第31話:黒猫様と、白霧谷の消える影
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序章:逃げた弟子
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国境都市カーマ。
王都から北へ三日。
山脈へ向かう街道と、隣国へ抜ける古い道が交わる、風の冷たい街である。
その街外れに、小さな修繕屋があった。
看板には、かすれた文字でこう書かれている。
『魔灯、測定具、古い魔石、直します』
朝の薄い光の中、店の奥で一人の男が古い魔灯を磨いていた。
白髪交じりの髪。
痩せた頬。
左手の指先には、細かな火傷の跡が残っている。
リオル・カーマン。
先王時代、王宮地脈術師見習いとして、メルト・マッドンの下にいた男である。
扉の鈴が、ちり、と鳴った。
リオルの手が止まる。
店に入ってきたのは、旅装の男が二人。
ただし、歩き方が違った。
靴音が揃いすぎている。
肩の動きが、兵のそれだった。
「修繕を頼みたい」
先頭の男が、小さな魔灯を置く。
リオルはそれを見た。
古い型の王城用魔灯。
今では使われていない、先王時代のものだ。
逃げ道を塞ぐには、十分な合図だった。
「直せません」
リオルは静かに言った。
「まだ見ていないが」
「見なくても分かります。王城のものです」
旅装の男は、少しだけ目を細めた。
「リオル・カーマンだな」
リオルは答えなかった。
店の奥には裏口がある。
だが、そこにも気配がある。
逃げられない。
あの頃と同じように。
違うのは、彼の足が震えなかったことだけだった。
「王命により、話を聞きたい」
「私は、もう地脈術師ではありません」
「知っている」
男は声を低くした。
「メルト・マッドンについてだ」
リオルの顔から、血の気が引いた。
磨いていた魔灯が、指から滑りかける。
彼は慌ててそれを掴んだ。
小さな金具が、かたりと鳴る。
「先生は」
その言葉が、口から出た瞬間。
リオルは、自分がまだその男を先生と呼んでしまったことに気づいた。
旅装の男は、表情を変えなかった。
「生きているものとして追っている」
リオルは、ゆっくり椅子へ腰を下ろした。
「……遅すぎます」
「陛下も、その覚悟でおられる」
「違います」
リオルは、かすれた声で言った。
「あの人を止めるには、遅すぎる」
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第一章:王城へ戻る者
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王城の一室。
リオル・カーマンは、机の前に座っていた。
手には縄も枷もない。
しかし、部屋の四隅には近衛兵が立っている。
窓は閉ざされ、机の上には水と薄い粥だけが置かれていた。
国王は、向かいに座る男を見つめた。
痩せている。
だが、怯えているだけの人間ではない。
長い間、何かから逃げ続け、それでも何かを覚えている者の顔だった。
「リオル・カーマン」
国王が名を呼ぶ。
「貴殿は、メルト・マッドンの弟子であったな」
「見習いです」
リオルは視線を落とした。
「弟子と名乗ることを、許された覚えはありません」
宰相が静かに問う。
「先王時代、何があった」
リオルは、しばらく黙っていた。
指先が、机の縁をなぞる。
地脈図を読む者の癖だった。
「メルト先生は、最初から狂っていたわけではありません」
国王は何も言わない。
「地脈は、国の血管だと教えられました。森に水を送り、畑に実りを運び、街を支える。傷つけば、国も人も弱る」
リオルの声は静かだった。
「先生は、それを守ろうとしていました」
「過去形だな」
国王の言葉に、リオルは唇を噛んだ。
「守るために、支配しようとしたのです」
部屋の空気が、わずかに冷えた。
「王が愚かでも、貴族が欲に溺れても、民が争っても、地脈だけは自分が正しく保つ。そう言っていました」
宰相が記録係へ目を向ける。
羽ペンが、紙の上を走った。
「人工の核を打ち込む研究は」
「地脈の流れを固定するためのものです。最初は、干ばつや洪水を防ぐためでした」
リオルは顔を上げた。
「ですが、核は流れを固定するだけではありませんでした。周囲の魔力を吸い、命の流れまで引き寄せる。先生はそれを、土地の無駄をなくす、と言った」
国王の眉が動く。
「命を、無駄と」
「はい」
リオルの声が震えた。
「そこで、私は先生の研究室から逃げました」
「メルトが逃亡した後ではなく、その前にか」
「はい。私は先生の研究資料の一部を隠し、王城へ告発しようとしました」
宰相が目を細める。
「その資料は」
「一部は押収されたはずです。ですが、すべてではありません。重要な地脈図は先生が持ち去った」
国王は低く言った。
「白霧谷か」
リオルの肩が、はっきり震えた。
「そこまで」
「旧測脈塔の次に、その名が出た」
リオルは両手を握りしめた。
「白霧谷には、沈んだ地脈があります」
「沈んだ地脈?」
「見えず、鳴らず、流れも弱い。だから誰も使えない。けれど、先生はそこを気にしていました」
リオルは、乾いた唇を舐める。
「あそこには、王国の古い地脈をつなぎ直すための節があります」
宰相が問う。
「つなぎ直すと、何が起きる」
「正しく行えば、枯れた土地を戻せるかもしれません」
リオルは目を伏せた。
「間違えれば、王国中の濁りがそこへ集まります」
国王は、ゆっくり息を吐いた。
「メルトは、そこへ向かうと思うか」
「もう向かっていると思います」
リオルは、かすれた声で答えた。
「先生は、鳴るものを嫌う。見えるものも嫌う。最後に頼るなら、白霧谷です」
部屋の中に、沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、国王ではなかった。
扉の外から、慌ただしい足音が近づく。
使者が入り、深く膝をついた。
「陛下。白霧谷の麓の村より報告です」
国王の視線が鋭くなる。
「申せ」
「霧の中で、影が消える、と」
リオルが、椅子から立ち上がりかけた。
近衛兵が一歩動く。
だが、リオルは逃げようとしたのではなかった。
彼の顔は、恐怖で青ざめていた。
「始まっています」
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第二章:白い霧と黒い猫
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白霧谷へ向かう道は、昼でも薄暗かった。
木々の間を白い霧が流れ、足元の石はしっとり濡れている。
音が少ない。
鳥の声も遠い。
風が枝を揺らしても、葉の擦れる音が霧に吸われてしまう。
その道を、黒猫が歩いていた。
クロである。
もちろん、本人は白霧谷が何かなど知らない。
王国の地脈も、メルト・マッドンも、沈んだ節も知らない。
ただ、朝のごはんを食べた後、地下百階層で遊んでいた音の鳴らない玉が、転移の光に巻き込まれて外へ出た。
そして、白い霧の中で、ゆらりと揺れる何かを見つけた。
それだけである。
「ニャ」
(しろいニャ)
クロは霧を見上げた。
白い。
ふわふわしている。
近づくと逃げる。
前脚で触ろうとすると、すり抜ける。
たいへん腹立たしい。
つまり、かなり楽しい。
少し後ろでは、セリアが青い顔で周囲を見回していた。
さらにその後ろに、人型のヴァルグが立っている。
白霧谷の麓には村がある。
巨竜の姿で歩けば、呪核どころではない騒ぎになる。
そのため、ヴァルグは漆黒の執事姿だった。
ただし、機嫌はよくない。
黄金の瞳が、霧の奥を冷たく見据えている。
「クロ様、あまり先へ行かないでください」
「ニャ」
(ふわふわニャ)
クロは前脚を伸ばした。
霧を、ちょい。
何も掴めない。
もう一度、ちょい。
やはり、掴めない。
クロの尻尾が、ぴんと立った。
『白き虚無をも遊戯へ変えられるとは』
「ただ霧にじゃれているだけです」
セリアはそう言いつつ、足元の石を確認した。
本来なら、白霧谷へ向かうのはセリアと調査隊だけのはずだった。
理由は簡単である。
クロが、転移の準備中に勝手に転移陣へ乗ったからだ。
「本当に、どうして乗ったんですか」
「ニャ?」
クロは振り返った。
転移陣。
光った。
丸い玉が転がった。
追いかけた。
気づいたら、白いところにいた。
以上である。
(ころころ、どこニャ)
クロは、足元を探した。
音の鳴らない遊戯玉は、少し先の草むらに転がっていた。
転がらないはずの玉だった。
しかし、白霧谷の濡れた斜面では、ゆっくりと滑っている。
ころ。
ではなく。
すう。
音もなく、草の上を滑る。
クロの耳が立った。
「ニャッ」
(にげたニャ!)
クロは低く身を伏せた。
前脚をそろえ、尻尾の先を揺らす。
そして、ぽん、と飛びかかった。
玉はすうっと滑り、クロの前脚を逃れる。
「ニャッ」
クロは追いかけた。
セリアが慌てる。
「クロ様、そちらは谷の方です」
ヴァルグの瞳が細くなる。
『案ずるな。黒猫様の御足に、谷など意味を持たぬ』
「私たちには意味があります」
セリアはクロを追いながら、霧の濃さに眉を寄せた。
視界が悪い。
音も頼りにならない。
クロの黒い背中ですら、少し離れると霧に溶けそうになる。
だが、そのたびに白い尻尾の先だけが、ちらりと見えた。
小さな白。
霧の中で消えずに残る、目印のような白だった。
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第三章:消える影
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白霧谷の入口には、王国調査隊が先に到着していた。
調査隊長ライオネルは、固定された連絡魔石を抱える記録官へ念を押していた。
「転がすな」
「はい」
「落とすな」
「はい」
「光ったからといって油断するな」
「はい」
そこへ、セリアの声が霧の向こうから届いた。
「すみません。もう転がっています」
ライオネルは、ゆっくり振り返った。
霧の中から、黒猫が走ってくる。
その前を、音の鳴らない遊戯玉がすうっと滑っていた。
「ニャッ」
黒猫が飛びかかる。
玉が逃げる。
黒猫が追う。
ライオネルは、一瞬だけ空を見上げた。
「王命とは」
記録官が震える声で言う。
「連絡魔石は固定してあります」
「そうだな」
「転がっているのは、遊戯玉です」
「そうだな」
「報告書には」
「正確に書け」
ライオネルは諦めた。
白霧谷の奥から、村人が二人、怯えた顔で近づいてくる。
「騎士様。あの、影が」
「見た場所へ案内を」
村人は震えながら頷いた。
谷の奥へ進むほど、霧は濃くなる。
足元には白い小石が多く、踏んでも音がしない。
水気を含んだ苔が、すべての音を飲んでいるようだった。
やがて、村人が一本の枯れ木を指差した。
「あそこです。霧の中に人の影が立っていたんです。でも、近づくと消える」
ライオネルが地脈術師を見る。
地脈術師は首を振った。
「黒色反応はありません」
「呪核は」
「確認できません」
その時、クロがぴたりと止まった。
遊戯玉は、枯れ木の根元で静かに揺れている。
戻る。
揺れる。
戻る。
クロは玉ではなく、その向こうを見ていた。
霧の中に、細い影がある。
人の形にも見える。
木の枝にも見える。
近づくと薄くなり、離れると濃くなる。
クロの瞳が、まん丸になった。
(いるニャ)
「ニャ」
クロは、そろりと前脚を出した。
影へ近づく。
影が薄くなる。
クロは止まる。
影が濃くなる。
クロの耳が、ぴくりと動いた。
これは、逃げる。
でも、音がしない。
匂いも薄い。
見えるのに、いない。
たいへん気になる。
クロは姿勢を低くした。
セリアが息を呑む。
「クロ様?」
次の瞬間、クロは横へ跳んだ。
影へ向かってではない。
影が消えようとした先へ。
猫は、動くものを追う。
だが、本当に追っているのは、今見えているものではない。
次に動く場所である。
クロの前脚が、霧の中の何もない場所を叩いた。
ぺし。
軽い音がした。
白い霧が、そこだけ丸くへこんだ。
「ニャッ」
(いたニャ)
その瞬間。
枯れ木の根元から、黒い線が一本、浮かび上がった。
地脈術師が叫ぶ。
「影ではありません。霧に映した目印です」
ライオネルが振り返る。
「目印?」
「下です。霧の中に影を作って、見る者の視線を上へ逸らしていた」
地脈術師は膝をつき、苔を剥がした。
その下に、白い石板が埋まっていた。
白い。
霧と同じ色。
光を返さず、音も出さない。
表面には、黒い筋が薄く刻まれている。
「鳴り石ではありません」
地脈術師の声が震えた。
「これは、隠し板です。黒い筋を、霧の反射で見えなくしている」
ライオネルは剣を抜かず、手を上げた。
「触るな。周囲を封鎖」
兵士たちが動く。
クロは白い石板を見た。
白い。
薄い。
動かない。
しかし、さっき影がいた。
クロは前脚で、白い石板の端をちょいと触った。
セリアの顔色が変わる。
「クロ様、待って」
だが、白い石板は動かなかった。
かわりに、石板の上を小さな影が走った。
霧に映った影が、逃げるようにするりと動く。
クロの耳が立つ。
「ニャッ」
(にげたニャ!)
クロは影を追い、石板の周りをぐるりと回った。
一周。
二周。
三周。
黒い身体が霧の中を走り、白い尻尾の先が円を描く。
そのたびに、霧がかき混ぜられた。
隠し板の上に映っていた影が崩れていく。
黒い筋が、はっきり見えるようになった。
地脈術師が息を呑む。
「術式が、露出しました」
「処理できるか」
「できます。これは呪核本体ではありません。谷の奥へ向かう目隠しです」
ライオネルは低く命じた。
「封印布を」
地脈術師が白い石板へ封印布をかぶせる。
黒い筋が、布の下でじわりと滲んだ。
だが、暴れない。
吸い込まない。
広がらない。
ただ、隠すための道具だった。
地脈術師は、慎重に石板を掘り出した。
「回収完了。白い隠し板、一枚」
記録官が筆を走らせる。
「黒猫様、霧中の影を追跡。遊戯行動により霧を攪拌。隠蔽術式を露出」
ライオネルは目を閉じた。
「正確だ」
「はい」
「正確なのに、また意味が分からない」
「はい」
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第四章:弟子の告白
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白い隠し板が王城へ運ばれた時、リオル・カーマンはしばらく言葉を失った。
王城の一室。
机の上に置かれた白い石板を、リオルは震える指で見つめている。
「これを、まだ作っていたのか」
国王が問う。
「知っているのか」
リオルは頷いた。
「先生が、晩年に研究していたものです。鳴り石の逆。音も揺れも返さず、そこにあるものを周囲に溶かす」
「呪核か」
「違います」
リオルは即答した。
「呪核ではありません。これは隠すための板です。地脈の節や接続点を、見えないものとして扱わせる」
宰相が目を細める。
「何のために」
「本命を隠すためです」
リオルの声は、かすかに震えていた。
「白霧谷の奥には、沈んだ地脈の節があります。そこへ呪核を置かれたら、外からは分かりません。音もない。反応も薄い。霧がすべてを隠す」
「では、この板は」
「道しるべでもあります」
リオルは、石板の黒い筋を指差した。
「隠しながら、置いた者にだけ道を示す。先生は、こういうものを好んだ」
国王は低く言った。
「メルトは、王国を憎んでいるのか」
リオルはすぐには答えなかった。
窓の外では、夕方の光が細く傾いている。
「憎んでいると思います」
リオルは言った。
「ですが、それだけではありません」
「他に何がある」
「証明です」
リオルは、唇を噛んだ。
「自分が正しかったと、証明したいのです」
部屋の空気が重くなる。
「王も、貴族も、民も、地脈を正しく扱えない。だから自分が国の流れを作り直す。あの頃、先生はそう言っていました」
国王は黙って聞いている。
「呪核は、ただ土地を腐らせるためだけのものではありません。濁りを集め、流れを縛り、自分の望む場所へ向けるための杭です」
宰相が静かに問う。
「白霧谷へ、何を集めるつもりだ」
リオルの喉が動いた。
「王国中に散らした濁りです」
沈黙。
リオルは続けた。
「森、畑、廃鉱、神殿跡、湖、王都地下水脈。すべてが失敗したように見えても、呪核が触れた場所には痕跡が残る。先生は、それを道にする」
国王の声が低くなる。
「すべて、白霧谷へつながるのか」
「まだ分かりません。ですが、先生なら、そう考える」
リオルは顔を上げた。
「止めるなら、谷の奥です」
「案内できるか」
リオルの顔が強張った。
恐怖が、はっきり浮かぶ。
だが、彼は逃げなかった。
「できます」
少し間を置いて、彼は言った。
「今度は、逃げません」
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第五章:白い尻尾の道しるべ
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白霧谷の奥へ向かう道は、さらに音がなかった。
リオルは調査隊の先頭近くを歩いていた。
足取りは重い。
それでも、彼は何度も地形を確認し、古い目印を探している。
「この先に、沈み石があります」
「沈み石?」
ライオネルが尋ねる。
「踏むと沈む石です。音はしません。けれど、地脈の弱い流れを隠すために置かれている」
セリアは、すぐにクロを見た。
クロは少し先で、白い霧の中を歩いている。
白い尻尾の先だけが、ちらちら見えた。
「クロ様、足元に気をつけてください」
「ニャ」
(しろいの、いるニャ)
クロは返事のように鳴いたが、もちろん内容は分かっていない。
目の前には、さっきから白い影がちらついている。
見える。
消える。
また見える。
追いかけると逃げる。
楽しい。
クロはその影を追って、すたすた進んだ。
リオルが青ざめる。
「そちらは」
クロの前脚が、白い石を踏んだ。
沈むはずだった。
音もなく、足元を奪うはずだった。
だが。
白い石は、沈まなかった。
クロの小さな肉球が触れた瞬間、石の表面にあった黒い筋だけが、ふっと薄くなった。
石はただの石になった。
「……止まった」
リオルが呟いた。
セリアはクロを抱き上げようと一歩踏み出す。
しかし、ヴァルグが静かに片手を上げた。
『待て』
「ヴァルグ様?」
『黒猫様は、道を選んでおられる』
「白い影を追っているだけに見えます」
『ならば、その影こそが道である』
「また大きい言い方を」
クロは二つ目の白い石へ前脚を置いた。
ふっ。
黒い筋が薄くなる。
三つ目。
ふっ。
四つ目。
ふっ。
クロは、ただ白い影を追っている。
その足跡の後ろで、沈み石が次々にただの石へ戻っていく。
リオルは、呆然とそれを見ていた。
「先生の隠し道が」
ライオネルが低く問う。
「どうした」
「黒猫様が踏んだ場所だけ、消えています。隠し道の術式が」
「危険は」
「黒猫様の後なら、ありません」
記録官が筆を構えた。
「書きますか」
ライオネルは、しばらく黙った。
そして、諦めたように言う。
「書け」
記録官は頷く。
「黒猫様、白霧中の影を追跡。前脚にて沈み石を順次踏破。後続の安全経路を確保」
セリアは頭を抱えた。
「散歩です」
『神歩である』
「散歩です」
クロは、白い霧の奥でぴたりと止まった。
目の前に、今までより濃い影があった。
人の形。
けれど、人の匂いはしない。
ゆらゆら揺れ、白い霧の中に立っている。
クロは目を細めた。
(おおきいニャ)
大きい。
動く。
でも、音がしない。
気になる。
クロは、尻尾をぴんと立てた。
「ニャッ」
そして、その影へ向かって駆け出した。
リオルの顔色が変わる。
「止めてください」
セリアが振り返る。
「何ですか」
リオルは、霧の奥を見つめたまま震えていた。
「あれは、目印ではありません」
霧の中の影が、ゆっくりとこちらを向いた。
顔はない。
目もない。
それでも、見られたと分かる。
白い霧の底から、黒い光が一つ、脈打った。
「あれが」
リオルの声が掠れる。
「白霧谷に沈められたものの、本体です」
クロは、何も知らない。
ただ、逃げる影を見つけた。
だから追う。
それだけだった。
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終章:逃げなかった者
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光の届かぬ石室で、メルト・マッドンは白い石板を見下ろしていた。
石板には、白霧谷の反応が薄く刻まれている。
いくつもの隠し道が、次々に途切れていた。
報告者は、声を震わせる。
「白霧谷の入口、隠し板を一枚回収されました」
メルトは答えない。
「沈み石の術式も、複数消えています」
沈黙。
「調査隊には、案内人がいるようです」
メルトの指が止まった。
「名は」
「まだ」
報告者は、さらに頭を下げる。
「ただ、白霧谷の古い道を知っている者です」
メルトは、ゆっくり目を閉じた。
先王時代。
研究室から一部の資料が消えた夜。
震える手で、机の下の地脈図を抱えていた若い見習い。
逃げたと思っていた。
捨てたと思っていた。
だが。
「リオルか」
低い声が、石室に落ちた。
報告者は息を呑む。
メルトは目を開けた。
その瞳には、怒りだけではないものがあった。
失望。
懐かしさ。
そして、切り捨てたはずの過去へ向ける、冷たい執着。
「逃げ続けていればよかったものを」
メルトは、白霧谷の印へ指を置いた。
黒い光が、深く脈打つ。
「本体を起こせ」
報告者が顔を上げる。
「まだ調整が」
「構わん」
メルトの声は静かだった。
「逃げなかった弟子には、先生の最後の授業を見せてやる」
その頃、白霧谷では。
クロが、霧の中の大きな影を追いかけていた。
「ニャッ」
(まてニャ)
影は音もなく逃げる。
クロは白い尻尾を揺らし、楽しそうに追う。
足元で、黒い光がまた一つ脈打った。
もちろん、クロは知らない。
それが、白霧谷の本当の危機の始まりであることなど。
(第31話 完)
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