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【連載版】ダンジョン最深部の黒猫様は極上のカリカリをご所望です  作者: あずきまんま


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第40話:黒猫様と、王国からのあったか献上品

地下100階層。


奈落の淵。


それから、数日が過ぎた。


黒猫様は、朝からよく寝ていた。


いや、朝かどうかは誰にも分からない。


ここには陽が差さない。


鳥も鳴かない。


地上の鐘の音も届かない。


それでもセリアは、だいたいの時間を覚えている。


クロが目を覚ます時間。


クロが水を飲む時間。


クロが毛づくろいを始める時間。


クロが何もない床をじっと見つめ、なぜか急に走り出す時間。


そのすべてを合わせると、今はたぶん朝だった。


「クロ様」


セリアは小さく声をかけた。


「王城から、献上品が届きました」


クロは、ヴァルグの頭の上で丸くなっていた。


黒い体。


白い尻尾の先。


ふかふかの毛。


耳だけが、ぴくりと動く。


「ニャ」


(なにニャ)


セリアの足元には、木箱が置かれていた。


王家の紋章が入った箱である。


飾りは控えめだった。


だが、蓋の合わせ目から漏れる匂いは、控えめではなかった。


鶏。


魚。


焼いた穀物。


ほんの少しの薬草。


そして、湯気。


クロの耳が、もう一度動いた。


ぴん。


「ニャ」


(ごはんニャ)


ヴァルグの金の瞳が開く。


『来たか』


低い声が、広間に静かに落ちた。


セリアは箱の前に膝をつく。


「はい。王城厨房からの正式な献上品です」


『正式』


ヴァルグが重々しく繰り返した。


『ようやく王国も礼を知ったか』


「王城でも礼はしていました」


『量が足りぬ』


「クロ様のお腹には限度があります」


ヴァルグは少し黙った。


その沈黙は、納得ではない。


考えている沈黙である。


セリアは先に釘を刺した。


「増やしませんよ」


『まだ何も言っておらぬ』


「言う前の顔でした」


ヴァルグは静かに目をそらした。


クロは、すでに起き上がっていた。


前脚を伸ばす。


背中を丸める。


大きく口を開けて、あくびをする。


「ふにゃあ」


(ねたニャ)


そして、匂いのする方を見た。


箱。


あたたかい。


いい匂い。


閉まっている。


クロはヴァルグの頭の上から、じっと木箱を見下ろした。


「ニャ」


(あけるニャ)


セリアは封を確認する。


封蝋は王家のもの。


添えられた札には、短い文字があった。


黒猫様へ。


感謝を込めて。


セリアはそれを読み、少しだけ表情をやわらげた。


「陛下らしいですね」


『中身を見よ』


「はい」


セリアは慎重に蓋を開けた。


ふわり。


湯気が上がる。


クロのひげが、一斉に前を向いた。


中には、小さな陶器の器が並んでいた。


白身魚をほぐして焼いた薄い小粒。


鶏だしをしみ込ませた温カリカリ。


山羊乳を少しだけ混ぜたやわらかい団子。


そして、王城厨房の料理人たちが何度も試作したらしい、焼きたての極小カリカリ。


粒は小さい。


香りは強い。


湯気はやさしい。


クロは、ヴァルグの頭から身を乗り出した。


セリアが慌てて両手を広げる。


「下りますか」


「ニャ」


(おりるニャ)


ヴァルグが頭を下げる。


ゆっくり。


この前より、さらにゆっくり。


クロは途中で待たなかった。


ぴょん。


黒い体が跳ぶ。


セリアの腕に、すとんと収まった。


「危ないです」


「ニャ」


(ついたニャ)


セリアはクロの背中をそっと支え直した。


クロはセリアの腕の中で、木箱へ鼻を伸ばした。


すん。


すんすん。


「ニャア」


(いいニャ)


セリアは器を一つ取り出し、いつもの低い食台に置いた。


全部ではない。


まずは少しだけ。


王城であまり食べられなかった分を、落ち着いた場所で食べさせる。


それが、セリアの判断だった。


クロは食台の前へ下ろされると、すぐに器へ顔を近づけた。


温カリカリ。


湯気。


鶏。


魚。


かりかり。


クロは一粒を口に入れた。


かり。


少し熱い。


けれど、熱すぎない。


中から、じゅわっと匂いが出た。


クロの目が、まん丸になる。


「ニャ」


(うまいニャ)


セリアは胸をなで下ろした。


「よかったです」


ヴァルグは深く目を閉じた。


『王国は、かろうじて滅びを免れた』


「献上品の評価だけで滅ぼさないでください」


『黒猫様のお口に合わぬものを差し出す国に、未来があると思うか』


「重いです」


『当然だ』


「重くしないでください」


クロは二粒目を食べた。


かり。


三粒目。


かりかり。


器の中で一粒が転がった。


ころ。


クロの前脚が動く。


ちょい。


ころ。


セリアの目が細くなる。


「クロ様」


クロの前脚が止まった。


「食べる分です」


「ニャ」


(たべるニャ)


クロは転がした粒を追い、ちゃんと口に入れた。


セリアは、今度こそ何も言わなかった。


食べた。


それなら、いい。


ヴァルグが厳かにうなずく。


『転がしたのちに召し上がる。すなわち遊戯と食事の両立』


「普通に食べています」


『普通とは何だ』


「今は考えなくていいです」


その時、広間の端で小さな光が揺れた。


強い光ではない。


まぶしくもない。


冬の日だまりを、小さく丸めたような光だった。


セリアが振り向く。


ヴァルグの体が、ぴたりと止まった。


『……神よ』


光の中から、白い衣の男が現れた。


どこか眠そうで、どこか楽しそうな顔をしている。


黒猫様を、この最深部へ置いていった神である。


「やあ」


神様は、軽く手を上げた。


「元気そうだねえ」


セリアは息を呑んだ。


知らない相手だった。


ヴァルグの体は、ぴたりと動かない。


セリアはクロを驚かせないように、静かに頭を下げた。


ヴァルグは、頭を下げようとして止まった。


クロが食事中だったからである。


動けば、風が起きる。


風が起きれば、温カリカリの湯気が乱れる。


それは許されない。


ヴァルグは、動かないまま声だけを低くした。


『御前にて不敬を』


「いいよいいよ。今はごはんの方が大事だから」


神様は笑った。


セリアは顔を上げる。


神様は、もう食台の前にしゃがみ込んでいた。


クロを見ている。


とても穏やかな顔で。


神様は、温カリカリを食べるクロを見ていた。


それから、ヴァルグの頭の上で丸くなる小さな体を見る。


「おいしいものを食べて、あたたかい寝床で眠る」


神様は、少しだけ目を細めた。


「願いは、叶ったかな」


クロは神様を見た。


前に見た匂い。


なでる手。


ごはんの気配。


「ニャ」


(おじさんニャ)


神様は嬉しそうに笑う。


「その顔、覚えている顔かな」


クロは返事の代わりに、温カリカリをもう一粒食べた。


かり。


神様は、その小さな頭をそっと撫でた。


クロは目を細める。


「ふにゃ」


(なでるニャ)


セリアは、何も言えなかった。


ヴァルグも、何も言わなかった。


ただ、奈落の淵に、かりかりという音だけが響いている。


小さく。


平和に。


神様は、クロの耳の後ろを指先でくすぐる。


クロの喉が鳴った。


ごろ。


ごろごろ。


ヴァルグの金の瞳が、ゆっくり細くなる。


セリアは、空になりかけた器をそっと引き寄せた。


温カリカリは、まだ少し残っている。


クロが眠くなる前に、食べきれる分だけ。


クロは何も知らない。


メルト・マッドンが拘束されたことも。


王城の地下で封じ直しが終わったことも。


リオルが眠そうな顔で古い資料を読み直していることも。


国王が宰相と並んで、新しい報告書にまた頭を抱えていることも。


知らない。


知る必要もない。


クロは、目の前の温カリカリを食べた。


かり。


かりかり。


食べ終わると、口元をぺろりと舐める。


水を飲む。


少しだけ毛づくろいをする。


それから、神様の膝に前脚をかけた。


「ニャ」


(のるニャ)


神様は目を丸くした。


「僕のところ?」


クロは、もう片方の前脚も乗せた。


当然のような顔だった。


神様は笑いながら、そっとクロを抱き上げる。


「はいはい。少しだけね」


ヴァルグが震えた。


『神の御膝に』


「ヴァルグ殿、声を抑えてください」


『抑えている』


「震えています」


『抑えている』


「二回言っても震えています」


クロは神様の膝の上で丸くなった。


あたたかい。


やわらかい。


知らない場所。


でも、悪くない。


「ふにゃ」


(ここもいいニャ)


神様はクロの背をゆっくり撫でた。


「気に入ってもらえたなら何より」


セリアは、その光景を見ていた。


黒猫様。


暗黒竜。


神様。


そして、王国から届いた温カリカリ。


どれも並べると、どう考えてもおかしい。


けれど、不思議と、今は怖くなかった。


メルト・マッドンは拘束された。


王国が確認していた呪核も、すでに砕かれている。


それでも、傷が一日で消えるわけではない。


地脈の痛みは残っている。


人の欲も、過ちも、きっと残る。


それでも、今ここにあるものは、確かに穏やかだった。


「クロ様」


セリアは小さく呼んだ。


クロの耳が少しだけ動く。


「明日も、おいしいものを食べましょうね」


クロは目を閉じたまま、喉を鳴らした。


ごろ。


返事のようで、返事ではない。


ただ気持ちがいいだけの音。


それで十分だった。


神様が、そっと笑う。


「うん。それがいい」


やがて、光は薄れていった。


神様は眠そうなクロを、セリアの腕へそっと戻した。


それから、姿が静かに薄れていく。


眠そうに、半分だけ目を開けている。


「ニャ」


(ねるニャ)


「はい」


セリアはクロを抱き直した。


ヴァルグが、いつものように頭を低くする。


クロは眠気に負けながらも、最後の力で前脚を伸ばした。


黒い鱗。


いつもの場所。


あたたかい寝床。


セリアがそっと乗せると、クロはくるりと丸くなった。


白い尻尾の先が、鼻先に触れる。


すん。


安心する匂い。


お腹は満ちた。


体はあたたかい。


なでられた。


眠い。


「ふにゃ……」


(いい日ニャ)


奈落の淵に、静かな寝息が落ちる。


地上では、王国の後始末が一区切りついていた。


王城では、記録が書き改められている。


村では、畑が少しずつ息を吹き返している。


森では、新芽が風に揺れている。


谷では、霧の向こうに道が戻り始めている。


水は、少しずつ澄み始めている。


山も、少しずつ息を吹き返している。


王国は、二度と同じものを埋められないように見回りの目を増やした。


それは人の仕事だった。


王国の仕事だった。


セリアたちの仕事だった。


クロの仕事ではない。


黒猫様は、ただ眠る。


好きな場所で。


好きな匂いに包まれて。


次のごはんを、少しだけ楽しみにしながら。


ヴァルグは動かない。


セリアも、しばらく動かなかった。


奈落の淵は深く、静かで、あたたかい。


そして、黒猫様の一日は終わる。


明日もきっと、カリカリがある。


それで、十分だった。


(第40話 完)


(完)


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