第26話:黒猫様と、月影湖のぷかぷか浮き
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序章:黒い結晶が見えない報告
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王城。
国王の執務室に届いた報告書は、これまでのものと少し違っていた。
黒い結晶が見つかった、とは書かれていない。
封印石に黒い筋が出た、とも書かれていない。
ただ、北東山中の月影湖で、異常が続いている。
水が濁る。
魚が岸に寄らない。
水鳥が湖面を避ける。
夜になると、月が湖に映らない日がある。
国王は報告書を読み終え、しばらく無言だった。
宰相もまた、何も言わずに待っている。
やがて、国王は低く言った。
「黒い結晶は、確認されていないのだな」
「はい」
「黒い筋も」
「報告にはありません」
「ならば、呪核と断定はできん」
「その通りでございます」
国王は報告書を机に置いた。
机の上には、神殿跡の報告書もまだ残っている。
黒猫様、封印石を寝床として選定。
黒猫様、休息中に呪核反応途絶。
黒猫様、聖麦と白身魚の薄焼きカリカリを完食。
国王はその三行を思い出し、目元を押さえた。
「宰相」
「はい」
「余は、そろそろ報告書というものが何か分からなくなってきた」
「事実を記録するものかと」
「事実にも限度がある」
「しかし、限度を超えた事実も記録しなければ、次の現場が困ります」
国王は反論できなかった。
実際、講習も通達も役に立っている。
黒い結晶状のものを見つけても、動かさない。砕かない。燃やさない。祈らない。
黒猫様が現地へ向かわれた場合、進路を塞がない。
危険という言葉の対象を間違えない。
献上品の塩分と香辛料に注意する。
国家の危機対応として、最後の一項だけ妙に浮いている。
だが、浮いているのに必要だった。
「月影湖は、神殿跡から遠いのか」
「同じ北東山地の水脈に属します。距離はありますが、地脈と水脈のつながりは否定できません」
「黒い結晶が見えぬなら、現場の者は安心しかねん」
「はい。そこで通達に従い、湖畔の村長が早めに報告を上げたようです」
「よい判断だ」
国王は椅子の背に身を預けた。
窓の外では、夏の光が王都の白い壁を照らしている。
その明るさとは逆に、報告書の文字は冷たかった。
「調査隊を向かわせろ」
「マルセル隊でよろしいですか」
「あの者たちは慣れてきている」
「慣れてよいものかは別として」
「言うな」
宰相は静かに一礼した。
「では、月影湖へ」
「黒猫様に出動を願うような言い方はするな」
「心得ております」
「あくまで、黒猫様が散歩されるかもしれぬ水辺の安全確認だ」
宰相は筆を取りながら、淡々と答えた。
「その文言も、だいぶ整ってまいりました」
「整うな」
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第一章:月の映らない湖
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月影湖は、山の間に静かに横たわる湖だった。
昼の光を受けると、本来なら淡い銀色に輝く。
夜になれば、湖面いっぱいに月を映す。
それが名の由来である。
だが今、湖面は重く濁っていた。
風はある。
波も立っている。
それなのに、水の奥だけが妙に暗い。
湖畔の草は、先端だけ黒ずんでいる。水辺に近づいた小虫はすぐに離れ、鳥の声も遠い。
湖畔の村人たちは、すでに離れた場所へ退避していた。
調査隊だけが、岸辺に残っている。
マルセル隊長は、湖面を見つめながら部下へ指示を出した。
「水に入るな。採水は長柄の器具で行う。魚や水草を素手で触るな」
「はっ」
「黒い結晶が見えないからといって、安全と決めつけるな」
「はっ」
「そして、黒猫様が来られた場合」
隊員たちの背筋が伸びた。
「水辺で走らない。騒がない。進路を塞がない」
「はっ」
若い兵士が、真剣な顔で手を上げた。
「隊長。黒猫様が湖に入ろうとされた場合は」
マルセルは少し沈黙した。
猫が水に入る。
その光景が、想像しづらかった。
「セリア殿の判断を待つ」
「はっ」
「ただし、慌てて抱き上げようとするな」
「なぜですか」
「ヴァルグ殿が見ている」
若い兵士は口を閉じた。
それで十分だった。
湖畔の石の上には、調査用の道具が並べられている。
採水用の長柄杓。
魔力測定板。
湖底の流れを調べるための細い魔力糸。
その先には、小さな木製の浮きがついていた。
浮きは赤く塗られている。
水面に浮かべれば、波の動きが分かりやすい。
マルセルはそれを見て、ほんの少し嫌な予感を覚えた。
赤い。
小さい。
ぷかぷかする。
猫が好きそうである。
「隊長」
部下が尋ねる。
「浮きを使いますか」
「使う」
「よろしいのですか」
「調査に必要だ」
マルセルは苦い顔で言った。
「ただし、黒猫様の前では不用意に揺らすな」
部下たちは、真剣に頷いた。
その時、湖畔の道に黒い影が落ちた。
ヴァルグである。
今日は人型だった。
漆黒の礼服をまとい、涼しい顔で歩いている。
その腕には、布を敷いた籠が抱えられていた。
籠の中から、黒い耳が出ている。
「ニャ」
クロは少し眠そうだった。
セリアは籠の横を歩きながら、湖を見た。
「ここが月影湖ですね」
「はい」
マルセルが深く頭を下げる。
「黒い結晶は確認されておりません。ただ、水質と魔力の濁りが急速に悪化しています」
ヴァルグは湖面を見た。
黄金の瞳が、細くなる。
『底に何かあるな』
マルセルの顔が強張った。
「呪核でしょうか」
『断定はせぬ。だが、水の底で濁りを溜め、湖全体へ薄く伸ばしているものがある』
セリアは籠の中のクロを見た。
クロは湖を見ていた。
正確には、湖そのものではない。
湖面にぷかぷか浮かぶ、赤い浮きを見ていた。
ぴく。
黒い耳が動く。
赤い浮きが、水面で揺れた。
ぷか。
ぷかぷか。
クロの瞳が、まん丸になる。
「ニャッ」
(あれ、動くニャ)
セリアは小さく息を呑んだ。
「マルセル隊長」
「はい」
「あの浮きは」
マルセルは、すでに覚悟を決めた顔をしていた。
「調査用です」
「そうですか」
「揺れます」
「見れば分かります」
赤い浮きは、湖面でまた揺れた。
ぷか。
クロは籠から前脚を出した。
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第二章:影の目
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湖畔の崩れた石碑の影に、小さな黒い染みがあった。
ただの影ではない。
薄く、浅く、石の表面に貼りついた目である。
それは音を立てない。
魔力を強く放つこともない。
ただ、見る。
月影湖へ誰が来るのか。
何が呪核へ触れるのか。
なぜこれまでの核が消えたのか。
そのために置かれた、影の使い魔だった。
影の目は、最初にヴァルグを見た。
漆黒の礼服。
人の姿をしていても隠しきれない、深く重い竜の気配。
影の奥へ、かすかな緊張が走る。
竜。
まず疑うべきは、それだった。
次に、セリアを見た。
白い手袋。
落ち着いた視線。
黒猫の籠へ自然に手を添える動き。
術師ではない。
だが、ただの世話係とも思えない。
調査隊もいる。
魔力測定板を持つ者、採水器具を構える者、報告書を書く者。
人間たちは、慎重だった。
以前よりもずっと慎重に動いている。
影の目は、それらを見ていた。
そして、籠の中の黒い猫も視界に入れていた。
ただし、重要なものとしてではない。
小さな黒い獣。
竜と女が連れている、奇妙な同行物。
その程度である。
クロは、そんな視線を知らない。
籠から降りた。
前脚で草を踏む。
くん。
水の匂い。
湿った土の匂い。
遠くに魚の匂い。
そして、湖の底からごく薄く上がってくる、嫌な匂い。
クロは鼻に皺を寄せた。
「フンッ」
(へんなにおいニャ)
だが、赤い浮きは動く。
ぷか。
ぷかぷか。
クロはそちらを見た。
嫌な匂いより、動くもののほうが気になる。
前脚が一歩出る。
セリアがすぐそばで腰を落とした。
「クロ様、水辺です。ゆっくりですよ」
クロは聞いていない。
赤い浮きが、また揺れる。
「ニャ」
(とるニャ)
湖の縁には、平たい石が並んでいた。
クロはその上へ乗る。
水面までは、前脚を伸ばせば届く。
届くが、少し遠い。
クロは身体を低くした。
尻尾が左右に揺れる。
マルセルが片手を上げ、隊員たちを制した。
誰も動かない。
セリアも、クロの背中へ手を伸ばしかけて止めた。
ヴァルグが静かに見ている。
影の目も、見ている。
クロは前脚を伸ばした。
ちょい。
届かない。
赤い浮きは、ぷかりと逃げた。
「ニャッ」
もう一度。
ちょい。
水面に、肉球の先が触れた。
ぴちゃ。
クロは固まった。
前脚が濡れた。
ほんの少し。
だが、猫にとっては重大である。
クロの耳が横へ倒れた。
「フシャッ」
(ぬれたニャ!)
クロは前脚をぶんぶん振った。
水滴が飛ぶ。
ぴっ。
ぴぴっ。
水面に小さな波紋が広がる。
その瞬間、湖の底で黒い呪核が反応した。
呪核は水面へ何も出していないつもりだった。
黒い筋も、匂いも、気配も、外へ漏らしていないつもりだった。
だが、湖全体へ薄く伸ばした反応経路はある。
水の濁りを保つための細い道。
魚を遠ざけ、水鳥を避けさせ、月の光を曇らせるための薄い膜。
その膜が、波紋に揺れた。
揺れた先で、クロへ絡もうとした。
ふっ。
消えた。
【絶対不可侵領域】。
クロ本人が害と認識するまでもなく、クロへ届こうとした呪いは消える。
そして、消えた場所から、湖面の膜が裂けた。
湖底へ伸びていた反応経路が、次々と途切れる。
黒い呪核は、湖の底で震えた。
水を通して返すはずだった濁りが戻らない。
溜めた魔力が行き場を失う。
ひびが入る。
音はない。
湖底の泥の中で、黒い結晶塊が内側から崩れていく。
湖面に、風が走った。
濁っていた水の色が、わずかに明るくなる。
遠くで、水鳥が一羽、ためらうように鳴いた。
マルセルは息を止めていた。
セリアも、湖面を見つめている。
ヴァルグだけが、低く呟いた。
『途切れたな』
「呪核ですか」
『底にあった核の反応が消えた』
セリアは、前脚をぶんぶん振り続けているクロを見た。
「……水が嫌だっただけですよね」
『黒猫様は、水面の穢れを拒まれた』
「前脚が濡れたのを嫌がっただけです」
『それで湖が救われた』
セリアは少し黙った。
また否定できなかった。
クロは濡れた前脚を石の上にこすりつけた。
ぐし。
ぐしぐし。
「フンッ」
(ぬれたニャ。いやニャ)
そして、赤い浮きをもう一度見た。
ぷかぷかしている。
少し腹が立つ。
クロはもう近づかなかった。
水は嫌である。
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第三章:湖畔の魚カリカリ
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湖の色が変わり始めた。
劇的ではない。
一瞬で澄み渡ったわけでもない。
だが、岸辺に漂っていた重い匂いが薄くなり、草の先に残っていた黒ずみが少しずつ乾いた灰のように崩れていく。
調査隊員が測定板を見て、声を震わせた。
「隊長。湖面の魔力濁度が下がっています」
「記録しろ」
「はい」
「水底の反応は」
別の隊員が、魔力糸の先を確認する。
赤い浮きが、今は穏やかに揺れていた。
「消えています」
マルセルは目を閉じた。
そして、深く息を吐く。
「記録しろ」
「はい」
「黒猫様、水面の浮きに反応。前脚を水面へ接触。接触後、前脚の水滴を振り払われる」
若い兵士が筆を止めた。
「隊長」
「何だ」
「このまま書くんですか」
「事実だ」
「その後、湖底の呪核反応が途絶、と」
「そうだ」
「因果関係は」
マルセルは湖面を見た。
赤い浮き。
濡れた前脚。
不機嫌そうな黒猫。
そして、澄み始める湖。
「断定するな」
「では」
「前脚を水面へ接触。その後、湖底の呪核反応が途絶。現場状況として記録」
若い兵士は真剣に頷いた。
「承知しました」
マルセルは少しだけ胃のあたりを押さえた。
国王の気持ちが、少し分かってきた。
その頃、湖畔の村から献上品が運ばれてきた。
今回は、湖の魚は使えない。
異常が出ていた水域のものを、黒猫様へ出すわけにはいかなかった。
そこで村人たちは、山の反対側を流れる清流で獲れた白身魚を使った。
湖畔麦を細かく挽き、白身魚のほぐし身と山羊乳を混ぜ、薄く伸ばして焼く。
仕上げに、乾燥させた湖畔草をほんの少し香りづけに使った。
名は、【月影湖畔の白身魚ふわぱりカリカリ】。
皿を持ってきたのは、湖畔の村長だった。
彼は、北東の神殿跡で使われたという講習資料の写しを読んでいた。
どこから写しが回ってきたのかは、マルセルも聞かないことにした。
皿を置く。
下がる。
手を伸ばさない。
動かない。
村長は、その通りにした。
クロはまだ前脚を気にしていた。
ぺろ。
ぺろぺろ。
濡れたところを舐めて、毛並みを整える。
そこへ、香ばしい匂いが届いた。
白身魚の淡い甘み。
麦の香り。
山羊乳の柔らかな匂い。
クロの耳が立つ。
「ニャ」
(カリカリニャ)
クロは皿へ近づいた。
くん。
くんくん。
薄いカリカリは、丸くない。
前脚で触っても、あまり転がらなさそうだった。
クロは少しだけ不満そうに鼻を鳴らす。
「フン」
だが、匂いはよい。
クロは一枚を口に入れた。
ぱり。
軽い音がした。
外側は薄く香ばしい。
中は少しだけふわっとしていて、白身魚の旨味がじんわり広がる。山羊乳の甘みが後から追い、湖畔草の青い香りが鼻の奥にほんの少し残った。
クロの尻尾が、ゆっくり立つ。
「ニャ……」
(うまいニャ)
ぱり。
かり。
ぱりぱり。
水で濡れた不満は、少しずつ消えていった。
美味いものは強い。
セリアはほっと息をつく。
「よかったですね、クロ様」
ヴァルグは湖面を見ていた。
『水底に沈めた呪核を、水に入ることなく断たれるとは』
「前脚、少し濡れてましたよ」
『湖へ御身を沈めるまでもなかったということだ』
「濡れるのが嫌だったんだと思います」
『穢れた水を拒まれたのだ』
「水そのものを嫌がってました」
『その拒絶により、湖は清まった』
セリアは皿の前でぱりぱり食べているクロを見た。
クロは満足そうだった。
何も知らない。
湖底に呪核があったことも。
影から見られていたことも。
自分の前脚が、敵にとってどれほど理解しがたいものだったかも。
ただ、浮きは楽しかった。
水は嫌だった。
カリカリは美味しかった。
それだけである。
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終章:原因
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王城から遠く離れたどこか。
光の届かぬ石室で、黒い水盤が揺れていた。
今度の水面には、何も映っていないわけではない。
映っていた。
湖畔。
赤い浮き。
黒い猫。
そして、水を嫌がって前脚を振る、小さな姿。
低い声は、しばらく何も言わなかった。
報告者も、膝をついたまま沈黙している。
沈黙が長い。
石室の空気が冷えきるほど長い。
やがて、低い声が言った。
「もう一度、見せろ」
水盤の映像が戻る。
黒い猫が、赤い浮きへ前脚を伸ばす。
水に触れる。
嫌がる。
前脚を振る。
その直後、湖底の核へ伸びていた反応経路が乱れ、消える。
水盤の奥で、黒い結晶の光が一つ途切れた。
「竜は」
「動いておりません」
「女は」
「術式を使っておりません」
「王国の調査隊は」
「記録していただけです」
沈黙。
低い声が、さらに低くなる。
「では、何が消した」
報告者は、答えるまでに時間を要した。
見たものを、そのまま言葉にしてよいのか迷っているようだった。
だが、言わなければならない。
「……猫です」
水盤が静止した。
「何だと」
「黒い猫です」
「ふざけているのか」
「映像には、そうとしか」
水盤の中で、黒い猫が前脚を振っている。
怒っている。
濡れたことに、不満そうである。
その姿の背後で、湖の濁りが薄れていく。
低い声は、長く沈黙した。
怒りではない。
困惑でもない。
もっと深い、理解できないものに触れた沈黙だった。
「竜が守っているのか」
「はい」
「女が世話をしている」
「はい」
「王国の者どもも、その猫を中心に動いている」
「そのように見えます」
黒い水盤の縁に、細い亀裂が走った。
「ならば」
低い声が、ゆっくりと告げる。
「次は、その猫を見ろ」
報告者が顔を上げる。
「捕らえますか」
「まだだ」
水盤の中で、黒い猫がカリカリを食べている。
ぱり。
かり。
何も知らない顔で。
「あれが何なのかを見極める」
「は」
「猫の姿をした何かか。それとも、本当にただの猫なのか」
水盤の黒が、ゆっくりと揺れた。
低い声は、吐き捨てるように言う。
「どちらにせよ、ただの猫で済むはずがない」
水盤の中で、クロは最後の一枚を食べ終えた。
満足そうに目を細める。
「ニャ」
もちろん、何も知らない。
(第26話 完)
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