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【連載版】ダンジョン最深部の黒猫様は極上のカリカリをご所望です  作者: あずきまんま


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第37話:黒猫様と、ほどけた工房のあつあつカリカリ

ぷつ。


二本目の黒い紐が切れた。


メルト・マッドンの黒杭に、細い亀裂が入る。


ぴしり。


乾いた音だった。


工房の床に刻まれた王都図が、赤黒く明滅する。


水路。


地脈。


王城の足元。


旧取水塔。


それらを結んでいた線が、震えながらほどけ始めた。


「止めろ」


メルトが低く言った。


それは命令だった。


だが、誰に向けたものか分からなかった。


ライオネルへか。


リオルへか。


それとも、作業台の上で黒い紐を見上げている小さな黒猫へか。


クロはもちろん聞いていない。


黒い紐が揺れている。


一本切れた。


もう一本切れた。


まだある。


「ニャ」


(いっぱいニャ)


クロの尻尾が、ゆっくり左右に揺れた。


セリアは作業台の前で両手を伸ばしたまま、息を止めている。


「クロ様、こちらへ」


クロはちらりとセリアを見た。


セリアの手は温かい。


でも、紐が揺れている。


ゆら。


ゆら。


「ニャッ」


(あとでニャ)


クロは前脚を上げた。


セリアの顔が引きつる。


「クロ様、待ってください」


メルトが黒杭を床へ深く押し込んだ。


「まだ終わらん」


黒杭の亀裂から、赤黒い光が漏れる。


床の王都図が、ひときわ強く輝いた。


円形の工房の壁が震える。


貼られていた水路図が何枚も剥がれ、床へ落ちた。


リオルが叫ぶ。


「導線を無理に繋ぎ直しています!」


ライオネルが問う。


「止められるか」


「黒杭を抜けば」


リオルはそこで言葉を切った。


メルトの足元。


黒杭の周囲には、細い赤黒い線が何重にも走っている。


近づけば、床の線に触れる。


触れれば、術式に取り込まれる。


リオルは歯を食いしばった。


「人が踏み込むには危険すぎます」


「ならば」


ライオネルが一歩踏み出した。


セリアが鋭く言う。


「だめです」


ライオネルが止まる。


セリアは作業台の上のクロから目を離さない。


「今、クロ様を驚かせないでください」


ライオネルは一瞬だけ沈黙した。


それから剣を下げる。


「了解した」


メルトが笑った。


ほんの少しだけ。


「王の兵が、猫の機嫌を待つか」


セリアは答えなかった。


代わりに、クロを見た。


クロは三本目の紐を見ている。


黒い紐は、今までより低く垂れていた。


先端が、クロの鼻の前で揺れる。


すん。


クロは匂いを嗅いだ。


嫌な匂い。


古い水。


錆びた石。


焦げた草のような匂い。


「フンッ」


(くさいニャ)


クロは顔をそむけた。


だが、紐は逃げるように揺れた。


逃げた。


クロの耳が立つ。


「ニャッ」


(まてニャ)


前脚が出た。


ぱし。


三本目の紐が爪に引っかかる。


ぷつ。


また、軽い音。


工房の奥で、水が落ちる音がした。


ぽちゃん。


今まで動かなかった水鉢の水面が、丸く揺れる。


リオルが息を呑んだ。


「水が戻った」


メルトの顔から、笑みが消えた。


「違う」


黒杭の亀裂が広がる。


「戻ってなどいない。私が繋いだ。私が整えた。王も民も知らぬ流れを、私が」


「縛っただけです」


リオルが言った。


声は震えていた。


だが、逃げてはいなかった。


「先生は、地脈を読んだんじゃない。従わせようとしただけです」


メルトの視線がリオルへ刺さる。


「お前に何が分かる」


「分かりませんでした」


リオルは正直に答えた。


「ずっと分かりませんでした。先生が何をしようとしていたのか」


床の線が揺れる。


リオルは、それでも続けた。


「でも今は分かります。先生は、水を見ていたんじゃない。水の向こうにいる人を見なくなった」


メルトの黒杭が、さらに深く沈む。


「黙れ」


黒い紐が一斉に揺れた。


天井から低く垂れ、クロの周りを囲む。


セリアが息を呑む。


「クロ様!」


ヴァルグの魔力が膨れ上がった。


工房の空気が重くなる。


ライオネルが剣を構えた。


だが、そのどれよりも早く、クロが動いた。


囲まれた。


動く紐が増えた。


たくさんある。


とても、たくさんある。


クロの瞳孔が丸くなる。


「ニャニャッ」


(いっぱいニャ)


クロは跳んだ。


右の紐へ。


左の紐へ。


作業台の端を蹴り、小さな水鉢を飛び越え、垂れた黒い紐へ前脚を伸ばす。


ぷつ。


ぷつ。


ぷつ。


軽い音が続いた。


工房全体が、今度は大きく揺れた。


壁の水路図が次々と落ちる。


床の王都図から赤黒い光が剥がれ、細い線になって消えていく。


リオルが叫ぶ。


「導線が切れています!」


セリアが叫び返す。


「見れば分かります!」


「違います、全部です!」


その声に、メルトが振り返った。


黒杭はもう、半ば砕けていた。


「全部、だと」


クロは最後の一本を見ていた。


それは他の紐より太い。


天井ではなく、床の王都図の中心から伸び、作業台の上の水鉢へ繋がっている。


ゆっくり揺れている。


太い。


動く。


「ニャ」


(おおきいニャ)


クロは鼻を近づけた。


強い匂いがした。


嫌な匂い。


それでも、太い黒い紐は目の前で揺れている。


近い。


大きい。


動く。


クロの目が細くなる。


「ニャッ」


(とるニャ)


前脚ではなかった。


クロは口を開けた。


かぷ。


太い黒い紐に噛みついた。


メルトが叫ぶ。


「やめろ!」


クロはやめない。


噛み心地は悪い。


硬い。


まずい。


嫌な味。


「フニャ」


(まずいニャ)


クロは不満そうに奥歯へ力を入れた。


ぶちん。


太い黒い紐が切れた。


工房の音が消えた。


水音も。


石の震えも。


黒杭の軋みも。


一瞬、何もかもが止まる。


次の瞬間。


水鉢の水が、澄んだ音を立てて溢れた。


ぽちゃん。


一滴。


ぽちゃん。


もう一滴。


床の王都図に、澄んだ水が流れ込む。


赤黒い線が、そこから薄れていった。


リオルが膝をついた。


「戻っている」


ライオネルが短く問う。


「何がだ」


「水脈です。旧取水塔から切り離されていた流れが、王都の外へ逃げていく」


「王都へ戻るのではないのか」


「違います」


リオルは水の流れを見つめた。


「縛られていたものが、ほどけているんです」


メルトの黒杭が砕けた。


乾いた音を立てて、床へ落ちる。


メルトはそれを見下ろした。


しばらく、動かなかった。


「猫が」


掠れた声だった。


「私の術式を」


クロは口をもごもごさせた。


嫌な味が残っている。


とても嫌だ。


クロは舌を出した。


「ベ」


(まずいニャ)


セリアが慌てて駆け寄る。


「クロ様、お口を見せてください」


クロは嫌そうに顔をそむけた。


「ニャ」


(やニャ)


クロが顔をさらに横へ向けた。


「嫌でも見せてください」


セリアは両手でクロの頬をそっと包む。


クロの口元に黒い汚れはない。


舌も、歯も、傷ついていない。


ただ、とても不満そうだった。


「大丈夫です」


セリアは胸を撫で下ろした。


「ですが、もう変な紐を噛まないでください」


クロは布包みを見た。


「ニャ」


(ごはんニャ)


反省はしていない。


ヴァルグが深く頭を垂れる。


『黒猫様は邪なる束縛を噛み砕かれた』


「まず、お口の心配をしてください」


『悪しきものの味を御身で確かめられたのだ』


「味見ではありません」


ライオネルが動いた。


メルトは抵抗しなかった。


黒杭は砕け、工房の線は消え、垂れていた黒い紐は力を失って床に落ちている。


近衛兵たちがメルトの両腕を押さえた。


ライオネルが告げる。


「メルト・マッドン。王命により拘束する」


メルトはクロを見ていた。


その目には怒りがあった。


だが、それ以上に、理解できないものを見る色が濃かった。


「なぜだ」


誰も答えなかった。


答えられる者はいなかった。


クロ本人にも、もちろん分からない。


揺れる紐があった。


ごはんの匂いがした。


変な紐がごはんの方へ来た。


だから噛んだ。


それだけだった。


連絡魔石が小さく震える。


ライオネルが片膝をついた。


「陛下。メルト・マッドンを拘束しました」


少しの沈黙。


それから、国王の声が響いた。


『王都への被害は』


リオルが水鉢を見た。


澄んだ水が、床の溝に沿って流れている。


赤黒い光はもうない。


「広がっていません。旧取水塔側へ逃がした流れも、今なら封じ直せます」


『今なら、か』


「はい。黒猫様が、先生の導線を切ってくださいました」


セリアが即座に言った。


「紐で遊んでいただけです」


連絡魔石の向こうで、長い沈黙が落ちた。


やがて国王が言う。


『結果を優先する』


「またそれですか」


セリアは小さく肩を落とした。


ヴァルグは満足げだった。


『結果こそ、黒猫様の御心を示す』


「示していません。今はごはんを見ています」


その通りだった。


クロは作業台の上から、セリアの手元をじっと見ている。


温かい布包み。


いい匂い。


さっきの変な紐の味を消してくれそうな匂い。


「ニャア」


(はやくニャ)


セリアは布包みを開いた。


湯気が、ほのかに立つ。


鶏だしを含ませた小粒カリカリが、木の小皿にころころと転がった。


クロの耳がぴんと立つ。


すん。


すんすん。


嫌な味が、少し遠くなった。


クロは前脚を揃えた。


「ニャ」


(いいニャ)


そして、かり、と噛んだ。


小さな音が、崩れかけた工房に響く。


かり。


かりかり。


さっきまで王都を縛っていた術式の中心で、黒猫様は真剣に食べていた。


メルトは連れて行かれる直前、その音を聞いた。


かり。


かりかり。


自分の理論も。


先王時代から隠してきた工房も。


各地へ埋めた呪核も。


王国の流れを縛るための導線も。


すべてをほどいたものが、今、何をしているのか。


黒猫は、ただ飯を食っていた。


メルトの肩から、力が抜けた。


「……そんなものに」


ライオネルが静かに言う。


「そのようなものに負けたのではない」


メルトは顔を上げた。


ライオネルは、クロを見なかった。


メルトを見ていた。


「貴殿は、人を見なくなった時点で負けていた」


メルトは何も言わなかった。


近衛兵に連れられ、工房の扉へ向かう。


その背中を、リオルが見送った。


呼び止めることはしなかった。


先生。


そう呼ぶ声も、もう出なかった。


床の水は、静かに流れている。


縛られていた水が、古い溝を通って外へ抜けていく。


王都を壊すためではない。


王都から、余計な縛りを外すために。


セリアはクロの口元を柔らかな布で拭いた。


「おいしかったですか」


クロは目を細めた。


「ニャ」


(まあまあニャ)


かなり気に入っている顔だった。


ヴァルグが深く頷く。


『黒猫様は、王国の命運を見届けられた』


「食後の顔です」


『ならば、王国の命運は食後である』


「そういうまとめ方をしないでください」


連絡魔石の向こうで、国王が疲れた声を漏らした。


『戻れ。報告は王城で聞く』


セリアはクロを抱き上げる。


クロは少しだけ抵抗した。


まだ小皿に匂いが残っている。


「ニャ」


(まだニャ)


クロの前脚が、小皿の方へ伸びた。


「残りはあとでいただきましょう」


セリアが小皿を布で包む。


クロはその動きをじっと見た。


奪われたわけではない。


あとで。


たぶん、あとで。


「ニャ」


(あとニャ)


クロはセリアの腕の中で丸くなった。


古い石の匂いは、まだ少し残っている。


でも、セリアの腕は温かい。


布包みも近い。


なら、まあいい。


工房の奥で、水がぽちゃんと鳴った。


今度は、途切れない音だった。


(第37話 完)


ご覧いただきありがとうございます!


「面白い!」「クロ様がかわいい!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、

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