手元に、何も③
只今誠意執筆中_φ(ò_óˇ)ᕤ
どうストーリーが進んで行くか乞うご期待!!
現在は、第4部終盤の執筆に取り掛かっております!
残すは5、6、7部。
先はまだまだ長いですが、構想は終わっているので毎日楽しく執筆できております(●´ω`●)
皆様に少しでも楽しみに感じて頂ける作品になるよう私も楽しみながらやってきます!!
段の上が空になった。
リュカと尖ったものと窪みの青い光と刺さった杭。
それから、五歩先の杭三本と投槍器。
――勝った者が下りていった。
負けた者が上に残った。
てっぺんに。
登りきった者が勝つのだと思っていたわけではなかった。上を見に来た。見たら下りる。それだけのつもりだった。
見た。
下りられなかった。
下りていったのは、通さないと言った者たちだった。
通さないと言った者が先に下りた。
通れなかった者が通れなかった場所に残っていた。
それだけだった。
杭をつかむ音が縁の下から聞こえていた。
三つ。
三つの音が別々の間で下へ遠ざかっていった。
ロアンのは少し速い。アステナのは決まった間で正確に。ゼクスのは、――。
ゼクスのはほとんど聞こえなかった。
片手で下りる男の音は、いちばん静かだった。
---
リュカは音を数えた。
杭をつかむ音を。
一本。二本。
十本。
二十本。
音が小さくなっていった。
小さくなって風に混じった。
――四十本目。
四十本目の隣の杭には結び目が二つ重なって、残っている。おとといの結び目ときのうの結び目。ほどけない結び方で。
あの三人はそれを見るだろう。
見て何を思うだろう。
分からなかった。
――十七本目。
煤の段。
リナンがいる。
ほどけない結び方で結ばれたまま。殻を結び目の横に挟んだまま。
水袋を二つ腰に下げたまま。
あの三人はそこを通る。
杭の列は煤の段のすぐ横を通っている。通らなければ下りられない。
リナンは見るだろう。
上から三人が下りてくるのを。
一人目がロアン。二人目がアステナ。三人目が白に近い髪の片手で下りてくる男。
三人。
四人目は来ない。
リナンはそれを見る。
見て数える。
――三。
来たのは三だった。
来ないのは一だった。
リナンは、来たぶんしか数えないと言った。
来ないぶんはどう数えるのか。
リュカには分からなかった。
分からないまま、リナンが百を止めるのを思った。
止めて三人が煤の段の横を通りすぎるのを膝を抱えて、見ているリナンを思った。
付け根が縮んでいるだろうと思った。
――翼の子に言っとく。
ロアンはそう言った。
何を言うのか。
リュカは、聞こえるはずのない音を聞こうとした。
聞こえなかった。
四十二本と縁一つぶん下の声は、ここまで届かなかった。
届いたのは風だけだった。
---
――ルスールス。
風の中でリュカは、自分の姓を口の中で言った。
あの男は二度姓を訊いた。
あの日路地で。振り返らずに。
きのう段の上で。目を細めて。
二度ともそうかと言った。
二度目はなら通さないと続けた。
――姓を知っていたら通さない。
そういう意味だったのか。
それとも姓を知っていても、通さないという意味だったのか。
なぜと訊いた。きのう。なんで姓を訊いたと。
誰も答えなかった。
ロアンも。アステナも。
知らないから答えなかったのか。
知っていて言わなかったのか。
――ルスールス。
三年その姓で誰かに呼ばれたことはなかった。荷運びのと呼ばれた。坊主と呼ばれた。リュカくんと呼ばれた。
姓で呼ばれたことは一度もなかった。
姓を訊いたのはあの男だけだった。
訊いて何も渡さずに去った。
姓だけが口の中に残っていた。
自分の姓なのに、他人のもののように、残っていた。
---
日が昇っていった。
雲の床から離れて、空の低いところをゆっくりと。
段の上に日が当たりはじめた。
黒い焦げ跡が日に照らされて、少しだけ灰色に見えた。槍が割った床の割れ目に影が細く溜まった。
リュカは仰向けのまま、それを目の端で見ていた。
腰から下はまだ縁の外に出ていた。
下からの風が来るたびに足が少しだけ浮いた。四つ目が過ぎると下りた。
浮いて下りて。
浮いて下りて。
そのたびに右の手のひらで床を押した。
押すだけだった。
---
――持って来い。
ゼクスの声が頭の中でもう一度した。
何を。
杭をなら。杭は五歩先にある。ロアンが置いていった。三本。曲がった一本を入れて。
尖ったものに一本。
雲の中に五本。
鍛冶場の炉の脇の石の箱に三十本。
――三十本。
四十本持ってくれば。
四十本担いで登れねえのは、行く前から分かるとトトは言った。
四十本担いで登れる身体なら。
担げる身体を持って来い。
――そうじゃない。
あの男は、杭のことを言ったのではない気がした。
石をなら。
石は宿らない。三十三個目が胸にある。七日目。あと三日。
宿った石を持って来い。
――それとも。
姓を。
あの男は名前ではなく姓を訊いた。二度。
リュカ゠ルスールス。
そうかと言った。二度。
二度目は続きがあった。なら、通さない。
姓を持って来い。
――分からない。
何を持ってくればいいのか。
何を持ってくれば通すのか。
分からなかった。
分からないまま空を見ていた。
---
――持ってきたものは。
リュカは数えた。
仰向けのまま頭の中で。
塔に持ってきたもの。
トトの杭十本。重さを量って、硬いのを選んで、木を巻き直して、布に包んでくれた。
バルの革袋。開けるまで井戸の匂いが残っていた。開けたら宿の朝の味がした。
ミラの布。汗用の一枚。石の袋に詰めて鳴らなくした。
イサの井戸の水。出発の朝三つの袋を全部、満たした。
ザッハが言った塔の名前。根元を見た者の話はないと言った。あそこで人を殺すのは自分の脚だと。
五シャルドで買った白い紙。何も書いていない紙の上で数をまっすぐ並べた。線を引いた。
膨らみで拾った三つの殻。
投槍器。市の裏手で拾った。革が切れて、誰かが捨てたものだった。
――リナン。
持ってきたのではなかった。
一緒に来た。
来て煤の段に置いてきた。
置いてきたのは自分だ。ほどけない結び方で結んで。
持ってきたものは全部、使った。
一緒に来たものは使わなかった。
使わないのも使い方だと思った。
思ってそれが言い訳のように聞こえた。
――持ってきた。
全部持ってきた。
持ってきたものを全部、使った。
使って指一本ぶん。
持ってきたものでは足りなかった。
――足りないものを持って来い。
そう言われたのかもしれなかった。
足りないものが何なのかは、言わなかった。
あの男は何も渡さない男だった。
訊いたぶんだけこちらが渡している。
---
――ザッハ。
あそこで人を殺すのは自分の脚だ。
ザッハはそう言った。
脚が動かなかった。
膝が伸びなかった。腿が引きつった。
人を殺すのは自分の脚だ。
殺されてはいなかった。
あの男は人を撃たない。一歩前を撃つ。
殺さなかったのは、あの男で脚ではなかった。
脚は動かないまま、縁の外に出ていた。
下からの風が浮かせて下ろして。
浮かせて下ろして。
――今風が五つ続いたら。
四つで足が下りる。五つ続いたら、身体はもう少し浮く。もう少し浮いたら、手のひらが床を滑る。
滑ったら。
リュカは、右の手のひらにもう一度力を入れた。
入れるだけで精一杯だった。
---
目を閉じると空き地が見えた。
三番街の空き地。
朝。まだ誰も起きていない時間。
袋を下ろして四十本を並べた。
並べるのに、決まった順番があった。左から重いものから。トトが巻き直した杭は、一本ごとに重さが少しずつ違った。違うのを手が覚えていた。いちばん重いのは二十歩の的に。軽いのは五十歩の的に。
並べてそれから風を見た。
物干し綱の辺り。二十歩の的の手前で右から左へ一度だけ押す風。
見て二十歩。半歩右へずらして構える。
撃つ。
三十五歩。振りの終わりを少しだけ上へ。
撃つ。
五十歩。的の一歩手前の地面を狙って、跳ねさせる。
撃つ。
四十本を撃って四十本を拾った。拾ってまた並べた。
三年。毎朝。
誰にも見せなかった。
見せる相手がいなかった。
――あの三年は。
何のためだったのか。
リュカは、閉じた目の中で空き地の自分を見ていた。
四十本を並べて撃って拾って。
何のために撃っているのかを考えたことはなかった。
撃てば当たる。当たらなければずれを直す。直せば次は当たる。
それだけだった。
それだけのことを三年、毎朝した。
――それだけですか。
リナンの声がした。
けさではない。きのうの朝。煤の段で。
それだけですか。二度。
それだけのつもりで塔に来た。名前を訊いて上を見て。
それだけのつもりのことを三年、空き地でしてきた。
三年のそれだけを全部持って、ここに来た。
全部、使った。
使って指一本ぶん。
――それだけだった。
三年がそれだけだった。
リュカは目を開けた。
空があった。
空き地の空よりずっと広かった。
広い空の下で三年のそれだけが指一本ぶん足りなかった。
---
日がもう少し高くなった。
段の上に当たる日が少しずつ熱を持ちはじめた。
仰向けの顔に日が当たっていた。目を閉じても瞼の裏が赤かった。
喉が乾いていた。
乾いているというのはもう違った。喉が喉ではないものに、なっていた。乾いた布を喉の奥に押しこまれているようだった。唾を飲もうとすると、飲むものがなかった。
――水は下だ。
リナンの腰に。
大きいほうの袋の残り。バルの革袋。
戻る水。
――戻らないと飲めない。
戻るには起きなければならない。
起きるには手をつかなければならない。
手をつくには、腕が上がらなければならない。
リュカは右の腕に力を入れた。
肩から少しだけ浮いた。
浮いてそれから胸の奥が詰まった。息が吸えなくなった。
腕が床に落ちた。
落ちて息が戻ってきた。浅く。
---
もう一度。
今度は、肩ではなく肘から。
肘を床に立てた。
立てて肘に体重を少しずつ移した。
胸が詰まった。
詰まったまま移した。
身体が少しだけ横に傾いた。
傾いたぶん縁の外に出ていた腰が床のほうへ引き戻された。
――入った。
腰が縁の内側に少しだけ入った。
腿はまだ外だった。
肘をもう一度立て直した。
移した。
傾いた。
腰がもう少し入った。
腿の半分が縁の上に戻った。
それだけで息が尽きた。
リュカは肘を倒した。
仰向けに戻った。
戻って空を見ながら、浅い息を何十も数えた。
---
日がまた少し動いた。
息が少しだけ深くなった。
リュカはまた肘を立てた。
腿が縁の上に戻った。膝が縁を越えた。足首はまだ外にあった。
足首が縁の外にあっても、もう下からの風に身体は浮かなかった。
――浮かない。
浮かないところまで戻ってきた。
縁の上に戻ってきた。
それだけのことに日が拳一つぶん動いていた。
---
五歩。
杭の列の上がり口のすぐ横。
ロアンが置いていった杭三本と投槍器。
リュカは首をそちらへ向けた。
見えた。
鉄の芯に木を巻いた杭が二本。芯が半ばで曲がった杭が一本。先に鉤のついた細長い板が一つ。
並べて置いてあった。
荷を下ろすときのように、まっすぐ揃えて。
――ロアンは荷を揃える男だ。
そう思った。
思って少しだけ何かが胸の奥でほどけかけた。
ほどけかけてまた詰まった。
投槍器の手元の革帯がちぎれかけて、垂れていた。
縁の手前まで滑っていったときに、どこかに引っかけたのだ。
――直さないと。
革帯がちぎれたら、手首に掛けられない。掛けられなければ、石を投げるときに、持ち替えるしかない。
直すには革が要る。
三番街に戻れば、市の裏手に革の切れ端が落ちている。
そこでこの投槍器を拾った。革が切れていたから誰かが捨てた投槍器だった。
また革が切れかけていた。
五歩。
リュカは肘をそちらへ向けた。
仰向けのまま、肘を床に立てて、身体を少しずつ横へずらした。
背中が焦げ跡の上を擦れた。
一歩ぶんずれるのに、息を百、数えた。
百のあいだに何度胸が詰まったか分からなかった。
――一歩。
あと四歩。
一歩ずれるあいだに日が少し動いた。
日が動くのを背中の下の床の温度で知った。日の当たる床は少しずつ温かくなる。焦げ跡の黒いところはもっと早く。
背中の下の焦げ跡が温かかった。
温かいところを背中で擦ってずれた。
――荷運びは背中で知る。
三年、荷を担いで、背中で荷の重さを知った。重さが片側に寄っていれば、背中の片側が先に痛む。
今は荷を担いでいなかった。
背中の下に床があった。
床を担いでいるようだった。
段の床を。塔のてっぺんを。
担いで少しずつずれていた。
---
二歩目で肘が滑った。
焦げ跡の黒い粉の上で。
滑って肘が外れて、身体が床に落ちた。
落ちたとき肘を床に強く打った。
打ったところから胸の奥まで痛みが走った。
痛かった。
痛くて息が止まった。
止まってしばらく戻ってこなかった。
――戻れ。
息にそう言った。
戻ってこい。
息が戻ってきた。浅く。
浅く戻ってきた息の中でリュカは、もう一度肘を立てた。
立たなかった。
腕が震えて、肘が床を押せなかった。
――あと三歩。
三歩が遠かった。
八歩が遠かったのよりずっと遠かった。
距離は三歩のままだった。
足も腕も肘も短くなっていた。
リュカは肘を倒した。
仰向けに戻った。
三歩先の杭と投槍器は見えていた。
見えていて届かなかった。
――手元に何も。
何もなかった。
あと三歩のところに全部あった。
---
「……リナン」
声に出してみた。
出なかった。
喉が乾いた布のままだった。息が喉の奥で擦れて、音にならなかった。
もう一度。
「――リ」
一つだけ音になった。
音になって風にさらわれた。
四十二本と縁一つぶん下には届かない。
届かないのは分かっていた。
分かっていて出した。
――言うのは戻ってからだ。
きのう、何度もそう思った。トトに。リナンに。
戻らないと言えない。
言えないことが口の中に溜まっていた。
溜まって乾いた喉の奥で動かなかった。
---
首を反対へ向けた。
尖ったものがあった。
尖ったものの影が段の上に落ちていた。
朝の低い日に引かれて、細く長くこちらへ伸びていた。
影の先は焦げ跡を何本もまたいで、リュカの右の手のひらの少し先まで来ていた。
――届かない。
影も届いていなかった。
届かないところで止まったまま、日が高くなるにつれて、少しずつ短くなって、遠ざかっていった。
十五歩。
日の当たる側と当たらない側で色が違っていた。当たる側は薄い灰色。当たらない側は青みがかった暗い灰色。
その日の当たらない側のこちらの面に窪みがあった。
窪みの中で青い光が光っていた。
朝と同じ青だった。きのうの昼前と。きのうの夕方と。ゆうべ、壁の陰から見上げた星の中の青と。
――変わらない。
日が動いても。風が入れ替わっても。人が来て立って撃って去っても。
変わらなかった。
その横に自分の杭が刺さっていた。
巻いた木が少しだけ割れていた。鉄の芯の先が窪みの指一本ぶん横に埋まっていた。
――尖ってるやつにはな杭は打てねえんだ。
ロアンの声がした。
打てないと言った。
オリンピアは、鎚と鉄の杭で一枚壁を登ってきた。筒の縁からてっぺんの段まで。六十本近く。継ぎ目のない壁に一本ずつ打ちこんで。
その杭が尖ったものには打てない。
――打てないのに刺さった。
自分の杭は。
打ったのではなかった。撃った。投槍器で。十五歩の距離から。下からの三つ目の風に乗せて。アステナの珠の音で数えて。
戻るところへ。
刺さった。
――なんでだ。
分からなかった。
鉄の杭と自分の杭の何が違うのか。
鎚で打つのと投槍器で撃つのと何が違うのか。
刺さったのが窪みの指一本ぶん横だったのはなぜなのか。
何も分からなかった。
分からないものが十五歩先で青く光っていた。
---
――近くで見たい。
きのう、口が先にそう言った。
ここからじゃなくて。近くで。
尖ったものの前は空いていた。
あの男はもうそこに立っていなかった。
誰も立っていなかった。
十五歩歩けば近くで見られた。
歩けなかった。
三歩も歩けなかった。
――取らなかった。
あの三人は取らなかった。
ふた晩いて、勝って取らずに下りた。
取りに来たとアステナは言った。一つしかないと。
一つしかないものを置いていった。
――わたしたちのこと。
アステナはそう言った。
あの三人のことはあの三人のことだ。
分からなくていい。
いいのかどうかも分からなかった。
分からないまま、青い光はそこにあった。
誰のものにもなっていなかった。
――通さないと言った男はもういない。
いないのに通れなかった。
通さなかったのはあの男ではなかった。
あの男が去ったあとも通れない。
通れないのは自分の脚だった。
――人を殺すのは自分の脚だ。
ザッハの声がもう一度した。
殺されてはいなかった。
それでも、通れなかった。
---
リュカは窪みの青い光を見ていた。
十五歩先から。
近くではなかった。
近くではないが目の端が暗くなっても、真ん中だけがはっきり見える目でそこだけを見ていた。
――星だ。
きのう、初めて見たとき、そう思った。なぜそう思ったのかは分からなかった。
ゆうべ、星の中に同じ青を見た。
同じ青だった。
空の上にあるはずのものが塔のてっぺんの窪みの中にあった。
――降ってきたのか。
分からなかった。
分からないまま、リュカはそれを数えなかった。
数えずに見ていた。
見ていることしかできなかった。
三年、数えてきた。残りを数えてきた。日当を杭を石を日を。
塔に入って、来たぶんを数えるようになった。
今、数えるものがなかった。
来たぶんも残りも。
ただ見ていた。
見ることだけが残っていた。
---
日がもう少し、動いたころ右の腕が少しだけ上がるようになった。
肩から肘まで。肘から手首まで。
胸の奥の詰まりが少しだけほどけていた。息が少しだけ深く入った。
リュカは右の手を持ち上げた。
床から拳一つ。
拳二つ。
震えながら胸のほうへ。
胸の上に置いた。
手のひらの下に外套の布。その下に肌。
肌の温度の硬いもの。
――ある。
三十三個目。
押し潰されても、割れていなかった。
外れの石は割れにくい。三年そうだった。
――七日目。
あと三日。
三十二回、外れた。三十三回目もたぶん外れる。
アステナにはそう言った。
外れると分かって、入れてるのと訊かれた。入れないと、外れたかどうかも分からないと答えた。
手のひらの下で石は何も言わなかった。
三年、何も言わなかった。
三十三個目もたぶん何も言わない。
――それでも。
手のひらを胸から離さなかった。
離す力がなかったのかもしれない。
離したくなかったのかもしれない。
どちらなのか分からなかった。
分からないまま、手のひらは胸の上にあった。
手元に何もなかった。
胸の上には手があった。
手の下には外れるはずの石があった。
---
日が真上に近づいていた。
雲の床が日を返して、白く光っていた。
下から返ってくる光と上から降ってくる光のあいだで段の上には、影がほとんどなくなった。
焦げ跡だけが黒かった。
割れ目だけが細く暗かった。
自分の影も身体の下に縮んで、見えなかった。
段の上の影が短くなった。尖ったものの影が根元に縮んでいった。
リュカの顔に日がまっすぐ当たっていた。
目を閉じた。
閉じた瞼の裏で赤い光が脈を打っていた。
――脈。
自分の脈だった。
瞼の裏の赤が少しずつ明るくなって、暗くなって、また明るくなった。
数えられた。
一。二。三。
数えるものが一つあった。
自分の脈。
――まだある。
手元に何もなくても。
脈はあった。
---
耳を澄ませた。
風の音。右から二つ。左から三つ。下から四つ。
そのあいだに何か別の音がないか。
下から。
四十二本と縁一つぶん下から。
百の声が。
――来ない。
ゆうべは聞こえた。ほとんど聞こえないくらい小さく。それでも、百のところで来た。夜明けに段へ上がったときも来ていた。
それから、来なくなった。
さっきから来ていなかった。
三人が縁を下りていって、杭をつかむ音が聞こえなくなってから。
――あそこを通ったんだ。
煤の段のすぐ横を。
ロアンが翼の子に言っとくと言った。
何かを言ったのだ。
言われてリナンは、数を止めたのかもしれない。
止めて聞いていたのかもしれない。
何を聞いたのか。
――戻ってきて切ってください。リュカくんが。
その言葉を言った者が今何を聞いているのか。
リュカには分からなかった。
分からないまま脈を数えた。
脈で百を数えた。
---
百。
来なかった。
もう一度一から。
百。
来なかった。
――数え直してる。
見えないところは数えて待ちます。
見えなくなったら、一から数え直す。ゆうべ、リナンはそうした。縁の陰に入ったリュカが見えなくなって、百五十を過ぎたところで数え直した百が来た。
今、リナンからは何が見えているのか。
段の上は下からは見えない。縁に隠れて。
見えないものをリナンは数えて待つ。
――数えて待つ。
リュカも数えた。
脈で。
一から。
---
三度目の百で。
来た。
ほとんど聞こえなかった。
風のあいだに。
下からの四つ目が過ぎて、右からの一つ目が来る前のほんの少しの静かなところに。
小さな声が。
言葉は聞こえなかった。
高さだけが聞こえた。
――同じ高さだ。
下の坂で百息に一度後ろから聞こえていた高さ。煤の段からゆうべ聞こえていた高さ。
同じ高さで来た。
百のところで。
リュカと同じところで。
――合わせました。
けさではない。きのうの朝。リナンは一口多く飲んで、そう言った。合わせたかったので、と。
合わせて来た。
---
――来たぶんは減らない。
おとといリナンにそう言った。四十本目で腕の上がらなくなったリナンを煤の段まで下ろすとき。
来たぶんを数えた。
塔の根元から一層目。二層目。坂を何千息。低い門。這って七百と少し。筒の坂。筒の縁。一枚壁の五十九本。
五十九本目の上の段。
てっぺんの少し下。
――来た。
ここまで来た。
来たぶんは減らない。
負けても減らない。
杭を全部使っても、石を全部投げても、殻が割れても、帯を置いてきても。
来たぶんはそこにある。
リュカはそれを数に入れた。
入れてそれでも、胸の詰まりはほどけなかった。
来たぶんは減らない。
それでも、手元には何もなかった。
減らないものは、手元にはないものだった。
足の下にあるものだった。
---
夜が来る。
日が真上を過ぎれば傾く。傾けば雲の床に近づく。近づいて触れて沈む。
きのうもそうだった。
今日もそうなる。
――起きられるか。
夜が来るまでに。
起きて三歩ずれて、杭と投槍器を拾って。
縁を越えて、五十九本目に足を載せて。
四十二本、下りて。
分からなかった。
腕は少しだけ上がるようになった。胸の上に手を置けた。
脚はまだ動かなかった。
脚が動かなければ下りられない。
下りられなければ、ここで夜を待つ。
帯は四十本目に置いてきた。ここで眠っても結んでいない。
段の上は広い。縁から離れていれば落ちない。
――縁から離れていれば。
今、自分は縁から身体一つぶんのところにいた。
そこまで戻るのに、さっき日が拳一つぶん動いた。
---
リュカは目を開けた。
空が白かった。
日が真上にあった。
手元に何もなかった。
杭は三歩先。投槍器も。
水は四十二本と縁一つぶん下。
石は胸に。七日目。あと三日。
片は十五歩先の窪みの中。
自分の杭はその横に刺さったまま。
全部どこにあるかは分かっていた。
分かっていて、一つも手の中になかった。
それでも。
――百。
下からまた来た。
同じ高さで。
リュカは脈で一から数えはじめた。
四十二本と縁一つぶん下で。
ほどけない結び方で結ばれた翼の子が。
同じ数を数えていた。
脈で一。
二。
三。
――合わせる。
下の百に。
下の百が来たところで自分の百も来るように。
ずれたら合わせ直す。
合わせ直すために数える。
数えるものはそれだけだった。
それだけが手元に残っていた。
日は真上にあった。
これから傾く。
傾いて沈んで夜が来る。
夜が来ても下の百は続く。
続くあいだは自分も数える。
数えているあいだは、まだ何かが手元にあった。
読んで頂きありがとうございます。
引き続き1話ずつ毎日更新していきます。
現在4部まで出来ているので一年以上は連続更新できる予定です。
基本的には1日2-3部を18時と20時に分けて更新して行く予定としております!!
少しでも次が気になったり、楽しみにして頂ければ幸いです!
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