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【連載版】ダンジョン最深部の黒猫様は極上のカリカリをご所望です  作者: あずきまんま


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第29話:黒猫様と、王都地下水路のちょろちょろ水

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序章:本命を起こす

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光の届かぬ石室で、黒い水盤が静かに揺れていた。


水面には、王国の地図が映っている。


西の牧草地。


南の古井戸。


東の果樹園。


三つの小さな黒い点は、まだ消えていない。


だが、広がってもいなかった。


王国の調査隊が、それぞれの現場で呪核の周囲を封じ、黒い筋が伸びるのを食い止めている。


完全には砕けぬ。


完全には止まらぬ。


けれど、村も井戸も果樹園も、まだ生きていた。


石室の奥で、低い声が落ちる。


「持ちこたえているか」


膝をついた報告者が、額を下げたまま答えた。


「はい。王国の調査隊は、三箇所すべてに人員を割きました」


「猫は」


「動いておりません」


「竜は」


「地下百階層に留まっています」


「女は」


「同じく、最深部に」


黒い水盤の水面が、かすかに波打った。


怒りではない。


苛立ちでもない。


それは、計算を少しだけ変えた者の沈黙だった。


「王国は、思ったより早く学んだ」


報告者は答えない。


「外側に置いた呪核ならば、もう時間稼ぎにしかならん」


水盤の奥で、三つの黒点よりもさらに下。


地図の線から外れた、暗い一点が脈打つ。


そこは、王都の地下だった。


古い水路の、そのさらに下。


今は使われていない石組みの奥に、王都へ清水を送る古い水脈が眠っている。


先王の時代よりも前に封じられ、地図から消された場所。


人の手では届きにくい。


王城の記録にも、断片しか残っていない。


メルト・マッドンは、水盤を見下ろしたまま静かに言った。


「本命を起こす」


報告者の肩が、わずかに震えた。


「王都でございますか」


「王都そのものではない」


メルトの声は低い。


「王都を支える水だ」


水盤の中で、暗い一点が深く沈んだ。


「水が濁れば、人は疑う。井戸を疑い、街を疑い、王を疑う。剣を向けずとも、国は内側から割れる」


「黒猫は」


「あれを狙って、手を曲げるな」


メルトは、少しだけ苦い響きを混ぜて続けた。


「だが、邪魔ではある。ならば、気まぐれの影響が及ばぬ深さで動かす」


報告者は深く頭を下げた。


「三箇所は」


「維持しろ。王国の目を外へ向けさせる。王城が古い記録を掘るなら、掘らせておけ」


メルトは石机の上へ視線を移した。


そこには、古い地脈図が広げられている。


王家の紋章が薄く残る紙の上で、王都の地下水脈だけが、黒い墨で塗りつぶされていた。


「届いた時には、もう遅い」


黒い水盤が、静かに沈んだ。


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第一章:王都の水

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王城。


国王の執務室には、昨日から一睡もしていない者の気配が満ちていた。


机の上には、三箇所の調査報告。


西の牧草地では、黒い筋が牧草の根へ伸びる前に封じられた。


南の古井戸では、井戸水へ触れる寸前で呪核の周囲が石灰と聖布で囲われた。


東の果樹園では、根元に走っていた黒い筋を、調査隊が一本ずつ削り取っている。


どれも朗報ではない。


しかし、最悪でもなかった。


宰相は、報告書を読み終えると、目元を押さえた。


「陛下。三箇所とも、現場の判断は早かったようです」


国王は椅子に深く腰を沈めたまま、短く息を吐いた。


「黒猫様を動かさずに済んだ、ということか」


「今のところは」


「その言い方が一番胃に悪い」


「事実でございますので」


宰相の返答は、いつも通り冷静だった。


冷静すぎて、国王の胃に優しくない。


国王は、三通の報告書から視線を外し、別の古い紙束を見た。


先王時代の記録。


王宮地脈術師の名簿。


古い水路の補修記録。


そして、ところどころ墨で塗り潰された地脈図。


「メルト・マッドン」


国王が、その名を口にした。


「先王時代、王宮地脈術師として水路と地脈の管理に関わっていた男。危険思想を理由に王城内で拘束された後、正式な尋問の前に逃亡」


宰相が続ける。


「表向きの台帳では病による退任。拘束と逃亡に関する記録は、先王と一部の側近だけが扱った封書に残されておりました」


国王の目が細くなる。


「私に引き継がれなかった記録か」


「はい。ですが、退任届の日付と、地下水路封鎖の日付が近すぎます」


「事故か」


「記録上は、魔力汚染事故です」


国王は眉を寄せた。


「記録上は、か」


宰相は黙って、一枚の古い補修記録を差し出した。


墨で塗り潰された地脈図の端に、かろうじて読み取れる文字が残っている。


第四地下水路、封鎖区画。


メルト・マッドンが関わったとされる、古い工事の名だった。


「三箇所の報告とは、直接つながっておりません」


宰相は静かに言った。


「ただ、呪核が地脈や水脈に触れている以上、メルトの記録に残る水路も、一応確認すべきかと」


「念のため、か」


「はい。水番へ確認を出しました」


宰相は、そこで新しい報告書を差し出した。


今朝、王都の水番から上がってきたものだった。


『第四地下水路、封鎖区画付近にて、微弱な黒色反応を確認』


国王の指が、紙の上で止まった。


「……出たのか」


「はい」


部屋の空気が、重く沈んだ。


西の牧草地。


南の古井戸。


東の果樹園。


それらは同時に届いた異常だった。


そして、過去の記録を頼りに念のため確認した王都の地下からも、同じ気配が出た。


人々が毎日飲む水の、さらに下。


偶然と片づけるには、気持ちが悪かった。


国王はゆっくり立ち上がった。


「水路を封鎖しろ。民には、古い石組みの崩落点検と伝えよ。飲み水の供給は別系統へ切り替える」


「すでに手配しております」


「早いな」


「胃を削られる仕事には、慣れてまいりました」


国王は一瞬だけ宰相を見た。


笑うべきか、詫びるべきか、判断に迷う顔だった。


「セリア殿へ連絡は」


「まだです」


宰相は、そこで少しだけ声を落とした。


「黒猫様を王都へお呼びするかどうかは、慎重に決めるべきかと」


国王は、深く頷いた。


「王都にお呼びすれば、それだけで騒ぎになる」


「はい」


「だが、地下水路の奥で呪核が動いているなら、人の手で届かぬ可能性がある」


「その場合は」


二人の視線が、机の上の献上品台帳へ向いた。


黒猫様への献上品。


王城が作り上げた、国の命運を左右する、もっとも真面目で、もっとも胃に悪い台帳である。


国王は、しばらく沈黙した後、低く言った。


「まずは、人の手で確認する」


「御意」


「ただし」


国王は、扉の方へ視線を向けた。


「王宮料理長を呼べ」


宰相が眉を動かす。


「料理長を、ですか」


「もしもの時に備える」


「献上品でございますね」


「違う」


国王は、疲れた顔で言った。


「献上品ではない。公式には、黒猫様のご機嫌伺いだ」


宰相は一拍置いて、静かに頷いた。


「承知しました。公式には」


「その言い方も胃に悪い」


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第二章:地下百階層の水音

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地下百階層、奈落の淵。


そこでは、王都の胃痛など知る由もなく、平和な時間が流れていた。


発光苔の淡い青光が、黒い岩肌をやわらかく照らしている。


暗黒竜ヴァルグは、いつものように巨体を伏せていた。


その前脚の間には、小さな黒猫。


クロが、丸くなって眠っている。


「すぴー……」


白い尻尾の先が、ゆっくり揺れた。


セリアは少し離れた場所で、干した布を畳んでいた。


クロ用の小さな敷き布。


クロ用の毛布。


クロ用の、なぜか王城から届いた高級絹の膝掛け。


その横では、ヴァルグが息を潜めている。


眠る黒猫様の安眠を乱さぬため、世界を滅ぼせる竜が、羽虫一匹よりも静かにしていた。


そこへ、転移の光が小さく開いた。


現れたのは、王城からの連絡用魔石を抱えた使者である。


もちろん、使者は地下百階層へ直接来た瞬間、膝から崩れ落ちた。


「こ、ここここ、ここが……」


セリアが慌てて近づく。


「大丈夫ですか。息をしてください」


「む、無理です」


「無理と言いながら喋れています」


「た、確かに……」


使者は震える手で魔石を差し出した。


「王城より、セリア殿へ至急の連絡でございます」


ヴァルグの黄金の瞳が、ゆっくり開いた。


空気が沈む。


使者の顔色が、紙より白くなった。


セリアは魔石を受け取り、すぐに片手を上げた。


「ヴァルグ様。威圧をしまってください」


『我はまだ何もしておらぬ』


「何もしていない状態が、だいぶ強いんです」


ヴァルグは不満そうに目を細めたが、ほんの少しだけ気配を引いた。


使者が床に額をつけたまま、ほっと息を吐く。


その音で、クロの耳がぴくりと動いた。


「ふにゃ……」


クロは目を開けた。


目の前には、ヴァルグの黒い鱗。


横には、畳まれた布。


少し遠くには、知らない人間。


そして、セリアの手元には、光る丸い石。


クロの瞳が、きらりとした。


(ころころニャ?)


クロは、前脚を伸ばして起き上がった。


背中をぐぐっと丸め、尻尾をぴんと立てる。


それから、とことことセリアの足元へ歩いてきた。


「あ、クロ様。これは遊ぶものではありません」


「ニャ」


クロは魔石を見上げた。


丸い。


光る。


手元にある。


つまり、たぶん転がる。


(ころころするニャ)


クロが前脚を伸ばそうとした瞬間、セリアは魔石を胸元へ引き寄せた。


「だめです。王城からの大事な連絡です」


「ニャッ」


不満げな声が、小さく響いた。


ヴァルグの瞳が、厳かに細まる。


『黒猫様は、その石に秘められた異変を看破された』


「違います。たぶん、丸くて光るからです」


『王城の危機を、すでに御身で感じ取っておられる』


「だから、丸くて光るからです」


セリアはため息をつきつつ、魔石へ魔力を通した。


淡い光が広がり、国王の声が響く。


『セリア殿。急な連絡、失礼する』


「はい。お聞きします」


『王都地下水路の封鎖区画付近で、黒色反応が確認された』


セリアの表情が変わった。


ヴァルグの爪が、石床にわずかに食い込む。


『その確認のきっかけになった古い記録に、メルト・マッドンという名があった』


「メルト・マッドン、とは」


セリアが短く尋ねた。


魔石の向こうで、国王が紙をめくる音がした。


『先王の時代の元王宮地脈術師だ。地脈へ人工の核を打ち込む研究に関わっていた。危険思想を理由に王城内で拘束されたが、正式な尋問の前に逃亡している』


「その人物が、今回の呪核に関わっていると?」


『まだ断定はできぬ。ただ、彼が関わった工事の中に、王都第四地下水路の封鎖区画があった。念のため確認させたところ、そこに同種の反応が出た』


「王都の水を狙った、ということですか」


『狙いまでは読めぬ。だが、王都の水に近い。放置はできない』


セリアは静かに頷いた。


「クロ様をお連れするおつもりですか」


魔石の向こうで、少しだけ沈黙があった。


『まずは、人の手で確認する』


セリアは、その言葉を聞いてわずかに目を伏せた。


王国が、黒猫様に頼りきらないようにしている。


それは正しい。


正しいが、相手はその正しさを踏みにじる場所を選んできたのかもしれない。


『ただし、確認の結果次第では、お願いをすることになる』


「分かりました」


『今、地下水路の調査隊とも連絡魔石をつないでいる。報告が入り次第、こちらにも届く』


『王宮料理長が、黒猫様のご機嫌伺いの品を準備している』


セリアは、少しだけ目を細めた。


「献上品ではなく?」


『公式には』


「分かりました。公式には」


国王の疲れた沈黙が、魔石越しにも伝わってきた。


その間、クロはセリアの足元で、魔石を見上げ続けていた。


光る丸石。


声が出る丸石。


転がりそうなのに、転がしてくれない丸石。


クロは不満だった。


「ニャー」


(つまらんニャ)


そして、その時だった。


魔石の光が、ふっと揺れた。


王城側の連絡網に、地下水路の調査隊からの魔力線が重なったのだ。


開いたままの現場の魔石が、足元を流れる水の音を細く拾っていた。


ちょろ。


ちょろちょろ。


かすかな水の流れる音。


クロの耳が、ぴんと立った。


「ニャッ」


(水ニャ)


セリアが嫌な予感を覚えた時には、もう遅かった。


クロは魔石へ顔を近づけ、鼻先をすんすんと動かした。


魔石の光が、ほんの一瞬だけ大きく揺れる。


水音が、地下百階層に細く響いた。


ちょろちょろ。


ちょろ。


クロの前脚が、そっと伸びる。


水面を触るように。


流れるものを捕まえようとするように。


小さな肉球が、光る魔石に触れた。


「あ」


セリアの声が漏れた。


ヴァルグが目を見開く。


使者が床に伏したまま、息を止める。


クロは、ただ魔石の中の水音が気になっただけだった。


(ちょろちょろ、つかまえるニャ)


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第三章:王都地下水路

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王都第四地下水路。


封鎖区画の前には、王国調査隊が集まっていた。


古い石組みは湿り、苔の匂いと冷たい水気が通路に満ちている。


壁の隙間から、細い水が流れていた。


ちょろちょろと、静かな音を立てながら。


調査隊長のライオネルは、片膝をついて水路の石床を見つめていた。


黒い筋がある。


細い。


だが、確かにある。


まるで石の継ぎ目を縫うように、封鎖された奥へ向かって伸びていた。


「深いな」


隣の地脈術師が、額の汗を拭った。


「はい。ここに見えている黒い筋は、漏れ出した反応です。汚染源はこの奥、封鎖区画のさらに下にある可能性が高いかと」


「掘れるか」


「無理です」


即答だった。


地脈術師は、悔しげに唇を噛む。


「この石組みは古いですが、王都の水圧を支えています。下手に崩せば、水路全体が落ちます」


ライオネルは奥を睨んだ。


封鎖された石壁。


鉄の杭。


古い封印符。


その向こうから、かすかに黒い魔力が滲んでいる。


人の手では届かない。


まさに、そういう場所だった。


「王城へ報告を」


「すでに連絡魔石を開いております」


別の兵士が答えた。


魔石は、濡れた石台の上で淡く光っている。


その光の向こうから、国王の声がかすかに聞こえていた。


王城を中継して、地下百階層の連絡魔石にもつながっている。


石台のすぐ横では、細い水がちょろちょろと流れ続けていた。


そして、もう一つ。


場違いな音が混じった。


「ニャッ」


ライオネルの肩が跳ねた。


「今のは」


地脈術師が固まる。


連絡魔石の光が、ふわりと揺れた。


次の瞬間、濡れた石台の上に置かれていた現場側の魔石が、かたりと動いた。


「な、何だ」


かた。


ころ。


丸い魔石が、石台の端から落ちる。


兵士が慌てて手を伸ばしたが、濡れた床に触れた魔石は、そのままころころと転がっていった。


「止めろ、割るな」


ライオネルが低く叫ぶ。


魔石は細い水の流れに押され、石床の継ぎ目をなぞるように進んだ。


ころ。


ころころ。


その音が、連絡魔石を通じて地下百階層にも返っていく。


水路の奥。


封鎖区画の石壁の下で、黒い筋がぶるりと震えた。


転がる魔石の光が、床の濡れた面を斜めに照らす。


普段なら見逃してしまうほど細い黒い筋が、光の角度を受けて浮かび上がった。


地脈術師が息を呑む。


「待ってください」


魔石は、封鎖区画の手前にある石の継ぎ目で止まった。


そこだけ、水の流れが不自然に渦を巻いている。


黒い筋は、その渦の下へ吸い込まれていた。


地脈術師は目を見開いた。


「見えた……接続点です」


さらに奥で、鈍い音がした。


ごと。


石の下から、重いものが揺れる音。


ライオネルは剣の柄に手をかけた。


「全員、下がれ」


次の瞬間。


封鎖区画の奥から、黒い光が一度だけ脈打った。


それは、呪核本体から漏れ出した反応だった。


石組みのさらに下に沈められた、不規則な黒い結晶塊。


王都の水脈へ直接触れるように置かれたものが、地上からは掘り出せない深さで脈打っている。


人の手では届かない。


けれど。


ちょろ。


魔石から聞こえた水音に反応して、どこか遠くの黒猫が前脚を伸ばしていた。


地下百階層から、ただ転がる音を追いかけていた。


その無邪気な一触れが、連絡魔石を震わせた。


震えは王城を中継し、現場の魔石にも小さく伝わった。


ただ、それだけだった。


けれど、その小さな揺れで魔石は石台から落ち、水の流れに乗って転がり、誰も気づかなかった黒い筋を照らした。


呪核と水脈を結ぶ、黒い接続の位置が見えた。


地脈術師が膝をつく。


「封印杭を。今なら接続点が見えます」


ライオネルは息を止めた。


「届くのか」


「本体には届きません。ですが、水脈との接続だけなら」


地脈術師は、震える手で銀の杭を受け取った。


聖布を巻いた杭を、黒い筋の浮かび上がった石の継ぎ目へ押し込む。


ぎり、と嫌な音がした。


黒い筋が暴れる。


ライオネルが周囲の兵へ叫んだ。


「支えろ。水路を傷つけるな」


兵士たちが石壁に補強符を貼り、地脈術師が杭へ魔力を流す。


ぱき。


ぱきぱき。


水路の壁全体に響くほどではない。


だが、その場にいた者の耳には、はっきり届いた。


呪核と水脈を結ぶ、黒い接続が裂ける音だった。


地脈術師は、肩で息をしながら言った。


「水脈から、切り離しました」


黒い筋は、もう伸びていない。


水の匂いも変わっていた。


さっきまでわずかに混じっていた鉄錆のような苦い匂いが、薄れていく。


ちょろちょろと流れる水が、少しずつ澄んでいった。


魔石の向こうで、セリアの声がした。


『クロ様。だめです。魔石を転がさないでください』


続いて、柔らかな猫の声。


『ニャー』


ライオネルは、ゆっくりと魔石を見た。


そして、深く頭を下げた。


「黒猫様の御助力に、感謝を」


魔石の向こうで、セリアが慌てたように言った。


『待ってください。今のは、クロ様が水音に反応して魔石を触っただけで』


ライオネルは、顔を上げなかった。


「水音に反応し、魔石を転がすことで水脈の穢れを示されたのですね」


『言い方が大きいです』


ヴァルグの重い声が、魔石越しに響いた。


『黒猫様は、見えぬ水の流れすら御前へ召し、穢れのみを退けられた』


『もっと大きくしないでください』


調査隊の兵士たちは、誰一人笑わなかった。


笑えるはずがなかった。


目の前で、王都の水を脅かしていた反応を、自分たちの手で止めたのだ。


ただし、その原因はおそらく、黒猫が水音と転がる音で遊んだことである。


ライオネルは、報告書の文面を頭の中で組み立て始めた。


『黒猫様、連絡魔石越しに水音へ反応』


『直後、現場側の連絡魔石が転落。水流に沿って転がり、黒い筋の接続点付近で停止』


『調査隊、魔石の光で確認された接続点へ封印杭を打ち込み、黒色汚染を停止』


彼は筆記係へ視線を向けた。


「正確に書け」


筆記係は震えながら頷いた。


「はい。正確に」


地脈術師が、小さく呟く。


「正確に書いても、意味が分からないのですが」


ライオネルは、苦い顔で答えた。


「それも正確に書け」


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第四章:転がしてはいけない石

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地下百階層では、セリアが連絡魔石を両手で押さえていた。


クロは、その前で尻尾を揺らしている。


「ニャ」


(ころころ、まだニャ?)


「転がしません」


セリアはきっぱり言った。


クロは不満そうに耳を伏せた。


魔石は丸い。


光る。


声もする。


水音もする。


それなのに転がせない。


世の中には、理不尽が多い。


クロはそう思った。


もちろん、猫なりに。


(つまらん石ニャ)


ヴァルグは、厳粛な面持ちで頭を垂れていた。


『黒猫様。王都の水脈を救う道をお示しくださり、感謝いたします』


「ニャ?」


クロは首を傾げた。


水。


水はあった。


ちょろちょろしていた。


前脚で触ろうとした。


触れた気がした。


それだけである。


セリアは、ヴァルグを横目で見た。


「ヴァルグ様、クロ様はたぶん遊んでいただけです」


『今回も、であるな』


「そうです。今回もです」


『ならば、遊びによって王都を救う道を開かれた』


「結論の置き方が強いんです」


そこへ、魔石の向こうから国王の声が響いた。


『セリア殿』


「はい」


『王都地下水路の黒色反応が停止した』


セリアは目を閉じた。


やはり、そうなったか。


そう思った。


『調査隊の報告では、黒猫様が魔石に触れた直後、現場側の魔石が転がり、汚染源の接続点を照らしたとのことだ』


「触れたのは事実ですが、クロ様は水音が気になっただけです」


『そうか』


国王は、短く答えた。


その声には、深い疲労と、深い安堵が混じっていた。


『水音が気になっただけで、王都の水を脅かす反応の位置へ魔石を導かれるのか』


「言い方」


『すまぬ。だが、他にどう言えばよい』


セリアは答えられなかった。


事実だけを並べても、十分におかしい。


嘘を混ぜなくても、報告書が神話になる。


それが黒猫様関連の難しさだった。


その時、王城側の声に別の人物が混じった。


王宮料理長である。


『セリア殿。黒猫様のご機嫌伺いの品が整いました』


クロの耳が、ぴくりと動いた。


「ニャ?」


食べ物の気配。


声の調子。


セリアの手元の魔石。


クロは、じっと魔石を見た。


王宮料理長の声は、少し緊張していた。


『本日は、王城備蓄の清水で蒸した白身魚と、香ばしく焼いた小粒カリカリを合わせております。水路の件がございましたので、火入れと水質の確認は通常の三倍行いました』


クロの鼻が、ひくひく動いた。


実物はまだない。


匂いもない。


けれど、声の向こうにごはんの気配がある。


(カリカリ?)


「ニャッ」


クロが魔石へ前脚を伸ばした。


セリアはすぐに魔石を持ち上げる。


「クロ様、これはごはんではありません」


「ニャー」


(カリカリどこニャ)


ヴァルグの黄金の瞳が、王城の方角を射抜くように細まった。


『料理長よ』


魔石の向こうで、王宮料理長が息を呑む気配がした。


『黒猫様が、御身の献上をお待ちである』


「まだ献上されていません」


『一刻も早く届けよ』


「転移の準備にも順番があります」


『王都の水を脅かす反応を退ける道を示された今、感謝の品を捧げるのは当然であろう』


「それはそうですが、圧が強いです」


魔石の向こうで、国王が小さく咳払いをした。


『至急届けさせる』


セリアは苦笑した。


「ありがとうございます」


やがて、転移の光が小さく開いた。


現れたのは、銀の蓋がついた小さな器。


使者が震えながら、それをセリアへ差し出す。


器の蓋を開けた瞬間、ふわりと湯気が立った。


白身魚の淡い香り。


清水で蒸された身は、ふっくらとほぐれ、上には小粒のカリカリが散らされている。


焼き目の香ばしさが、地下百階層の冷たい空気にやさしく広がった。


クロの瞳が、まん丸になる。


「ニャッ」


(ごはんニャ!)


さっきまで不満だった魔石のことなど、もう忘れた。


クロは器の前へ座り、まずは匂いを嗅いだ。


すん。


すんすん。


魚。


湯気。


カリカリ。


水の匂いは、嫌ではない。


クロは満足そうに尻尾を立てた。


「ニャ」


そして、小さな口で白身魚をぱくりと食べた。


ほろり。


柔らかい魚の身が、舌の上でほどける。


続いて、カリカリ。


かり。


こり。


蒸し魚のやさしい味の中に、香ばしい歯触りが混じる。


クロは目を細めた。


(うまいニャ)


かりこり。


ぱく。


はむ。


地下百階層に、平和な咀嚼音が響いた。


ヴァルグは目を伏せ、厳かに告げる。


『王都の水脈を脅かす穢れを見抜かれた後、清き水にて調えられた献上を召し上がる。これぞ、浄化と祝福の循環』


セリアは器を見守りながら言った。


「普通に、お礼のごはんです」


『水の巡りを正すべき場所を御身で示されたのだ』


「水音で遊んだだけです」


『遊びが世界を正す』


「だんだん詩みたいになってます」


クロは、そんな会話など気にしない。


最後の一粒まで、丁寧に食べる。


器の底をぺろぺろ舐める。


そして満足すると、セリアの手にすりっと頬をこすりつけた。


「ふにゃ」


(うまかったニャ)


セリアの表情が、少しだけ柔らかくなる。


「はい。よかったですね、クロ様」


クロはそのまま、ヴァルグの前脚の間へ戻った。


ぽふん。


黒い身体が、いつもの場所に収まる。


白い尻尾の先が、ゆっくり揺れて。


やがて、ぴたりと止まった。


「すぴー……」


転がる魔石を追いかけていた黒猫様は、食後の昼寝に入った。


もちろん、本人は何も知らない。


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第五章:報告書の限界

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王城。


国王は、王都地下水路から届いた報告書を読んでいた。


一行目から、すでに胃に悪かった。


『黒猫様、連絡魔石越しに水音へ反応』


国王は目を閉じた。


「宰相」


「はい」


「これは、正式な報告書か」


「正式な報告書でございます」


「本当にか」


「現場責任者、地脈術師、筆記係、全員の署名があります」


国王は、もう一度紙を見た。


『黒猫様が魔石に前脚を触れられた直後、現場側の連絡魔石が転落。水流に沿って転がり、第四地下水路封鎖区画手前の接続点付近で停止』


「前脚を触れられた」


「筆記係が悩んだ末の表現かと」


「悩んだ跡が見えるな」


「はい」


国王は次の行へ視線を落とした。


『調査隊が封印杭を打ち込み、黒色汚染は停止。水脈の魔力流は正常化。呪核本体は活動を失ったものと思われる』


そこまでは、まだよい。


問題は、その次だった。


『なお、黒猫様は当該行為の後、王城備蓄清水蒸し白身魚カリカリ添えを召し上がり、御満足の様子であった』


国王は、紙を机に置いた。


「なぜ最後に献立が載る」


宰相は淡々と答えた。


「黒猫様関連報告書の慣例になりつつあります」


「いつからだ」


「おそらく、第十九報告あたりから」


「止めろ」


「止めますか」


国王は沈黙した。


黒猫様が何を食べたか。


何に反応したか。


どの香りを好み、どの食感で尻尾を立てたか。


それらは、一見するとどうでもいい。


だが実際には、国の危機を防ぐ判断材料になっている。


国王は、苦々しく言った。


「別紙にしろ」


「承知しました。献上品反応記録として分けます」


「なぜ正式名称がすぐ出る」


「準備しておりました」


国王は額を押さえた。


その時、扉が叩かれた。


入ってきたのは、古文書管理官だった。


彼は数冊の古い帳簿を抱え、緊張した面持ちで礼を取る。


「陛下。メルト・マッドンに関する追加記録が見つかりました」


国王と宰相の表情が変わった。


「申せ」


古文書管理官は、帳簿を開いた。


「メルト・マッドンは、先王時代の地下水路封鎖工事において、王都地下水脈の一部を『王家の許可なく切り離した』疑いをかけられております」


「切り離した?」


「はい。当時の記録では、汚染を防ぐための緊急処置とされています。しかし、異議申し立ての記録が残っていました」


国王は眉を寄せる。


「誰が異議を」


「当時の水番長です」


古文書管理官は、古い紙片を差し出した。


そこには、震えた文字でこう書かれていた。


『メルト殿は、汚染を止めたのではない。水の道を隠した』


部屋の空気が、冷たくなった。


宰相が低く言う。


「では、今回の王都地下水路は、初めて狙われたのではなく」


国王が続けた。


「王都地下水路だけは、先王時代から仕込まれていた可能性がある」


古文書管理官は、青ざめた顔で頷いた。


「さらに、もう一点」


「まだあるのか」


国王の声が少し掠れた。


「メルト・マッドンの逃亡後、王宮地脈術師の名簿から、彼の弟子にあたる者たちの記録が複数消えています」


宰相が目を細める。


「消されたのか」


「はい。ですが、別部署の俸給記録に、名前の断片が残っていました」


古文書管理官は、紙を一枚置いた。


「メルトは、一人で動いているわけではないかもしれません」


国王は、ゆっくりと息を吐いた。


三箇所の異常。


王都地下水路の異常。


先王時代の封鎖工事。


消えた弟子たち。


黒猫様がいなければ、王国は見つけることすら遅れていた。


いや。


黒猫様がいても、まだ遅いのかもしれない。


国王は、机の上の地図を見下ろした。


「宰相」


「はい」


「王都地下水路の件を、各調査隊へ共有しろ。三箇所の呪核も、先王時代の地脈記録と照合する」


「御意」


「メルト・マッドンの名は、まだ外へ出すな」


「承知しております」


国王は、静かに拳を握った。


「相手は、王国の足元を知っている」


「はい」


「ならば、こちらも掘り返す。記録も、地脈も、人の罪も」


宰相は深く頭を下げた。


その表情には、いつもの冷静さが戻っている。


「黒猫様に頼る前に、我々がすべきことが増えましたな」


国王は苦く笑った。


「頼った後に言う言葉ではないがな」


「今回は、黒猫様が勝手に触れられましたので」


「それも報告書に残るのか」


「すでに残っております」


国王は椅子に座り直した。


そして、疲れた声で言った。


「別紙にしろ」


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終章:届いたもの

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光の届かぬ石室で、黒い水盤が割れていた。


水面ではない。


水盤そのものに、細いひびが入っている。


報告者は、顔を上げられなかった。


「王都地下水脈の本命が、切り離されました」


沈黙。


石室の奥に立つメルト・マッドンは、割れた水盤を見下ろしていた。


「猫は、王都へ来ていないのだな」


「はい」


「竜も」


「動いておりません」


「女も」


「地下百階層に」


メルトは、しばらく何も言わなかった。


報告者の背中に、冷たい汗が流れる。


やがて、メルトは静かに口を開いた。


「何が触れた」


報告者は息を呑んだ。


「分かりません。ただ、接続点が一瞬だけ浮いた、と」


「浮いた?」


「は」


メルトは、割れた水盤から視線を外した。


石机の上には、王都地下水路の図面がある。


その一点に、黒い印が置かれていた。


人の手では届かぬ場所。


竜が動けば王都が揺れる場所。


女が入れば調査に時間がかかる場所。


そこに沈めたはずだった。


だが、露出した。


猫は来なかった。


竜も来なかった。


それでも、人間に見つかった。


メルトは、初めて小さく笑った。


「なるほど」


その声には、怒りよりも濃いものがあった。


興味。


警戒。


そして、ほんのわずかな焦り。


「届かぬ場所、という考えだけでは足りぬか」


報告者は答えられない。


メルトは、古い地脈図の上に置かれた黒い印を、一つ指で弾いた。


小さな石片が転がる。


ころ。


ころころ。


その音が、石室にやけに大きく響いた。


メルトの指が止まる。


「揺れ」


低い声が、静かに落ちた。


「水。石。転がるもの。見えぬものを浮かせるもの」


報告者が恐る恐る顔を上げる。


「メルト様」


「次は、近づけるのではない」


メルトは、割れた水盤を見下ろしたまま言った。


「聞かせる」


その頃、地下百階層では。


クロが、食後の眠りから少しだけ目を覚ましていた。


どこかで、ころころという音がした気がした。


「ニャ……?」


耳が、ぴくりと動く。


だが、目の前には何もない。


クロは少しだけ考えた。


眠い。


お腹はいっぱい。


ころころは、あとでいい。


「ふにゃ……」


クロはヴァルグの前脚に頬を押しつけ、もう一度丸くなった。


白い尻尾の先が、ゆっくり揺れる。


世界の裏側で黒幕が新たな策を練っていることなど、当然ながら、何も知らない。


(第29話 完)


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