袋と、捨てそこねた一つ②
只今誠意執筆中_φ(ò_óˇ)ᕤ
どうストーリーが進んで行くか乞うご期待!!
現在は、第4部終盤の執筆に取り掛かっております!
残すは5、6、7部。
先はまだまだ長いですが、構想は終わっているので毎日楽しく執筆できております(●´ω`●)
皆様に少しでも楽しみに感じて頂ける作品になるよう私も楽しみながらやってきます!!
投げた。
右の手で。肩から。三年、外れを投げてきた振り方で。
手が開いた。
石が離れた。
白の中へ消えた。
見えなかった。
見えないまま耳だけが待った。
一つ。
二つ。
三つ。
――こつ。
遠くで小さく鳴った。
岩に当たった音だった。
それから、転がる音が少しだけして止んだ。
止んで白だけが残った。
三息でこつ。
三年、空き地で石を投げて、落ちるまでの息を数えてきた。二息なら二十歩。三息なら三十歩と少し。
三十歩と少し、先のどこかの岩の上。
後ろでリナンは何も言わなかった。
反対と言ったのを取り下げないまま、音のしたほうを見ていた。
――三十三個目。
十日胸にあった。
今は白の中のどこかの岩の上にある。
もう拾わない。
リュカは右の手を開いたまま、少しだけ見ていた。
何もなかった。
軽かった。
軽いのは石一つぶんだけだった。
石一つぶん軽くなっただけで何かが変わったわけではなかった。
三十二回外れた石を袋に入れてきた。
三十三回目は捨てた。
入れるのと捨てるのとで違うのは、手の向きだけだった。
---
外套の内側に手を入れた。
胸のところに丸い一つがあった。
指でつまんだ。
つまんで出した。
やはり冷たかった。
夜の白と同じ冷たさ。
さっきの三十三個目と同じ冷たさ。
――同じだ。
宿らなかった石と同じ冷たさだ。
覚えていなくても、同じ冷たさなら同じだ。
リュカはそう自分に言った。
言ってから右の手のひらに載せた。
載せて握った。
丸かった。
角がないので、どこにも当たらなかった。手のひらの真ん中にただ収まっていた。
後ろでリナンが何か言いかけて、言わなかった。
気配だけがした。
リュカは振り返らなかった。
肩を引いた。
三年の振り方で。
---
投げた。
腕が振れた。
肩から肘、手首。
振りきったところで手が開くはずだった。
開かなかった。
――え。
腕は前へ伸びきっていた。
伸びきった先で指が閉じたままだった。
石は手のひらの中にあった。
投げそこねた。
そう思った。
三年で何度かあった。指の離れが遅れて、石が足元に落ちる。肩が冷えていたとき。指が濡れていたとき。
落ちなかった。
足元に落ちなかった。
指が離れなかったのではなかった。
指は開こうとしていた。
開けなかった。
開けないのが自分の指なのかそれとも、指の中のものなのか分からなかった。
---
腕を下ろした。
下ろして拳を胸の前に、持ってきた。
握ったままの右の拳。
開こうとした。
開かなかった。
力を入れた。
入れたのは開く力だった。握る力ではない。指の背のほうの筋に力を入れた。
指が震えた。
震えてそれでも開かなかった。
――なんだ。
怖くはなかった。
怖いと思うより先に数えていた。
一息。
二息。
三息。
開かない。
指の中で石が冷たかった。
冷たさが少しずつ手のひらの真ん中に集まっていた。
集まってそれから手のひらの皮の内側へ入ってきた。
---
冷えた。
手のひらが。
石が冷えたのではなかった。
手のひらが冷えた。
――逆だ。
三十二回石が冷えた。日が落ちて、肌の温度が消えて、石だけが冷たくなった。冷たくなった石を袋に入れた。
今は手のひらが冷えていた。
石の冷たさがこちらへ来ていた。
皮の内側へ。肉の中へ。骨のほうへ。
冷たさは痛くなかった。
ただ深かった。
井戸の底へ手を入れたときの冷たさだった。三番街の毎朝の井戸の底の水。
――来る。
何が来るのかは分からなかった。
分からないが来ると思った。
思ったときにはもう来ていた。
---
音がした。
耳ではなかった。
手のひらの真ん中で。
短い音が一度だけ。
鳴ったというより置かれたという感じだった。
誰かが何かをそこに置いていった。
置いていって、それきり何も言わなかった。
――名前だ。
分かった。
なぜ分かったのかは分からなかった。
分からないがそれが名前だということだけは分かった。
言葉ではなかった。声でもなかった。それでも名前だった。
石の名前。
リュカは、口の中で一度だけそれを繰り返した。
声には出さなかった。
出し方が分からなかった。
出さなくてももう知っていた。
――名前を訊かなかった。
リュカはそう思った。
訊かれる前に置いていった。
三年、名前のことは何度かあった。
塔の三層目から上の坂であれに名前を訊いた。同じ音が返ってきた。訊く前から出していた音と同じ音だった。名前なのか名前ではないのか分からなかった。分からないまま、あれと呼ぶことにした。
路地の入り口で背を向けた男に姓を訊かれた。迷わずに答えた。てっぺんの段でもう一度訊かれて、もう一度答えた。答えたら通さないと言われた。
名前は訊くものだった。訊いて答えるもの。答えてそれで何かが決まるもの。
この名前は訊いていなかった。
訊いていないのに来た。
来てそれで何かが決まったのかどうかも、分からなかった。
――返さなくていいのか。
名前を置いていかれたら。
こちらも何かを返すものではないのか。
荷を受け取ったら、受け取りの印を返す。日当を受け取ったら頭を下げる。三年そうしてきた。
名前を受け取って、何を返せばいいのか。
分からなかった。
分からないので、もう一度だけ口の中でその名前を繰り返した。
声には出さなかった。
繰り返すのが返すことになるのかどうかも、分からなかった。
---
指が開いた。
開こうとしていなかった。
力が抜けたのだ。
抜けて指がひとりでに開いた。
門の光の端へ手のひらを向けた。
何もなかった。
手のひらの上に何もなかった。
丸い石はなかった。
足元を見た。
白い闇で見えなかった。
しゃがんだ。膝が抜けた。抜けるのに任せてしゃがんだ。
左の手で足元の土を探った。
湿った土と小さな砂利。
丸いものはなかった。
――落ちてない。
落ちる音もしなかった。
指が開いたとき、何も手のひらから離れなかった。
離れるものがもうなかった。
リュカは右の手のひらをもう一度見た。
門の光の端で。
手のひらの真ん中に細い線が一本あった。
---
細かった。
髪の毛ほどではない。糸ほど。
手のひらの真ん中から親指の付け根のほうへ斜めに一本。
長さは指の関節一つぶんくらいだった。
色は灰色に少しだけ白が混じっていた。
さっきの石と同じ色だった。
リュカは左の親指でその線をこすった。
消えなかった。
皮の上に描いてあるのではなかった。
皮の下にあった。
浅いところに。透けて見えていた。
――入った。
石が。
手のひらの中に。
リュカはそう思った。
思ってからそれがどういうことなのかを考えた。
考えようとして、考えがどこにも行かなかった。
三年、待っていたことだった。
待っていたことが来たとき、どうなるのか考えたことがなかった。
来ないとずっと数えてきた。
――ここで。
塔のいちばん下で。
三十三回目が外れた同じ夜に。
門の外で。骨と七本の杭から三十歩と少しのところで。
いちばん低いところで。
低いところは、何も来ないところだと思っていた。上へ行けば何かがある。だから登った。地上層の白を越えて、塔に入って、坂を叩いて、口を這って、一枚壁の杭を登った。
上には片があった。取れなかった。誰も取れなかった。
何も持たずに下りてきた。
下りきったところで来た。
上でではなかった。
---
「……リュカくん」
後ろからリナンの声がした。
近かった。
いつの間にか立っていた。翼の付け根が縮んでいなかった。風がなかった。
「何かありましたか」
「……ない」
「ない」
「石がない」
リュカは、右の手のひらをリナンのほうへ向けた。
門の光の端へ。
リナンは覗きこんだ。
覗きこんで、手のひらの真ん中の細い線を見た。
しばらく見ていた。
それから息を吸った。
吸った息を吐かずに止めた。
止めたまま、リナンは自分の喉に指を当てた。
襟の少し上。
指を当ててそれから離した。
「……喉が冷えましたか」
リナンが言った。
「喉じゃない。手だ」
「手が冷えましたか」
「冷えた」
「名前は」
リナンはそこで止まった。
止まって言い直した。
「……名前聞こえましたか」
リュカはリナンを見た。
リナンはリュカの手のひらを見ていた。顔を見ていなかった。
「……聞こえた」
リュカは言った。
「耳じゃないところで」
リナンは頷いた。
一度だけ。
ゆっくり。
「……宿りましたね」
言い切らなかった。
ねの終わりが白の中へ少しだけ消えた。
消えたがそれは問いではなかった。
リナンは、それからリュカの手のひらから目を離した。
離してリュカの顔を見た。
門の光の端でリナンの目が少しだけ光っていた。
光っているのが何なのかは、言わなかった。
「……よかったです」
リナンは言った。
「……と思うんですけど」
「……思うのか」
「思います」
今度は言い切った。
言い切って、それから少しだけ俯いた。
「……何も出なくてもですか」
リュカは訊いた。
「何も出なくてもです」
リナンは俯いたまま言った。
「わたしは宿った日誰にもよかったって、言われなかったので」
「……」
「言ってみたかったんです。誰かに」
リュカは何も言わなかった。
言う言葉を持っていなかった。
おかえりなさいと言われたときと同じだった。
答える代わりに右の手を閉じた。
閉じて冷たさを確かめた。
あった。
---
「言わなくていいです」
リナンが言った。
「名前」
「……言わない」
「はい」
「言い方が分からない」
「分からなくていいです」
リナンはそう言った。
「わたしも誰にも言ってないので」
リュカは少しだけ黙った。
――宿ってはいます。三年前から。
会ってすぐのころリナンはそう言った。宿ってはいる。何も出ない。
何が宿っているのかは言わなかった。リュカも訊かなかった。
三年前からと言った。
三年前から誰にも言っていない。
「……家の者には」
リュカは訊いた。
訊いてから訊くべきだったのかどうか、分からなくなった。
リナンは少しだけ目を伏せた。
「里では宿った子は、聞こえた名前を家の人に言うんです」
「……」
「わたしは言わなかったです」
それ以上は言わなかった。
言わなかった理由も言わなかった。
リュカもそれ以上は訊かなかった。
訊かなくても足りていた。
飛べなくなった日のことを塔の三層目の夜に聞いた。理由がないとリナンは言った。
理由のないまま飛べなくなって。
そのあとで宿って。
言う相手がいなかったのだ。
あるいは言う相手はいたのに、言わなかったのだ。
どちらなのかは、リュカには分からなかった。
分からないものを分からないまま置いた。
---
「何か出ましたか」
リナンが言った。
「……何も」
リュカは言った。
言いながら確かめた。
手のひらを開いて閉じた。
冷たさがまだ真ん中に残っていた。残っているだけで何もしなかった。
握っても何も起きない。
開いても何も出ない。
光も音も熱もなかった。
ゼクスの肩に透けた白い点のようなものもなかった。
あの男が石の名を呼んだとき、風が止まった。槍が白くなった。床が割れた。
今は何も止まらなかった。
白は白のまま、門の外で動かずに、湿っていた。
「……何も出ない」
「わたしも出なかったです」
リナンはそう言った。
「宿った日に。出るはずだって、思ってたんですけど」
「……思ってたのか」
「家の石を継いだ子は、宿った日に乗った風が少しだけ長くなるんです。何か出るんです」
リナンは、自分の喉にもう一度指を当てた。
「わたしのは出なかったです。今も出ないです」
「……」
「出ないけど宿ってます」
リナンはそう言った。
言い切った。
――言い切った。
リナンが言い切るのは珍しかった。
言い切るときは、いつも自分のことではなかった。戻ってきて切ってください。リュカくんが。ここでは替えられないです。
今のは自分のことだった。
---
リュカは手のひらを見た。
細い線が一本。
――宿った。
口の中で言ってみた。
言葉にしても、何も変わらなかった。
三年、待っていた。
三十二回、外れた。三十三回目もさっき外れた。外れて捨てた。
捨てたあとで来た。
来たのは、今胸に入れていた石ではなかった。
三十三回、選んだ。掘って並べて、日に向けて、朝の半分を使って。並べなくても外れるかもしれないと思って、早く選んだこともあった。
選んで胸に入れているあいだは、どれも来なかった。
来たのは、とうに外れたと決めていた一つだった。
袋に入っているから外れ。そう決めていた一つ。
いつ拾ったかも覚えていない一つ。
角がないから投げなかった一つ。
投げなかったから残った一つ。
残っているのに、気づかなかった一つ。
捨てようとした一つ。
――取りに行くと来ねえ。
煤の段でリナンがロアンの言葉をそう伝えた。
片のことだった。尖ったものの窪みの青い光のこと。力で取れない。外そうとすると外れない。取りに行くと来ない。
石のことではなかった。
片のことだった。
それでも、同じ言い方になった。
三十三回取りに行った。
来なかった。
取りに行かなかった一つが来た。
――同じなのか。
分からなかった。
片と石が同じなのかどうか。取りに行かなければ来るということなのか。それともそういうことではないのか。
分からなかった。
分からないまま、手のひらの冷たさだけが残っていた。
---
「……荷運びのだ」
リュカは言った。
「え」
「呼び方」
塔の三層目の夜にリナンにそう言った。石が宿ったら別の呼び方になる。宿らないあいだは荷運びのだ。
「宿ったら別の呼び方になるって」
「……言ってました」
「なってない」
リュカは手のひらを閉じた。
「何も出ないなら、荷運びののままだ」
「……そうなんですか」
「出ないなら、誰も呼び方を変えない」
三番街ではそうだった。石の名でも人の名でもない。何ができるかで呼ばれる。鍛冶場の。薬房の。石拾いの。荷運びの。
何もできないなら、呼び方は変わらない。
「……わたしは」
リナンが言った。
「宿る前から下の人でした」
「……」
「宿っても下の人のままでした。何も出なかったので」
リナンは少しだけ笑った。
笑ったが声は出なかった。
「だから、変わらなくても、宿ってます」
---
リュカはしゃがんだまま、外套の内側に手を入れた。
杭を出した。
三本。
まっすぐな二本と曲がった一本。
門の光の端の地面に並べた。
並べてから投槍器も出した。
鉤のついた細長い板。手元の革帯がちぎれかけている。
四つを並べた。
――持っているもの。
杭三本。板一枚。布だけの袋。
それと手のひらの線一本。
増えたのは線一本だった。
石は減った。三十三個目を捨てた。丸い一つは手のひらの中に入って、なくなった。
袋は今度こそ空だった。
――確かめる。
リュカは、右の手を曲がった杭の上にかざした。
何をどうすればいいのかは、分からなかった。
分からないのでただかざした。
手のひらを下に向けて。杭から拳一つぶん上に。
一息。
二息。
三息。
何も起きなかった。
杭は杭のまま地面にあった。
拳一つぶん上げた。
何も。
拳半分、下げた。
何も。
手のひらを開いて、閉じてまた開いた。
何も。
――出ない。
リュカは手を引いた。
---
引いて杭を拾おうとした。
右の手を伸ばして。
曲がった一本の巻いた木の端に指先が届きかけた。
届く前に。
「……あ」
リナンが言った。
小さな声だった。
リュカは手を止めた。
「動きました」
「……何が」
「杭が」
リナンは曲がった一本を見ていた。
「今、少しだけ。リュカくんの手のほうへ」
リュカは杭を見た。
曲がった一本は地面の上にあった。
さっき並べたところから動いたのかどうか、分からなかった。
並べたとき、四つの間を測っていなかった。
測っておけばよかった。
「……どれくらいだ」
「指一本くらい……と思うんですけど」
リナンは言い切らなかった。
「暗いので。見間違いかもしれないです」
リュカは、曲がった一本の隣のまっすぐな一本を見た。
二本のあいだがさっきより狭くなっているような気がした。
気がしただけだった。
門の光の端は暗い。影と杭の形の区別がはっきりしない。
――もう一度。
リュカは手を伸ばした。
さっきと同じように。指先を杭の端へ。
届く前で止めた。
止めて待った。
一息。
二息。
杭は動かなかった。
動いたようには見えなかった。
三息。
四息。
五息。
動かなかった。
「……動かない」
「……はい」
「さっきは」
「さっきは動いたと思ったんです」
リナンはそう言った。
「でも、今は動いてないです」
「見間違いか」
「……かもしれないです」
リナンはそう言って、それから少しだけ黙って、言い足した。
「……かもしれないですけど見ました」
---
リュカは手を引いた。
引いて曲がった一本をつかんだ。
ふつうに。
指で拾って。
冷たかった。夜の鉄の冷たさだった。巻いた木が湿っていた。
――指一本。
見間違いかもしれない指一本。
見ていなかった指一本。
リュカはそれを数に入れなかった。
入れなかったが捨てもしなかった。
入れずに持った。
――次に確かめる。
明るいところで。間を測って。同じことを何度か。
確かめないうちは数にしない。
三年そうしてきた。石が宿るかどうかも、十日確かめてから数にした。
宿ったことはもう確かめた。名前が聞こえて石がなくなった。
何が出るのかはまだ確かめていない。
確かめていないものはないのと同じだ。
――同じか。
袋の中の一つは袋に入っているから、外れだと数えていた。確かめたのかどうかも、覚えていないのに。
外れではなかった。
確かめていないものは、ないのと同じではなかった。
確かめたと思っていたものでさえそうだった。
分からないものだった。
ないのと分からないのとは違った。
リュカは、曲がった一本を外套の内側の紙のほうへ戻した。
まっすぐな二本も。投槍器も。
戻しながらもう一度思った。
――分からないものだ。
数に入れない。
ないことにもしない。
---
足音がした。
白の中から。
門の光の四角の外の壁沿いの三角の門のほうから。
一つ。
重い足音ではなかった。急いでもいなかった。
継ぎ目のない壁沿いにゆっくりこちらへ来る足音。
それに少しだけ灯りが混じっていた。
白の中で橙色の点が一つ揺れていた。
揺れながら大きくなっていた。
――五十歩。
白の中の灯りは遠くに見える。行きの白の中でそう覚えた。見えたときには、たいてい思っているより近い。
――三十歩。
足音の間が灯りの揺れと合っていた。一歩ごとに橙色の点が少しだけ沈む。
――二十歩。
リュカは立とうとした。
膝が抜けた。
壁に手をついた。
右の手で。
手のひらの線が冷たい壁に当たった。
冷たさと冷たさが触れた。
何も起きなかった。
リナンがリュカの前に、出かけて止まった。
止まって翼を少しだけ開いた。
風を受ける形ではなかった。
前を隠す形だった。
――どけ。
そう言いかけて言わなかった。
言わなくても、灯りはもう近かった。
---
「……おう」
声がした。
軽い声だった。
油皿の煤けた灯りを片手にぶら下げていた。
もう一方の手は腰の後ろの弓のような形のものに、かかっていなかった。空いていた。
灯りの向こうに顔が浮いていた。
笑っていなかった。
笑っていないのは珍しかった。
「生きて下りてきたな坊主」
ロアンだった。
リュカは答えなかった。
答える代わりに壁に手をついたまま、立っていた。
ロアンは灯りを少しだけ上げた。
リナンの翼を見た。
それから、リナンの顔を見た。
「翼の子も」
「……はい」
「坊主、下ろしてきたか」
「……下ろしたのはリュカくんです。わたし下ろしてないです」
「そうかい」
ロアンはそう言って、そこで少しだけ笑った。
いつもの笑い方だった。
笑い方が戻って、それでさっきまで笑っていなかったのだと分かった。
「翼畳んでいいぜ」
ロアンが言った。
「俺は撃たねえ。撃つ気もねえ」
腰の後ろには、弓のような形のものがあった。手はやはりかかっていなかった。
「……畳みません」
リナンが言った。
小さな声だった。
小さかったが言い切っていた。
「そうかい」
ロアンはそれ以上言わなかった。
言わずに灯りを少しだけ自分の顔の前からどけた。顔がよく見えるように。
リナンは翼を畳まなかった。
畳まないまま、リュカの前に、半歩立っていた。
――前を隠す形。
煤の段でふた晩待っていた者の立ち方だった。
リュカは何も言わなかった。
どけとも言わなかった。
---
「……何しに来た」
リュカは言った。
声がかすれていた。
「見回り」
ロアンはそう言った。
「夜に一回な。開いてるほうの門まで。開いてねえほうから二百歩」
「……」
「ふた晩来た。ふた晩とも誰も出てこなかった」
ロアンは灯りで門の口を照らした。
照らさなくても、門の口は光っていた。
「今晩は光の端に影が二つあった」
「……」
「それと音がした。なんか投げたろ」
リュカは黙っていた。
「こつって。白の向こうで」
ロアンは白の中を顎で示した。
「石か」
「……石だ」
「宿らなかったやつか」
「……宿らなかったやつだ」
「へえ」
ロアンはそれだけ言った。
それ以上は訊かなかった。
訊かずに灯りを少しだけ下げた。
「捨てたのか」
「捨てた」
「いちばん下で」
「いちばん下で」
「……変わった坊主だ」
てっぺんの段で水を断ったときにも、そう言われた。
同じ言い方だった。
---
「下りてくるとき」
ロアンは灯りを少しだけ揺らした。
「上の門の下の細いとこ。五つ貼りついてたろ」
「……貼りついてた」
「俺らが下りるときもいた。参謀が音石を二つ下へ放って、降ろして抜けた」
――音石。十二シャルド。
てっぺんで、アステナが十一と言った。十一個で百三十二シャルド。石の羽をそうやって、降ろしてきたと。
下りでも二つ。二十四シャルド。
「降ろしたやつはまた上がってくる。坊主が来るころには戻ってたはずだ」
「……戻ってた」
「坊主はどうした。石はもうねえだろ」
リュカは少しだけ黙った。
「……上げた」
「上げた」
「吹き抜けの上へ」
ロアンは灯りの向こうで止まった。
「上へか」
「上へ」
「何で」
リュカは答えなかった。
答えずにリナンの腰の包みを見なかった。
見なかったがロアンは、リナンのほうを見た。
リナンの腰の布で厚く巻いた弓の形のものを。
見てそれから自分の腰の後ろへ少しだけ手をやった。
弓のような形の小さなもの。弦が何本も張ってある。
手をやって触れずに戻した。
「……そうかい」
ロアンはそれだけ言った。
「上へな。……降ろすんじゃなくて」
「降ろすと下にいる」
リュカは言った。
「下りるのに下にいたら困る」
「上にいたら登るとき困るぜ」
「……困る」
「困るのに上げたのか」
「上げた」
ロアンは少しだけ口の端を上げた。
「登るとき困るって、もう数えてんのか」
リュカは答えなかった。
――次にこの坂を登るときは。
坂の上でそう思った自分に気づいた。
気づいたことをこの男に見られた気がした。
---
ロアンの灯りがリュカの手を照らした。
壁についたままの右の手。
ロアンは灯りを止めた。
止めてそのまま、少しだけ見ていた。
リュカは手を壁から離した。
離して拳にした。
遅かった。
「……坊主」
「……」
「手開けてみな」
リュカは開けなかった。
開けない理由はなかった。
なかったが開けなかった。
ロアンは少しだけ首を傾けた。
「さっき壁についてたろ。灯りで見えた。線が一本」
「……」
「怪我じゃねえなあれは」
ロアンはそう言って、灯りを地面に置いた。
置いてしゃがんだ。
しゃがんで、リュカと同じ高さになった。
同じ高さになろうとしたのかどうかは、分からなかった。膝がしゃがむのに慣れている人のしゃがみ方だった。
「宿ったのか」
リュカは答えなかった。
答えないのが答えになった。
ロアンは、灯りの向こうで少しだけ黙った。
それから言った。
「……今か」
「……」
「ここでか」
「……」
「三十三個目外れて、捨ててそれからか」
リュカはロアンを見た。
――三十三個目。
「……覚えてたのか」
「自分で言ってたろ。段の上で」
ロアンはそう言った。
「三十二回、外れた。三十三回目もたぶん外れるって。参謀が六日目外れると読んだあとで」
――入れないと、外れたかどうかも分からない。
あのとき、そうも言った。
ロアンは、三歩下がったところで聞いていた。聞いて覚えていた。
「読んだとおり外れたな」
「……外れた」
「で外れたあとで、別のが宿ったのか」
「……」
「参謀の読みにそれは入ってなかったぞ」
「……言うのか」
「言うさ。言わなくてもどうせ読まれる」
ロアンはそう言った。
「読まれる前に、言っといたほうがあいつの珠が静かだ」
ロアンはそう言って笑った。
笑い方が少しだけさっきと違った。
どう違うのかは分からなかった。
---
「何が出た」
ロアンが訊いた。
「……何も」
「何も」
「名前だけだ」
言ってから言いすぎたと思った。
名前のことはリナンにしか言っていなかった。
ロアンはしかし、そこには触れなかった。
「名前は言わなくていいぜ」
先にそう言った。
「宿った名前は宿ったやつのもんだ。俺が聞いても、俺の役には立たねえ。坊主の役に立つかどうかも、知らねえけどな」
「……」
「で何も出ねえのか」
「出ない」
「光りもしねえ」
「しない」
「熱くもならねえ」
「冷たい」
「冷たい」
ロアンが繰り返した。
繰り返して、灯りの向こうで少しだけ眉を上げた。
「冷たいのか」
「冷たい。手のひらの真ん中が」
「……ふうん」
ロアンはそれだけ言った。
それだけで何かを考えている顔だった。
何を考えているのかは言わなかった。
――軽口ばかりで本心を言わない。
そういう男だということは塔の上の二日で分かっていた。
分かっていても、何を言わないでいるのかは分からなかった。
---
「翼の子」
ロアンがリナンのほうを見た。
「さっきなんか見たろ」
リナンが少しだけ身体を固くした。
「……見てないです」
「見てないって顔じゃねえな」
「……見間違いかもしれないので」
「見間違いかもしれねえもんを見たんだな」
リナンは答えなかった。
リュカのほうを見た。
リュカは何も言わなかった。
言うなとも言えとも言わなかった。
リナンはしばらく黙って、それから言った。
「……杭が少しだけ動いた気がしたんです。リュカくんの手のほうへ」
「どれくらい」
「指一本くらい……」
「指一本」
ロアンはそう言って、少しだけ笑った。
声には出さなかった。
「指一本か」
――指一本だぞ。お前が両足で跳んで。
てっぺんの段でロアンがゼクスにそう言った。曲がった一本が外套の裾の指一本ぶん外を抜けたとき。
同じ指一本だった。
ロアンも、それを思い出しているのかどうかは分からなかった。
---
「……見回りは終わりか」
リュカは言った。
「終わりだな」
ロアンは立ち上がった。
立ち上がって灯りを拾った。
拾ってから少しだけ門の光の四角を見た。
「水あるか」
「……ある」
「何口」
「十二」
「二人で」
「二人で」
「今夜の二口を引いて」
「……十」
「地上層を二日で」
「二日で」
ロアンは口笛を吹きかけてやめた。
「変わった坊主だ」
三度目だった。
「……借りない」
リュカは先に言った。
「てっぺんで断った」
「てっぺんでは上にいる理由が増えるから、断ったんだろ」
ロアンはそう言った。
「上にいる理由はもうねえじゃねえか。下りてきたんだから」
「……」
「下りてきた坊主が地上層で干からびるのは、寝覚めが悪い」
「……」
「返事は朝でいい」
ロアンはそう言って、灯りを少しだけ上げた。
「開いてねえほうの門の前だ。三角の刻んである。そこで火を焚いてる。朝までいる。たぶん朝のあとも少しはいる」
「……なんでいる」
リュカは訊いた。
訊いてからそれがてっぺんの段で片のことを訊いたときと同じ訊き方だと思った。
取らないのか。
なんでいる。
ロアンは少しだけ黙った。
「……さあな」
それから言った。
「俺が決めたんじゃねえ」
読んで頂きありがとうございます。
引き続き1話ずつ毎日更新していきます。
現在4部まで出来ているので一年以上は連続更新できる予定です。
基本的には1日2-3部を18時と20時に分けて更新して行く予定としております!!
少しでも次が気になったり、楽しみにして頂ければ幸いです!
ブクマやお気に入り登録していただけますと今後の執筆の励みになります(´∀`*)
よろしければ是非応援頂けますと幸いです。




