第34話:黒猫様と、地下牢のちゃりちゃり鍵束
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序章:残された鍵
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玉座の間の黒い地脈図は、薄い跡だけを残して消えていた。
床の石目には、墨を洗い落としたような黒ずみがある。
王城地脈術師たちは、その上に封印札を置き、何度も反応を確かめていた。
国王は玉座の前に立ったまま、封印瓶を見ている。
中には、髪の毛ほどの黒い術式針が入っていた。
呪核ではない。
だが、王城の古い地脈表示層へ式を留めるには十分なものだった。
リオル・カーマンは、封印瓶の前で膝をついていた。
「陛下」
国王が視線を向ける。
「何か分かったか」
「この針は、王城内から一度触れられています」
宰相が眉を寄せた。
「外から通した式ではなかったのか」
「外から通されています。ですが、通すための目印は内側にあった」
リオルは、封印瓶の黒い針を見た。
「先王時代、先生が王城を逃げる前に残したものだと思います」
玉座の間に、重い沈黙が落ちた。
国王は短く息を吐く。
「場所は」
「まだ正確には。ただ、針の向きから考えると、王城の奥です」
リオルは言いにくそうに続けた。
「地下牢に近い」
宰相が近衛兵へ目を向ける。
「先王時代にメルト・マッドンを拘束していた区画か」
「はい。現在は閉鎖されています」
国王はすぐに命じた。
「開ける」
宰相が一歩前へ出る。
「陛下。地下牢は長く使われておりません。安全確認を」
「だから今、確認する」
国王は封印瓶を机へ置いた。
「術式針がそこを示すなら、確かめる価値はある」
近衛兵が深く一礼し、腰の鍵束を外した。
ちゃり。
金属の小さな音がした。
玉座の前の赤い絨毯で丸くなっていたクロの耳が、ぴくりと動く。
「ニャ……」
(ちゃりニャ)
クロは片目を開けた。
床はもうことこと言わない。
ごはんもない。
でも、今度はちゃりちゃりがある。
近衛兵が鍵束を持ち直す。
ちゃり。
ちゃりちゃり。
クロは、ゆっくり顔を上げた。
セリアは嫌な予感がして、そっとクロの前に手を出す。
「クロ様、鍵は遊び道具ではありません」
「ニャ?」
(あそぶニャ?)
クロは首をかしげた。
ヴァルグが静かに頷く。
『王城の封じられし扉が、黒猫様を招いておる』
「鍵束の音に反応しただけです」
『招き方にも種類がある』
「ありません」
国王は二人を見た。
それから、クロを見る。
黒猫はもう起き上がっていた。
白い尻尾の先が、赤い絨毯の上でゆらゆら揺れている。
国王は、ほんの少しだけ考えた。
「黒猫様は」
セリアがすぐに答える。
「地下牢へはお連れしない方が」
ちゃり。
近衛兵の鍵束が、もう一度鳴った。
クロが立ち上がった。
「ニャ」
(いくニャ)
セリアは目を閉じた。
「……ですよね」
国王は低く言った。
「安全を最優先にする。黒猫様を前に出すな」
ヴァルグが静かに頭を下げる。
『黒猫様の前に立つことを許されるとは、誉れである』
「盾にするという意味ではありません」
地下牢へ向かう一行が動き出す。
近衛兵。
地脈術師。
リオル。
セリア。
ヴァルグ。
そして、鍵束の音を追う黒猫。
王城の赤い絨毯から、冷たい石の階段へ。
クロは、何も知らずに歩き出した。
ただ、ちゃりちゃり鳴るものが気になっただけだった。
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第一章:先王時代の扉
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王城の地下牢は、王城の奥深くにあった。
今は使われていない。
罪人を閉じ込める場所としては古すぎ、湿気が強すぎ、通路も狭い。
近年は、記録上だけ残された閉鎖区画になっていた。
石段を降りるほど、空気が冷たくなる。
壁の燭台には新しい火が入れられたが、光は奥まで届かなかった。
クロは階段の途中で足を止める。
冷たい。
床が硬い。
さっきの赤い絨毯の方がよかった。
「ニャ」
(さむいニャ)
セリアがすぐに抱き上げようとする。
だが、近衛兵の鍵束が鳴った。
ちゃり。
クロの耳が立つ。
「ニャッ」
(そっちニャ)
クロはまた歩き出した。
セリアは手を宙で止める。
「鍵に負けました」
ヴァルグが低く言う。
『鍵束よ、己が幸運を知るがよい』
「鍵に語りかけないでください」
階段の下に、古い鉄扉があった。
錆びている。
だが、封印は生きていた。
王家の紋章が刻まれた銀の札が、扉の中央に貼られている。
近衛兵が鍵束から一本を選び、錠へ差し込んだ。
ぎ。
古い金属が嫌な音を立てる。
クロは少しだけ耳を伏せた。
「ニャ……」
(いやな音ニャ)
鍵が回る。
がちり。
扉は開かなかった。
近衛兵が眉を寄せる。
「開きません」
宰相が問う。
「鍵が違うのか」
「いえ、合っています」
リオルは扉へ近づいた。
銀の札を見て、顔を強張らせる。
「内側から、別の式で留められています」
国王が低く言う。
「当時のものか」
「はい」
リオルは扉の下を見た。
石床の隙間に、細い黒い線がある。
玉座の間に浮かんだものよりも薄い。
しかし、同じ癖だった。
「先生は、ここから逃げる時に扉を閉じたのではありません」
「どういう意味だ」
リオルは唇を噛む。
「扉を、まだ内側として扱わせている。外から開けても、式の上では中に入れない」
宰相が目を細めた。
「つまり」
「この扉は、今も先生の牢の一部です」
冷たい空気が、さらに重くなった。
その時、クロが鉄扉の前に座った。
目の前には、鍵穴。
そこから、かすかに匂いがする。
古い鉄。
湿った石。
嫌な水。
そして。
細い、ちゃりちゃりの気配。
クロは鼻を近づけた。
くん。
くんくん。
「フンッ」
(へんなにおいニャ)
クロは顔をしかめた。
それから、鍵穴へ前脚を伸ばした。
セリアが慌てる。
「クロ様、そこは汚いです」
クロの爪が、鍵穴の縁へ引っかかった。
かり。
鉄の内側で、何かが小さく鳴った。
ちゃり。
クロの目が丸くなる。
「ニャッ」
(いたニャ)
もう一度。
かり。
ちゃり。
鍵穴の奥で、細い金属音が返った。
リオルが息を呑む。
「内側の鍵が鳴っている」
国王が問う。
「内側の鍵?」
「式を留めている核です。鍵の形をしている」
近衛兵が困惑した。
「本物の鍵ではないのですか」
「本物の鍵を真似た術式です」
クロはそんなことを知らない。
爪を引っかける。
ちゃり。
音が返る。
楽しい。
たいへん楽しい。
「ニャッ」
(ちゃりちゃりニャ)
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第二章:開かない牢
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リオルは地脈術師たちへ指示を出した。
「扉の左右に札を。鍵穴の周りへは触れないでください」
地脈術師の一人が問う。
「黒猫様の前脚は」
リオルは一瞬だけ黙った。
クロは鍵穴をかりかりしている。
かり。
ちゃり。
かりかり。
ちゃりちゃり。
「触れている扱いで進めます」
セリアが小さく言った。
「扱いではなく、触れています」
リオルは咳払いをした。
「はい。触れています」
ヴァルグが満足げに目を細める。
『閉ざされし牢獄も、黒猫様の御爪に応える』
「鍵穴で遊んでいるだけです」
『応えておるではないか』
「音は返っていますね」
国王は、鉄扉を見ていた。
この地下牢に、メルト・マッドンを閉じ込めた。
先王時代の記録では、そうなっている。
だが、実際には逃げられた。
正式な尋問の前に。
拘束の理由。
押収された研究資料。
消えた弟子の記録。
王都地下水脈の切り離し。
そのすべてが、今になってつながり始めている。
「リオル」
「はい」
「メルトは、どうやって逃げた」
リオルは扉から目を離さなかった。
「分かりません」
少し間を置く。
「ただ、当時の先生なら、扉を破るようなことはしなかったと思います」
「なぜだ」
「破れば、逃げた跡が残ります。先生は、跡を残すことを嫌った」
リオルは扉の下の黒い線を見た。
「おそらく、牢の内側と外側の扱いを入れ替えたのです」
宰相が顔をしかめる。
「分かるように言え」
「扉を開けたのではなく、牢の外を内側にした。自分は、まだ牢の中にいるという扱いのまま、王城の外へ出た」
沈黙。
国王が低く言った。
「意味が分からん」
「私も、完全には分かりません」
リオルは苦い顔をする。
「ですが、先生の式はそういうものです。土地や扉に、別の意味を押しつける」
クロが鍵穴を強めに引っかいた。
かりっ。
ちゃりん。
今までより大きな音がした。
鉄扉の銀札が、淡く光る。
地脈術師が声を上げた。
「内側の式が浮きました」
リオルが即座に言う。
「封じてください」
「どこを」
「鍵音の返る位置です」
地脈術師たちは一瞬だけ固まった。
鍵音。
返る位置。
そんな基準で王城地下牢の封印を扱う日が来るとは、誰も思っていなかった。
だが、誰も文句は言わなかった。
玉座の間で、同じようなことをしたばかりだからである。
地脈術師たちは札を貼る。
一枚。
二枚。
三枚。
クロが鍵穴を引っかくたびに、銀札の裏で黒い線が浮く。
リオルがそれを読み、指示を出す。
「右下」
「上の留め具」
「扉の蝶番ではありません。その奥です」
黒い線が少しずつ薄くなっていく。
だが、最後の一本だけが残った。
鍵穴の奥。
クロの爪でも届きにくい場所。
リオルは額に汗を浮かべた。
「あと一本」
セリアが問う。
「開きそうですか」
「いえ。最後の式が、鍵穴の奥へ逃げています」
近衛兵が鍵束を差し出す。
「鍵を」
リオルは首を振った。
「本物の鍵を入れれば、式も一緒に奥へ潜る」
その時、クロが鍵束を見た。
ちゃりちゃりするもの。
たくさんある。
光る。
揺れる。
クロの目が、まん丸になった。
「ニャ」
(いっぱいニャ)
近衛兵は、嫌な予感がして鍵束を少し上げた。
クロも顔を上げる。
鍵束が揺れる。
ちゃり。
クロの尻尾が、ぴんと立った。
「クロ様」
セリアの声が遅かった。
クロは跳んだ。
前脚が、鍵束へ届く。
ちょい。
鍵束が大きく揺れた。
ちゃりちゃりちゃり。
鉄扉の内側からも、同じ音が返る。
ちゃりちゃりちゃり。
リオルが叫んだ。
「今です。外の鍵音に釣られて、内側の式が前に出ています」
地脈術師が札を押さえる。
銀札が強く光った。
黒い線が、鍵穴の奥からするりと出てくる。
細い。
鍵の形をした、黒い術式片だった。
クロはそれを見た。
小さい。
黒い。
ちょろっと出てきた。
「ニャッ」
(でたニャ)
クロは前脚を伸ばした。
ぺし。
黒い術式片が床へ落ちる。
地脈術師が封印瓶を差し出し、すぐに閉じ込めた。
がちり。
鉄扉の奥で、重い音がした。
扉を留めていたものが外れた音だった。
近衛兵が、もう一度鍵を回す。
今度は、扉が開いた。
冷たい空気が、奥から流れ出す。
湿った石の匂い。
古い鉄の匂い。
そして、かすかに焦げた紙の匂い。
リオルの顔が変わった。
「研究紙片です」
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第三章:牢の中に残ったもの
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地下牢の中は狭かった。
石の寝台。
錆びた鎖。
壁に刻まれた古い傷。
それだけの部屋だった。
だが、奥の壁だけが違っていた。
石と石の間に、薄い紙片が何枚も挟まっている。
普通なら、とっくに湿気で朽ちているはずだった。
しかし、紙片の周囲には細い封印線が走り、ぎりぎり形を保っていた。
リオルは、ゆっくり壁へ近づいた。
手を伸ばしかけ、止める。
「触らない方がいいな」
国王が言う。
リオルは頷いた。
「はい。先生の癖です。読ませたいものほど、触れた者へ意味を押しつける」
宰相が目を細める。
「罠か」
「罠であり、記録でもあります」
セリアはクロを抱き上げようとした。
しかし、クロは牢の床を見ている。
床の隅に、小さな紙片が一枚落ちていた。
他の紙片とは違い、封印線がない。
端が少し丸まっている。
動きそうで、動かない。
クロは近づいた。
「ニャ」
(ぺらぺらニャ)
前脚で、ちょい。
紙片が、かさ、と音を立てた。
クロの耳が立つ。
もう一度、ちょい。
かさ。
クロは楽しくなった。
ちょい。
かさ。
ちょいちょい。
かさかさ。
リオルが振り返る。
「黒猫様、その紙は」
セリアが慌てて膝をつく。
「クロ様、食べないでください」
クロは紙片の匂いを嗅いだ。
焦げた匂い。
古い匂い。
ごはんではない。
食べない。
ただ、音がよい。
「ニャ」
(かさかさニャ)
クロは紙片を前脚で押した。
紙片は床を滑り、石の隙間へ引っかかった。
その瞬間、壁の紙片が一斉に震えた。
かさ。
かさかさ。
かさかさかさ。
地脈術師たちが身構える。
リオルは目を見開いた。
「違う。罠が起きたんじゃない」
国王が問う。
「何だ」
リオルは、床の紙片と壁の紙片を見比べた。
「順番です」
「順番?」
「壁の紙片は、読む順番を隠してあります。床の紙片が、最初の一枚です」
宰相が言う。
「なぜ床に落ちていた」
「落ちていたのではありません。先生が、落ちるように残した」
リオルの声が低くなる。
「誰かが鍵を開け、牢の中へ入り、床の紙片を動かす。そこから読むように」
国王は紙片を見た。
「つまり、招待状か」
「はい」
リオルは唇を噛む。
「私宛ての」
セリアはクロを見た。
クロは床の紙片を、またちょいと押している。
かさ。
壁の紙片が、一枚だけ淡く光った。
リオルは息を呑む。
「読めます」
「読むな」
国王の声は鋭かった。
リオルは振り返る。
国王は壁の紙片を見ていた。
「罠だと言ったのは貴殿だ。読めば意味を押しつけられるのだろう」
「ですが、ここに先生の次の手が」
「読むなと言った」
国王は静かに続ける。
「読む方法を考えろ」
リオルは言葉を失った。
宰相が地脈術師たちへ命じる。
「写しを取る準備を。直接読むな。反射板を使え」
地脈術師たちが動く。
鏡のような銀板が用意された。
壁の紙片を直接見ず、銀板に映して文字を拾う。
手間はかかる。
だが、触れずに済む。
読まされずに済む。
クロはその間も、床の紙片で遊んでいた。
ちょい。
かさ。
ちょい。
かさ。
セリアは小声で言った。
「クロ様、その紙は大事そうなので、できれば丁寧に」
「ニャ?」
(これニャ?)
クロは紙片を前脚で押さえた。
破かない。
食べない。
ただ、押さえる。
セリアがほっとする。
ヴァルグが重々しく頷いた。
『黒猫様、禁じられし書を御爪の下に封じられた』
「紙を押さえているだけです」
『紙は逃げぬ』
「今は逃げてほしくありません」
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第四章:先生の宿題
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銀板に映された文字を、リオルが一つずつ読んだ。
声は震えていたが、目は逸らさなかった。
「王城地下水脈、第四区画。切り離し済み」
地脈術師が記録する。
「白霧谷、沈んだ節。集束候補」
宰相が目を細める。
「候補、か」
「はい。先生は最初から白霧谷だけに絞っていたわけではありません」
リオルは次の紙片を見る。
「王城表示層。王へ提示するための経路」
国王は黙って聞いている。
「旧地下牢。鍵式保存」
「それが今の鍵か」
「はい」
さらに、次の紙片。
リオルの声が止まった。
「どうした」
国王が問う。
リオルは、唇を噛む。
「王家地脈核」
玉座の間よりも深い沈黙が落ちた。
宰相が低く言う。
「聞いたことがない」
地脈術師たちも首を振った。
リオルは銀板の文字を見つめている。
「私も、詳しくは知りません。ただ、先生が一度だけ言っていました。王国の地脈には、王家が古い時代に封じた中心がある、と」
国王の表情が変わった。
「王家にも伝わっていない」
「おそらく、伝えるべきではないものだったのだと思います」
宰相が問う。
「メルトは、それを探しているのか」
「いいえ」
リオルは首を横に振った。
「先生は、もう場所を知っている」
国王の手が、静かに握られた。
「どこだ」
リオルは銀板を見た。
そこには、短い一文が映っている。
「王の足元にあり、王の手にはない」
国王は一瞬だけ黙った。
「謎かけか」
宰相が冷静に言う。
「性格が悪い」
リオルは苦く笑った。
「先生らしいです」
クロが、床の紙片を押した。
かさ。
壁の奥で、別の紙片が光る。
リオルがそちらを見る。
「まだあります」
国王が言う。
「読め」
リオルは銀板を動かした。
次の文字が映る。
「黒き杭を打つ必要なし」
地脈術師が息を呑む。
「呪核を使わない?」
リオルは読み続けた。
「すでに、王国は流れを縛られている」
国王の顔が険しくなる。
「どういう意味だ」
リオルは、すぐには答えられなかった。
「先生は、王国そのものの制度か、古い封印か、地脈管理の仕組みを利用するつもりです」
「呪核ではなく」
「はい」
リオルはゆっくり頷いた。
「ここから先は、呪核を置く話ではないのかもしれません」
その言葉は、地下牢の冷たい空気よりも重かった。
国王は、壁の紙片を見つめた。
「メルトは、王国の何を返してもらうつもりだ」
答えは、まだ出ない。
だが、床の紙片がまた、かさりと鳴った。
クロが前脚で押したからである。
壁の一番奥。
石の寝台の下に、細い光が走った。
セリアが気づく。
「今、光りました」
近衛兵が寝台の下を調べる。
そこには、小さな金属筒が隠されていた。
王家の封印でも、メルトの黒い封印でもない。
古い地脈術師の保存筒だった。
リオルは筒を見て、息を詰めた。
「これは」
「知っているのか」
リオルは震える手で、筒の刻印を示した。
「私の印です」
国王の視線が鋭くなる。
「貴殿の?」
「はい」
リオルは青ざめた。
「ですが、私はこんなものを残していません」
沈黙が落ちる。
クロは、そんなことは知らない。
紙片が光った。
筒が出た。
みんなが固まった。
でも、紙はまだ、かさかさする。
クロは前脚で紙片を押さえたまま、あくびをした。
「ふにゃ……」
(ねむいニャ)
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終章:返してもらうもの
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光の届かぬ石室で、メルト・マッドンは古い地下牢の図面を見ていた。
図面の端に刻まれていた黒い鍵印が、一つ消える。
報告者は、低く頭を下げた。
「地下牢の鍵式、外されました」
メルトは答えない。
「保存紙片の封印も、順に外れています」
「読ませたか」
「反応を見る限り、直接ではありません」
メルトは、ほんの少しだけ笑った。
「王は慎重だな」
報告者は黙っている。
「案内した者は」
「地下牢に入ったようです」
「そうか」
メルトは、古い図面の上に指を置いた。
地下牢。
玉座の間。
王城地下水脈。
その三つを結ぶ線は、まだ途切れていない。
「私の印も見つけたか」
「いえ」
報告者は、わずかに迷ってから続けた。
「例の保存筒が反応しました」
メルトの口元が、静かに歪んだ。
「そうだ」
その声は、ひどく穏やかだった。
「あれは、リオルのものだ」
「しかし、本人は」
「本人が残したかどうかは、重要ではない」
メルトは図面から手を離した。
「王城が疑えばいい」
報告者は息を呑んだ。
「リオルを、ですか」
「あれは逃げた。当時からずっと」
メルトの声は静かだった。
「逃げた者は、疑われる。疑われた者は、また逃げたくなる」
黒い鍵印の消えた図面の上に、別の線が浮かぶ。
それは王都の外へ続いていた。
「先生の宿題だ」
メルトは、誰にともなく言った。
「今度は逃げずに解いてみせろ、リオル」
その頃、王城地下牢では。
クロが床の紙片を前脚で押さえたまま、眠りかけていた。
紙片はもう、かさかさ鳴らない。
鍵束も、近衛兵の腰で静かになっている。
つまらない。
少し寒い。
ごはんもない。
クロはセリアを見上げた。
「ニャ」
(だっこニャ)
セリアはすぐにクロを抱き上げた。
「はい。もう地下牢は終わりにしましょう」
リオルは保存筒を見つめたまま動かない。
国王は、その横顔を見ていた。
疑うべきか。
信じるべきか。
王として、どちらも考えなければならない。
だが、少なくとも今は。
「リオル・カーマン」
国王が名を呼ぶ。
リオルはゆっくり顔を上げた。
「はい」
「逃げるな」
リオルの肩が、小さく震えた。
国王は続ける。
「疑問はある。調べもする。だが、貴殿をここで切り捨てれば、メルトの思う壺だ」
リオルは唇を噛んだ。
「私は」
「逃げるな」
同じ言葉だった。
けれど、命令だけではなかった。
リオルは、深く頭を下げた。
「はい」
セリアの腕の中で、クロは目を閉じる。
地下牢は寒い。
けれど、抱っこは温かい。
ならば、まあまあである。
「ふにゃ……」
(ねるニャ)
王城の奥で、先王時代の宿題が開かれた。
黒猫様はもちろん、宿題など知らない。
ただ、ちゃりちゃり鳴る鍵束と、かさかさ鳴る紙片で少し遊んで、温かい腕の中へ戻っただけだった。
(第34話 完)
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