第28話:黒猫様と、同時に届いた三つの報告
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序章:猫を追うな
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光の届かぬ石室で、黒い水盤が静かに沈んでいた。
水面には、五つの光が消えた跡だけが残っている。
妖精の森。
リーベル村の麦畑。
グライム廃鉱。
北東の神殿跡。
月影湖。
どれも、設置した呪核が失われた場所だった。
報告者は、膝をついたまま顔を上げない。
長い沈黙の後、低い声が落ちた。
「猫を追うな」
報告者の肩が、わずかに動いた。
「よろしいのですか」
「猫は障害だ。目的ではない」
黒い水盤の奥で、細い光がいくつも灯る。
それは王国の地図だった。
森。
畑。
水脈。
坑道。
古い地脈の封印。
命を支える場所ほど、淡く光っている。
「我らの目的は、地脈と水脈を濁らせること。王国の土地そのものを弱らせることだ」
「ですが、あの黒い猫が」
「一つずつ置くから潰される」
石室の空気が沈む。
水盤の中で、消えた五つの光が黒く滲んだ。
「ならば、同時に動かせ」
報告者が顔を上げる。
黒い水盤に、三つの小さな光が灯った。
西の牧草地。
南の古井戸。
東の果樹園。
「小さな核でよい。見つかっても構わん。王国の調査隊を散らせ」
「本命は」
低い声は、すぐには答えなかった。
水盤のさらに奥。
地図にも記されぬ暗い一点に、黒い光がかすかに脈打つ。
「まだ沈めておく」
「三箇所は、囮でございますか」
「囮でもあり、実験でもある」
低い声が続ける。
「王国がどこを選ぶか。調査隊をどう割るか。竜と女がどこへ動くか。そして、あの猫が一箇所にしか行けぬのか」
「黒猫を誘うのですか」
「違う」
水盤が、ぴしりと鳴った。
「王国に選ばせる」
報告者は深く頭を垂れた。
「では、三箇所を同時に」
「動かせ」
黒い水盤の中で、三つの光がゆっくりと濁っていった。
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第一章:三通の報告書
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王城。
国王の執務室に、三通の緊急報告が並んでいた。
一通目。
西の牧草地。
家畜が草を食べなくなり、朝露が黒く濁る。
二通目。
南の古井戸。
水を汲み上げると、桶の底に黒い砂のようなものが残る。
三通目。
東の果樹園。
果実が熟す前に落ち、木の根元に黒い筋が浮いている。
国王は三枚を読み終え、無言で机に置いた。
宰相は、何も言わずに待っている。
沈黙が長い。
やがて、国王は低く言った。
「同時か」
「はい」
「黒い結晶は」
「いずれも、明確な本体は確認されておりません。ただし、三件とも魔力の濁りが報告されています」
「反応が弱いな」
宰相が目を細める。
「弱い、とは」
「報告を見る限り、これまでの呪核ほど大きな被害はまだ出ていない。だが、見逃せば広がる恐れがある」
「同感でございます」
国王は椅子の背に身を預けた。
窓の外では、王都の朝が穏やかに始まっている。
その平穏とは裏腹に、机の上の三通は重かった。
「黒猫様を三箇所へ連れ回すわけにはいかん」
「当然でございます」
「当然なのに、なぜ余はそれを国家判断として口にしている」
宰相は一拍置いた。
「現状、それが必要な確認であるためかと」
「正しい答えを言うな。余がつらい」
国王は指先で机を叩いた。
一度。
二度。
「調査隊を三つに分けろ。黒猫様の同行を前提にするな」
「はい」
「西の牧草地にはマルセル隊を。南の古井戸には水質に詳しい魔術師をつけろ。東の果樹園は、薬師と農政官を同行させる」
「承知いたしました」
「現場判断で掘るな。砕くな。燃やすな。祈るな」
宰相が筆を走らせる。
「祈るな、も継続で」
「継続だ」
国王は三通の報告書を見下ろした。
「これは、黒猫様を動かすためではない」
宰相が顔を上げる。
「では」
「我々を動かすためだ」
執務室の空気が、少しだけ冷えた。
「相手は、こちらの対応を見ているかもしれん」
「調査隊の分散、優先順位、黒猫様への依存度」
「そうだ」
宰相は、手元の別紙を一枚めくった。
「それと、古い王宮記録を洗わせております」
「何か出たか」
「先王陛下の時代に、地脈へ人工の核を打ち込み、流れを制御する研究がありました。表向きは地脈安定化の術式研究です」
国王の眉が動く。
「表向きは、か」
「はい。実際には、地脈を守るというより、支配する思想に近かったようです」
「研究者は」
宰相は、わずかに間を置いた。
「元王宮地脈術師、メルト・マッドン」
執務室の空気が、わずかに冷えた。
「聞かぬ名だ」
「記録では、危険思想を理由に王城内で拘束。研究資料は押収。ただし、正式な尋問の前に逃亡した、とされています」
「行方は」
「以後、不明です。押収された研究資料にも欠けがあります」
国王は静かに目を細めた。
「調べろ」
「すでに」
国王は静かに言った。
「黒猫様は兵器ではない。判定器でもない。国が動くべきところは、国が動く」
宰相は深く一礼した。
「そのように手配いたします」
国王は机の隅に置かれた黒い毛を見た。
小さな毛である。
王国を救った力の象徴のように見えてしまう自分が、少し怖い。
だからこそ、国王は目をそらした。
「まずは、人の仕事をしろ」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
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第二章:クロ様は一匹です
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地下100階層【奈落の淵】。
セリアは王城から届いた報告を読んでいた。
西の牧草地。
南の古井戸。
東の果樹園。
三件同時。
彼女は小さく息を吐いた。
クロは、ヴァルグの巨大な前脚の間で毛繕いをしている。
ぺろ。
ぺろぺろ。
黒い胸元の毛を整え、白い尻尾の先を確認する。
(きれいニャ)
もちろん、王国が三件の異常報告で揺れていることなど知らない。
セリアは報告書を畳んだ。
「ヴァルグ様」
『なんだ』
「三件、同時だそうです」
ヴァルグの黄金の瞳が細くなる。
『小癪な』
「クロ様を連れ回すつもりはない、と陛下は書いています」
『当然だ。黒猫様の御身は一つ』
セリアは少しだけ眉を下げた。
「はい。クロ様は一匹ですから」
『唯一にして無二』
「そういう大げさな話ではなく、一度に三箇所へ行くのは無理という話です」
ヴァルグは厳かに頷いた。
『同じことだ』
「たぶん違います」
クロは毛繕いを終え、顔を上げた。
「ニャ」
(カリカリ?)
セリアは思わず笑った。
「今はカリカリの話ではありません」
クロは聞いていない。
近くの小皿を見ている。
そこには、三種類の試作用カリカリが少しずつ置かれていた。
魚。
肉。
麦。
検分所から、安全確認済みとして少量だけ届いたものだ。
三件の報告とは何の関係もない。
ただ、クロにとっては、こちらのほうが重要だった。
クロは小皿の前に座った。
くん。
まず魚。
くんくん。
次に肉。
さらに麦。
どれも悪くない。
クロは迷った。
(どれニャ)
前脚が、魚の粒へ伸びる。
ちょい。
魚の粒が少し転がる。
肉の粒も気になる。
麦の粒も香ばしい。
クロは一度、全部を見た。
それから、魚を食べた。
かり。
白身魚の淡い旨味が口に広がる。
「ニャ……」
(うまいニャ)
次に肉。
ぽり。
最後に麦。
ぱり。
どれも食べた。
迷う必要はなかった。
全部食べればよい。
セリアはその様子を見て、また少し笑った。
「三つあっても、クロ様は全部食べますね」
『黒猫様は、三方を等しく嘉された』
「好きな順に食べただけだと思います」
『三つの異常も、いずれ黒猫様の御前に平伏す』
「だから、今回は連れ回しません」
セリアの声は穏やかだったが、はっきりしていた。
「クロ様が行きたいなら別です。でも、こちらの都合で三箇所へ連れていくことはしません」
ヴァルグは満足げに目を細めた。
『よい判断だ』
クロは皿を舐め終え、前脚で顔を洗っていた。
王国の判断も、敵の狙いも、何も知らない。
ただ、三種類のカリカリを全部食べて満足していた。
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第三章:人の仕事
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西の牧草地。
マルセル隊は、朝露の濁った草を採取していた。
黒い結晶の本体は見つからない。
ただし、牧草の根元に薄い黒ずみがある。
「掘り返すな」
マルセルが短く命じる。
「周囲を囲え。家畜を入れるな。土と草だけ採取しろ」
「はっ」
若い兵士が、慎重に木杭を打っていく。
以前なら、急いで掘ったかもしれない。
今は違う。
動かさない。
砕かない。
燃やさない。
祈らない。
現場に染み込んだ教訓は、妙な形で役に立っていた。
南の古井戸。
水質魔術師が、長い器具で井戸水を汲み上げている。
桶の底には、黒い砂のようなものが薄く残った。
魔術師は眉をひそめる。
「呪核本体ではない。汚染の先端だ」
同行した兵士が尋ねる。
「では、底に」
「あるかもしれない。だが、井戸を崩すな。水路図を出せ」
東の果樹園。
農政官と薬師が、落ちた果実を調べていた。
果実は黒く腐っているわけではない。
熟す前に力を抜かれたように、しわしわと萎んでいた。
薬師は根元の土を見て、低く言った。
「表に出ている汚染は薄い。まだ木の奥までは入っていない」
農政官が頷く。
「木を切るな。周囲の溝を塞げ。水の流れを止める」
三箇所で、人々が動いていた。
黒猫様はいない。
暗黒竜もいない。
セリアもいない。
それでも、王国の者たちは前より慎重に、前より正確に動いている。
黒猫様に頼り切るのではなく、黒猫様が来なくても被害を広げないために。
そのための調査隊だった。
そのための通達だった。
そのための、頭を抱えながら作られた報告書だった。
夕刻。
三箇所から、王城へ第一報が届いた。
西の牧草地。
表層の汚染を確認。本体未発見。拡大防止中。
南の古井戸。
井戸底または水路に汚染源の可能性。水路図確認中。
東の果樹園。
根元に黒い筋あり。木の奥への侵食は軽微。周囲の水流を遮断。
国王はそれらを読み、長く息を吐いた。
「持ちこたえているな」
宰相が頷く。
「はい。黒猫様に頼らず、現場が初動を止めています」
「止めているだけだ。解決ではない」
「しかし、広げてはおりません」
国王は目を閉じた。
それは大きい。
以前なら、焦った現場が掘り、砕き、燃やし、祈り、被害を広げていたかもしれない。
今は、止めている。
黒猫様がいない場所で、人が踏みとどまっている。
「次は、どこを優先するかだ」
「三件とも表に出ている被害は軽いとはいえ、放置はできません」
「分かっている」
国王は三通の報告を並べた。
西。
南。
東。
そのどれもが、王国の一部だった。
「黒猫様を動かさぬまま、どこまでできるか」
「試されておりますな」
「相手にか」
「あるいは、我々自身に」
国王は、苦い顔で笑った。
「よい。ならば、国として答えよう」
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終章:選ばせる
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光の届かぬ石室で、黒い水盤が揺れていた。
水面には、三つの現場から返る薄い反応が映っている。
西の牧草地。
南の古井戸。
東の果樹園。
どれも、まだ消えていない。
ただし、広がりも鈍い。
報告者は、膝をついたまま告げた。
「王国は、調査隊を三つに分けました」
「猫は」
「動いておりません」
低い声は沈黙した。
「竜は」
「動いておりません」
「女は」
「最深部に留まっています」
水盤の黒が、静かに波打つ。
「なるほど」
怒りはなかった。
むしろ、少しだけ興味が混じっていた。
「王国は、猫をすぐには出さぬか」
「そのようです」
「調査隊が育っている」
報告者は答えない。
「それと」
報告者は、少しだけ声を低くした。
「王城が、古い記録を調べ始めました」
水盤の揺れが止まる。
「どこまでだ」
「先王の時代の王宮地脈術師。その名まで」
低い声は、しばらく何も言わなかった。
報告者は、さらに深く頭を垂れる。
「メルト様」
その名が、石室に落ちた。
黒い水盤の奥で、かすかな光が脈打つ。
低い声の主は、ゆっくりと水盤から視線を外した。
石机の上には、古い地脈図が広げられている。
紙の隅には、王家の紋章が薄く残っていた。
「遅い」
男は、静かに言った。
「気づくのが、あまりに遅い」
低い声は続けた。
「ならば、次は選ばせるだけでは足りぬ」
水盤の奥、地図にも記されぬ暗い一点が、かすかに脈打った。
本命の光である。
まだ動かしていない。
まだ、沈めてある。
「三箇所は維持しろ。広げすぎるな。消されぬ程度に、王国の手を縛れ」
「は」
「本命は、もう少し深く沈める」
報告者の頭が下がる。
「王国が人の手で持ちこたえるなら」
低い声が、冷たく告げた。
「人の手では届かぬ場所を腐らせる」
水盤の黒が、ゆっくりと沈んだ。
その頃、地下100階層では。
クロが三種類のカリカリを食べ終え、ヴァルグの前脚の間で眠っていた。
「すぴー……」
もちろん、何も知らない。
(第28話 完)
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