第32話:黒猫様と、白霧谷のぬくぬく石
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序章:起きる谷
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白霧谷の奥で、霧が揺れた。
風ではない。
谷そのものが、深く息を吸ったような揺れだった。
足元の白い石が、かすかに震える。
音はしない。
ただ、靴底の下から、じわりと冷たさが上がってくる。
調査隊長ライオネルは、片手を上げた。
「全員、停止」
兵士たちが足を止める。
記録官は連絡魔石を抱えたまま、唇を固く結んだ。
地脈術師たちは、杖の先を地面へ向けている。
白い霧の底で、黒い光がまた一つ脈打った。
リオル・カーマンは、その光を見た瞬間、顔色を失った。
「早い」
セリアが振り返る。
「早い、とは」
「本体は、まだ眠っているはずでした。隠し板と沈み石で道を隠し、最後に調整してから起こす。その手順だったはずです」
「では、今は」
リオルは、喉を鳴らした。
「無理に起こされています」
霧の中で、大きな影がゆらりと立ち上がる。
人の形に見える。
だが、人ではない。
腕のようなものがあり、頭のようなものがある。
けれど、輪郭は白くほどけ、足元は黒い光に沈んでいた。
クロは、その影をじっと見上げていた。
「ニャ」
(おきたニャ)
大きい。
白い。
動く。
しかも、逃げる。
たいへんよい相手である。
クロは尻尾をぴんと立て、前脚を一歩出した。
セリアが慌てて手を伸ばす。
「クロ様、待ってください。たぶんそれは遊び相手ではありません」
「ニャ?」
(あそぶニャ?)
クロは首をかしげた。
セリアは一瞬、言葉を失う。
ヴァルグは霧の奥を見据えたまま、静かに言った。
『黒猫様が遊びと定めたならば、それはすでに遊戯である』
「敵の術式を勝手に遊びにしないでください」
『すでに逃げておる』
「それは否定できません」
白い影は、クロが一歩近づくたびに奥へ下がる。
誘っているようにも見える。
逃げているようにも見える。
その足元から、黒い筋が霧の中へ伸びていた。
リオルは膝をつき、地面へ手を触れた。
濡れた苔の下に、細い黒線がある。
森に似た湿り。
畑に似た土の濁り。
廃鉱の鉄臭さ。
神殿跡に残っていた冷えた石の気配。
湖の重い水気。
王都地下水脈に近い、湿った流れ。
リオルには、それぞれの場所に残っていた濁りが、細い糸のように白霧谷へ引かれているように見えた。
すべてが完全につながっているわけではない。
けれど、向きは同じだった。
谷の奥。
沈んだ地脈の節。
リオルは、濡れた指先を握りしめた。
「先生は、本当にやるつもりだ」
ライオネルが問う。
「何をだ」
「失敗した呪核の痕跡まで使って、濁りを集めるつもりです。呪核そのものが残っていなくても、触れた場所には黒い癖が残る」
「癖?」
「水路に染みた油のようなものです。見えにくい。けれど、流れの向きを変える」
地脈術師の一人が青ざめた。
「それを白霧谷へ集めれば」
「沈んだ節が目を覚まします」
リオルは顔を上げた。
霧の奥で、黒い光がまた脈打つ。
「ただし、きれいな流れとしてではありません。濁った流れとして」
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第一章:白い影の鬼ごっこ
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クロは走った。
霧の中を、軽い足取りでするりと抜ける。
濡れた石も、苔も、沈み石も、クロの小さな肉球を滑らせることはできなかった。
前に、白い影。
足元に、音の鳴らない遊戯玉。
遊戯玉は濡れた斜面を、すう、と滑る。
白い影も、すう、と逃げる。
クロにとっては、どちらも同じだった。
「ニャッ」
(まてニャ)
クロが前脚を伸ばす。
影は逃げる。
玉も逃げる。
クロは忙しかった。
右。
左。
前。
少し戻る。
「ニャッ、ニャッ」
(こっちニャ、そっちニャ)
セリアはその後ろを追いながら、息を切らしていた。
「クロ様、せめてどちらを追っているのか決めてください」
ヴァルグは歩調を乱さず、セリアの隣を進む。
『二つを同時に追える。それこそ黒猫様の御眼』
「猫は普通に目移りします」
『目移りではない。万象への対応である』
「言い方を壮大にすればいいわけではありません」
ライオネルは、後続の兵士たちへ手で合図を送った。
「黒猫様の通った跡だけ進め。外れるな」
「はっ」
記録官が震える手で筆を動かす。
「黒猫様、白霧中にて複数対象を追跡。安全経路を随時更新」
ライオネルは顔をしかめた。
「随時更新とは何だ」
「今、右へ曲がりました」
「では書け」
「また左へ」
「消せ」
「戻りました」
「報告書に道を書くな。読む者が迷う」
記録官は、紙の余白に小さく線を引いた。
そこには、丸い線と、急な折れ曲がりと、意味の分からない戻り道が重なっている。
どう見ても猫の遊びだった。
どう見ても、王国の命運が乗っていた。
リオルは、その線を横目で見て、乾いた笑いをこぼしかけた。
すぐに口を押さえる。
笑っている場合ではない。
だが、長い間、胸の奥に固まっていた恐怖が、ほんの少しだけ形を崩した。
目の前にいる黒猫は、メルトの術式を恐れていない。
理解していないからだ。
だから、恐れない。
その事実が、どうしようもなく頼もしく見えた。
白い影が、急に止まった。
クロも止まる。
遊戯玉だけが、すう、と前へ滑った。
クロの耳が立つ。
「ニャッ」
(そっちニャ)
クロが玉へ飛びかかった。
その瞬間、白い影が横へ逃げる。
セリアが叫んだ。
「クロ様、影が」
クロは玉を前脚で押さえたまま、影の方を見た。
白い。
逃げた。
でも、足元には玉がある。
玉は、すべすべしている。
押さえると、少しだけ沈む。
クロは少し考えた。
玉。
影。
玉。
影。
「ニャ」
(こっちニャ)
クロは、玉を前脚で軽く弾いた。
音の鳴らない遊戯玉が、霧の中をすうっと滑る。
白い影の足元へ向かって。
影が、初めて大きく揺れた。
リオルが息を呑む。
「避けた」
ライオネルが目を細める。
「影がか」
「はい。あれは、ただの幻ではありません。本体とつながっている」
白い影は、遊戯玉を避けるように薄く広がった。
その真下で、苔が丸く沈む。
黒い光が、地面の下で脈打った。
クロは、目を輝かせた。
逃げた。
玉から逃げた。
つまり、玉で追える。
たいへん分かりやすい。
「ニャッ」
(ころころニャ)
音はしない。
けれど、クロの中では、すっかりころころだった。
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第二章:沈んだ節
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谷の奥には、古い石舞台があった。
舞台と呼ぶには、半分以上が土と苔に埋もれている。
白い霧が床を覆い、端の柱は折れていた。
そこに刻まれていた王家の紋章は、長い年月で薄れている。
リオルは、石舞台の手前で足を止めた。
「ここです」
ライオネルが周囲を見る。
「神殿跡か」
「神殿ではありません。昔の測脈場です。王家が地脈の流れを確かめるために使っていた場所」
「なぜ記録に残っていない」
リオルは首を横に振った。
「残っていないのではなく、読まれなくなったのです。白霧谷の節は沈み、使えなくなった。使えないものは、いつか忘れられる」
セリアは、石舞台の中央を見た。
霧の底で、黒い光が規則的に脈打っている。
そのたびに、足元の冷たさが増した。
「あそこに、呪核があるんですか」
リオルは杖を握り直した。
「おそらく。ですが、見えません」
「霧で?」
「霧と、隠し板と、沈み石と、地脈そのものです。先生は、見つけられない場所を選んだ」
ヴァルグの黄金の瞳が細くなる。
『くだらぬ』
低い声だった。
霧が一瞬、震えたように見える。
『黒猫様より隠れられる場所など、この世に存在せぬ』
セリアは横目でヴァルグを見た。
「今回は、その大きい言い方が少し頼もしいです」
『常に頼もしい』
「常には言っていません」
クロは、二人の会話を聞いていない。
石舞台の中央で、白い影が揺れている。
その手前で、音の鳴らない遊戯玉が止まっていた。
クロは身を伏せた。
お尻を小さく揺らす。
前脚をそろえる。
目は、玉と影を交互に見ている。
「ニャ……」
(いくニャ)
クロが飛んだ。
まず、玉を叩く。
遊戯玉が滑る。
白い影が避ける。
その逃げ道へ、クロが飛び込む。
ぺし。
クロの前脚が、白い影の足元を叩いた。
今度は、軽い音ではなかった。
ごく小さな、乾いた感触。
爪先が、何か硬いものに触れた。
クロは止まる。
足元を見た。
白い霧の下に、黒い小さな突起がある。
石の角のようで、乾いた木の根のようでもある。
クロは鼻を近づけた。
くん。
くんくん。
「フンッ」
(へんなにおいニャ)
クロは顔をしかめた。
嫌な匂い。
ごはんではない。
魚でもない。
土の中で古くなった水のような匂い。
気に入らない。
クロは前脚で、その黒い突起を軽く引っかいた。
かり。
黒い突起の表面に、細い傷が入る。
白い影が、大きく歪んだ。
地脈術師たちが同時に声を上げる。
「反応が出ました」
「中央です」
「呪核の外殻です」
ライオネルは剣ではなく、封印杭を手に取った。
「位置は」
「黒猫様の前脚の下です」
「打てるか」
地脈術師は唇を噛んだ。
「近すぎます。黒猫様が離れないと」
セリアがクロへ近づこうとする。
「クロ様、こちらへ」
クロは聞いていない。
黒い突起を、じっと見ている。
傷がついた。
引っかけると、白い影がゆがむ。
面白い。
でも、匂いが嫌。
クロはもう一度、前脚を出した。
かり。
かりかり。
「ニャ」
(つめとぎニャ)
セリアの顔が固まった。
「爪を研いでいます」
ヴァルグが、深く頷いた。
『封印である』
「爪研ぎです」
『黒猫様の爪研ぎとは、すなわち世界への封印である』
「いま言い争う余裕はありません」
リオルは、クロの前脚の動きを見つめていた。
黒い突起に爪痕が刻まれるたび、霧の底を走っていた黒い筋が一瞬だけ浮かび上がる。
浮かび上がっては、また消える。
だが、その間隔が読める。
メルトの術式は、完全に隠れているわけではない。
クロが触れるたび、外殻の隠蔽が剥がれている。
リオルは杖を握り直した。
「今なら、補助杭を打てます」
ライオネルが即座に命じる。
「位置を出せ」
「黒猫様の爪痕を中心に、三方です。直接核へは打たないでください。周囲の流れを止めます」
地脈術師たちが動いた。
一人目が左へ。
二人目が右へ。
三人目が後ろへ。
封印杭が、霧の中で白く光る。
クロは爪研ぎに夢中だった。
かり。
かりかり。
かり。
「ニャ」
(かたいニャ)
硬い。
少し嫌な匂い。
でも、爪が引っかかる。
悪くない。
クロは、尻尾の先をゆっくり揺らした。
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第三章:逃げなかった弟子
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リオルは、封印杭の位置を見た。
白い霧の中で、三つの杭が淡く光っている。
中心には、黒い突起。
その上で、黒猫が一心に爪を研いでいる。
普通なら、あり得ない光景だった。
だが、今さら普通を探しても仕方がない。
リオルは杖を石舞台へ突き立てた。
「外の流れを切ります」
地脈術師が驚いて振り返る。
「一人でですか」
「一人ではありません。あなた方は杭を支えてください」
「あなたは正式な地脈術師では」
「見習いです」
リオルは短く答えた。
それから、霧の奥を見た。
「ですが、あの人の見習いでした」
白い影が、音もなく揺れる。
黒い光が濃くなった。
石舞台の外側から、細い黒筋がいくつも集まってくる。
森の湿った匂い。
畑の腐った土の匂い。
古い廃鉱の鉄臭さ。
神殿跡の冷えた石の気配。
湖の濁った水の気配。
王都地下水脈の重い湿り気。
それらが、白霧谷の中心へ引かれている。
リオルは奥歯を噛んだ。
「先生」
その声は、誰へ届くものでもない。
だが、リオルは言わずにいられなかった。
「これは、国を守る術ではありません」
黒い光が、強く脈打った。
まるで返事のようだった。
リオルは杖を握る手に力を込めた。
「流れを縛れば、土地は生きません。水も、根も、人も、勝手に迷うから道になる」
ライオネルが、兵士たちへ合図を送る。
「周囲を守れ。地脈術師を守れ」
「はっ」
セリアはクロのそばで膝をついた。
「クロ様、もう少しだけ、そのままお願いします」
「ニャ?」
クロは顔を上げた。
セリアの顔。
真剣。
でも、手には何もない。
ごはんではない。
クロは少しだけ考えた。
セリア。
いつもごはんのそばにいる。
たまに抱っこする。
毛並みを撫でる手は、まあまあ上手。
クロは、黒い突起へ視線を戻した。
「ニャ」
(まだするニャ)
かり。
かりかり。
爪が、黒い外殻を削る。
そのたびに、嫌な匂いが薄くなった。
クロは鼻を鳴らす。
悪くない。
少しずつ、気に入らない匂いが消えていく。
リオルは息を吸い、杖を回した。
封印杭の光が、三方から中央へ伸びる。
黒い筋と白い光が絡み合い、石舞台の上で細い輪を作った。
「外側を閉じます」
地脈術師たちが声を揃える。
「封印、固定」
「北側、固定」
「南側、固定」
「西側、固定」
リオルは、最後の一点を見た。
東側。
古い王家の紋章がある場所。
そこだけ、黒い筋が深く食い込んでいる。
メルトが持ち去った地脈図にだけ、正確な位置が記されていた場所だ。
リオルは、そこへ向けて歩き出した。
ライオネルが低く言う。
「危険か」
「危険です」
「止めた方がいいか」
「止められたら、困ります」
ライオネルは一瞬だけ黙った。
それから、兵士二人へ顎で示す。
「護衛につけ」
リオルは振り返らなかった。
東側の紋章へ杖を当てる。
黒い筋が、杖に絡みついた。
指先が冷える。
腕が重い。
耳の奥で、あの頃の声がした気がした。
地脈は人より正しい。
人が間違えるなら、地脈を人から取り上げればいい。
リオルは目を閉じた。
「違います」
そして、杖を押し込んだ。
白い光が、東側の紋章へ走る。
黒い筋がぶつりと切れた。
その瞬間、白い影が大きく崩れた。
石舞台の中央で、黒い突起が半分ほど露出する。
呪核の外殻だった。
球ではない。
根を巻いた杭のような形をしている。
黒い結晶が縦に伸び、下へ向かって細い筋を張っていた。
ライオネルが叫ぶ。
「本体確認」
記録官が筆を走らせる。
「白霧谷中央、呪核本体を確認。形状は杭状。根状の黒筋あり」
セリアは、ほっとするより先にクロを見た。
クロは、露出した呪核の外殻を見つめている。
黒い。
硬い。
嫌な匂い。
そして。
少しだけ、温かい。
クロの耳が、ぴくりと動いた。
「ニャ」
(ぬくいニャ)
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第四章:ぬくぬく石
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呪核の外殻は、黒く脈打っていた。
周囲の冷気とは反対に、その表面だけがほんのり温かい。
集めた濁りを内側で巡らせているのだろう、とリオルは見た。
だが、クロには関係ない。
温かい。
硬い。
少し高い。
乗れる。
それだけで十分だった。
クロは前脚を呪核へかけた。
セリアが硬直する。
「クロ様」
ライオネルも地脈術師も、息を止めた。
ヴァルグだけが、静かに見守っている。
クロは、よいしょ、と呪核の外殻へ乗った。
黒い結晶の上に、小さな黒猫。
白い霧の中で、白い尻尾の先だけがふわりと揺れる。
クロは足元を確かめるように、前脚を交互に踏んだ。
ふみ。
ふみ。
ふみ。
「ニャ」
(ぬくぬくニャ)
呪核の光が、明らかに乱れた。
黒い筋が、地面の下で震える。
リオルが叫ぶ。
「今です。内側の流れが乱れています」
「なぜ乱れる」
ライオネルが尋ねる。
リオルは一瞬、クロを見た。
クロは真剣な顔で、呪核の上をふみふみしている。
「分かりません」
「そうか」
「ただ、先生の術式は、一定の流れを前提にしています。あれほど自由に踏まれることは、想定していない」
「想定する方がおかしい」
「はい」
記録官が小声で言う。
「黒猫様、呪核外殻上にて」
ライオネルが即座に止めた。
「待て」
「はい」
「その先は慎重に書け」
記録官は真顔で頷いた。
「黒猫様、呪核外殻上にて、肉球による断続的加圧を実施」
セリアは頭を押さえた。
「ふみふみです」
『神圧である』
「ふみふみです」
『黒猫様の肉球により、邪なる流れが屈した』
「言い方は大きいですが、今回ばかりは否定しにくいです」
クロは、だんだん気持ちよくなっていた。
足元が温かい。
爪の引っかかりも悪くない。
霧は白くて、少し湿っている。
お腹は、朝ごはんで満ちている。
眠い。
「ふにゃ……」
クロは呪核の上で丸くなりかけた。
セリアが慌てる。
「寝ないでください。そこは寝床ではありません」
「ニャ?」
(だめニャ?)
クロは不満そうにセリアを見た。
セリアは困り果てた顔で言う。
「だめです。そこは、たぶん国を危なくする石です」
「ニャ」
(いしニャ)
石。
温かい石。
つまり、ひなた石。
クロの中で結論が出た。
ここは、よい場所である。
クロは、くるりと体の向きを変えた。
呪核の表面で、尻尾がふわりと揺れる。
その尻尾の先が、黒い結晶のひびへ触れた。
ぴし。
小さな音がした。
白い霧が、一瞬だけ晴れる。
地脈術師が目を見開いた。
「外殻に亀裂」
ライオネルが封印杭を握り直す。
「核は壊せるか」
「今なら。ですが、無理に割ると濁りが戻ります」
リオルが前へ出た。
「割るのではなく、抜きます」
「抜く?」
「杭です。地脈へ打ち込まれている。周囲を固定した今なら、引き抜ける」
ライオネルは短く頷いた。
「手順を言え」
「封印杭を三方から締めます。私が王家紋章側の流れを戻す。黒猫様が乗っている間だけ、内側の流れが乱れて抵抗が弱い」
「黒猫様頼みか」
リオルは、困ったように笑った。
「はい」
セリアは深く息を吐く。
「またですか」
『当然である』
「当然ではありません」
クロは、何も知らずに呪核の上で丸くなっている。
目は半分閉じていた。
前脚は胸の下。
白い尻尾の先だけが、ゆっくり動いている。
そのたびに、黒い外殻のひびが少しずつ広がった。
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第五章:抜かれる杭
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封印杭が、三方から光を強めた。
白い光は、黒い筋を押さえ込む。
地脈術師たちが歯を食いしばった。
「北、固定」
「南、固定」
「西、固定」
リオルは東側の王家紋章へ杖を当てる。
紋章の溝に、薄い金色の光が戻り始めた。
失われていた流れではない。
眠っていた流れだ。
黒い筋に縛られ、沈められ、忘れられていた道。
リオルはゆっくり息を吐いた。
「戻れ」
黒い筋が暴れる。
白い霧が渦を巻く。
呪核の上で、クロが片目を開けた。
「ニャ……」
(さむいニャ)
風が来た。
冷たい。
気に入らない。
クロは体を丸め直し、前脚で呪核の表面を押さえた。
ぎゅ。
ぴしり。
ひびが広がる。
地脈術師が叫んだ。
「抵抗、低下」
ライオネルが命じる。
「締めろ」
封印杭の光が、一斉に強まった。
黒い筋が、地面から少しずつ浮く。
それは根のようだった。
土に深く絡み、石の隙間へ食い込み、水の流れへ指を伸ばしている。
しかし、封印杭に押さえられ、リオルの術式に引かれ、クロの重みに乱された流れは、もう一つにまとまれなかった。
呪核が、ゆっくりと浮き上がる。
杭状の黒い結晶。
先端から、細い黒筋が垂れている。
ライオネルが息を詰めた。
「出た」
リオルは杖を両手で握った。
腕が震える。
膝も震えている。
それでも、引いた。
先王時代、研究室から逃げた時。
彼は一度も振り返らなかった。
告発しようとして失敗し、その後はただ隠れた。
名前を変えず、街を変え、仕事を変え、魔灯を直しながら生きてきた。
だが、逃げた事実だけは消えなかった。
だから、今度は引いた。
逃げずに。
「先生」
リオルは、歯を食いしばって言った。
「あなたの杭は、ここで抜きます」
白い光が、王家紋章から走った。
封印杭の光と重なり、呪核を包む。
クロは、その上で耳をぴくりと動かした。
「ニャ?」
(うごくニャ)
足元の石が動く。
乗っている場所が、ふわりと浮く。
これは、面白い。
クロは目を丸くした。
そして、動く呪核の上で、前脚をばたばたさせた。
「ニャッ、ニャッ」
(のるニャ、のるニャ)
セリアが悲鳴に近い声を上げる。
「降りてください」
ヴァルグは、片手を胸に当てた。
『邪杭を乗りこなされるとは』
「乗りこなしていません」
『見よ、あの均衡』
「慌てています」
クロは慌てていた。
足元が動く。
滑る。
でも、落ちたくない。
爪を立てる。
ぎゅ。
その爪が、呪核の外殻へ深く食い込んだ。
ぴし。
ぴしぴし。
黒い外殻が割れた。
リオルが叫ぶ。
「今」
封印杭が、呪核を囲むように閉じた。
黒い外殻が、白い光の中で音もなく割れた。
中から、細い杭状の芯が露出する。
芯は封印杭の光に縛られ、霧に溶けることなく地面へ落ちた。
地脈術師たちがすぐに封印布を広げる。
杭状の芯と外殻の破片を包み、光の紐で縛る。
黒い筋は、地面へ戻らなかった。
王家紋章の溝に、細い金色の光が一筋だけ残る。
白霧谷の冷たさが、少しだけ薄らいだ。
クロは、突然足場を失った。
「ニャッ」
そのまま、封印布の横へぽすんと落ちる。
濡れた苔の上。
少し冷たい。
たいへん不満である。
「ニャー」
(ぬくぬく、なくなったニャ)
セリアはすぐに駆け寄り、クロを抱き上げた。
「無事ですか、クロ様」
クロはセリアの腕の中で、前脚を伸ばした。
ぬくぬく石がない。
代わりに、セリアの服がある。
まあまあ温かい。
クロは、仕方なさそうに丸くなった。
「ふにゃ」
(これでいいニャ)
セリアは、全身から力が抜けた。
「よかった……」
ヴァルグが深く頭を垂れる。
『白霧谷の邪杭、黒猫様の御爪により抜かれたり』
ライオネルは記録官を見た。
「書くな」
記録官が筆を止める。
「ですが」
「そのまま書くな。王城で陛下が倒れる」
記録官は少し考えた。
「黒猫様の接触により呪核外殻が脆弱化。調査隊および地脈術師、封印杭にて本体を抜去」
ライオネルは頷いた。
「それでいい」
セリアが小さく言う。
「かなり真面目になりました」
ヴァルグは不満そうに目を細めた。
『御爪の偉業が薄い』
「薄くていいんです」
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終章:先生への報告
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白霧谷の霧は、完全には晴れなかった。
だが、谷の底に溜まっていた冷たさは薄くなっている。
村人たちは、遠巻きに調査隊を見ていた。
枯れ木の根元では、地脈術師たちが残った黒筋を封じている。
呪核本体は封印布に包まれ、王城へ運ばれることになった。
ライオネルは、連絡魔石の前に立つ。
「白霧谷、呪核本体を回収。地脈の汚染拡大は停止。詳細は後送する」
王城側の返答は、少し遅れた。
『黒猫様は』
国王の声だった。
ライオネルはセリアを見た。
セリアの腕の中で、クロは眠りかけている。
白い尻尾の先だけが、ゆっくり動いていた。
「ご無事です」
『そうか』
短い沈黙。
『報告書は』
ライオネルは記録官を見る。
記録官は、清書前の紙を胸に抱えた。
「精査してお送りします」
『精査しろ。必ずだ』
連絡が切れた。
ライオネルは深く息を吐く。
リオルは、封印布に包まれた呪核の前に立っていた。
杭状の芯は、もう脈打っていない。
ただ、布の中で冷たく沈黙している。
セリアが近づく。
「リオルさん」
リオルは顔を上げた。
「はい」
「これで、終わりですか」
リオルは首を横に振った。
「白霧谷は止まりました。ですが、先生はまだ止まっていません」
「次に、何をすると思いますか」
リオルは、しばらく答えなかった。
遠くで、村人の子どもが泣いている。
その声は、霧に吸われず、谷の中へ小さく響いた。
リオルは、その音を聞いてから言った。
「今までは、地脈を隠し、濁りを集め、流れを縛っていました」
「はい」
「白霧谷で、それが破られた。なら、先生はもう隠さないかもしれません」
セリアの表情が強張る。
「表に出る、ということですか」
「分かりません。ただ、先生は証明したがっている。自分が正しいと」
リオルは、王都の方角を見た。
「証明を見せる相手は、王国そのものです」
その頃。
光の届かぬ石室で、メルト・マッドンは白い石板を見ていた。
白霧谷の印は、中央でひび割れている。
報告者は、床に額をつけていた。
「白霧谷に沈めた本体、抜かれました」
メルトは答えない。
「呪核は回収された模様です。濁りの集束も、止まっています」
沈黙。
報告者は、息を殺した。
やがて、メルトは静かに笑った。
低く、乾いた笑いだった。
「リオル」
名を呼ぶ声に、怒りはなかった。
あるのは、冷たい確信だけだった。
「まだ、私の式を覚えていたか」
メルトは割れた石板を指でなぞる。
指先に、黒い粉がついた。
「よい。ならば、見せてやる」
報告者が恐る恐る顔を上げる。
「次は」
メルトは、石室の奥へ歩いた。
そこには、王都の地図が掛けられている。
王城。
大聖堂。
市場。
地下水路。
そして、王国中へ伸びる古い地脈の線。
メルトは、王城の下へ指を置いた。
「隠す必要はない」
黒い粉が、地図の上に落ちる。
「王に見せる」
その頃、白霧谷では。
クロがセリアの腕の中で目を覚ました。
「ニャ……」
(おなか、すいたニャ)
大きな影も、ぬくぬく石も、もうない。
白い霧は、まだ少しふわふわしている。
クロは前脚を伸ばし、霧をちょいと触ろうとした。
届かない。
セリアの腕の中だからである。
クロは少しだけ不満そうに鼻を鳴らした。
それから、セリアの袖へ顔を押しつける。
温かい。
まあまあである。
「ふにゃ」
(ごはんまで、ねるニャ)
王国が次の危機へ向かっていることなど、もちろん知らない。
クロはただ、ぬくぬく石を失った代わりに、セリアの腕の中で丸くなった。
白い尻尾の先が、満足そうに揺れていた。
(第32話 完)
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