第33話:黒猫様と、王城床下のことこと鍋
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序章:王に見せるもの
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白霧谷の霧は、まだ完全には晴れていなかった。
呪核本体は封印布に包まれ、調査隊の中央に置かれている。
杭状の芯は、もう脈打っていない。
だが、周囲の地脈術師たちは油断していなかった。
残った黒筋を封じ、谷の奥へ伸びる細い反応を一つずつ消している。
セリアは、少し離れた場所でクロを抱いていた。
クロは腕の中で丸くなっている。
白い尻尾の先だけが、眠たげに揺れていた。
「ふにゃ……」
(ぬくぬく、ないニャ)
白霧谷で見つけた温かい石は、もうない。
かわりにセリアの腕がある。
まあまあ温かい。
なので、クロは我慢していた。
近くでは、リオル・カーマンが調査隊長ライオネルと話している。
顔色は悪い。
だが、白霧谷へ来た時よりも、背筋は少しだけ伸びていた。
「本体は抜けました」
リオルは封印布を見下ろして言った。
「ですが、先生の計画が終わったわけではありません」
ライオネルが問う。
「次はどこだ」
「分かりません。ただ、白霧谷で隠す手は破られました。先生は、もう隠さないかもしれない」
「王に見せる、か」
リオルは頷いた。
その時、連絡魔石が強く光った。
記録官が慌てて魔石を支える。
『白霧谷調査隊、応答せよ』
王城からの声だった。
ライオネルがすぐに前へ出る。
「こちら白霧谷調査隊。呪核本体は封印済み。現在、残留反応を処理中」
『王城に異常発生。玉座の間の床に黒い地脈図が浮上』
ライオネルの表情が変わった。
セリアも顔を上げる。
リオルは、息を止めたように固まった。
『陛下より命令。リオル・カーマン、直ちに王城へ戻れ。白霧谷の術式と関連する可能性がある』
リオルは唇を噛んだ。
「分かりました」
セリアが一歩近づく。
「私も行きます」
ライオネルはクロを見た。
セリアの腕の中で、黒猫は眠そうに目を細めている。
「黒猫様は」
セリアは少し迷った。
白霧谷に置いていくわけにはいかない。
地下百階層へ戻すには、転移陣の準備が要る。
そして今、王城へ戻る転移陣はすでに開きかけていた。
ヴァルグが、漆黒の執事姿で静かに言う。
『黒猫様はセリアの腕を寝床と定めておられる』
「つまり、降りる気がないということですね」
「ニャ……」
(ここ、ぬくいニャ)
クロはセリアの袖へ顔を押しつけた。
セリアは深く息を吐く。
「分かりました。このまま行きます」
ライオネルは一瞬だけ目を閉じた。
「報告書が、また難しくなる」
転移陣の光が白霧の中で開いた。
セリアはクロを抱き直し、リオルとともに王城へ向かった。
クロは、もちろん何も知らない。
ただ、寝床が少し揺れたと思っただけだった。
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第一章:玉座の下
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王城の転移室へ出た瞬間、床が低く震えた。
どん。
石の奥から押し上げるような音だった。
クロの耳が、ぴくりと動く。
「ニャ……?」
(なにニャ)
セリアはクロを抱いたまま、近衛兵に案内されて廊下を進んだ。
リオルはその隣を歩く。
ヴァルグは後ろからついてくる。
巨竜の姿ではない。
王城内で巨竜になれば、メルトの術式より先に天井が終わる。
玉座の間に入ると、国王が黒い線の前に立っていた。
床の石目に沿って、細い線が伸びている。
割れ目ではない。
煙でもない。
磨かれた白い石の隙間に、墨を流したような線だった。
宰相が振り返る。
「来たか」
リオルは床を見た。
顔色がさらに悪くなる。
「表示式です」
国王が問う。
「呪核ではないのだな」
「はい。王城の下に古くからある地脈表示層へ、外から式を通しています」
「外から」
「白霧谷で集め損ねた濁りの残りを、王城下の表示層へ流しているのだと思います」
リオルは膝をつき、黒い線へ指を近づけた。
触れない。
冷たさだけが、石の奥に沈んでいる。
「直接の呪核反応はありません。ですが、このまま表示層へ食い込めば、王城の地脈記録が汚されます」
宰相が眉を寄せた。
「王城に呪核を置いたわけではない、と」
「置けなかったのだと思います。だから、古い設備を使って見せている」
壁に黒い文字が浮かんだ。
リオルが震える声で読む。
「王は、流れを知らぬ」
続いて、もう一行。
「民は、土地を使い潰す」
さらに一行。
「ならば、流れは術師が正す」
国王は、黙ってそれを見ていた。
「メルト・マッドン」
国王が名を呼んだ。
返事はない。
ただ、床の黒い線が、ほんの少し濃くなった。
リオルは小さく息を吸う。
「先生は、これを授業のつもりでやっています」
宰相が疲れたように言う。
「王城の床を黒くして授業とは、たいした教育熱心だ」
セリアはクロを抱え直した。
クロは床を見ている。
白い石。
黒い線。
そして、床下から聞こえる低い音。
どん。
こと。
どん。
こと。
クロの耳が立った。
大きい音は、少し嫌。
小さい音は、気になる。
「ニャ」
(ことことニャ)
クロはセリアの腕の中で身じろぎした。
セリアが慌てる。
「クロ様、危ないです」
だが、クロはもう床を見ていた。
こと。
床下で何かが小さく鳴る。
クロは、降りたくなった。
たいへん降りたくなった。
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第二章:ことことと温かい匂い
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玉座の間の入口から、料理人たちがそろそろと入ってきた。
王城厨房から、献上品を運んできたのである。
白霧谷の呪核本体を封印したという第一報を受け、王城側で先に支度していたものだった。
白霧谷から戻る黒猫様のために用意された、温かい小粒カリカリのスープ添えだった。
厨房と玉座の間は近くない。
だから料理人たちは、蓋つきの保温鍋と銀の皿を載せた小さな台車を押してきていた。
台車の上で、鍋が小さく揺れる。
こと。
ことこと。
クロの耳が、さらに立った。
床。
鍋。
どちらも、ことこと。
しかも、鍋の方からはよい匂いがする。
魚。
鶏。
湯気。
カリカリ。
クロの目が丸くなった。
「ニャ」
(ごはんニャ)
セリアは、状況を理解したくない顔になった。
「今ですか」
王宮料理長は青ざめながらも、皿を整えた。
アルフレッドではない。
王城の料理長である。
ただし、黒猫様用献上品については、すでに何度も講習を受けていた。
「白身魚と鶏のだしを使った、やわらか小粒カリカリの温スープ添えでございます」
国王が低く言う。
「この状況で献上品か」
料理長は直立した。
「白霧谷帰りの黒猫様には、ぬくもりが必要かと」
国王は一瞬だけ黙った。
「正しいような気がして腹立たしい」
クロはセリアの腕から身を乗り出した。
床が、こと。
鍋も、こと。
クロは迷った。
ことこと。
ごはん。
ことこと。
ごはん。
どちらも大事である。
クロは、セリアの腕からするりと降りた。
「クロ様」
セリアが手を伸ばす。
クロはまず、鍋の前へ行った。
くん。
くんくん。
「ニャ」
(いいにおいニャ)
それから、床を見た。
黒い線が、こと、と鳴る。
クロは前脚を伸ばした。
黒い線へ、ちょい。
線は動かない。
こと。
床下から音が返った。
クロの目が、さらに丸くなる。
「ニャッ」
(かえってきたニャ)
ぺし。
こと。
ぺしぺし。
ことこと。
玉座の間にいた全員が、固まった。
リオルだけが、床を見つめていた。
黒い線が、クロの前脚に合わせてわずかに震えている。
「表示式が、返事をしています」
国王が問う。
「まずいのか」
「まずいです。ですが、今なら表示式の継ぎ目を追えます」
国王は、床の黒い線を見た。
「ならば追え」
「はい。今の揺れが消える前に」
リオルは地脈術師たちへ振り返った。
「黒猫様が叩いた場所へ札を。返りの音がずれたところが、表示式の継ぎ目です」
地脈術師たちが一斉に動いた。
クロは何も知らない。
床を叩く。
返る。
床を叩く。
返る。
そして、ときどき鍋を見る。
「ニャ……」
(ごはんもニャ)
セリアは料理長へ小声で言った。
「お皿を、少しこちらへ」
料理長は硬直した。
「玉座の間の床へ、献上品を」
「今だけです」
国王が短く言う。
「置け」
料理長は、覚悟を決めた顔で皿を置いた。
クロは皿の前に座る。
ぺし。
こと。
ぺろ。
「ニャ」
(うまいニャ)
ぺし。
ことこと。
かり。
かりかり。
地脈術師たちは、その間隔に合わせて封印札を置いていった。
玉座の間は、奇妙な作業場になった。
黒猫が床を叩きながら食べる。
元見習い地脈術師が走る。
王城地脈術師が札を貼る。
近衛兵が王を守る。
料理人が空の鍋を抱えて震えている。
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第三章:王の床板
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黒い線は、玉座の前へ集まり始めた。
リオルは床の上に置かれた札を見て、顔を強張らせる。
「表示式の針があります」
国王が問う。
「針?」
「呪核ではありません。王城の表示層へ式を留めるための、細い術式片です」
「場所は」
リオルは、玉座の足元を指差した。
「陛下の足元です」
玉座の間が静まり返る。
国王は、自分の足元を見た。
白い石の隙間に、小さな黒い点がある。
「動けばどうなる」
「針が逃げます。玉座の床下を伝って、別の場所へ潜る」
宰相の顔色が変わる。
「陛下、下がってください」
「動くなと言われた」
国王は、黒い点を踏んだまま言った。
「ならば動かん」
リオルは息を呑む。
「よろしいのですか」
「王に見せると言ったのだろう」
国王は床の黒い線を見下ろした。
「ならば、王が押さえる」
クロは、皿の前で忙しかった。
ぺし。
こと。
ぺろ。
かり。
ぺし。
ことこと。
前脚で床を叩き、口で小粒カリカリを噛む。
たいへん忙しい。
たいへん楽しい。
「ニャ」
(いそがしいニャ)
リオルはクロの叩く間隔に合わせ、札へ魔力を流した。
地脈術師たちも続く。
黒い線が震えた。
壁の文字が歪む。
王は、流れを知らぬ。
その文字が薄れ、白い石壁へ沈んでいく。
国王の足元で、黒い点が浮いた。
「今です」
リオルが叫ぶ。
地脈術師が銀のピンセットを差し込み、黒い針をつまみ上げた。
針は細い。
髪の毛ほどの黒い術式片だった。
封印瓶へ落とすと、一度だけ震える。
それきり、静かになった。
玉座の間の黒い地脈図は、ゆっくり薄れていった。
完全には消えない。
床の石目には、うっすらと黒い跡が残っている。
だが、もう脈打ってはいなかった。
リオルは膝をついたまま、深く息を吐いた。
「表示式、停止」
国王は、ようやく足を動かした。
宰相がすぐに近づく。
「陛下」
「無事だ」
「足は」
「しびれた」
宰相は一瞬だけ黙った。
「医師を」
「呼ぶな。報告書に残る」
「すでに目撃者が多すぎます」
国王は玉座の間を見回した。
近衛兵。
地脈術師。
料理人。
セリア。
ヴァルグ。
そして、皿の前で満足そうにスープを舐めている黒猫。
国王は小さく息を吐いた。
「ならば、せめて足の件は消せ」
記録官が恐る恐る筆を構える。
「玉座の間にて、黒猫様が献上品を召し上がりながら床面を叩打。その振動により表示式の位置を特定。陛下、自ら術式針を足元に留め、地脈術師が封印」
国王は黙った。
宰相も黙った。
セリアはそっと目を逸らす。
ヴァルグだけが、深く頷いた。
『王よ、見事であった。黒猫様の遊戯に合わせ、己が身を杭としたか』
「褒めるな」
国王は疲れた声で言った。
「本当に褒めるな」
クロは最後の小粒カリカリを噛んだ。
かり。
よい音だった。
「ニャ」
(うまかったニャ)
床は、もうことこと言わない。
ごはんは、おいしかった。
クロは満足して、前脚をぺろりと舐めた。
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終章:届かぬ授業
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光の届かぬ石室で、メルト・マッドンは王都の地図を見ていた。
王城の下へ通した表示式は、止まっている。
黒い線は途中で途切れ、王城の印だけが白く抜けていた。
報告者は、声を震わせる。
「王城への表示式、停止しました」
メルトは答えない。
「術式針も、回収された模様です」
沈黙。
報告者は、床へ額を近づけた。
「王が、玉座の前で動かなかったとの報告が」
メルトの指が、地図の上で止まった。
「王が」
「はい」
「……そうか」
メルトは、ほんのわずかに目を細めた。
怒りではない。
予想外のものを見た時の沈黙だった。
「あの王は、流れを知らぬだけの男ではなかったか」
報告者は答えられない。
メルトは、王城の印を指でなぞった。
黒い粉は、もうそこには残らない。
白く抜けたままだ。
「リオルがいたな」
「おそらく」
「地脈術師も」
「はい」
「それだけで止まる式ではない」
報告者は、息を詰めた。
メルトはゆっくり顔を上げる。
「猫は」
「王城内に現れた模様です」
長い沈黙が落ちた。
メルトは、目を閉じた。
猫。
王城。
表示式。
その三つの言葉が、どう並べても意味を結ばない。
だが、結果だけは残っている。
王へ見せるはずの授業は、届かなかった。
メルトは静かに息を吐いた。
「よい」
声は低い。
「王が見たなら、それでよい」
報告者は顔を上げた。
「次は、いかがなさいますか」
メルトは、王都の地図から手を離した。
その奥には、古い地下牢の図面があった。
王城の奥。
先王時代、メルト・マッドンが拘束されていた場所。
正式な尋問の前に、彼が消えた場所。
「王が動くなら、王城の奥も動く」
メルトは静かに言った。
「私が置いてきたものを、返してもらう」
その頃、玉座の間では。
クロが、空になった椀を前脚でちょいと押していた。
こと。
椀が床に当たり、小さな音を立てる。
クロの耳が立つ。
「ニャ」
(まだ、ことことニャ)
セリアが、そっと椀を持ち上げた。
「それは終わりです」
クロは少し不満そうに尻尾を揺らした。
床はもう鳴らない。
ごはんもない。
眠い。
クロは玉座の前の赤い絨毯へ歩いていき、丸くなった。
国王がそれを見て、静かに言う。
「そこは私の前だ」
セリアが慌てる。
「すみません、すぐに」
国王は片手を上げた。
「よい」
そして、深く息を吐く。
「今日だけは、王城が黒猫様の寝床でも構わん」
ヴァルグが満足げに頷く。
『ようやく道理を知ったか、王よ』
「一時的な措置だ」
クロは、そんな会話を聞いていない。
赤い絨毯は、やわらかい。
お腹は、温かい。
床は、もうことことしない。
たいへんよい。
「ふにゃ……」
(ここ、ねるニャ)
黒猫様は、王の足元で丸くなった。
王国の地脈を巡る争いなど、もちろん知らない。
ただ、ことこと鳴る床と、温かいごはんの後の眠りを、たいへん満足して味わっていた。
(第33話 完)
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