手元に、何も②
只今誠意執筆中_φ(ò_óˇ)ᕤ
どうストーリーが進んで行くか乞うご期待!!
現在は、第4部終盤の執筆に取り掛かっております!
残すは5、6、7部。
先はまだまだ長いですが、構想は終わっているので毎日楽しく執筆できております(●´ω`●)
皆様に少しでも楽しみに感じて頂ける作品になるよう私も楽しみながらやってきます!!
――全部、使った。
風を読んだ。きのうの昼三つの風を半日で覚えた。日が傾いて、入れ替わったのも覚え直した。夜向こうの面の風も覚えた。
重さを読んだ。右に載っていたのが真ん中に移った。真ん中のまま戻さなかった。
環の音を読んだ。高くなれば来る。縮むほど弱くなる。急がなくなれば三十に戻る。
戻るところを読んだ。尖ったものの前。
他人の数で撃った。アステナの珠の音で。
焼かれる光で杭を見た。
壁の陰を這った。
帯で自分を結んだ。帯を切った。
試したことのない一本を試さずに撃った。
――全部だ。
三年で覚えたものと塔の五日で覚えたものと半日で覚えたものとひと晩で覚えたもの。
それを全部、使った。
使って指一本ぶん。
指一本ぶん足りなかった。
――それでも。
それでも、とは思わなかった。
思う場所がもうどこにもなかった。
膝の下の焦げ跡がまだ少しだけ温かかった。
きのうの夕方の白い面の跡だ。
ひと晩たって、まだ温かいはずがなかった。
温かいのは自分の膝のほうだった。
膝が熱を持っていた。
熱を持った膝はもう伸びなかった。
---
「……取らないのか」
リュカは言った。
膝をついたまま。かすれた声で。
誰にというのでもなかった。
段の上の三人に。
きのう、訊かなかったことだった。訊けば話がそちらへ行く。そちらへ行った話は、自分のものではないと思った。
今は自分のものでなくてもよかった。
自分のものがもう手元に何もなかった。
「それ。窪みの青いの。取りに来たって言った」
アステナが少しだけ顔を上げた。
ロアンがゼクスのほうを見た。
ゼクスは答えなかった。
尖ったものを振り返りもしなかった。
「ふた晩ここにいた」
リュカは続けた。
「取らないでここにいた」
答えはなかった。
風が右から二つ。
左から三つ。
「……それは」
アステナが言った。
低くて平らな声。
「わたしたちのこと」
それだけだった。
それだけでアステナは、また膝の上の珠に目を落とした。
――わたしたちのこと。
お前には関係ないという言い方だった。
関係ないというより渡さないという言い方だった。
何も渡さない。
この三人は、ゼクスだけでなく三人ともそうだった。
訊いたぶんだけこちらが渡している。
リュカは口を閉じた。
---
ゼクスが歩いた。
尖ったものの前から二歩、右へ。ずれていたぶんを戻すように。
焦げ跡を踏んだ。
黒い線を何本もまたいで。
踏むたびに焦げた粉が靴の下で少しだけ鳴った。
自分で焼いた跡の上をあの男は、何も見ずに歩いた。
戻ってそれから一歩、前へ。
きのう、尖ったものの前から初めて離れたとき、あの男は一歩、前に出た。そのあとの白い面でリュカは、段の縁から押し出された。
今も一歩、前に出た。
出て止まった。
十四歩。
リュカとゼクスのあいだ。
「立て」
ゼクスが言った。
低い声だった。
きのう、何度も戻れと言った声と同じ高さだった。
同じ高さで違うことを言った。
――立て。
言ってからゼクスは息を一つ吐いた。
吐く息が見えた。朝の段の上はまだ冷えていた。白い息がゼクスの口から少しだけ出て消えた。
――息をしてる。
当たり前だった。
当たり前なのに、リュカはそれを初めて、見た気がした。
ふた晩立っていた男が息を吐いた。
石で済ませていたのかもしれない。済ませていなかったのかもしれない。
どちらでも吐いた息は白かった。
白くてすぐに消えた。
リュカは膝に力を入れた。
右の足の裏を床につけた。焦げ跡の上に。
踏んだ。
膝が伸びなかった。
さっきよりもっと伸びなかった。曲がった一本を撃ったとき、膝をついたまま、身体をひねった。ひねったぶん腿の内側の引きつれがひどくなっていた。
左の手で床を押した。焦げた指が痛んだ。
身体が少しだけ浮いた。
浮いてそこで止まった。
止まってまた床に戻った。
――立てない。
立てと言われて立てなかった。
三年、荷を担いで、立てなかったことはなかった。どんなに重い荷でも、膝をついて、担いで立った。立てないなら荷を軽くした。軽くして立った。
今は軽くするものがなかった。
背中に何も担いでいなかった。
それなのに立てなかった。
――立て。
三年、誰にもそう言われたことがなかった。
立つかどうかはいつも自分で決めた。重い荷を下ろした朝も、日当の出なかった夕方も。誰も見ていないところで自分で立った。
今は見られていた。
十四歩先からまっすぐに。
見られているところで立てなかった。
---
「……立てないか」
ゼクスが言った。
問いではなかった。
見たままを言っていた。
リュカは答えなかった。
答える代わりにもう一度踏んだ。
膝が震えた。
震えて伸びなかった。
「そうか」
ゼクスは言った。
あの日、路地で姓を訊いて、そうかと言った。きのう、段の上でもう一度姓を訊いて、そうかと言った。撃ち方をどこで覚えたかを訊いて、そうかと言った。
同じ言葉だった。
同じ言葉で終わらせる男だった。
――終わらせない。
リュカは膝をついたまま、顔を上げた。
「……立たなくても」
声がかすれた。
「立たなくても撃てる」
さっきそうした。膝をついたまま撃った。指一本ぶんだった。
「撃つものがない」
ゼクスが言った。
「――ない」
リュカは言った。
言ってからそれが自分の声だと分かった。
ない。
自分で言った。
---
ゼクスはしばらく何も言わなかった。
風が右から二つ。左から三つ。
下から。
それから、ゼクスは槍を持ち替えた。
右手だけで。
柄の真ん中を握っていた手を柄の後ろへ滑らせた。穂先が上がった。床に向いていた穂先が水平になって、リュカのほうを向いた。
きのう、白い線を撃つときは柄の真ん中を握ったまま、穂先を少しだけこちらへ傾けるだけだった。柄の後ろを握るのは初めて見た。
今は穂先がまっすぐこちらを向いていた。
環が光った。
一つ目の環が。
それから二つ目。
三つ目。
順番に。
白い線のときは三つがいっぺんに光って、光が環から環へ走った。
今は違った。一つずつ灯るように。一つ目が灯って、二つ目が灯って、三つ目が灯ったとき、一つ目がもう一度強くなった。
音が違った。
高くなっていくのではなかった。
低かった。
低いまま太くなっていった。
腹の底で聞こえる音だった。籠の綱がいちばん重い荷を吊って、止め木を引く前に鳴る音。それよりもっと低く。もっと太く。
――張ってるんじゃない。
溜めている。
---
ゼクスの右の肩に白い点が出た。
きのう、白い線を撃つたびに一瞬だけ透けて見えた点。外套の上から。小さな一つだけの点。
今は一瞬ではなかった。
点が消えなかった。
消えないまま、白さが増していった。
大きくはならなかった。小指の先ほどの小さな点のまま。小さいまま、白さだけが増していった。
――広がらない。
三年、遠くから見た上の連中は技を使うと腕に線が走った。額に紋が浮いた。大きく長くはっきりと。
あの男の点は広がらなかった。
広がらないかわりに肩が消えた。
消えたのではなかった。きのうの夕方白い面の前に見たのと同じだった。そこにあるのに、目がそこをとらえない。
肩から二の腕へ。二の腕から肘へ。
きのうは、肩から先が溶けたところで白い面が来た。
今は止まらなかった。
肘から手首へ。手首から槍を握る指へ。
右の腕がまるごと見えなくなった。
槍だけが宙に浮いていた。
握る手の見えない槍が穂先をこちらに向けて、三つの環を順番に灯していた。
――きのうより先まで消えてる。
消えたぶんだけ何かが溜まっている。
---
ゼクスの口が動いた。
小さく。
リュカには聞こえなかった。
聞こえなかったが口の形が見えた。
開いて閉じて。
短い言葉だった。
二つか三つの音。
「……アルゲ」
今度は聞こえた。
低い声だった。
誰かを呼ぶ声だった。
――名前だ。
リュカはそう思った。
なぜそう思ったのかは分からなかった。
分からなかったが名前だと思った。
あの男は誰の名前も呼ばなかった。あの日、路地でロアンの名もアステナの名も口にしなかった。名前を訊いたら、必要ないと言った。自分の名前も言わなかった。
その男が今名前を呼んだ。
誰の名前かは分からなかった。
段の上には、ロアンとアステナとリュカしかいない。
誰でもない名前をあの男は呼んだ。
呼ばれたものが肩の点の中で白く燃えていた。
---
「――ゼクス!」
ロアンが立ち上がっていた。
膝の上の二本の杭が床に転がった。
「坊主相手にそれはねえだろ。それは――」
「ロアン」
アステナの声がした。
壁際に座ったまま。
珠を押さえていた手が震えていた。
「三歩」
「三歩じゃねえよ。あの技は――」
「三歩」
アステナはもう一度言った。
顔を上げなかった。
「ゼクスが決めた。わたしたちは三歩」
ロアンは言いかけたまま止まった。
止まって腰の後ろの弦を張った小さなものを握った。
握ってそれから手を離した。
離して三歩、下がった。
下がってそれから転がった二本の杭を見下ろした。
拾わなかった。
拾えば何かをしたことになる気がしたのかもしれない。
---
リュカはもう一度踏んだ。
――退き足。
後ろへ下がりながら防ぐ。三年、溝鼠に追われて、水路で覚えた。
後ろは弧の縁だった。縁の外は雲。杭の列の上がり口は左へ五歩ほど。
後ろへ二歩下がれば、縁にぶら下がれる。きのうの夕方そうした。白い面に押されて、縁の外へ出て、右手一本でぶら下がった。
――二歩。
足が動かなかった。
膝が伸びないまま震えていた。
退き足は足で下がる技だった。
足がなかった。
あるのになかった。
――沈み《ハウ》。
気配を薄くする。
薄くしても、十四歩先の男はこちらを見ている。見ているものの気配を薄くしても、見えなくはならない。
――見切り《サク》。
重さの載るところを見て、次の動きを読む。
あの男の重さは、どこにも載っていなかった。
真ん中に置いたまま、動かなかった。動かないものの次の動きは読めない。
右の腕は見えなかった。槍を握る手も。
見えないものの重さは読めない。
――全部ない。
三年で覚えたものが全部ここで使えなかった。
使えないものを一つずつ数えた。
数えているあいだに三つ目の環が二度目に強くなった。
---
音が止んだ。
低い太い音がふっと止んだ。
止んだのに、耳の奥でまだ鳴っていた。
段の上が静かになった。
風も止んでいた。
右からも左からも下からも来なかった。
――止まった。
風が止まるのをリュカは塔に入って、初めて聞いた。
聞いたというのはおかしかった。止まったものは音がしない。
それでも聞いた。
風の止んだ音を。
---
槍が消えた。
ゼクスの見えない手の先から。
消えたのではなかった。
速すぎて目が追えなかった。
白いものが一本空気の中に引かれた。
線ではなかった。きのうの白い線は光だった。光が走った。
今度は物だった。
槍そのものが白くなって走った。
――撃ち出した。
投げたのではなかった。腕は動いていなかった。見えない腕がどう動いたのかは分からない。
それでも、投げたのではなかった。
放たれたのだった。
弦も板もなく。
環が槍を放った。
---
槍はリュカには来なかった。
リュカの一歩、前。
膝をついたその膝のすぐ前の床に。
突き立った。
継ぎ目のない床に。叩いてもこんとしか鳴らない床に。
槍の穂先が根元まで埋まった。
埋まって柄が震えた。
震えた柄の三つの環がいっぺんに白く弾けた。
---
音はそのあとで来た。
来たと分かる前に、身体が浮いていた。
前から。
槍の突き立ったところから何か見えないものがまとめて膨らんだ。膨らんでリュカを後ろへ押した。
きのうの白い面は背中から押された。
今度は前からだった。
胸を。顔を。膝を。全部を一度に。
膝が床を離れた。
身体が後ろへ飛んだ。
段の床が目の下を流れた。焦げ跡が黒い線が流れていった。
右手から何かが抜けた。
――板。
投槍器だった。
握っていたはずの投槍器が手の中から抜けていった。
抜けてどこかへ行った。
どこへ行ったのかを見る間はなかった。
――飛べないじゃなくて飛ばない。
リナンの声がした。
ずっと前にリナンはそう言った。飛べないのではない。飛ばないのだと。
今自分は飛んでいた。
飛ぼうとしたのではなかった。
押されて飛ばされていた。
飛ばされるのは飛ぶのとは違う。
翼のない者は、飛ばされることしかできない。
背中が床に落ちた。
落ちて滑った。
滑って止まらなかった。
――縁。
背中の下で床が終わろうとしていた。
腰が縁を越えた。
足が宙に出た。
――止まれ。
両手を広げた。
焦げた左の指が床を引っかいた。右の手のひらが床に貼りついた。
貼りついてそれでも滑った。
滑って。
腿が縁を越えたところで止まった。
止まった。
腰から下が縁の外に出ていた。
足の下は雲だった。
雲は遠かった。
きのうの朝縁から見下ろしたときと同じ遠さだった。
同じ遠さなのに、今は足の下にあった。
足の裏が何も踏んでいなかった。
踏むものがない足は重かった。
重い足が縁の外でぶら下がって、腰を外へ引いていた。
引かれるたびに背中の下の床が少しずつ遠くなる気がした。
---
耳が鳴っていた。
高い音でも低い音でもなかった。
音のない音が耳の中に詰まっていた。
目が白かった。
見えているものの真ん中も、まわりも白かった。白い中にところどころ黒い点が浮いていた。
――生きてる。
それだけが分かった。
生きている。
腰から下が縁の外に出たまま。両手を床に広げたまま。
背中の下に床がある。
床の上に自分がいる。
リュカは動こうとした。
動かなかった。
腕も。指も。首も。
動けと思ったところがどこも、動かなかった。
動かないまま、白い目で空を見ていた。
---
空は高かった。
白い目の真ん中に少しずつ色が戻ってきた。灰色。それから薄い青。
朝の空だった。
雲の床の上の何もない空。
空の端を鳥が一羽、横切った。
鳥ではなかったのかもしれない。
遠すぎて分からなかった。
翼のあるものが何もない空を横切っていった。
横切って見えなくなった。
――翼。
リナンの翼。
煤の段で布に包まれて、畳まれている。乗る風が来るたびに付け根が縮む。
縮んで乗らない。
使わないのも使い方だ。
水の線のことでリュカはそう言った。リナンの翼もたぶんそうだった。
尖った先のさらに上。
――上はある。
きのう、段に上がったとき、そう思った。尖った先から上は杭も壁も段もない。登るものがない。
上はある。ただもう登れない。
今は登れないのではなかった。
起きられなかった。
仰向けのまま、腰から下を雲の上に出したまま、指一本動かせなかった。
---
耳の中の音のない音が少しずつ薄くなっていった。
薄くなったところからほかの音が入ってきた。
風だった。
止まっていた風がまた来ていた。
――止まった風はまた来る。
さっき槍が放たれる前に、風が止まった。塔に入って初めて聞いた。止まった風の音。
止まったものがまた動いていた。
右から。左から。下から。
止まってもまた来る。
風はそういうものだった。
右から。
一つ。
二つ。
――数えてる。
動けないのに数えていた。
身体のどこも動かないのに、頭の中だけが風を数えていた。
三年そうしてきた。荷を担いで、坂を上りながら、歩数を数えた。空き地で撃ちながら、的までの歩数を数えた。溝鼠に追われて、水路の曲がり角を数えた。
数えるのは身体が動かなくてもできた。
数えるのだけが最後まで残った。
---
左から一つ。
――指は。
右の手のひらが床に貼りついていた。貼りついたまま、指が少しだけ動いた。
動いた。
人差し指。中指。
左の手。焦げた二本の指が床に引っかかったまま、痛んでいた。
痛むのはまだ指があるからだ。
――ある。
腕は。
肩に力を入れた。
入らなかった。
入れようとすると、胸の奥が詰まった。息が浅くしか入らなかった。
さっき前からまとめて押されたところだ。胸を。顔を。膝を。
胸の中が押し潰されたまま、まだ戻ってきていなかった。
――胸。
三十三個目がそこにある。
石を入れてある。
手を当てて確かめたかった。
手が胸まで上がらなかった。
確かめられないまま、たぶんあると思った。
石は肌の温度になる。宿っても宿らなくても。押し潰されてもたぶん割れない。外れの石は割れにくい。三年そうだった。
---
左から二つ。三つ。
下から。
下からの風が縁の外に出た腰から下を持ち上げた。
足が少しだけ浮いた。
浮いて身体ごと縁の外へ引かれそうになった。
――持ち上げられたら。
持ち上げられた身体は軽くなる。軽くなった身体は縁を滑る。
滑ったら雲だ。
右の手のひらに力を入れた。
指が床を押した。
押すだけだった。つかむものはなかった。継ぎ目のない床だ。指のかかるところがどこにもない。
下からの風が一つ。二つ。三つ。
四つ目で足が下りた。
身体が床に戻った。
――四つ。
下から四つのあいだ自分は、縁の上で浮いている。
四つが過ぎたら落ち着く。
リュカはそれを覚えた。
覚えたが使えなかった。
使うための身体が動かなかった。
---
顔の横の床に黒い線が一本引かれていた。
白い線の焦げ跡。きのうの昼か夕方の。
――線。
五層目で白い紙の上に指で線を引いた。ここまで行ったら戻るという線。
縁でその線を少し先へずらした。
きのう、その線を越えた。一口も飲まずに。ここにいる時間が水を減らしていた。
今、自分は線のどこにいるのか。
戻る水の三十七口からひと晩ぶんがもう出ていくことに決まっていた。
ふた晩目が来るのかもしれない。
――おらんはずのところにおる者は、名前を訊いておくもんだ。
バルの声がした。
あの男は、おらんはずのところにいたときのう思った。先に。上に。
だから名前を訊いた。
今、おらんはずのところにいるのは自分だった。
塔のてっぺんの段の上。名簿に載らない者。石を宿さない者。
名前を訊きに来る者はいなかった。
姓を訊いた男はもう何も訊かなかった。
――数えられない。
数えるための数がどこにもなかった。
いつ起きられるのか。いつ下りられるのか。下りるのに何本かかるのか。何本の途中で日が落ちるのか。
何も分からなかった。
分からないものは数えられない。
三年で初めて、数えるものがなくなった。
---
――手元に。
右の手のひらの下に床があった。
左の指の下に床があった。
それだけだった。
投槍器は手の中から抜けていった。どこへ行ったのか見ていない。
杭はない。
石はない。
ちがう。
石は段の上にいくつかある。きのう、四十本目から投げて、縁を越えた石。宿らなかった石。焦げ跡のあいだに白っぽく散らばっているはずだった。
どれも手の届くところにはなかった。
届かない石はないのと同じだった。
石の袋だけがまだ肩にかかっていた。布しか入っていない空の袋が。飛ばされても、肩から抜けなかった。
殻は割れた。
水は下だ。
――何も。
手元に何もなかった。
三年、手元にはいつも何かがあった。荷の紐。四十本の杭。投槍器。袋の中の宿らなかった石。紙。数。
何もなくなったのは初めてだった。
――焼けた夜は。
焼けた夜投槍器も杭も屋根裏にあった。婆さんとリナンの名前を叫んで、声が千切れて、届かなかった夜。
手元には、イサが胸に押しつけた桶があった。
空になったら、広場へ走って、また満たした。何度も。
あの夜は手元に桶があった。運ぶものがあった。
今朝は何もなかった。
――下の百は。
耳を澄ませた。
耳の中の音のない音は、もうほとんど消えていた。
消えたところに風の音だけが入ってきた。
百は聞こえなかった。
聞こえるはずがなかった。四十二本と縁一つぶん下だ。夜明けにやっと聞こえるか聞こえないかだった。
それでも、耳を澄ませた。
風のあいだを。
――百。
来なかった。
自分がどこまで数えていたのかも、分からなくなっていた。槍が床に突き立ったときに、数がどこかへ飛んだ。
飛んだ数は戻ってこなかった。
リュカは一から数え直した。
一。
二。
下の百と合っているのかどうかは、分からなかった。
分からないまま数えた。
---
足音がした。
速さを変えない一定の足音。
床に突き立った槍の柄が低く唸っていた。
環はもう光っていなかった。それでも、柄の中で何かがまだ震えていた。
溜めて放ったものの残りが。
近づいてきた。
リュカは首を動かそうとした。
少しだけ動いた。
目の端に槍が見えた。
床に突き立ったまま、柄がまだ細かく震えていた。三つの環はもう光っていなかった。くすんだ金属の色に戻っていた。
槍の突き立ったところから床に割れ目が走っていた。
継ぎ目のない床に。叩いてもこんとしか鳴らない塔の床に。
初めて継ぎ目ができていた。
割れ目は、槍の根元から三方へ走っていた。一本は、リュカが膝をついていたところまで。一本は壁際のほうへ。一本は縁のほうへ。
縁のほうへ走った割れ目は、リュカの右の手のひらのすぐ横で止まっていた。
――割れた。
塔は割れないと思っていた。
継ぎ目がない。叩いてもこんとしか鳴らない。石の羽がはまる窪みも閉じれば、継ぎ目が消える。
その塔の床をあの男は割った。
割ったのはリュカではなかった。
リュカの一歩前の床だった。
――外したのか。
ちがう。
外したのではなかった。
あの男は一歩前を狙った。
手を撃たない。杭の列を焼かない。
人を撃たない。
撃つのは来るものの一歩前だけ。
---
足音が槍のところで止まった。
ゼクスが槍の柄を右手で握った。
右の腕がもう見えていた。肩も。白い点はもうなかった。外套の肩のただの布だった。
握って引いた。
一度では抜けなかった。
もう一度引いた。
穂先が床から抜けた。抜けるとき、割れ目の縁が少しだけ欠けた。欠けた欠片がからんと乾いた音を立てた。
ゼクスは槍を肩に戻した。
右の肩に。
左の腕は下がったままだった。
槍を抜くときも、引くときも肩に戻すときも。
一度も動かなかった。
---
ゼクスはリュカの横に立った。
見下ろした。
リュカは仰向けのまま見上げた。
朝の空を背にして、白に近い髪が風に少しだけ揺れていた。
顔は逆光で暗かった。
暗くて表情は見えなかった。
見えないぶん何もないように見えた。
――あの日と同じだ。
路地で見上げた顔。
あの日、リュカは水路から上がったところだった。路地の入り口に上から降りてきた三人が立っていた。
あの日もこの男を見上げていた。
背が高いから見上げた。
今は倒れているから、見上げている。
同じ見上げ方なのに、ずっと遠かった。
---
「……戻れ」
ゼクスが言った。
六度目だった。
きのう数えた。四度。それから、縁の上から五度目。
六度目はもう言わないと思っていた。
言わなくても同じだったからだ。
言った。
同じ言葉なのに、きのうまでとは違って聞こえた。
きのうまでは命じていた。
今は――。
今は何なのか分からなかった。
分からなかったが命じてはいなかった。
リュカは口を開いた。
声が出なかった。
胸の奥がまだ詰まっていた。息が浅くしか入らない。浅い息では声にならない。
――戻らない。
口の形だけがそう動いた。
声にはならなかった。
ゼクスには聞こえなかったはずだった。
ゼクスは少しだけ黙った。
黙ってそれから言った。
「なら、次は持って来い」
---
――持って来い。
何を、とは言わなかった。
杭をなのか。
石をなのか。
水をなのか。
それとも――。
――次。
次があると言った。
あの男は次があると言った。
次に来るときは、と。
三年、次を考えたことがなかった。次の荷。次の日当。次の朝。それは次ではなかった。同じものがまた来るだけだった。
次に来るときは何かを持って来る。
持ってくるものが今はない。
ないから次がある。
――ないから次。
リュカはそれを数に入れなかった。
入れる場所がまだなかった。
入れる場所ができるまで置いておくことにした。
膨らみで拾った殻を置いていかなかったように。
分からないものを置いていかなかった。
ゼクスはそれ以上何も言わなかった。
見下ろしていた目を上げた。
尖ったもののほうを見た。
窪みの青い光を。
その横に刺さったリュカの杭を。
しばらく見ていた。
見ているあいだあの男の顔に何かが浮かんだように見えた。
朝の光の加減だったのかもしれない。
逆光ではなくなった横顔は、やはり何も浮かべていないように見えた。
それでも、見ている時間が長かった。
窪みの青い光より刺さった杭のほうを長く見ていた。
見ていてそれから背を向けた。
背を向けて、尖ったものの前へ戻らなかった。
壁際の荷のほうへ歩いていった。
速さを変えない一定の足音で。
――戻らなかった。
あの男はきのうからずっと尖ったものの前に、立っていた。
離れても戻った。
今は戻らなかった。
尖ったものの前が空いていた。
空いたまま、誰もそこに立たなかった。
---
荷をまとめる音がした。
革の背負い袋の口を締める音。鉄の杭の束が袋の中で触れ合う音。油皿を布に包む音。
満ちた水袋を腰に下げる音。
――下りるんだ。
リュカは仰向けのまま、それを聞いていた。
三人が下りる。
片を取らずに。
――取らずに。
窪みの青い光はまだそこにあった。尖ったもののこちら側の面に。リュカの杭の指一本ぶん横に。
取りに来たとアステナは言った。一つしかないと。
ふた晩ここにいた。
取らずに下りる。
――取れないのか。
取らないのか。
それとも、待っていたものがもう来たのか。
分からなかった。
分からないものを仰向けのまま、また一つ数えずに置いた。
---
荷をまとめる音のあいだに一つだけ違う足音がした。
速さを変えない一定の足音。
リュカは首を少しだけそちらへ向けた。
ゼクスが尖ったものの横に立っていた。
前ではなく横に。荷のほうから縁へ向かう途中で足を止めたのだ。
止まってそれから右の手を上げた。
槍を肩に負ったまま、右の手だけを。
手のひらを尖ったもののこちら側の面に向けた。
窪みは人の背丈の四つぶん上だった。届かない。手を伸ばしても。
ゼクスは、届かないところへ手のひらを向けていた。
向けたまま、しばらく動かなかった。
何をしているのかは分からなかった。
祈っているようには見えなかった。
確かめているように見えた。
何を確かめているのかは、分からなかった。
やがて、ゼクスは手を下ろした。
下ろした右の手を一度だけ握って開いた。
それから、尖ったものに、背を向けた。
――取らなかった。
取れなかったのか。
取らなかったのか。
あの手のひらが何を確かめたのか。
リュカには何も分からなかった。
---
足音が一つ近づいてきた。
速さの決まっていない足音だった。
アステナだった。
リュカの頭の横で止まった。
しゃがまなかった。立ったまま見下ろしていた。
手の中で珠が鳴っていた。かち。かち。繰ってはいなかった。握った手の中で触れ合っていた。
「読めなかったのは二つ」
アステナは言った。
低くて平らな声。
平らなまま、少しだけゆっくりだった。
「一つはあなたが何をしに来るのか。きのう、あなたが登ってくるあいだにそう言った。読めないと」
リュカは答えなかった。
答えられなかった。
「もう一つはさっきの曲がった杭」
アステナは壁際のほうを見た。
尖ったものの根元に曲がった一本が転がっていた。
「試したことのないものは、わたしには読めない。あなたにも読めない。だから、あの杭は誰にも読めなかった」
かち。
珠が一つ鳴った。
「誰にも読めないものをあなたは撃った」
それきりアステナは何も言わなかった。
しばらく立っていた。
立ったまま、何か言いかけたように、口が少しだけ動いた。
動いて閉じた。
閉じてそれから背を向けた。
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もう一つ足音がした。
ロアンだった。
縁の近くに転がっていた二本の杭を拾い上げる音がした。
それから、尖ったものの根元へ歩いていく足音。
曲がった一本を拾う音。
それから、リュカのすぐそばへ。
ロアンはしゃがんだ。
しゃがんで、リュカの顔を覗きこんだ。
目尻の深い皺。
笑っていなかった。
「生きてるな」
ロアンは言った。
軽い声にしようとして、半分しか軽くならなかった声だった。
「……ああ生きてる。目、動いてる」
ロアンは、リュカの顔の前で手を一度だけ振った。
リュカの目がそれを追った。
「よし」
ロアンは、それから自分の膝の上に杭を並べた。
三本。
ロアンの膝の上にゆうべから預かっていた二本。それから、さっきの曲がった一本。
「あとこれな」
ロアンは、腰の後ろからもう一つ細長いものを出した。
投槍器だった。
先に鉤のついた細長い板。手元の革帯がちぎれかけて、垂れていた。
「縁のすぐ手前で止まってた。あと一歩で雲だったぜ」
ロアンは投槍器を杭の横に並べた。
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「置いとく」
ロアンは言った。
「ここじゃねえ。坊主の手の届くとこに置いたら、起きたとたんにまた撃ちそうだからな」
ロアンは立ち上がった。
杭三本と投槍器を抱えて。
抱えたまま、杭の列の上がり口のほうへ歩いていった。
五歩。
上がり口のすぐ横にしゃがんだ。
しゃがんで床に置いた。
杭三本と投槍器を並べて。
並べ終えてロアンは振り返った。
「ここ。下りるときに拾っていけ」
五歩先だった。
仰向けのリュカから五歩。
手を伸ばしても届かない。
起きられれば届く。
起きられなかった。
「それとな」
ロアンは立ったまま、少しだけ声を落とした。
「翼の子。ひと晩声出してたろ。百ごとに」
リュカは目だけでロアンを見た。
「上まで聞こえてたぜ。言葉は分かんねえけど、間がずっと同じだった。アステナが数えてた」
ロアンは壁際のほうを顎で示した。
「あいつ珠で翼の子の百を数えてやがった。ひと晩。ゼクスの環じゃなくて」
アステナは聞こえないふりをしていた。
していたのが分かった。
「……なんでかは知らねえ」
ロアンはそう言って、肩をすくめた。
「――ずれなかった」
壁際からアステナの声がした。
背負い袋の口を締めながら。顔を上げずに。
「あの子の百。ひと晩一度もずれなかった」
かちと手の中で珠が鳴った。
「わたしの珠は二度ずれた。眠りかけて」
それだけ言って、アステナは袋を背負った。
背負ってそれからもう何も言わなかった。
――ずれなかった。
リナンの百はひと晩ずれなかった。
縁の陰で目を閉じかけたとき、リュカを起こした百。
あの百はずれていなかった。
「返したからな」
ロアンは言った。
「預かったもんは、返さねえと寝覚めが悪い」
リュカは何か言おうとした。
何を言おうとしたのかは、分からなかった。
礼なのか。
返せと言ったのは自分だった。返された。
返されたものが五歩先に並んでいる。
言葉は喉の奥で乾いたまま、出てこなかった。
ロアンは、リュカの口が動くのを見ていた。
見て何も言わなかった。
言わずに少しだけ目尻の皺を深くした。
笑ったのではなかった。
笑おうとしてやめた皺だった。
――預かったものは、返すまで預かったもんだ。
トトの声がした。
ロアンはトトを知らない。
知らないのに、同じところに着いていた。
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「尖ってるやつに刺さった一本は悪いな」
ロアンは尖ったものを見上げた。
「あの一本は俺にも届かねえ。人の背丈の四つぶんだ。杭を打って登りゃ届くけどよ」
ロアンは少しだけ黙った。
「……尖ってるやつにはな杭は打てねえんだ」
それだけ言って、ロアンはその先を言わなかった。
言いかけてやめたのが分かった。
――打てない。
継ぎ目のない壁にオリンピアは、杭を打ってきた。筒の縁からてっぺんの段まで。六十本近く。
その杭が尖ったものには打てない。
リュカの杭は刺さった。
投槍器で撃った杭は。
――なんで。
分からなかった。
ロアンはもう何も言わなかった。
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三人が杭の列の上がり口に集まった。
リュカの五歩先。ロアンが杭と投槍器を置いたそのすぐ横。
リュカは首を少しだけそちらへ向けた。
向けられた。さっきより少しだけ首が動いた。
ロアンが縁へ向かう前に、リュカは口を動かした。
声にならなかった。
――リナンに。
口の形だけがそう動いた。
ロアンはそれを見ていた。
見て少しだけ黙って、それから頷いた。
「分かってる」
何を分かったのかは言わなかった。
リュカも、何を言おうとしたのか自分で分からなかった。
リナンに何を。
待っていろなのか。
下りろなのか。
戻るなのか。
分からなかった。
分からないものをロアンは、分かってると言った。
ロアンが最初に縁を越えた。
背負い袋を背負ったまま、縁に腰を下ろして、足を下の杭へ伸ばした。慣れた動きだった。五十九本目に足を載せて、身体を縁の下へ沈めた。
頭が縁の下に消える前に、ロアンは一度だけリュカを見た。
「翼の子に言っとく」
何を、とは言わなかった。
言わないまま頭が消えた。
杭をつかむ音が少しずつ下へ遠ざかっていった。
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アステナが次に縁に腰を下ろした。
珠を懐にしまった。しまうのを初めて見た。
縁の下へ足を伸ばす前に、アステナは尖ったもののほうを見た。
窪みの青い光を。
それから、リュカを見た。
見て何も言わなかった。
言わずに縁の下へ消えた。
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最後にゼクスが来た。
槍を右の肩に。
背負い袋はなかった。荷は二人が分けて背負っていた。あの男は槍だけを負っていた。
縁の前で止まった。
止まって振り返らなかった。
振り返らないまま、少しだけ立っていた。
風が右から二つ。
左から三つ。
下から四つ。
四つ目が過ぎたところでゼクスは、縁に右手をかけた。
右手だけで。
片手で縁にかけて、身体を縁の外へ出した。
足が五十九本目を探した。探り当てた。
右手だけで縁から杭へ。杭から次の杭へ。
左の腕は下がったままだった。
片手で下りていく。
――片手で。
おとといリナンの翼を押さえながら、リュカは片手で登った。片手で登るのは遅かった。一本ごとに身体が壁から離れそうになった。
あの男は片手で何十本も登ってきた。
片手で何十本も下りていく。
左の腕を一度も使わずに。
頭が縁の下に消えた。
消える前の最後に白に近い髪が朝の光の中で少しだけ白く光った。
――片手で来た。片手で帰る。
左の腕を使わないまま、ここまで来て、ここから帰っていく。
使わないのも使い方だ。
リュカは、自分で言った言葉を思い出した。
あの男の左の腕は使い方なのか。
使えないのか。
使わないのか。
分からなかった。
分からないものをまた一つ置いた。
置いたものが少しずつ積もっていた。
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