四百。


 詰所の奥でドランが籠の下から這い出してきた。


 ゴドを見て、それからリュカの肩の布袋を見た。


「……下りるのか」


「下りる」


「そうか」


 ドランはそれ以上は訊かなかった。


 ゴドもそれ以上は言わなかった。


 十一年、同じ坂の上と下で朝の音を聞き合ってきた男たちだった。


 ゴドは懐から袋を出した。


 袋は重そうだった。


「三十年で貯めた分だ」


 ゴドは言った。


「家を直すのに使うつもりだった。屋根の板が腐りかけてたからな。今年こそと思ってた」


 ゴドは袋を柱の脇の木の台に置いた。


 袋が詰所の奥の暗がりへ引き取られた。


 しばらくして、戻ってきた。


 軽くなっていた。


 ゴドは袋を懐に戻した。


「足りたな」


「足りた」


「屋根は直さずに済んだ」


 ゴドは少しだけ笑った。


 笑った顔は名簿の日に「荷車だけ残っても、しょうがねえけどな」と言ったときと同じ顔だった。


---


 籠が上から下りてきた。


 鉄の格子の戸が開いた。


 リュカは布袋を籠の床に下ろした。


 ゴドが籠に乗った。


 布袋の脇に立って、格子の向こうのリュカを見た。


「坊主」


「うん」


「荷車の左の車輪。軸が少し減ってる。重い荷を載せるときは右に寄せろ」


「右に」


「右にだ。三十年、左に寄せて積んでた。だから左が減った」


「分かりました」


 ゴドは頷いた。


 それから、何か言いかけた。


 言いかけてやめた。


 詰所の奥でドランが止め木の柄に手をかけた。


 籠が下りはじめた。


 ゴドの顔が格子の向こうで下へ流れていった。


 顔が見えなくなって、肩が見えなくなって、最後に布袋の口の縄の結び目が見えなくなった。


 綱が鳴っていた。


---


 籠の音が遠ざかってからリュカは、詰所の脇の石の上を見た。


 老人が座っていた。


 坂の途中の家の老人だ。今朝も籠の穴を見上げている。


 ゴドが籠に乗るのをこの老人は、黙って見ていた。


 目が合ったがどちらも、何も言わなかった。


 二十年、上から下りてくる者を待っている男と今日下へ行く男だった。


 ドランが止め木を握ったまま、リュカのほうを見なかった。


「ゴドか」


「うん」


「十一年、あいつの荷車の音を聞いてた。朝、詰所まで聞こえてきた。路地の石畳をがたがた言わせて」


「うん」


「……明日から聞こえねえな」


 ドランはそれだけ言った。


 止め木をゆっくり引いた。


 籠の下りる速さが少し落ちた。


「坊主。昼の籠に客がもう一組ある」


「もう一組」


「上から女が一人下りてきてる。昨日の夕方の籠で。三番街の子供を二人迎えに来たらしい」


 リュカはドランを見た。


「……広場の家の子」


「名前は知らん。上の子が腕に布を巻いてると言ってた」


---


 宿へ戻る坂の途中でリュカは、空き地のほうへ曲がった。


 荷車が石垣の脇に止めてある。


 把手が手の形に擦れて、黒く光っていた。


 荷車の縁に掌を置いた。


 木が朝の日で少しだけ温まっていた。


 三十年、毎朝この路地を走った荷車だ。石畳の擦れて光っているところがその跡だった。


 リュカは把手を握ってみた。


 ゴドの手の形だった。リュカの手には少し大きかった。


 左の車輪を見た。


 軸の木が擦れて細くなっていた。


 ――右に寄せろ。


 三十年、左に寄せて積んで、左が減った。


 三十年、同じ積み方をしてきた男が最後に積み方を変えろと言った。


---


 西の横丁の女が宿の前で待っていた。


「……上から人が来てる」


「上から」


「子供たちの叔母さんだって。昨日の夕方の籠で下りてきて、うちに泊まった」


 女は少し言いにくそうにした。


「今朝、話したよ。子供たちのことを」


「……母親のことも」


「名簿の日にいないって答えたのは、あたしだからね」


 女はそう言った。


「広場の家の隣にずっと住んでたから」


 リュカは何も言わなかった。


 女は宿の戸口のほうを見た。


「今、中にいる。婆さんが湯を出してる」


 土間に入ると、知らない女が一人座っていた。


 上の街の布の厚い外套を着ている。外套の裾が焼け跡の煤で黒くなっていた。


 女の膝に下の子が座っていた。


 上の子は、女の隣に少し離れて座っていた。布を巻いた左腕を膝の上に置いていた。


 リナンが土間の隅に立っていた。


 翼を少しだけ開いたまま。


 ヴェスナが竈の前で湯を沸かしていた。


 沸いた湯を椀に注いで、女の前に置いた。


「上からだと坂がきつかったろう」


「……ええ」


「籠を降りて坂を二つ。上の人には慣れない坂だよ」


「石段で二度休みました」


 女は椀を両手で包んだ。


 指が細かった。針を持つ指だった。


「……こんなに焼けているとは思いませんでした」


 女は椀の湯を見下ろしたまま言った。


「上で聞いたときは、三番街の端が少し焼けたと」


「少しじゃないね」


「……少しじゃありませんでした」


 ヴェスナは、それ以上は何も言わなかった。


 竈に戻って湯の加減を見た。


 女がリュカを見た。


 リュカは頭を下げた。


「……荷運びのリュカです」


「ああ」


 女は少しだけ頷いた。


「この子たちから聞いたわ。鳥みたいなのを杭で落とした人でしょう」


「……鎌翼です」


「そう」


 女は下の子の頭を撫でた。


「私はこの子たちの母親の姉。上の街で針子をしてる。焼けたって聞いて、すぐ来たかったけど、四百がすぐには作れなくて」


 女はそれ以上は言わなかった。


 この子たちの母親がどうなったのか。


 言わなかった。


 言わなくても、土間にいた誰にも分かった。


 名簿の日広場の家の名前が読み上げられて、「いない」と答えた声があったのをリュカは覚えていた。


 どの名前だったのかは、覚えていなかった。


 覚えていなかったことが今、重かった。


---


 昼の籠まで時間があった。


 女は土間でヴェスナの湯を飲んでいた。


 イサが土間の戸口に立った。


 女を見て少しだけ目を細めた。


「……あんたあの子の姉さんかい」


「……はい」


「似てるね。目のところが」


 女は少しだけ顔を伏せた。


「妹とは十年、会っていませんでした」


「そうかい」


 イサは戸口に立ったまま、それ以上は中に入らなかった。


「あの子は毎朝一番に井戸に来てたよ。子供二人を寝かせて、夜が明ける前に。桶を二つ持って」


「……」


「三十年、あの井戸を使ってるけどね。あの子ほど早く来る者はいなかった」


 イサはそれだけ言って、戸口から離れた。


 女はしばらく顔を上げなかった。


 叔母は、土間の隅に置いた布袋を何度か見ていた。


 小さな袋だった。上から持ってきたものがその中に入っている。


「……着替えを二枚ずつ持ってきました」


 叔母は誰にでもなく言った。


「子供の服がどれくらいの大きさか分からなくて。十年、会っていなかったので」


「……合いますか」


「上の子のは少し小さいかもしれません」


 叔母は、膝の上の下の子の背をそっと撫でた。


「妹の子だとは分かりました。顔を見たらすぐに」


 ヴェスナが竈のほうから言った。


「似てるのかい」


「目のところが」


 言ってから叔母は少し黙った。


 さっきイサに言われたのと同じ言葉だった。


 下の子は女の膝から下りて、リナンのところへ行った。


 リナンの翼の焦げていないほうの羽の先を握った。


 リナンはしゃがんで、下の子の名前を呼んだ。


 下の子は何も言わずに、羽を握っていた。


 上の子は動かなかった。


 女の隣に座ったまま、左腕を膝の上に置いて、土間の床を見ていた。


 ミラが土間に来た。


 上の子の前にしゃがんで、左腕の布をほどいた。


 腫れはもうほとんど引いていた。肘の少し上に青黒い痕が残っているだけだった。


「折れてなかった」


 ミラは言った。


「上に行ったら、上の医者に一度見せて。折れてなかったって、私が言ったって言って」


 上の子は頷いた。


 ミラは新しい布をゆるく巻き直した。


 巻き終えて、上の子の頭に一度だけ手を置いた。


 すぐに離した。


 それから、女のほうを見た。


「かざしたのよ、この子。この腕を。鎌翼が落ちてきたとき、下の子の頭の上に」


 女は上の子を見た。


 上の子は土間の床を見ていた。


 女は何も言わなかった。


 上の子の布を巻いた左腕にそっと手を重ねた。


---


 梁の上でセイルが首を傾げていた。


 今日はまだ何も繰り返していなかった。


 土間が静かすぎたからかもしれない。


---


 西の横丁の女が来た。


 十日子供たちを寝かせてくれた女だった。


 女は叔母の前で頭を下げた。叔母も頭を下げた。


 二人とも、何を言えばいいのか分からないようだった。


「……上の子はよく食べました」


 西の横丁の女がようやく言った。


「下の子は夜ときどき泣きました。でも、翼の子の歌を聞かせると、止まりました」


 叔母はリナンを見た。


 リナンは困ったような顔をして、少しだけ頭を下げた。


「……歌」


「里の雛を寝かせる歌です」


 リナンは言った。


「歌っていうほどのものじゃないんですけど」


 叔母は何も言わなかった。


 しばらくして、リナンに向かって、深く頭を下げた。


---


 昼までリュカは、空き地で荷車を押していた。


 瓦礫を右に寄せて積んで、路地の端まで運ぶ。


 運びながら、宿の土間のほうを何度か見た。


 叔母は土間から出てこなかった。


 子供たちも出てこなかった。


 出てくれば行く時刻になる。出てこないあいだはまだ行かない。


 だから、誰も急がなかった。


 昼の籠の前に、子供たちの荷をまとめた。


 荷はほとんどなかった。


 女が上から持ってきた小さな布袋が一つ。その中に西の横丁の女が洗ってくれた着替えが二枚ずつ。


 それから、上の子が外套のポケットから何かを出した。


 石だった。


 白っぽい丸い石。子供の掌にちょうど収まるくらいの大きさ。


 空き地で子供たちが並べていた石の一つだった。


 上の子はその石を持ったまま、リュカの前に来た。


 何も言わずに差し出した。


 リュカは石を見た。


 それから、上の子を見た。


 上の子はリュカを見ていなかった。石を見ていた。


「……くれるのか」


 上の子は頷いた。


「なんで」


 上の子は少しだけ考えた。


「……拾ってるから」


 小さな声だった。


「いつも拾ってるから」


---


 リュカは石を受け取った。


 子供の掌の温度が残っていた。


 白っぽくて丸い。片面に細い筋が一本通っている。空き地の土の色がまだ筋の溝についていた。


 見たことのない石だった。三年、この空き地の土を掘ってきたがこの形は知らなかった。


 ――拾ってるから。


 三年、毎朝空き地で杭を撃って、そのあと土を掘った。


 子供たちは、杭を片づけるころにときどき来た。来てその横で石を並べて遊んでいた。


 見ていたのだ。


 しゃがんで土を掘って、何かを拾っては袋に入れる少年を。


「……ありがとう」


 リュカは言った。


 上の子は頷いた。


 それから、リュカの顔を見ないまま、もう一つ言った。


「……ここもう来ない?」


 リュカは答えを探した。


 来るとは言えなかった。四百を払える子供ではない。


 来ないとも言えなかった。それはこちらが決めることではない。


「……分からない」


 上の子は頷いた。


 頷いてそれで終わりにした。


 訊いた本人が答えのないことを先に受け入れる顔だった。


 それから、背を向けて、リナンのほうへ歩いていった。


 リュカは石を握っていた。


 袋には入れなかった。


 シャツの胸に入れた。


 昨日まで青い石があった場所に。


 ――三十個目。


 今朝、次の石を選ぶつもりだった。まだ選んでいなかった。


 選ぶ前に渡された。


---


 詰所まで子供たちの荷を担いだ。


 布袋一つ。軽かった。担ぐほどの重さではなかった。


 それでも担いだ。


 運賃は荷にかかる。荷運びが担げばかからない。


 女はそのことを知らなかった。


 詰所でリュカが布袋を籠の床に下ろしたとき、女は少しだけ目を見開いた。


 ドランが詰所の奥から女の袋を受け取った。三人ぶん。千二百。


 袋が戻ってきた。


 女はそれを懐に入れた。


---


 詰所の脇の石の上で老人が籠の穴を見ていた。


 坂の途中の家の老人だ。今日も座っていた。


 子供たちと叔母とリナンとリュカが籠の前に集まるのを老人は黙って見ていた。


 誰かが上から下りてくるのを待っている老人の前で誰かが上へ上がっていこうとしていた。


 リナンが籠の前でしゃがんでいた。


 下の子と目の高さを合わせていた。


 下の子は、まだリナンの羽の先を握っていた。


 リナンは、その手をそっと自分の手で包んだ。


 羽から離させた。


 下の子は、離れた手を少しのあいだ宙に浮かせていた。


 それから、女の外套の裾を掴んだ。


 リナンは立ち上がった。


 上の子がリナンの前に来た。


 布を巻いた左腕を少しだけ持ち上げて下ろした。


 何か言いたそうだった。


 言わなかった。


 リナンも言わなかった。


 リナンは上の子の名前を呼んだ。


 上の子は頷いた。


 それから、下の子の名前を呼んだ。


 下の子は女の裾を掴んだまま、振り返った。


 女が二人の背中に手を当てて、籠の中へ入れた。


---


 リュカは籠の戸が閉まる前に、上の子を見た。


 布を巻いた左腕を下げたままにしている。


 もうかざしていない。


 かざす相手が籠の中にいるからだ。


 戸が閉まった。


 格子の向こうで上の子がこちらを見ていた。


 下の子は女の外套に顔を埋めていた。


 ドランが止め木の柄に手をかけた。


 籠が上がりはじめた。


 格子の向こうの顔が上へ流れていった。


 上の子の顔が見えなくなって、布を巻いた左腕が見えなくなって、最後に下の子の靴の先が見えなくなった。


 綱が鳴っていた。


 リナンは籠の穴の前に、立っていた。


 翼を少しだけ開いたまま。


 穴の上のほうを見上げていた。


 見上げてしばらく動かなかった。


 リュカはリナンの隣に立っていた。


 何も言わなかった。


 リナンも何も言わなかった。


 詰所の脇の石の上に老人が一人座っていた。坂の途中の家の老人だ。籠が上がっていくのを同じように見上げていた。


 三人ともしばらく穴の上を見ていた。


 詰所の奥でドランが止め木から手を離した。


「今日は三度目だ」


 誰に言うのでもなく言った。


「二度に減らしたのに、三度動かした」


「……すみません」


「謝ることじゃねえ」


 ドランは工具箱の蓋を開けて、何かを探しはじめた。


「客がいる日は動かす。荷がなくてもだ。籠ってのはそういうもんだ」


 それだけ言って、工具箱の中を覗き込んだまま、こちらを見なかった。

読んで頂きありがとうございます。

引き続き1話ずつ毎日更新していきます。

現在4部まで出来ているので一年以上は連続更新できる予定です。


基本的には1日2-3部を18時と20時に分けて更新して行く予定としております!!


少しでも次が気になったり、楽しみにして頂ければ幸いです!


ブクマやお気に入り登録していただけますと今後の執筆の励みになります(´∀`*)

よろしければ是非応援頂けますと幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。