第39話:黒猫様と、帰ってきたふかふか寝床
地下100階層。
奈落の淵。
地上の王城でどれほど重い報告が行われようと、そこに吹く空気は変わらない。
冷たく、静かで、深い。
常人なら一歩踏み入れただけで膝をつくような魔力が、暗い広間に満ちている。
だが、クロにとっては違った。
よく知っている匂い。
よく知っている静けさ。
よく知っている、あたたかい寝床。
転移陣の光が消えた瞬間、クロの耳がぴんと立った。
「ニャ」
(かえったニャ)
セリアはクロを抱いたまま、ほっと息を吐く。
「戻りましたよ、クロ様」
目の前には、巨大な黒い山があった。
暗黒竜ヴァルグである。
王城では人の姿を取っていたヴァルグは、奈落の淵へ戻るなり本来の姿へ戻っていた。
漆黒の鱗。
広間の天井近くまで届く巨体。
一息で城壁を吹き飛ばせそうな喉。
そのすべてが、クロを揺らさぬために、ぴたりと動きを止めている。
『ようやくお休みいただけますな、黒猫様』
クロはヴァルグの頭を見上げていた。
黒い大きな頭。
いつもの場所。
あたたかい。
高い。
寝られる。
クロの尻尾が、ゆっくり揺れた。
「ニャ」
(のるニャ)
セリアはクロの体勢を直す。
「はい。ですが、その前に足とお口を確認します」
クロは目を細めた。
足。
口。
さっき拭かれた。
また。
「ニャア」
(もういいニャ)
クロが顔をそむけた。
セリアは逃がさない。
柔らかな布を取り出し、前脚をそっと包む。
「旧取水塔の奥を歩きましたから」
クロの前脚は小さい。
黒い毛の間に、冷たい石の匂いが少しだけ残っている。
セリアは一本ずつ指を確かめ、爪の間まで丁寧に拭いた。
傷はない。
汚れもない。
それでも、確認する。
それがセリアの仕事だった。
ヴァルグがその様子を見下ろしている。
金の瞳が、細くなる。
『黒猫様の御足を煩わせた者どもには、相応の』
「相応の処罰は王国がします」
セリアは布を替えながら言った。
『ぬるい』
「今、王城では十分すぎるほど胃に悪い処理をしていると思います」
『胃で済むなら軽い』
「軽くありません」
クロは前脚を引っ込めようとした。
セリアの手が、そっと支える。
「もう少しです」
クロは布包みを見た。
残り。
まだある。
さっき閉じられた。
ここにある。
「ニャ」
(ごはんニャ)
前脚が布包みへ伸びる。
セリアはその動きを見て、少しだけ笑った。
「お口を見たら、残りを出します」
クロは動きを止めた。
お口。
ごはん。
順番。
面倒。
でも、ごはん。
クロはしぶしぶ口を開けた。
「ニャ」
(はやくニャ)
セリアは口元を覗き込む。
舌。
歯。
唇の端。
どこにも黒い汚れはない。
変な紐を噛んだ跡も、見える範囲には残っていなかった。
セリアは大きく息を吐いた。
「大丈夫です」
ヴァルグも、ようやく息を吐いた。
王城では、人が多かった。
声も多かった。
記録係の筆の音まで、やけに響いていた。
だからセリアは、残りをここまで持ち帰った。
クロが落ち着いて食べられる場所で、ちゃんと食べさせたかった。
セリアは布包みを開く。
ふわりと、鶏だしの香りが広がった。
王城厨房が急いで作った小粒カリカリ。
旧取水塔で少し食べ、玉座の間で数粒食べ、まだ少し残っている。
温かさはもう落ちていた。
けれど、香りはしっかりしていた。
クロのひげが前へ向く。
「ニャ」
(いいニャ)
セリアは小皿を置いた。
奈落の淵の床に直接ではない。
いつもの低い食台の上である。
クロはセリアの腕から下ろされると、小皿の前へ一直線に向かった。
すん。
すんすん。
一粒。
丸い。
軽い。
ころがる。
クロは前脚で、ちょいと触った。
ころ。
小粒カリカリが皿の端へ転がる。
クロの目が丸くなった。
「ニャ」
(ころニャ)
セリアがすぐに言う。
「遊ぶ分は一粒だけです」
クロは聞いていない。
ちょい。
ころ。
ちょい。
ころ。
皿の中で小さな音が鳴る。
かつて王国の水脈を縛っていた黒い導線より、ずっと軽い音だった。
ずっと平和な音だった。
ヴァルグはその音を、厳粛に聞いている。
『これが、王国を救いし後の御遊戯』
「寝る前のおやつです」
『寝る前のおやつ』
ヴァルグが、その言葉を重々しく繰り返した。
『神聖なる響きだ』
「神聖ではありません」
クロはようやく一粒を口に入れた。
かり。
かりかり。
耳が少し横へ倒れる。
尻尾がふわりと揺れる。
うまい。
さっきの変な紐とは違う。
口の中が、ちゃんといい匂いになる。
「ニャ」
(うまいニャ)
セリアはほっとした。
「よかったです」
ヴァルグは目を閉じる。
『黒猫様が満たされた』
「まだ数粒しか食べていません」
『ならば、静かに見守ろう』
「それが一番です」
クロは小皿に顔を近づけた。
もう一粒。
かり。
かりかり。
さらに一粒。
かり。
食べるたび、眠気が少し戻ってくる。
さっきの場所。
知らない匂い。
硬い床。
変な紐がまずかった。
ここは静か。
あたたかい。
食べた。
眠い。
クロは小皿を空にすると、舌で口元をぺろりと舐めた。
「ニャ」
(ねるニャ)
セリアが小皿を片付ける。
「はい。今日はもう休みましょう」
ヴァルグが頭を低く下げた。
クロが上りやすいように、床すれすれまで。
その動きだけで、広間の空気が押される。
壁の古い結晶が、かすかに鳴った。
セリアが慌てて手を上げる。
「ゆっくりです。もっとゆっくり」
『承知』
ヴァルグは、さらにゆっくり頭を下ろした。
クロはそれを待たなかった。
小さな体が、ぴょんと跳ぶ。
黒い前脚が、漆黒の鱗に乗る。
つるり。
少し滑った。
「ニャッ」
(すべるニャ)
セリアが手を伸ばすより早く、クロは爪を立てずに踏み直した。
よく知っている場所だ。
ここはあたたかい。
ここは高い。
ここは眠れる。
クロはヴァルグの頭の上へ上がり、くるりと一周した。
右。
左。
もう一度、右。
ちょうどいい場所を探す。
いつものくぼみ。
鱗と鱗の間の、ほんの少し柔らかいところ。
クロはそこへ体を沈めた。
「ふにゃ」
(ここニャ)
ヴァルグの瞳が潤んだ。
『黒猫様が、我が頭上をお選びになられた』
「いつもの場所です」
『いつもの場所であることが尊い』
「それは少し分かります」
セリアは小さく言った。
ヴァルグが静かに息を止めた。
あまりにも自然に止めたので、セリアはすぐ気づいた。
「息はしてください」
『しかし、黒猫様が眠られる』
「静かに息をしてください」
『難題だ』
「普通にしてください」
クロはもう聞いていない。
お腹は軽く満ちた。
体はあたたかい。
下は大きい。
セリアの匂いも近くにある。
悪くない。
とても、悪くない。
「ふにゃ……」
(ねるニャ)
クロは丸くなった。
尻尾の白い先が、鼻先へ届く。
すん。
自分の匂い。
安心する。
目が閉じる。
すや。
すやすや。
奈落の淵に、静かな寝息が落ちた。
セリアは少し離れた場所に腰を下ろす。
今日のことを思い返す。
旧取水塔。
メルト・マッドン。
黒い導線。
王城の報告。
どれも簡単に片付けられるものではない。
王国では今も、地脈術師たちが走り回っているはずだ。
リオルも眠れない夜を過ごすだろう。
国王も、宰相も、しばらく胃の痛い日々が続く。
だが、ここには今、小さな寝息がある。
その寝息だけで、ひどく長かった一日が少しだけ終わった気がした。
ヴァルグが低く囁く。
『セリア』
「はい」
『王国は、黒猫様へ相応の礼を尽くすだろうか』
セリアは少し考えた。
「国王陛下は、温かい献上品を用意するとおっしゃっていました」
『ならばよい』
「それでよろしいのですか」
『黒猫様が喜ばれるならば』
セリアは眠るクロを見る。
小さな体。
白い尻尾の先。
ふわりと上下する背中。
世界の危機を知らず、王国の礼も知らず、ただ満腹と眠気の中にいる黒猫。
セリアは声を落とした。
「そうですね」
少しだけ、笑う。
「クロ様が喜ばれるなら、それが一番です」
ヴァルグは満足げに目を閉じた。
奈落の淵は静かだった。
けれど、その静けさは以前より少しだけ柔らかい。
王国の後始末は、まだ終わっていない。
メルトの罪も、消えない。
各地の傷も、すぐには癒えない。
それでも今夜、黒猫様は帰ってきた。
いつもの寝床へ。
いつもの匂いへ。
いつもの眠りへ。
そして、セリアは知っている。
たぶん明日になれば、クロは今日のことなどほとんど忘れている。
覚えているのは、まずい紐を噛んだことではない。
王城で報告を聞いたことでもない。
残りのカリカリがおいしかったこと。
ヴァルグの頭があたたかかったこと。
それくらいだ。
それでいい。
それが、クロ様なのだから。
クロが寝返りを打った。
小さな前脚が、ヴァルグの角に触れる。
ちょい。
ヴァルグの全身が固まった。
『……動いてはならぬ』
「息はしてください」
セリアが小声で言う。
『承知している』
ヴァルグは、ごく静かに息をした。
クロは眠ったまま、前脚を角から離す。
そして、ほんの少しだけ喉を鳴らした。
ごろ。
ごろごろ。
ヴァルグの目から、涙が一粒こぼれた。
クロは何も知らない。
ただ、あたたかい寝床で眠っている。
尻尾の先が、ぴくりと動いた。
「ふにゃ」
(あったかいニャ)
奈落の淵の夜は、静かに更けていった。
地上では、まだ灯りが消えない。
王城では、記録係が筆を走らせている。
旧取水塔では、封じ直しのための杭が打たれている。
白霧谷では、霧の中で地脈術師が測脈板を掲げている。
リーベル村では、畑の土が少しずつ乾きを取り戻している。
妖精の森では、精霊樹の新芽が夜露を受けて光っている。
それらすべてを、クロは知らない。
知る必要もない。
黒猫様は、ただ眠る。
お腹が満ちて。
寝床があたたかくて。
明日のごはんが、きっとある。
それで、十分だった。
(第39話 完)
ご覧いただきありがとうございます!
「面白い!」「クロ様がかわいい!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、
ページ下部の【ブックマークに追加】や、評価欄の【★★★★★】で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!
ぜひブックマークしてお待ちいただけると嬉しいです。




