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【連載版】ダンジョン最深部の黒猫様は極上のカリカリをご所望です  作者: あずきまんま


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第35話:黒猫様と、旧取水塔のぷくぷく泡

------------------------------

序章:疑われる印

------------------------------


王城地下牢の冷たい石床に、小さな金属筒が置かれていた。


古い地脈術師が記録を封じるために使う、保存筒である。


長さは手のひらほど。


表面は鈍い銀色で、端には細い封印輪が二重に巻かれている。


そして、その封印輪のすぐ下に。


リオル・カーマンの印が刻まれていた。


地下牢の空気は、さっきより重くなっている。


近衛兵は手を柄に添えたまま動かない。


地脈術師たちは、筒を囲む位置で息を詰めている。


国王は、リオルを見ていた。


責めてはいない。


だが、見逃してもいない。


「説明できるか」


リオルは保存筒から目を離せなかった。


唇は血の気を失い、指先だけが小さく震えている。


「印は、私のものです」


宰相が静かに問う。


「では、筒も貴殿のものか」


「分かりません」


リオルは、苦しそうに答えた。


「保存筒は、見習いでも扱います。ですが、私は王城地下牢に保存筒を残した覚えはありません」


「忘れている可能性は」


宰相の声は冷静だった。


冷静すぎて、地下牢の寒さが増したように感じるほどだった。


リオルは首を横に振る。


「ありません」


短い答えだった。


国王が片手を上げる。


「誰も触れるな」


地脈術師たちの動きが止まった。


「この筒は証拠だ。まずは外側だけを確かめる」


「御意」


地脈術師が封印布を広げる。


その横で、セリアはクロを抱き直していた。


クロは眠そうに目を細めている。


地下牢は寒い。


セリアの腕は温かい。


それだけで、クロにとっては状況の大半が決まっていた。


「ふにゃ……」


(ぬくいニャ)


セリアは小声で言う。


「クロ様、もう少しだけ大人しくしていてくださいね」


「ニャ」


(ねるニャ)


ヴァルグが厳かに頷く。


『黒猫様は、すでに疑念の闇を見通しておられる』


「寝ようとしているだけです」


『眠りとは、世界の表層を閉じ、真理の奥へ沈む行い』


「寝ようとしているだけです」


セリアは同じ言葉を繰り返した。


国王は、保存筒へ視線を戻す。


地脈術師が細い棒で封印布の端を整えた。


保存筒の表面に、リオルの印が見える。


小さな三本線。


その中央に、地脈を示す点。


先王時代の王宮地脈術師見習いが使っていた、簡素な識別印だった。


リオルはそれを見て、拳を握った。


「私の印です」


もう一度、同じことを言う。


今度は、認めるためではない。


逃げないためだった。


------------------------------

第一章:転がる筒

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保存筒は、封印布の上に置かれたまま動かない。


地脈術師の一人が、細い銀の針を筒の端へ近づけた。


針の先が、かすかに震えた。


「呪核ではありません」


国王が問う。


「では何だ」


「保存筒そのものに、別の式が薄く塗られています。中身ではなく、外側です」


リオルが低く言った。


「先生の癖です」


国王はリオルを見る。


「分かるのか」


「はい」


リオルは保存筒を見つめたまま答えた。


「先生は、見せたいものを必ず表に置きました。相手が最初に何を見るかまで、式に組み込む」


「悪趣味ですね」


セリアが小さく言った。


リオルは苦く笑う。


「はい」


ヴァルグが腕を組む。


人の姿をしていても、威圧感は地下牢の壁より重い。


『浅き者は文字を読む。深き者は文字に読まれる。黒猫様は、そのいずれにも属さぬ』


「クロ様は文字を読みません」


『ゆえに無敵』


「その理屈は少し腹が立ちますね」


クロはセリアの腕の中で耳を動かした。


文字。


人間たちが見ているもの。


黒い線。


銀の板。


小さい筒。


どれも、食べ物ではない。


クロは目を閉じかける。


その時。


地脈術師が保存筒の角度を変えた。


封印布の端が、少しだけ持ち上がる。


ころ。


保存筒が、ほんのわずかに転がった。


クロの耳が立った。


「ニャ」


(ころニャ)


セリアは嫌な予感がして、腕に力を入れる。


「クロ様」


ころ。


筒がまた少し転がる。


金属の中で、何かが小さく鳴った。


こつ。


クロの目が開いた。


「ニャッ」


(なかにいるニャ)


クロが保存筒へ前脚を伸ばしかけた。


セリアが慌てて抱き直す。


「クロ様、だめです」


『いるとも』


ヴァルグが静かに言う。


『真実が』


「今はそういう話ではありません」


地脈術師は慌てて保存筒を押さえようとした。


だが、国王が止めた。


「待て」


「陛下?」


国王はクロを見ていた。


クロはセリアの腕の中で、じっと保存筒を見ている。


眠気は消えていた。


黄色い目が、ころころ転がりそうな筒だけを追っている。


国王は短く言った。


「転がせ」


宰相が一瞬だけ目を閉じる。


「陛下」


「触れるな。転がすだけだ」


「その指示を記録に残す側の身にもなっていただきたい」


「残せ」


国王の声は揺れなかった。


「王城地下牢にて、保存筒を転がした。理由は、黒猫様が反応したため」


宰相は羽ペンを持つ記録係を見た。


記録係は、すでに書く覚悟を決めた顔をしていた。


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第二章:ころころする証拠

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封印布の上に、低い木枠が置かれた。


保存筒が遠くへ逃げないよう、四方を囲うためのものだった。


セリアはクロを抱いたまま、木枠から少し離れる。


「見るだけですよ」


「ニャ」


(ころニャ)


クロは短く鳴いた。


もちろん、約束したつもりはない。


地脈術師が銀の棒で、保存筒をそっと押した。


ころ。


筒が転がる。


こつ。


中で何かが鳴る。


クロのひげが前へ向いた。


「ニャッ」


(いるニャ)


ころ。


こつ。


ころころ。


こつ。


クロの尻尾が、セリアの腕の中で左右に揺れる。


セリアはその動きを感じて、静かに息を吐いた。


「これは長く持ちませんね」


『黒猫様の御心が動いた』


「遊び心です」


『御心である』


「遊び心です」


地脈術師が筒をもう一度転がす。


今度は、途中で止まった。


ころ、と転がって。


ぴたり。


保存筒の片側だけが、わずかに沈んでいる。


リオルが眉を寄せた。


「重心がずれている」


国王が問う。


「保存筒とはそういうものか」


「いいえ」


リオルは首を横に振った。


「記録を守るものです。中身が偏らないように作ります」


地脈術師が銀の針を差し出す。


「底側に、薄い重しが仕込まれています」


宰相が保存筒を見る。


「中に記録があるのではなく、外側に仕込まれている?」


「その可能性が高いです」


リオルは筒へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


自分の印が刻まれた証拠。


自分が触れれば、それだけで疑いが濃くなる。


彼は手を膝の上へ戻した。


国王は、その動きを見ていた。


「触れるな」


「はい」


リオルは小さく答える。


「分かっています」


クロは分かっていない。


筒が転がった。


止まった。


中で鳴った。


なのに、もう動かない。


それは、よくない。


クロはセリアの腕から、するりと前脚を伸ばした。


「クロ様」


セリアが抱き直すより早く、クロの前脚が空をかいた。


届かない。


「ニャ」


(とおいニャ)


クロは少し不満そうに鳴いた。


国王が、地脈術師へ目を向ける。


「近づけるな。筒をこちらへ転がせ」


「御意」


保存筒が、木枠の中でゆっくり押される。


ころころ。


クロの前、セリアの腕から前脚を伸ばせば届く距離で止まる。


セリアは警戒した。


「クロ様、触るのは」


クロの前脚が伸びた。


ちょい。


保存筒が転がる。


ころ。


こつ。


「ニャッ」


(いたニャ)


クロはもう一度叩いた。


ちょい。


ころ。


こつ。


木枠の端に当たって、保存筒が戻ってくる。


クロの目が丸くなる。


戻ってきた。


これは良い。


「ニャニャッ」


(もどったニャ)


ちょい。


ころ。


こつ。


ころ。


クロは夢中になった。


国王も、宰相も、リオルも、地脈術師たちも、誰一人として笑わない。


ただ、保存筒の動きを見ていた。


転がるたびに、同じところで音が鳴る。


同じところで止まる。


そして、リオルの印が上を向く。


毎回、必ず。


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第三章:上を向く印

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「おかしい」


最初に言ったのはリオルだった。


声はかすれていたが、はっきりしている。


国王が問う。


「何がだ」


「印が、上を向きます」


宰相が保存筒を見た。


保存筒が止まるたび、リオルの印は上を向く。


まるで、見ろと言わんばかりに。


「刻印の位置に重みがあるのか」


「逆です」


リオルは封印布の端を見つめる。


「普通なら、重い側が下になります。印が上を向くなら、印の反対側に重みがある」


地脈術師が銀の棒で、保存筒をそっと固定した。


「では、見せるための印か」


リオルは頷く。


「はい」


その声が少しだけ震えた。


「疑わせるための印です」


地下牢の空気が、わずかに動いた。


近衛兵の手が、柄から少し離れる。


国王は保存筒を見ている。


「断定は早い」


「はい」


リオルは頭を下げた。


「ですが、私が保存筒を作るなら、印が毎回上を向くような重心にはしません。保存筒は保管するもので、見せつけるものではありません」


セリアはクロを抱えながら、小さく頷いた。


「犯人が『リオルさんの印を見せたい』なら、上を向くようにする意味はありますね」


ヴァルグが重々しく言う。


『すなわち、黒猫様は疑いそのものを転がされた』


「保存筒を転がしました」


『同じことである』


「かなり違います」


クロはそんな会話を聞いていない。


筒は転がる。


戻ってくる。


叩くと、こつ、と鳴る。


楽しい。


ただし、少し匂いが変だった。


クロは保存筒へ鼻を近づけた。


すん。


冷たい金属の匂い。


古い地下牢の湿った匂い。


人間の手の匂い。


それから。


爪とぎ場にたまに混じっている、嫌な石の匂い。


「フンッ」


(くさいニャ)


クロは鼻にしわを寄せた。


セリアの顔が少し強張る。


「クロ様?」


クロは前脚を上げる。


ちょい。


ころ。


こつ。


また、同じところで止まる。


くさい。


クロは保存筒の下側へ前脚を伸ばした。


木枠の隙間に爪が引っかかる。


かり。


小さな音がした。


地脈術師が息を呑む。


「下側の封蝋が削れました」


「止めるべきか」


宰相が国王を見る。


国王はクロを見た。


クロは、爪先についた黒い粉を嫌そうに振っている。


「ニャ」


(やニャ)


粉は封印布の上に落ちた。


その黒い粉へ、銀の針が反応する。


ぴん、と震えた。


リオルが身を乗り出しかけ、すぐに止まる。


「封蝋ではありません」


「何だ」


「偽装用の塗りです」


地脈術師が灯りを近づける。


削れた下側に、細い線が浮かび上がった。


それはリオルの印ではない。


三本線でも、中央の点でもない。


細い鍵を逆さにしたような印。


リオルは、その印を見た瞬間、息を止めた。


国王が低く問う。


「知っているな」


「はい」


リオルは、目を伏せた。


「先生の反転印です」


地下牢に、誰かが息を呑む音が重なった。


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第四章:反転印

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反転印。


リオルは、その言葉を口にした後、しばらく黙った。


国王は急かさない。


セリアも口を挟まない。


クロだけが、爪先を振っていた。


黒い粉がまだ少しついている。


気に入らない。


「ニャ」


(とるニャ)


クロは前脚を舐めようとした。


セリアが慌てて柔らかな布で前脚を包む。


「舐めないでください。これは舐めないでください」


「ニャ?」


(だめニャ?)


『黒猫様の御身に、汚れが触れた』


ヴァルグの声が一段低くなった。


地下牢の燭火が、かすかに揺れる。


「怒らないでください。調査中です」


セリアが即座に言った。


ヴァルグは静かに目を閉じる。


『今は耐えよう』


「ありがとうございます」


国王は見なかったことにした。


今は、暗黒竜の機嫌より保存筒である。


「反転印とは何だ」


リオルは布の上の黒い粉を見た。


「先生が、責任を逆向きにする時に使った印です」


宰相が眉を寄せる。


「責任を逆向きにする?」


「地脈術では、誰が式を置いたかを示す印を残します。事故が起きた時、後から原因を追えるように」


リオルは保存筒を指差さない。


ただ、視線だけを向けた。


「ですが先生は、印そのものを術式にしました。他人の印を表に出し、自分の印を裏へ隠す。調べる者が表の印だけを見れば、責任は別人へ向かう」


国王の表情が険しくなる。


「つまり、リオルの印は」


「見せるためのものです」


リオルは言った。


「私が残した証拠ではなく、私を見せるための証拠です」


宰相が地脈術師へ視線を向ける。


「確認できるか」


「削れた部分だけなら」


地脈術師は慎重に灯りを傾けた。


「下側の反応は、保存筒本体に焼き込まれています。表のリオル殿の印は、後から薄い金属膜を重ねて刻んだものです」


近衛兵たちの間に、わずかな緊張のゆるみが走る。


セリアは小さく息を吐いた。


「よかった」


リオルは何も言わない。


よかった、という顔ではなかった。


疑いが完全に消えたわけではない。


だが、今この場で捕らえられる理由は薄くなった。


それでも彼は、助かったというより、別の重さを背負わされたように見えた。


国王が言う。


「リオル」


「はい」


「貴殿を疑う材料は残っている」


リオルは顔を上げる。


国王は続けた。


「だが、メルトが貴殿を疑わせようとした材料も出た」


「……はい」


「ならば、調べる。決めつけはしない」


リオルは、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


ヴァルグが静かに言った。


『黒猫様の一打ちが、冤罪の鎖を砕いた』


セリアが保存筒を見る。


木枠の中で、筒はまだ止まっている。


「砕いてはいません。少し削りました」


『黒猫様にとっては同じこと』


「違います」


クロは、前脚を布で拭かれていた。


気に入らない。


自分で舐めたい。


でも、セリアの手は温かい。


布は柔らかい。


まあまあである。


「ふにゃ」


(まあいいニャ)


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第五章:旧取水塔へ

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保存筒は開けないまま、封印布の上で固定された。


削れた下側には、反転印がある。


そして、もう一つ。


反転印の端から、細い矢のような線が伸びていた。


リオルは顔を強張らせた。


「方位印です」


国王が問う。


「どこを示す」


地脈術師が王城地下の地脈図を広げる。


保存筒の向きと方位印を合わせると、王城から外へ向かう一本の線が浮かび上がった。


王都の外。


西ではない。


北でもない。


王都を囲む古い外郭水路のさらに先。


今は使われていない、王家の旧取水塔。


「旧取水塔」


宰相がその名を読み上げた。


「すでに廃止され、封鎖された施設です。現在の王都水路とは切り離されています」


リオルは首を横に振った。


「切り離したことになっているだけです」


国王がリオルを見る。


「またか」


「はい」


リオルの声は苦かった。


「先王時代、王都地下水路の一部を切り離したのがメルト先生なら、旧取水塔も完全には死んでいないはずです」


宰相が静かに問う。


「そこに呪核があるのか」


「分かりません」


リオルは正直に答えた。


「ただ、この方位印は、そこを示しています」


国王はしばらく黙った。


地下牢にある保存筒。


王城の足元に出た表示式。


白霧谷に沈められた呪核。


そして、旧取水塔。


どれも別々の事件ではない。


だが、同じ形でもない。


呪核を置く。


地脈を切り離す。


表示式を通す。


疑いを置く。


メルトは、同じ手を繰り返しているのではなかった。


王国の足元を、違う角度から少しずつ動かしている。


国王は命じた。


「旧取水塔へ調査隊を出す」


「御意」


「ただし、リオルを先頭には立たせるな」


リオルが顔を上げる。


国王は淡々と言った。


「貴殿を疑っているからではない。メルトが貴殿を狙っているからだ」


リオルは言葉を失った。


宰相が記録係へ目を向ける。


「調査隊長はライオネル。地脈術師は二班編成。方位印の件は伏せ、表向きは旧水路の安全確認とする」


「はっ」


国王は、セリアの腕の中のクロを見た。


クロはもう、保存筒に飽きていた。


前脚はきれいになった。


筒は動かない。


寒い。


お腹が少し空いた。


「ニャ」


(ごはんニャ)


クロがセリアの袖を、前脚でちょいと引いた。


視線は、地脈術師の荷物袋へ向いている。


セリアはその動きを見て、小さく息を吐いた。


「陛下。クロ様がそろそろ限界です」


国王はうなずく。


「王城厨房へ伝えろ。持ち運べる献上品を用意させる」


宰相がすぐに続けた。


「まさか、旧取水塔へお連れするおつもりですか」


「黒猫様を目的にするな。だが、旧取水塔へ向かう転移陣は王城内で開く。セリア殿とヴァルグ殿が同行する以上、黒猫様だけを王城に残す方が危うい」


国王は疲れた声で答えた。


「そして今、黒猫様は空腹だ」


ヴァルグが重々しく言う。


『すなわち、王国の命運は献上品の温度に懸かっておる』


「言い方は最悪ですが、急いだ方がいいのは確かです」


セリアはきっぱり言った。


クロはセリアの腕の中で、短く鳴いた。


「ニャ」


(はやくニャ)


王国の危機も、先王時代の罪も、旧取水塔も。


クロには何も分からない。


ただ、ころころする筒は少し楽しかった。


でも今は、ごはんの方が大事だった。


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第六章:水の入口

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旧取水塔は、王都の外郭から少し離れた低地にあった。


かつては清水を王都へ送る入口だったが、今は石壁に蔦が絡み、門には封鎖札が重ねられている。


夜の湿った風が、水の匂いを運んでいた。


調査隊長ライオネルは、封鎖門の前で膝をつく。


「封印は生きています」


リオルは少し後ろに立っていた。


国王の命令通り、先頭ではない。


だが、目は旧取水塔の石組みから離れなかった。


「生きているだけです」


ライオネルが振り返る。


「どういう意味だ」


「水を止める封印ではありません。外から見た者に、止まっていると思わせるための封印です」


地脈術師たちが顔を見合わせた。


セリアはクロを抱いたまま、水路の縁から少し離れた場所に立っている。


クロの鼻が、ひくひく動いた。


水の匂い。


古い石の匂い。


それから、布に包まれた温かいものの匂い。


王城厨房が急いで用意した、鶏だしを含ませた小粒カリカリである。


「ニャ」


(ごはんニャ)


クロが布包みへ鼻を伸ばしたので、セリアは少しだけ持ち上げる。


「まだ下ろせません。足元が濡れていますから」


クロは不満そうに尻尾を揺らした。


目の前には水の匂い。


腕の中にはごはんの匂い。


どちらも気になる。


忙しい。


「ニャ……」


(いそがしいニャ)


ヴァルグが厳かに頷いた。


『水と糧。二つの流れを同時に見極めるとは』


「迷っているだけです」


旧取水塔の門が開かれる。


中から、冷たい湿気が流れ出した。


奥では水が落ちている。


ぽちゃん。


ぽちゃん。


一定ではない。


時々、音が消える。


そして、少し遅れて戻る。


クロの耳が立った。


「ニャ」


(ぽちゃんニャ)


ライオネルが低く言う。


「音が途切れます」


リオルは水路の縁へ近づきかけ、近衛兵に止められた。


彼はそこで足を止める。


「水が流れていない場所がある」


「水路なのにか」


「はい。流れているように見せて、途中で別の穴へ落としている」


地脈術師が測脈板をかざす。


水面には何も映らない。


澄んでいる。


澄みすぎている。


リオルの顔が険しくなる。


「水の反応が薄すぎる」


セリアが眉を寄せた。


「水なのに、ですか」


「はい。これは水路ではなく、見せ水です」


クロは意味を知らない。


ただ、水面に浮かぶ小さな泡を見つけた。


ぷく。


ぷくぷく。


泡が出る。


消える。


また出る。


「ニャッ」


(いるニャ)


クロの体が、セリアの腕の中でぐにゃりと動いた。


「クロ様、待ってください」


待たない。


クロはセリアの腕の隙間から、するりと体を抜いた。


黒い体が、水路の縁へ降りる。


セリアが慌てて手を伸ばした。


「そこまでです。そこから先はだめです」


ぷく。


泡が逃げるように水面を滑った。


クロの前脚が伸びる。


ちょい。


水面が揺れた。


小さな波が石壁へ当たり、戻ってくる。


ぽちゃん。


音が、今度は別の場所から返った。


リオルが顔を上げる。


「そこだ」


地脈術師が測脈板を向ける。


水面ではない。


石壁の下。


苔に隠れた細い隙間の奥で、黒い線が一瞬だけ浮いた。


「隠し水路があります」


ライオネルが命じた。


「封印杭を」


「待ってください」


リオルが声を上げる。


全員が彼を見る。


リオルは息を整えた。


「そこは入口です。塞げば、水だけが別の道へ逃げます」


国王の声が、連絡魔石から響いた。


『では、どうする』


リオルは水面を見た。


泡がまた浮く。


クロがそれを見ている。


「止めるのではなく、開きます」


宰相の声が低くなる。


『危険では』


「危険です。ですが、位置が分かっている今しか追えません」


少しの沈黙。


やがて、国王が言った。


『開け』


地脈術師たちが封印杭を打ち込む。


塞ぐためではない。


隠された水路の輪郭を固定するために。


水面が揺れた。


ぷく。


ぷくぷく。


泡が一列に並ぶ。


クロは目を丸くした。


「ニャニャッ」


(いっぱいニャ)


セリアはクロの背中へ手を添え、落ちないように支えていた。


前脚が、もう一度水面を叩く。


ちょい。


波が走る。


泡の列が、石壁の奥へ吸い込まれた。


ご、と低い音がする。


旧取水塔の床が震えた。


石壁の一部が、ゆっくり沈む。


その奥に、階段が現れた。


下へ続く階段。


水音のない、乾いた階段だった。


ライオネルが剣に手を添える。


「隠し区画」


リオルは青ざめていた。


「違います」


セリアが問う。


「違う?」


「ここは取水塔の奥ではありません」


リオルは、現れた階段を見つめる。


「先生の工房へ続く入口です」


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終章:工房の入口

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光の届かぬ石室で、メルト・マッドンは旧取水塔の図面を見ていた。


図面の端に刻まれていた反転印が、薄く削れている。


地下牢の保存筒も、旧取水塔の見せ水も、もう隠しきれない。


報告者は低く頭を下げた。


「旧取水塔の入口が開きました」


メルトは目を伏せた。


怒りはなかった。


むしろ、静かすぎた。


「リオルは」


「入口近くで、リオル・カーマンの印が反応しています」


「王は慎重だ」


メルトは古い水路図を畳んだ。


「だが、ここまで来た」


「迎え撃ちますか」


「迎える」


メルトは、石机の奥から細い黒杭を一本取り出した。


呪核ではない。


地脈へ打つための杭でもない。


古い工房の扉を開くための鍵だった。


「先生の最後の授業だ」


その頃、旧取水塔では。


クロがセリアの腕の中で、布包みを見ていた。


温かい。


いい匂い。


でも、下の階段からは水の匂いがしない。


かわりに、古い石と、嫌な黒い粉の匂いがする。


クロは鼻にしわを寄せた。


「フンッ」


(くさいニャ)


セリアがクロを抱き直す。


「クロ様?」


クロは布包みへ鼻を近づけた。


すん。


「ニャ」


(こっちがいいニャ)


セリアは一瞬だけ階段を見た。


それから、布包みを見た。


クロが布包みを前脚で押さえようとしている。


「……気持ちは分かります。私もそちらの方がいいです」


ヴァルグが静かに前へ出る。


『黒猫様に不快な匂いを嗅がせるとは、万死に値する』


「まだ何も壊さないでください」


ライオネルは階段の奥を見据えた。


連絡魔石の向こうで、国王が短く命じる。


『進め』


旧取水塔の奥。


先王時代に隠された工房への入口。


メルト・マッドンは、もう遠い記録の中の名ではなかった。


その扉の向こうにいる。


クロは何も知らず、布包みを前脚で押さえようとしていた。


「ニャ」


(ごはんニャ)


黒猫様は、工房の入口ではなく、温かいカリカリを見ていた。


だがその足元で、水のない階段が、暗い底へ向かって口を開けていた。


(第35話 完)


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