袋と、捨てそこねた一つ③
只今誠意執筆中_φ(ò_óˇ)ᕤ
どうストーリーが進んで行くか乞うご期待!!
現在は、第4部終盤の執筆に取り掛かっております!
残すは5、6、7部。
先はまだまだ長いですが、構想は終わっているので毎日楽しく執筆できております(●´ω`●)
皆様に少しでも楽しみに感じて頂ける作品になるよう私も楽しみながらやってきます!!
ロアンは背を向けかけた。
向けかけて止まった。
振り返らずに言った。
「坊主」
「……」
「なら、次は持って来いって、言われたろ。あいつに」
――なら次は持って来い。
段の上で仰向けのまま聞いた。何を、とは言わなかった。
「……言われた」
「持ってきたじゃねえか。早速」
ロアンはそう言った。
笑い声だった。
笑い声だったが背中しか見えなかった。顔が笑っているのかどうかは、分からなかった。
「……これじゃない」
リュカは言った。
言ってからなぜそう言えるのかを考えた。
分からなかった。
何を持っていけばいいのかも分からない。それなのに、これじゃないとは言えた。
「これじゃないか」
ロアンは繰り返した。
「そうかい」
それだけ言って歩きだした。
壁沿いに。灯りを揺らしながら。
灯りが白の中で小さくなった。
小さくなって、橙色の点になって、それから白に溶けた。
足音がしばらく残った。
二百歩ぶん残っていたのかどうかは、数えなかった。
「……笑う人」
リナンが言った。
「来たとき笑ってなかったですね」
「……最初だけだ」
「最初だけ」
「灯りの向こうで顔が見えたとき。笑ってなかった」
「わたしも見ました」
リナンは、白の中の灯りの消えたほうを見ていた。
「笑ってない顔のほうが本当の顔だったのかなって……思うんですけど」
「……分からない」
リュカは言った。
軽口ばかりで本心を言わない男。本心を言わない男の笑っていない顔。
それが何を見たあとの顔だったのかは、分からなかった。
見回りとあの男は言った。ふた晩誰も出てこなかったと。
ふた晩誰も出てこない門まで歩いてきた男の顔だった。
---
――俺が決めたんじゃねえ。
なら、誰が決めたのか。
訊かなくても分かる気がした。
てっぺんで、ロアンとアステナは三歩下がった。ゼクスが一人で立つと決めたと言って。
下りるときもゼクスが決めたのだろう。
根元で待つと。
――分からないものを待つ。
何を待っているのかは言わない。言えば渡すことになる。持って来いと言って、何を、とは言わなかったように。
リュカは右の手を上げた。
門の光の外へ。白い闇のほうへ。
手のひらを上へ向けた。
塔のずっと上。見えない。白と壁と雲の床の向こう。
てっぺんの段でゼクスが届かない窪みへ手のひらを向けていた。
確かめているように見えた。
何を確かめていたのかは、分からなかった。
同じことをしてみた。
手のひらを上へ。届かないところへ。
何も来なかった。
冷たさが手のひらの真ん中にあるだけだった。
――来ない。
取りに行くと来ない。
手を伸ばしても来ない。
あの男もそうだった。伸ばして来なかった。下ろして一度だけ握って開いた。
リュカも下ろした。
下ろして一度だけ握って開いた。
開いた手のひらに線が一本あった。
あの男が握って開いたとき、手のひらに何があったのかは知らない。
――これじゃない。
ロアンにそう言った。
持って来いと言われたものは、これじゃない。
なぜそう言えたのか。
少しだけ分かった気がした。
これは来たものだった。
持ってきたものではなかった。
来たものを持っていっても、持ってきたことにはならない。
――かもしれない。
リュカはそう付け足した。
付け足して手を膝の上に戻した。
---
「……朝行くんですか」
リナンが言った。
「……分からない」
「水借りるんですか」
「……分からない」
リュカはそう言って、壁を背に座った。
座るのに膝がまた抜けた。抜けるのに任せて座った。
リナンも隣に座った。
同じ低さに。
「反対って言ってもいいですか」
「……何に」
「借りないって言うのに」
リュカは少しだけ黙った。
――反対と言う者が隣にいる。
「……まだ言ってない。借りないとは」
「……さっき言いました」
「てっぺんの話だ」
「……」
「朝に決める」
リュカはそう言った。
「決めたら言う。反対はそのとき言え」
「……はい」
リナンは頷いた。
頷いてそれから少しだけ笑った。
声は出なかった。
出なかったが笑ったのは分かった。
---
「……バルさんの袋も」
リナンが言った。
「もらった水です」
「……」
「返さんでいいって。言ってました。受け渡し場で」
――返さんでいい。返しに来る道があるとは限らん。
バルはそう言って、水袋を足元に置いた。礼はいいと言って、木札を数えはじめた。
「もらったのと借りるのは違う」
リュカは言った。
「どう違うんですか」
「もらったのは返さない。借りたのは返す」
「……返せないときは」
「借りない」
「……」
「返せないものは借りない。三年そうしてきた」
受け渡し場で前借りを頼めば翌日の日当から引かれる。三年、一度も頼まなかった。引かれる日に何かがあれば返せない。
返せないものは借りない。
だから、てっぺんで断った。
借りれば線が動く。上にいる理由が増える。増えたぶん戻るのが遅れる。戻るのが遅れれば、返しに行く道がないかもしれない。
「……笑う人の水は」
リナンが言った。
「返せますか」
「……分からない」
リュカは言った。
「どこへ返しに行けばいいのか分からない」
「上から来た人たちなんですよね」
「上から来た」
「上ってどこですか」
「……知らない」
知らなかった。
名簿に載る人たちの住む層。三番街のずっと上。昇降機で四百シャルド。
そこへ水を返しに行く。
行けるのかどうかも分からない。
「……分からないから朝に決める」
「……はい」
リナンはそれ以上言わなかった。
言わなかったがリュカの手を見ていた。
閉じたままの右の手を。
---
バルの袋から一口ずつ飲んだ。
リナンが指を折った。リュカは残りを数えた。
突き合わせて合っていた。
十口。
井戸の匂いはもうほとんどしなかった。
ほとんどしなかったが少しだけした。
袋の口を開けるたびに塔の空気が入って、薄くなっていった。根元の外の湿った白の空気は、塔の空気より少しだけ匂いがあった。土と岩と苔の匂い。
そのぶん井戸の匂いが分からなくなった。
――分からなくなっただけだ。
なくなったのではない。
リュカは栓をした。
リナンに返した。
リナンが腰に下げた。
---
外套を頭からかぶらなかった。
かぶると手が見えなくなる。
右の手を膝の上に載せた。手のひらを上にして。
門の光の端に。
細い線が一本。
見ていた。
見ていても何も起きなかった。
――宿ったら。
三年、何度か考えた。
宿ったらどうなるのか。
空き地で杭を撃ちながら、考えたことがある。石が宿れば、杭がもっと遠くへ飛ぶのかもしれない。五十歩が六十歩になるのかもしれない。
屋根裏で袋の口を閉じながら、考えたこともある。宿れば受け渡し場で荷運びのではない呼び方で呼ばれる。
鑑定所の前で読めない書付を折りながら、考えたこともある。該当なし。無価値。コルベルがそう読んだ。宿ればその一行が変わる。
どれも考えただけだった。
考えるたびに外れた。外れるたびに考えるのをやめた。やめてまた掘った。
――コルベルさんなら。
この手のひらを見たら、何と言うだろう。
私は見たものしか言わない。あの男はそう言った。規則として。
線が一本。何も出ない。冷たいだけ。
見たものしか言わないなら。
――該当なしと言うかもしれない。
等級のどれにも当たらない。上から下までどの等級にも。
そう言われても、たぶん構わなかった。
宿ったのは本当だった。名前が置かれたのも。石がなくなったのも。
コルベルは見たものしか言わない。なら、宿ったとも言うだろう。言ったうえで該当なし、と言うだろう。
宿って該当なし。
――それでも二つ目の一行だ。
紙の上の一行。前の一行は無価値だった。
次の一行が何になるのかは、まだ分からない。
考えたのは宿ったあとのことだった。
宿る瞬間のことは考えたことがなかった。
宿る瞬間が冷たいとは知らなかった。
捨てようとしたときだとは思わなかった。
とうに外れたと決めた一つだとは思わなかった。
――知らないことばかりだ。
三年、石のことは誰よりも知っていると思っていた。掘る場所。並べ方。日の向け方。角のある石とない石の鳴り方の違い。
宿ることについては何も知らなかった。
知らないまま、三年、宿らせようとしていた。
――帰ったら。
三番街に帰ったら。
言うのか。
宿ったと。
ヴェスナに。トトに。ミラに。イサに。バルに。
言えば何が出たと訊かれる。
何もと答える。
答えたらどうなるのか。
分からなかった。
分からないが言わないでおくとも決めなかった。
訊かれたら答える。訊かれなければ言わない。
三年、自分のことはそうしてきた。
――宿ったのは自分のことなのか。
石のことなのか。
手のひらの中に入ったのだから、たぶん自分のことだ。
たぶんだった。
---
「……リナン」
「はい」
「宿った日は何日目だった」
リナンは少しだけ考えた。
「十日目です」
「十日目の夜か」
「夜です。崖の上で」
「何をしてた」
「……声を出してました」
リナンはそう言った。
「低い音を三つ。誰も来ないところで」
「三つ」
「三つです」
リナンは喉に指を当てた。
「三度目に出したとき、喉の奥が冷えて。そのとき、もう名前が聞こえてました」
「……出したときか」
「出したあとかもしれないです。分からないです」
リュカは自分の手のひらを見た。
――投げたとき。
投げようとして、投げられなかったとき。
リナンは声を出したときだった。
どちらも、何かを外へ出そうとしたときだった。
出そうとしたものが出ずに、内側へ入ってきた。
――同じなのか。
分からなかった。
二つでは足りない。
足りないが二つあった。
一つよりは多かった。
---
「……わたしの石は」
リナンが言った。
「拾ったとき冷たかったです」
「……」
「どの石も拾ったときは冷たいので。襟に入れておいたら、夜には肌と同じ温かさになって。宿る石も宿らない石も同じ温かさになるから、当てた日には分からないんです」
「……十日、待つ」
「待ちました。待つ理由もなかったんですけど」
リナンはそう言った。
「捨てる理由もなかったので」
「……持ってる理由もなかったんだろう」
「なかったです」
リナンは少しだけ笑った。
「理由がないので持ってました」
――理由がない。
塔の三層目の夜にリナンは、飛べなくなった理由がないと言った。
理由がないまま飛べなくなって。
理由がないまま石を持っていた。
理由がないままそれが宿った。
リュカは右の手のひらを閉じた。
――理由がない。
三年、理由を探してきた。なぜ宿らないのか。並べ方か。日の向け方か。掘る場所か。石の色か。角か。
理由があれば直せる。直せば宿る。そう思っていた。
理由がなかったのかもしれない。
宿らないことにも。
宿ったことにも。
――かもしれないだ。
リュカはそう自分に言った。
言ってそれを数に入れなかった。
---
リナンが先に眠った。
千で起こす。そう決めて、リュカが先に数えることにした。
リナンは膝を抱えて、翼を身体に巻いた。
巻いてしばらくは起きていた。
起きているのは息で分かった。眠った息はもっと遅くなる。
百を過ぎたころ遅くなった。
リュカは数えながら、膝の上の袋を見た。
布だけの袋。
口を開けた。
中からミラの布を出した。
汗を拭くための布だった。三番街を出る前の夜土間でミラが置いていった四枚のうちの一枚。石が鳴らないように、上の門の前で袋に押しこんだ。それから、ずっと袋の底で折れていた。
膝の上で広げた。
門の光の端で。
折れ目が残っていた。
六日折れていたところが筋になって、残っていた。
筋の一か所に小さな丸いくぼみがあった。
親指の先ほどの。
布がそこだけ丸く押されていた。
石の形だった。
――ここにいた。
四十本目で投げた。上へ。風を覚えるために。それからあの男へ。途中から数えなかった。
指が布だけをつかんだとき、この一つは布の折れ目の中にいた。
指は布をつかんだ。布の中の一つには触れなかった。
触れなかったから残った。
残ったからここまで来た。
リュカはくぼみを指でなぞった。
なぞってそれから布を折り直した。
同じ折れ目で。
くぼみが内側になるように。
袋に戻した。
袋の口を閉じた。
――空だ。
今度は確かめた。
袋の上から全部、押した。布の折れ目のどこにも、硬いものはなかった。
空だった。
---
外套の内側の杭に指が触れた。
三本。
四十本のうちトトが選んで、重さを量って、渡してくれた十本。そのうちの三本。
七本は戻らない。一本は、七つに挟まれた坂の吹き抜けの下。五本は雲の中。一本は、てっぺんの尖ったものの窪みの横。
――預かったものは、返すまで預かったもんだ。
トトはそう言った。残りの三十本は、炉の脇の石の箱に置いておくと言って。
三十本はまだ預かられている。
十本は、トトが持たせてくれたものだった。
持たせてもらったものを七本なくした。
戻ったときに、何と言えばいいのか。
――撃った。
それしか言えない。
撃って届かなかった。一本だけ届いた。届いた一本は置いてきた。刺さったまま待たせている。
それをトトにどう言えばいいのか。
分からなかった。
分からないので、数だけ言うことにした。
十本持っていった。三本持って帰った。七本は上。
トトはたぶん何も言わない。言わずに三本を手に取る。手に取って重さを量る。
量ってから何か言うかもしれない。
何を言うのかはトトに決めてもらう。
――持って来い。
ゼクスはそう言った。何を、とは言わなかった。
トトは四十本は担げないと言った。足りるかは行ってみなきゃ分からねえ、と。
行ってみた。
足りなかった。
足りなかったのは杭の数なのか。それとも杭ではない何かなのか。
リュカは、右の手のひらを外套の上から杭に当てた。
冷たさと鉄の冷たさが布を挟んで重なった。
何も起きなかった。
起きなかったことを確かめた。
---
三百。
四百。
数えながら思い出そうとした。
あの一つを。
三年前。屋根裏に初めて上がったころ。空き地の石垣の下。最初に掘った石。十日胸に入れて外れた。
二つ目はその十日後。同じ石垣の下。外れた。
三つ目。四つ目。
一つずつ思い出していった。
どれも思い出せた。拾った場所。胸に入れた朝の空の色。外れた夜の暗さ。
十。十一。
最初の夏。二度目の冬。
二十。二十一。
焼けた夜の少し前。焼けた夜のあと。
二十八。二十九。
三十二。
三十二回思い出した。
三十二回とも丸い石ではなかった。
角の取れた石はあった。コルベルが押し出した二年前の冬の灰色の一つのように。それでも、どこかに角の名残があった。指でなぞれば分かった。
この一つにはどこにもなかった。
――こんなに丸い石を胸に入れたことはない。
なら、なぜ袋に入っていたのか。
分からなかった。
拾った石を入れたのかもしれない。何かの拍子に。空き地でほかの石と一緒に手のひらに掬ってそのまま。
三年、拾っただけの石は袋に入れなかった。入れないと決めていた。
決めていても、手が間違えたのかもしれない。
かもしれないだった。
どれもかもしれないだった。
七百。
八百。
――思い出せない。
思い出せないものを思い出そうとするのは、初めてだった。
三年、数えてきたものは全部思い出せた。数えたから思い出せた。
この一つは数えていなかった。
数えていなかったから、思い出せなかった。
数えていない一つが宿った。
九百。
千。
---
「……リナン」
「……はい」
リナンはすぐに起きた。
すぐに起きるのは眠りが浅いからだ。煤の段でふた晩ほとんど眠らなかったからだ。
「千だ」
「はい。……数えます」
「起こせ。千で」
「千で」
リュカは壁に背をつけた。
外套はかぶらなかった。
右の手を膝の上に手のひらを上にして、置いたまま、目を閉じた。
閉じても、手のひらの真ん中の冷たさは分かった。
井戸の底の冷たさ。
三年、毎朝汲んできた水のいちばん底の冷たさ。
桶を底まで下ろしたときにだけ指に来る。表の水は季節で温度が変わる。底は変わらない。夏も冬も同じ冷たさだった。
――同じだ。
夏も冬も同じ。
昼も夜も同じ。
塔の壁の光と同じように。
変わらないものが手のひらの中に一つあった。
---
五百を過ぎたころ目を開けた。
リナンは隣で数えていた。目を閉じて。膝を抱えて。
リュカは、外套の内側から曲がった一本をそっと出した。
鳴らないように。紙を指で押さえて。
門の光の端の地面に置いた。
置いてから右の手の指を開いた。
人差し指と中指を揃えて。その幅で手のひらの端から杭の端までを測った。
指の幅二つぶん。
――ここ。
覚えた。
覚えてから手のひらを杭のほうへ向けた。
待った。
百。
何も。
杭は指の幅二つぶん向こうにあった。
手のひらを閉じて開いた。
もう百。
何も。
――さっきは拾おうとしていた。
リナンが動いたと言ったのは杭を拾おうとして、手を伸ばしたときだった。
確かめようとして、かざしたときではなかった。
リュカはもう一度手を伸ばした。
拾うつもりで。杭の巻いた木の端へ。
届く前に止めた。
止めたと思ったときには、もう確かめるつもりになっていた。
拾うつもりのまま、止めることはできなかった。
杭は動かなかった。
指の幅二つぶん。
変わらなかった。
リュカは杭を拾った。
ふつうに。
拾って外套の内側に戻した。
――分からない。
確かめようとすると、分からなくなる。
それも数に入れなかった。
入れずに目を閉じた。
閉じるとリナンの息がまた聞こえた。
百ごとに少しだけ長くなる息。
六百。
---
眠れなかった。
眠れないまま、リナンの数を聞いていた。
声には出していなかった。
出していなかったが息で分かった。百ごとに少しだけ息が長くなる。
煤の段でふた晩そうしていたのだと思った。
声を出して百を上へ送っていた。
今は隣にいるから声を出さない。
――届いてた。
上まで。
リュカは目を閉じたまま思った。
三十三回胸に石を入れた。
入れて待った。
待つのは訊くのと同じだった。
――宿るか。
声には出さなかった。三年、一度も。それでも、毎朝訊いていた。胸に入れるたびに。十日目の夜が来るたびに。
三十二回返事は来なかった。
来なかったのが返事だった。肌の温度が消えて、石が冷たくなる。それが返事だった。
三十三回目も同じ返事だった。
それから、訊いていない一つが返事をした。
訊いていなかった。
捨てようとしていた。
捨てようとした手の中で名前が置かれた。
声ではなかった。
――声のない返事だ。
訊いていないことへの。
リュカはそう思って、それから少しだけ可笑しくなった。
訊いていないことに返事をするのか。
石は。
――分からない。
分からないが返事だった。
---
「……リュカくん」
リナンの声だった。
「千です」
「……起きてる」
「起きてたんですか」
「眠れなかった」
「……じゃあもう一回わたしが」
「いい」
リュカは目を開けた。
「数える。お前は寝ろ」
「……はい」
リナンは膝を抱え直した。
抱え直してそれから言った。
「……冷たいですか。まだ」
「冷たい」
「わたしのもまだ冷たいです」
リナンは喉に指を当てた。
「三年ずっと」
「……三年」
「ずっと少しだけ冷えてます。喉の奥が」
「……そうか」
「慣れます」
リナンはそう言った。
「慣れると冷えてるのがふつうになります。ふつうになると、冷えてないと、困るんです」
「……困る」
「冷えてないと、いなくなったのかなって」
リナンはそう言って、少しだけ笑った。
笑ったまま目を閉じた。
リュカは自分の手のひらを見た。
――いなくなったのかな。
石はどこにも見えない。手のひらの中に入った。線が一本あるだけだ。
冷たさがある。
冷たさがあるからいると分かる。
なくなったら。
リュカは手のひらを閉じた。
閉じて冷たさを確かめた。
あった。
---
数えた。
一から。
千まで。
千からまた一から。
リナンを起こさなかった。
起こさずに二度千を数えた。
三度目の千の途中で白が変わった。
暗い白が少しだけ灰色に近くなった。
灰色が少しずつ薄くなって、それから白に戻っていった。
雲の上で日が昇ったのだ。
ここからは見えない。
見えないが白が教えていた。
――十一日目。
リュカはそう思って、それから止まった。
十一日目はなかった。
三年、十一日目は来たことがなかった。十日目の夜に外れると、その夜のうちに、次の石を入れた。十日目は、いつも次の石の一日目でもあった。
三十三個目はもうない。白の中のどこかの岩の上だ。
新しい石もない。
胸には何も入っていない。
数える日がなかった。
――一日目か。
手のひらの線を見た。
白の朝の光で見ると、線は灰色に少しだけ白が混じっていた。夜に見たのと同じ色だった。
宿った日から数えるのなら。
一日目だ。
リュカはそう数えた。
数えてそれが三年で初めての外れない一日目だと思った。
---
風が出てきた。
白が動きはじめた。
夜のあいだ白は動かなかった。湿ったまま根元に溜まっていた。
朝の風がそれを少しずつずらしていった。
ずれたところからほんの一瞬だけ塔の壁が上へ見えた。
継ぎ目のない灰色の壁。
すぐにまた白に隠れた。
――あの上に。
一層目。二層目。七つに挟まれた坂。三層目。四層目。五層目。上の門。口。筒。縁。一枚壁。五十九本の杭。
てっぺんの段。
尖ったものの窪みの指一本ぶん横に杭が一本刺さっている。
刺さったまま待たせている。
――何を待たせているのか。
分からなかった。
分からないが待たせている。
そのことだけは、ゆうべから変わっていなかった。
---
白が明るくなりきるまでリュカは、右の手を見ていた。
朝の白の光は門の光より平らだった。影がどこにもできない。
線は手のひらの真ん中から親指の付け根のほうへ斜めに一本。
夜に見たのと同じ長さだった。伸びても縮んでもいなかった。
――点ではない。
ゼクスの肩に透けた白い点。撃つ瞬間だけ小さく見えた。撃ったあとは消えた。
これは消えない。
撃ってもいない。何も出していない。それなのにずっと見えている。
同じものなのか違うものなのか。
分からなかった。
あの男の点は小指の先ほどのまま、白さだけが増した。増して腕が見えなくなった。
これは白くならない。灰色に少しだけ白が混じったまま。
――あの男のは継いだ石だ。
わたしたちは継いだ。あなたは拾った。
アステナが前にそう言った。三人とも継いだのだ。あの男の石もたぶん。
継いだ石と拾った石。
同じ光り方はしないのかもしれない。
かもしれないだった。
リュカは手のひらを閉じた。
---
リナンが起きた。
起こしていないのに起きた。
白が明るくなったからだ。
「……千で起こしてくれなかったんですか」
「三度、数えた」
「……三度」
「眠れなかった」
リナンはリュカの顔を見た。
見て何か言いかけて、言わなかった。
言わずにバルの袋を腰から外した。
「……一口ずつ」
「一口ずつ」
飲んだ。
リナンが指を折った。リュカは残りを数えた。
突き合わせて合っていた。
八口。
――地上層の十口のうちの二口。
残り八口で白の中を二日。
一日に一人、二口。
行きは一日に一人七口と少し飲んだ。
足りない。
足りないのは塔の上で分かっていた。分かっていて数えた。数えて足りないまま、ここまで来た。
---
リュカは立った。
膝は抜けなかった。
壁に手をつかなかった。
自分で立った。
立って白の中を見た。
壁沿いに。三角の門のほうへ。二百歩。
開いていないほうの門。三角の刻んである門。
その前に火があるとロアンは言った。
白に隠れて火は見えなかった。
見えないがそこにあるとは分かった。
――分からないものだ。
見えないものはないのと同じではない。
「……リナン」
「はい」
「決めた」
リナンがリュカを見上げた。
同じ低さではなかった。リュカが立っていた。
「……言ってください」
「行く」
リュカは言った。
「開いてないほうの門へ」
「……水ですか」
「水と」
リュカは右の手を見た。
「確かめに」
リナンはしばらく黙っていた。
それから言った。
「……反対って言わないです」
「……言わないのか」
「言わないです」
リナンは立ち上がった。
翼の付け根が少しだけ縮んだ。風が出てきていた。朝の白を動かす風だった。
「言わないの二度目です」
――一度目は筒の縁の次の日の昼。
リュカはそれを思い出した。
思い出して何も言わなかった。
リナンは包みの縄を確かめた。荷の結び方で十字に。
確かめてから言った。
「……リュカくん」
「なんだ」
「名前」
「言わない」
「訊かないです」
リナンはすぐにそう言った。
「訊かないです。……いい音でしたかってそれだけ」
リュカは少しだけ黙った。
――いい音。
手のひらの真ん中に置かれた音。
短くて一度だけでそれきりだった。
高くも低くもなかった。鳴ったというより置かれた。
「……分からない」
リュカは言った。
「いい音かどうかを決めたことがない」
「……はい」
「杭の音なら分かる。澄んでればいい。留め具なら悪い」
「はい」
「これはどっちでもない」
リナンは少しだけ笑った。
「わたしのもどっちでもなかったです」
「……」
「どっちでもないけど覚えてます」
リナンはそう言った。
「たぶんずっと」
リュカは、口の中でもう一度だけその名前を繰り返した。
声には出さなかった。
――覚えている。
数えていないのに覚えている。
三年で初めての覚え方だった。
---
杭を確かめた。
外套の内側の紙のほうに三本。曲がった一本とまっすぐな二本。
投槍器。鉤のついた板。手元の革帯はちぎれかけたまま。
白い紙。割れた殻。
袋を肩に掛けた。
布だけの袋。
空の袋。
三年、肩に掛けてきた袋だった。外れた石を入れて、空き地へ持っていって、また入れて。
今は何も入っていない。
入れるものもない。
それでも肩に掛けた。
ミラの布が入っているからだ。
それと。
――入れるものがまたできるかもしれない。
何を入れるのかは分からなかった。
分からないが袋は持っていく。
リュカは右の手で袋の紐を握った。
手のひらの真ん中が冷たかった。
冷たさは紐のざらついた感触の下で変わらずに、そこにあった。
――いる。
門の口を振り返った。
四角い光。その奥に一層目の床がある。七本の杭と骨。
――この人は根元を見た。
見て上へ行って、落ちて戻れなかった。
リュカは戻ってきた。
何も持たずにとゆうべは思った。
線が一本。冷たさが一つ。
持ってきたのではなかった。来たのだ。
それでも、来る前より一つだけ多かった。
リュカは門に背を向けた。
白の中へ一歩、出た。
壁沿いに。三角の門のほうへ。
二百歩。
数えはじめた。
一。
読んで頂きありがとうございます。
引き続き1話ずつ毎日更新していきます。
現在4部まで出来ているので一年以上は連続更新できる予定です。
基本的には1日2-3部を18時と20時に分けて更新して行く予定としております!!
少しでも次が気になったり、楽しみにして頂ければ幸いです!
ブクマやお気に入り登録していただけますと今後の執筆の励みになります(´∀`*)
よろしければ是非応援頂けますと幸いです。




