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【連載版】ダンジョン最深部の黒猫様は極上のカリカリをご所望です  作者: あずきまんま


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第36話:黒猫様と、先生の工房のゆらゆら紐

旧取水塔の奥に現れた階段は、下へ続いていた。


水音はない。


風もない。


ただ、古い石と錆びた水路の匂いだけが、階段の底からゆっくり上がってくる。


セリアはクロを抱いたまま、足元を確かめた。


石段は乾いている。


石段の端には、古い苔が乾いて張りついている。


リオルが小声で言った。


「足元に気をつけてください。ここは、もう普通の水路ではありません」


その声は落ち着いていた。


落ち着きすぎているようにも見えた。


セリアはクロを抱く腕に少し力を込める。


クロは不満そうに鼻を鳴らした。


「フンッ」


(くさいニャ)


古い石の匂いは、気に入らない。


温かい布包みの匂いは、気に入る。


クロはセリアの腕の中から、布包みに前脚を伸ばした。


届かない。


「クロ様、もう少しだけ我慢してください」


「ニャア」


(いまニャ)


クロの前脚が、もう一度布包みへ伸びた。


「今ではありません」


セリアはきっぱり言った。


ライオネルが、階段の奥へ視線を戻した。


「ニャ」


(ごはんニャ)


もちろん、クロの関心は階段ではなく、布包みにあった。


階段の底に着くと、そこには古い石扉があった。


王城の地下牢で見つかった扉よりも小さい。


神殿跡の封印ほど厳重でもない。


だが、扉の表面には無数の線が刻まれていた。


水路図。


地脈図。


王都の古い区画。


それらが重なり、一本の黒い線に集まっている。


リオルは息を止めた。


「水路図が、まだ読める」


ライオネルが問う。


「開けられるのか」


「こちらからは無理です。内側から鍵を通さなければ」


その瞬間。


石扉の奥で、細い音がした。


かつん。


クロの耳が立つ。


「ニャッ」


(おとニャ)


かつん。


もう一度、同じ音。


扉の内側で、何かが差し込まれた。


石扉の線が一本ずつ黒く光った。


セリアが半歩下がる。


ライオネルが前へ出た。


ヴァルグは人の姿のまま、目だけを細くする。


『開くぞ』


石扉が、音もなく左右にずれた。


中から、冷たい空気が流れ出す。


そこは工房だった。


広くはない。


だが、狭くもない。


円形の石室の中央に、古い作業台がある。


壁には水路図と地脈図が何枚も貼られ、床には王都を模した線が刻まれている。


天井からは、黒い紐のようなものが何本も垂れていた。


紐は風もないのに、ゆっくり揺れている。


ゆら。


ゆら。


クロの目が丸くなった。


「ニャ」


(ひもニャ)


セリアは嫌な予感がした。


「クロ様、見ないでください」


もちろん、見た。


部屋の奥に、ひとりの老人が立っていた。


痩せている。


背筋は曲がっていない。


白髪は短く整えられ、薄い唇には笑みも怒りもない。


手には、細い黒杭。


リオルが、かすかに声を漏らした。


「先生」


老人はリオルを見た。


「久しいな、リオル」


その声は穏やかだった。


穏やかすぎた。


「お前はまだ、水の音を怖がる癖が抜けていない」


リオルは何も答えない。


セリアは一歩、リオルの前に出た。


「メルト・マッドンですね」


老人の視線が、セリアへ移る。


「王城は、ようやくその名を口にしたか」


ライオネルが剣を抜いた。


「メルト・マッドン。王命により拘束する」


メルトはライオネルを見た。


「今の王は、何も知らぬまま兵を寄こしたか」


「何をだ」


「王国が、何に支えられているかを」


「説明は拘束後に聞く」


メルトは少しだけ目を細めた。


「近衛は昔から変わらんな。刃の届くものしか見ない」


「届くなら十分だ」


「届かぬものが、王国を腐らせる」


メルトが黒杭を床に向けた。


床の線が、淡く光る。


壁の水路図が震えた。


天井から垂れる黒い紐が、同時に揺れる。


ゆら。


ゆら。


クロの尻尾が動いた。


セリアはクロを抱き直す。


「だめです」


「ニャ」


(あそぶニャ)


クロが黒い紐へ向かって、ぐっと身を乗り出した。


「だめです」


メルトの視線が、そこで初めてクロへ向いた。


「それが、黒猫か」


ヴァルグの声が一段低くなる。


『その呼び方に敬意が足りぬ』


「ヴァルグ様、今はそこではありません」


『いや、そこだ』


「そこではありません」


メルトは二人を見比べた。


理解できないものを見る目だった。


だが、すぐに興味を失ったように黒杭を持ち直す。


「呪核を砕いたものが何であれ、もうよい。妖精の森、麦畑、廃鉱、神殿、湖、谷。すべて、王国の流れを確かめるための針だった」


リオルが唇を噛む。


「確かめるために、人の暮らしを傷つけたんですか」


「暮らしは流れの上に乗る泡だ。泡を守るために、水そのものを見ない王に、何が守れる」


「先生」


「私は王国を壊したいのではない」


メルトは静かに言った。


「王国を、正しい形に縛り直す」


連絡魔石の向こうで、国王の声が冷えた。


『民を道具にしてか』


「民も王も、地脈の上では同じだ」


セリアが言った。


「同じではありません」


声は大きくない。


だが、はっきりしていた。


「畑が枯れれば、困る人がいます。水が濁れば、苦しむ人がいます。山が壊れれば、帰る場所を失う人がいます。それを線の上の泡で片付けるなら、あなたはもう人を見ていません」


メルトはセリアを見た。


少しの沈黙。


「聖女か」


「ただの世話係です」


「黒猫のか」


「はい」


即答だった。


メルトの眉が、ほんのわずかに動いた。


ヴァルグが満足げに頷く。


『正しき名乗りである』


「いえ、名乗りとして正しいかは分かりません」


ライオネルが低く言う。


「セリア殿、下がってください」


「はい」


セリアは一歩下がった。


クロはその間も、天井から垂れる黒い紐を見ていた。


右へ。


左へ。


ゆら。


ゆら。


長い。


細い。


動いている。


クロの瞳孔が、すっと広がった。


クロが短く鳴いた。


「ニャッ」


(とるニャ)


セリアの背筋に冷たいものが走った。


「クロ様」


クロの体が、腕の中で低く沈む。


跳ぶ前の形。


「待ってください」


待たない。


クロはセリアの腕の隙間から、するりと抜けた。


「クロ様!」


黒い体が床へ落ちる。


音はほとんどない。


冷たい石に触れた前脚が、一瞬だけ不機嫌そうに止まった。


「フンッ」


(いやニャ)


だが、紐は揺れている。


いやな床より、紐の方が強い。


クロは低い姿勢で、作業台の陰へ回り込んだ。


メルトの目が細くなる。


「止めろ」


ライオネルが動く。


だが、クロは人の足の間を抜ける方が速い。


セリアが追う。


ヴァルグも動いた。


だが、クロの方が速い。


黒い体は作業台へ飛び乗った。


その上には、黒い線を刻んだ石板と、小さな水鉢がある。


水鉢の中の水は、動いていない。


けれど、天井の紐だけが揺れている。


クロは鼻を近づけた。


くさい。


でも、動く。


「ニャッ」


(ひもニャ)


前脚が伸びた。


メルトが黒杭を掲げる。


「触らせるな」


その声に、初めて焦りが混じった。


リオルが叫ぶ。


「あれは導線です!」


ライオネルが走る。


セリアも手を伸ばす。


だが、誰よりも先に、クロの爪が黒い紐へ引っかかった。


ぷつ。


軽い音がした。


本当に軽い音だった。


糸が一本切れただけのような音。


だが、工房の床全体が震えた。


壁に貼られた水路図が、一斉に鳴る。


天井から垂れていた他の黒い紐が、ざわりと揺れた。


メルトの表情が、初めて変わった。


「なぜ、そこを」


クロは答えない。


切れた紐の先が、まだ揺れている。


ゆら。


ゆら。


クロの前脚が、もう一度上がった。


「ニャ」


(まだあるニャ)


その前脚が、隣の黒い紐へ伸びかける。


セリアが青ざめる。


「クロ様、そこまでです!」


ヴァルグが静かに息を吸った。


『黒猫様が、王国を縛る糸を断たれた』


「本当に紐で遊んでいるだけです!」


国王の声が連絡魔石から響く。


『リオル、何が起きた』


リオルは床の線を見た。


光が乱れている。


だが、ただ壊れたのではない。


一本だけ、流れが外れた。


メルトが王都へ伸ばしていた、見えない手の一本が切れている。


「陛下」


リオルの声は震えていた。


「先生の術式が、ほどけ始めています」


メルトが黒杭を床へ突き立てた。


「まだだ」


黒い光が走る。


床の王都図が、赤黒く染まった。


天井の紐が、一斉に低く垂れる。


まるで部屋そのものが、息を吸ったようだった。


セリアはクロへ駆け寄る。


「クロ様!」


クロは作業台の上で、尻尾を振った。


目の前には、揺れる紐。


後ろには、温かい布包み。


どちらも気になる。


とても気になる。


「ニャ」


(ひもして、ごはんニャ)


黒猫様は決めた。


先に紐。


そのあと、ごはん。


メルト・マッドンが、低く告げる。


「ならば見せてやろう。王国が何に縛られていたかを」


工房の床が割れるように光った。


王都の線が、地下深くへ向かって沈んでいく。


クロの爪が、二本目の黒い紐へ届いた。


ぷつ。


また、軽い音がした。


その瞬間。


メルトの黒杭に、細い亀裂が入った。


(第36話 完)


ご覧いただきありがとうございます!


「面白い!」「クロ様がかわいい!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、

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