第38話:黒猫様と、王城報告のすやすや毛布
王城へ戻った時、クロはほとんど眠りかけていた。
転移陣の光が消える。
石の床の匂い。
人の匂い。
遠くから漂う、厨房の匂い。
クロはセリアの腕の中で、片耳だけを動かした。
「ニャ」
(ごはんニャ)
クロの前脚が、その布包みへ伸びた。
セリアは布包みを抱え直す。
「残りはあとで、と言いました」
「今は報告が先です」
クロは目を細めた。
報告。
知らない。
布包み。
知っている。
あったかい。
いい匂い。
「ニャア」
(こっちニャ)
セリアはため息をついた。
「分かりやすいですね」
その横で、ライオネルがメルト・マッドンを連れて玉座の間へ向かう。
メルトの両腕には封術具がはめられていた。
抵抗はない。
だが、顔を伏せているわけでもない。
彼はただ、王城の廊下を見ていた。
先王時代から変わらぬ石壁。
新しく掛け替えられた紋章旗。
そこを歩く、今の王の兵たち。
リオルは、その少し後ろを歩いていた。
先生。
そう呼んだ相手は、もう隣にいない。
呼びかける言葉もない。
玉座の間には、国王と宰相が待っていた。
国王の前には、旧取水塔から持ち帰られた水路図の写しが広げられている。
その横には、砕けた黒杭の欠片。
そして、力を失った黒い導線が、封印布の上に置かれていた。
国王はメルトを見た。
「メルト・マッドン」
声は静かだった。
「先王時代の地脈術師。王城内で拘束され、尋問前に逃亡した者」
宰相が眉を寄せる。
「表向きは病による退任。実際には、王都の地脈へ無許可で干渉した疑いにより拘束」
国王は続ける。
「各地で確認された呪核。妖精の森、リーベル村、廃鉱、神殿跡、月影湖、白霧谷。さらに王都地下水路と旧取水塔」
玉座の間に、重い沈黙が落ちた。
「すべて、貴殿の仕業か」
メルトはすぐには答えなかった。
しばらく、砕けた黒杭を見ていた。
「仕業」
低く、乾いた声だった。
「王はいつも、そう呼ぶ」
ライオネルが一歩前へ出る。
「問われたことに答えろ」
メルトは国王を見た。
「私が置いた。私が繋いだ。私が確かめた」
リオルの肩がわずかに揺れる。
メルトは構わず続けた。
「妖精の森は、精霊樹の根でどれほど地脈を抱えられるか。麦畑は、作物がどれほど水脈の濁りに耐えるか。廃鉱は、鉱脈がどれほど歪みを通すか。神殿跡は、古い封印がどれほど残っているか」
宰相の顔色が悪くなっていく。
「月影湖は、水の上に置いた術式がどれほど沈むか。白霧谷は、霧がどれほど反応を隠せるか」
「民の暮らしを実験に使ったのか」
国王の声が低くなる。
メルトは答えた。
「地脈を見るには、地脈の上にあるものを見るしかない」
「それを民という」
国王は、玉座の肘掛けへ指を置いた。
音は立てなかった。
だが、宰相が息を呑む。
「貴殿は、王国を見ていたのではない。王国の下にある線だけを見ていた」
メルトは笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、疲れたように目を伏せた。
「線を見ぬ王が、国を守れると思うか」
「線だけを見る者にも、国は守れぬ」
国王は言った。
それ以上、問答は続かなかった。
ライオネルが短く命じる。
「連れて行け」
近衛兵たちがメルトを連れて下がる。
メルトは最後に、一度だけクロを見た。
クロは見ていなかった。
セリアの腕の中で、布包みを見ている。
メルトの理論も。
王国の地脈も。
先王時代の罪も。
黒猫には関係ない。
ただ、布の中からいい匂いがする。
「ニャ」
(あけるニャ)
クロの前脚が、布の結び目へ伸びた。
セリアが慌てて押さえる。
「クロ様、ここは玉座の間です」
クロは結び目を見た。
結び目。
紐。
さっきの黒い紐より、ずっといい匂い。
「ニャッ」
(ひもニャ)
セリアの顔色が変わった。
「それはほどかないでください」
ヴァルグが厳かに頷く。
『黒猫様は、邪なる束縛を断たれた後、正しき糧の封を解かんとしておられる』
「ただ結び目を気にしているだけです」
国王が額に手を当てた。
「報告中に献上品の封が解かれるのか」
宰相が小声で答える。
「前例はございません」
「前例が役に立ったことがあるか」
「ございません」
その即答に、玉座の間の空気が少しだけ緩んだ。
セリアは布包みを見た。
中には、旧取水塔で出した小粒カリカリの残りが入っている。
温かさは少し落ちている。
だが、まだ香りは残っていた。
クロのひげが前へ向いている。
目も、すっかり覚めている。
「……陛下」
セリアは控えめに言った。
「少しだけ、よろしいでしょうか」
国王は深く息を吐いた。
「許す」
宰相が記録係を見る。
「今のも記録するのか」
記録係は筆を止めたまま固まっている。
「陛下。どのように」
国王はしばらく考えた。
「黒猫様、王城報告中に献上品を少量召し上がる」
「そのままですか」
「余計な解釈を加えるな」
「御意」
セリアは小皿を取り出した。
布包みを少しだけ開く。
鶏だしの香りがふわりと広がった。
クロの耳が立つ。
小粒カリカリが一粒、小皿の上に置かれた。
ころ。
転がる音。
クロの目が丸くなる。
「ニャ」
(ころニャ)
前脚が出た。
ちょい。
一粒のカリカリが、小皿の端で止まる。
クロはもう一度、前脚を出した。
ちょい。
ころ。
「クロ様、遊ばずに食べてください」
クロは小皿を見た。
カリカリは動く。
でも、いい匂い。
遊ぶ。
食べる。
どちらも大事。
忙しい。
「ニャ……」
(いそがしいニャ)
ヴァルグが感極まったように呟く。
『遊びと糧。その双方を見極める深遠なる御姿』
「転がしているだけです」
クロはようやく一粒を口に入れた。
かり。
玉座の間に、小さな音が響く。
かりかり。
国王はその音を聞きながら、机の上の黒杭の欠片を見た。
砕けている。
もう光はない。
だが、これで終わりではない。
各地に置かれた呪核は砕かれた。
旧取水塔の導線も切れた。
メルト本人も拘束した。
それでも、傷んだ水脈や地脈はすぐには戻らない。
枯れかけた森。
濁った水。
弱った畑。
揺らいだ山。
それらを戻すのは、王国の仕事だった。
国王はリオルを見た。
「リオル・カーマン」
リオルが頭を下げる。
「はい」
「旧取水塔の封じ直しと、各地の後処理を任せる。ただし一人で抱えるな。地脈術師二班、王宮水路局、近衛の護衛を付ける」
リオルは一瞬、言葉を失った。
「私に、ですか」
「貴殿はメルトを止める側に立った」
国王は淡々と言った。
「ならば、最後まで見届けよ」
リオルは深く頭を下げた。
「拝命いたします」
セリアは、リオルの横顔を見た。
少し青ざめている。
だが、さっきまでより呼吸は落ち着いていた。
先生と呼んだ相手が残したものを、自分の手で片付ける。
それは軽い役目ではない。
それでも、逃げる顔ではなかった。
クロはそんなことを知らない。
一粒食べた。
まだある。
小皿には、もう一粒。
「ニャ」
(つぎニャ)
クロの前脚が伸びる。
セリアがそっと小皿を支えた。
「はい。次は食べてくださいね」
クロはカリカリを見た。
ころがす。
食べる。
どちらにするか。
少し考えた。
たぶん考えた。
そして、口を開けた。
かり。
「食べました」
セリアが小さく言う。
宰相が筆を動かす。
「黒猫様、二粒目を召し上がる」
国王が言った。
「そこは記録しなくてよい」
「しかし、陛下。後世の検証のためには」
「後世に何を検証させる気だ」
宰相は真顔だった。
「一粒目は転がされ、二粒目は直ちに召し上がられました。この差に意味がある可能性が」
「ない」
セリアが即座に言った。
玉座の間が静まり返る。
セリアは、はっとした。
「失礼しました」
国王は片手を上げた。
「いや、今のは必要な訂正だ」
ヴァルグだけが不満そうに目を細める。
『意味はある』
「ありません」
『黒猫様の一挙手一投足に意味がないはずがない』
「今のは食べ方の違いです」
クロは三粒目を食べた。
かり。
かりかり。
意味はない。
ただ、おいしい。
「ニャ」
(うまいニャ)
セリアは少しだけ笑った。
王城の空気は、まだ重い。
メルトの罪は消えない。
各地の被害も消えない。
王国がこれから調べ、直し、謝り、支えなければならないことは多い。
けれど、玉座の間に響く小さな咀嚼音だけは、妙に平和だった。
国王は、長い長い息を吐いた。
「今回の件は、黒猫様の遊びで解決した、などと外へ出すな」
宰相が頷く。
「正式には、旧取水塔地下の違法術式を発見、メルト・マッドンを拘束。王国地脈術師団により術式の停止を確認、という形で」
「そうしろ」
ヴァルグが静かに告げる。
『黒猫様の御業を隠すというのか』
国王は疲れた目でヴァルグを見た。
「国中の民が、黒い紐を猫に差し出し始めたらどうする」
セリアの顔が青ざめた。
「それは本当に困ります」
ヴァルグは少し考えた。
『献上品の品質が保たれるなら』
「紐は献上品ではありません」
クロは小皿を空にした。
鼻先を皿へ近づける。
すん。
もうない。
「ニャ」
(ないニャ)
クロはセリアを見た。
セリアは残りの布包みをしっかり閉じている。
「残りは帰ってからです」
クロは不満そうに尻尾を揺らした。
帰る。
帰るなら、寝床がある。
ヴァルグの頭。
あたたかい場所。
静かな場所。
そして、残りのカリカリ。
悪くない。
「ニャ」
(かえるニャ)
クロはセリアの腕の中で、体を丸めた。
セリアは国王へ頭を下げる。
「陛下。クロ様を休ませてもよろしいでしょうか」
国王はうなずいた。
「ああ。今日はもう十分だ」
宰相が小声で言う。
「十分、という言葉で足りますか」
「足りぬが、他に言葉がない」
国王は椅子の背へ深く身を預けた。
「黒猫様には、後日あらためて礼を」
セリアはクロを見た。
クロはもう目を閉じかけている。
「たぶん、温かいものの方が喜ばれます」
国王は真剣に頷いた。
「王宮厨房へ伝えろ。礼は、温かい献上品である」
宰相が筆を走らせる。
「黒猫様への礼、温かい献上品」
「それは記録してよい」
「御意」
こうして、王国を揺るがしたメルト・マッドンの一件は、王城の正式記録に残されることになった。
違法な地脈干渉。
各地への呪核設置。
旧取水塔地下工房の発見。
そして、メルト本人の拘束。
ただし、その記録のどこにも。
黒猫が紐で遊び、まずそうに噛み、口直しにカリカリを食べた結果、王国の危機が収まったとは書かれなかった。
クロは知らない。
知る必要もない。
セリアの腕は温かい。
布包みは近い。
帰れば、寝床がある。
それで十分だった。
「ふにゃ……」
(ねるニャ)
黒猫様は、王城の玉座の間で小さく丸くなった。
王国の後始末は、まだこれから。
けれどクロにとっては、もう食後の眠たい時間だった。
(第38話 完)
ご覧いただきありがとうございます!
「面白い!」「クロ様がかわいい!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、
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