第23話:黒猫様と、廃鉱のころころ黒結晶
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第一章:音のする廃鉱
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北西の山間に、かつて銀を産出した廃鉱があった。
名を、グライム廃鉱という。
十年前に主要な鉱脈が尽き、坑道は閉じられた。麓の町では今も鍛冶や細工物の仕事が残っているが、鉱夫たちの多くは別の鉱山へ移り、古い坑口には封鎖用の木柵が打たれている。
その木柵の奥から、音がした。
ころ、ころころ。
石が転がるような、小さな音である。
「……まただ」
鉱山町の見張り役が、顔を青くした。
王国調査隊長マルセルは、坑口の前に立ち、薄暗い奥を見つめていた。講習会を終えたばかりの彼の鞄には、配られたばかりの冊子が入っている。
【黒猫様同行時の現地対応および献上品作成の手引き】
まさか、こんなに早く実地で使うことになるとは思っていなかった。
「中へ入った者は」
マルセルが尋ねる。
町長が首を横に振った。
「最初に異変を見つけた鉱夫が二人。途中まで入ったところで、魔力灯が消えたそうです。坑木も黒く腐り始めていて、奥へ行くほど息が重くなると」
「黒い結晶は見えたのか」
「はい。第三分岐の奥、古い採掘場の壁際に、丸みを帯びた黒い結晶の塊が半分ほど埋まっていたと。周囲の鉱脈も黒く染まっていたそうです」
ころ、ころころ。
坑道の奥から、また音がした。
若い調査隊員が息を呑む。
「石が、勝手に転がっているんですか」
「分からん」
マルセルは短く答えた。
坑口の周囲には、すでに封鎖線が張られている。兵士たちは町人を近づけず、魔術師は坑口に簡易結界を張り、薬師は外へ流れ出る空気を小瓶に採取していた。
だが、坑道の奥は分からない。
魔術探査は途中で途切れた。使い魔を飛ばそうとした魔術師は、入口から数十歩のところで接続を切られた。坑道の中に漂う魔力は、土や石に染み込むように重く沈んでいる。
「隊長」
若い兵士が囁いた。
「今回も、来るんでしょうか」
誰が、とは言わなかった。
マルセルは鞄の中の冊子を思い出す。
粒は楕円を基本とする。
黒猫様が寝床に選ばれた場合、動かない。
ヴァルグ殿へのツッコミは原則セリア殿に任せる。
何度読み返しても、災害対策資料とは思えない。
だが、リーベル村は救われた。
「最深部へ連絡は送った」
マルセルは言った。
「来られるかどうかは、黒猫様次第だ」
その時、坑口の前に張られた空間通信の魔法陣が淡く光った。
青白い光が輪になり、やがてそこに、一匹の黒猫がとことこと現れる。
「ニャ?」
(知らない場所ニャ)
続いて、銀髪のハイエルフ、セリアが姿を現した。
「クロ様、急に走らないでくださいね」
最後に、漆黒の燕尾服をまとった長身の男が現れる。
暗黒竜ヴァルグの人型である。
町人たちは、その姿だけを見れば美しい執事だと思っただろう。だが、調査隊はすでに知っている。あれは山のような暗黒竜が、人里へ出るために取っている姿だ。
マルセルは即座に頭を下げた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「ニャ」
(この人、前にもいたニャ)
クロはマルセルを一瞬見た。
それから、坑道の奥を見た。
ころ、ころころ。
小さな音が響く。
クロの耳が、ぴんと立った。
「…………ニャ」
(何か転がってるニャ)
セリアがそれを見て、小さく息を吐く。
「聞こえましたね」
『黒猫様が、すでに邪悪の気配を捉えられた』
「転がる音に反応されたんだと思います」
『邪悪が転がっているのだ』
「言い方が少し嫌ですね」
クロは坑口の前まで歩くと、鼻をひくひく動かした。
くん。
「ニャ……」
(暗いニャ。石の匂いニャ)
そして、奥からまた音がする。
ころころ。
「ニャッ」
(いるニャ)
マルセルは冊子の一項目を思い出した。
黒猫様の進路を不用意に塞がない。
彼は素早く手を上げ、兵士たちへ道を空けさせた。
「全員、下がれ。黒猫様の進路を塞ぐな」
若い兵士たちが即座に動く。
講習の成果である。
国王が見れば、たぶん頭を抱えた。
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第二章:黒猫様、坑道へ入る
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坑道の中は、ひんやりとしていた。
壁には古い掘削跡が残り、ところどころに腐りかけた坑木が立っている。本来なら魔力灯が並んでいるはずの通路は、奥へ行くほど暗い。
マルセルたちは距離を取りながら、クロの後ろを進んだ。
先頭はクロ。
そのすぐ後ろにセリア。
少し離れてヴァルグ。
さらに後ろに調査隊。
講習会で学んだ通り、誰もクロを追い越さない。誰も不用意に手を伸ばさない。黒猫様が何かを嗅ぎ始めたら、まずセリアを見る。
「……本当に講習が役に立っている」
若い魔術師が呟いた。
マルセルは小声で返す。
「役に立つから困る」
クロは坑道の壁をくんくん嗅いだ。
「ニャ……」
(石の匂いニャ)
足元には小さな鉱石の欠片が落ちている。クロはその一つに前脚を伸ばした。
ちょい。
ころ。
「ニャッ」
(動いたニャ)
セリアがすぐにしゃがむ。
「クロ様、それはただの石ですか?」
ヴァルグの瞳が細くなる。
『ただの石であろうと、黒猫様に選ばれたならば』
「ただの石です」
「ニャ」
クロはもう一度石を転がした。
ころころ。
すると、坑道の奥から同じような音が返ってきた。
ころ、ころころ。
クロの身体が止まった。
耳が前へ向く。
「…………ニャ」
(返事したニャ?)
もちろん、返事ではない。
だが、クロにとっては、奥に何か面白いものがいるように聞こえた。
「ニャッ」
クロが走り出した。
「クロ様!」
セリアが追う。
マルセルも慌てて手を上げた。
「追うな、走るな! 距離を保て!」
調査隊は一瞬足を止めた。
講習の成果である。
ただし、ヴァルグだけは音もなく進んでいた。人型とはいえ、中身は暗黒竜である。クロを見失うことなどない。
『黒猫様、お足元にお気をつけください』
「ニャー」
(ころころ待つニャ)
第三分岐。
そこから先は、空気が変わった。
壁の鉱脈が黒ずみ、魔力灯は完全に消えている。坑木には黒い筋が走り、触れれば崩れそうだった。奥からは、ころころという音が何度も響いている。
セリアは眉をひそめた。
「リーベル村より、匂いが重いです」
『坑道そのものが魔力を溜め込みやすい。設置された呪核の影響が、鉱脈に沿って広がりやすいのだろう』
マルセルが慎重に尋ねる。
「鉱脈に沿って、というのは」
『周囲の魔力と生命力を吸い、黒い筋を石と坑木へ広げる。放置すれば山の内側から腐る』
調査隊員たちの顔が青ざめた。
その時、奥で光が揺れた。
黒い。だが、ただ暗いのではない。闇の中で、もともと坑道に残っていた鉱脈が濡れたような黒に染まっている。壁や床のところどころに尖った鉱石の面が露出し、その間を小さな黒い鉱石片がころころと転がっていた。
「……あれが音の正体か」
マルセルが呟く。
黒い鉱石片は、床を転がり、壁際で止まり、また何かに押されるように転がる。古い採掘場の最奥、床と壁の境目には、丸みを帯びた黒い結晶塊が半分ほど埋め込まれていた。鉱脈が地面へ潜り込む低い位置で、クロの鼻先でも届きそうな高さである。
その核から伸びた黒い筋が、周囲の鉱石片を引き寄せたり弾いたりしているようだった。
クロの目は、まん丸になっていた。
「ニャ……」
(いっぱい転がってるニャ)
セリアがそっとクロの横に膝をつく。
「クロ様、あれは危ないものかもしれません」
「ニャ?」
(あれ、動くニャ)
言葉は通じていない。
クロのお尻が、ふり、ふりふり。
セリアは小さく息を吸った。
「……追いかけるつもりですね」
『黒猫様が、闇に潜む呪いを狩る構えを』
「追いかけるつもりですね」
次の瞬間、クロは黒い欠片へ飛びかかった。
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第三章:ころころを追う黒猫様
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「ニャッ!」
クロの前脚が、転がる黒い鉱石片へ伸びる。
ちょい。ころころころ。
鉱石片は坑道の床を走り、別の石にぶつかって跳ねた。
「ニャニャッ」
(速いニャ)
クロは夢中で追いかける。
調査隊の魔術師が青ざめた。
「あれ、呪物なのですか」
マルセルは冊子の内容を必死に思い出した。
黒猫様が何かを追いかけ始めた場合、セリア殿の判断を待つこと。
「セリア殿」
セリアはクロを見ていた。
「今のところ、クロ様には何も起きていません」
『黒猫様に邪悪が触れられるはずもない』
「ただ、坑道が崩れると困ります」
その言葉に、全員が天井を見た。
古い坑木が、みしりと鳴った。
ヴァルグの目が細くなる。
『崩れる前に、我が支えよう』
「鉱山ごと持ち上げないでくださいね」
『加減はする』
「今の一言が一番不安です」
クロはそんな会話を聞いていない。
転がる黒い鉱石片を追い、右へ、左へ。小さな身体が坑道の床をすばしこく走る。前脚で叩くたび、鉱石片はころころと別の方向へ逃げていく。
「ニャッ」
ぺし。
「ニャニャッ」
ぺしぺし。
黒く染まった鉱石片から濁った魔力が伸びようとする。
だが、クロに触れる直前で消える。
鉱石片は次第に勢いを失い、最後にはぱきりと割れた。
「ニャ?」
(割れたニャ)
小さな鉱石片が、ただの黒い砂のように崩れる。
その瞬間、壁際に落ちていた別の黒い鉱石片が、ぎしりと音を立てた。
ころ、ころころ。
別の黒い鉱石片が転がり出す。
クロの耳が立つ。
「ニャッ!」
(次ニャ!)
マルセルは呆然とした。
「まさか、一つずつ遊んで砕くのか」
若い兵士が小声で言う。
「報告書が長くなりますね」
「そこではない」
セリアはクロの動きを見ながら、少し考え込んでいた。
「ヴァルグ様」
『なんだ』
「あの大きな結晶が、欠片を動かしているんですよね」
『おそらくな。黒く染まった鉱石片は誘い餌のようなものだ。周囲の生き物を引き寄せ、魔力を吸うための』
「クロ様にとっては、完全に玩具ですね」
『邪悪は愚かだ。黒猫様を誘うとは』
「誘われているというより、釣られています」
クロは二つ目の鉱石片を追いかけた。
ころころ。
「ニャー!」
(待つニャー)
鉱石片は坑道の奥、壁際に半分埋まった黒い結晶塊の前へ転がっていく。
その核はクロの頭より少し大きい程度で、床と壁の境目に埋め込まれていた。周囲の黒く染まった鉱脈と細い筋でつながり、鼓動するように淡く濁った光を放っている。
ヴァルグの声が低くなる。
『あれが核だ』
マルセルが息を呑む。
「処理は」
『我が触れれば坑道ごと砕ける』
「では」
ヴァルグは、クロを見た。
クロは黒い結晶塊を見ていた。
丸みがある、黒い、すごく転がりそう。
「…………ニャ」
(大きいころころニャ)
セリアが額に手を当てた。
「完全に見つけましたね」
『黒猫様が、邪悪の中心を見定められた』
「大きいころころだと思ってます」
クロはゆっくりと姿勢を低くした。
お尻が、ふり。
ふりふり。
「ニャッ!」
飛びかかる。
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第四章:黒猫様、坑道をころがす
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クロの前脚が、黒い結晶塊へ触れた。
ちょい。結晶塊は動かなかった。
「ニャ?」
(動かないニャ)
もう一度、ちょい。やはり動かない。
結晶塊は、鉱脈に沿って伸びた黒い筋で固定されている。周囲の黒く染まった鉱石が、低く唸るような音を立てた。
ごろ、ごろごろ。
坑道のあちこちで、小さな黒い鉱石片が転がり始める。
まるで、核がクロを遠ざけようとしているかのようだった。
「ニャッ」
(いっぱい来たニャ)
クロの目が輝く。
セリアが息を呑む。
「クロ様、そっちに行くと」
クロはもう走っていた。
一つ目を、ぺし。二つ目を、ぺし。三つ目を、ぺしぺし。
坑道に、ころころ、ぱき、ころころ、ぱき、という音が続く。
マルセルたちは呆然と見守るしかない。
「これは、処理なのか」
若い魔術師が呟く。
「遊戯による処理だ」
マルセルは、どこか諦めた声で答えた。
「講習で聞いた通りだ」
「講習、すごいですね」
「そうだな」
クロが鉱石片を叩くたび、黒い筋が少しずつ薄れていく。核につながる線が一本、また一本と切れ、壁や床の鉱脈が本来の鈍い銀灰色を取り戻していく。
ヴァルグが低く感嘆した。
『汚染された鉱石片を先に砕き、核へ流れ込む力を削いでおられる』
「たぶん、動く順番に追いかけているだけです」
セリアが言う。
『それが最善手なのだ』
「結果だけ見ると、そうですね」
やがて、最後の鉱石片が割れた。
ぱきん。
坑道が静かになる。
丸みを帯びた黒い結晶塊だけが、床と壁の境目に残った。
クロはそれを見た。
「ニャ……」
(今度こそ動くニャ?)
前脚を伸ばす。ちょい。結晶塊が、壁際から外れ、ころりと動いた。
「ニャッ!」
(動いたニャ!)
クロは一気に夢中になった。
ぺし、ころ、ぺし、ころころ。
結晶塊は、床の上をぎこちなく転がる。固定していた黒い筋はすでに薄く、濁った魔力が漏れ出すが、クロの周囲で次々と消えていく。
セリアが目を見開く。
「核が、転がって……」
『黒猫様に弄ばれることで、邪悪の根幹が自らの形を保てなくなっているのだ』
「転がして遊んでます」
『それが崩壊の儀である』
「また儀式になりましたね」
クロは核を追いかける。
ぺし。
ころ。
「ニャニャッ」
(逃げるニャ)
核は壁にぶつかり、ひびが入った。
パキ。
クロの耳が立つ。
「ニャ?」
(音したニャ)
もう一度、ぺし。パキパキ。
「ニャッ!」
(割れるニャ!)
クロの前脚が高速で動き始めた。
ぺしぺしぺしぺし。
黒い核が坑道の床を跳ね、壁にぶつかり、またクロの前へ戻る。
まるで黒い石の塊を相手に、一匹で遊んでいるだけだった。
だが、調査隊の目には、坑道全体の濁った魔力が薄れていくのが見えていた。
腐りかけていた坑木の黒い筋が薄れ、消えていた魔力灯が一つ、ぽうっと淡く灯る。
さらに一つ。また一つ。
坑道に、弱い光が戻っていく。
「灯った……」
鉱山町の見張り役が呟いた。
クロは最後に、少し後ろへ下がった。
お尻を振る。ふり、ふりふり。
「ニャッ!」
飛びかかる。両前脚で、ぺしん。
バキィン!!
黒い呪核が砕け散った。
黒い靄が噴き出す。
だが、それは坑道の天井へ広がる前に、クロの周囲でほどけて消えた。
そして、坑道の奥に沈んでいた重い空気が、すっと軽くなる。
「ニャ?」
(終わったニャ?)
クロは砕けた欠片を見た。
もう転がらない。つまらない。
「ニャー」
(お腹空いたニャ)
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第五章:鉱山町の堅焼きカリカリ
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坑道の外へ出ると、町の人々が待っていた。
魔力灯が戻ったことは、外からでも分かったらしい。坑口に漂っていた重い空気も薄れ、冷たい山風が通り抜けている。
町長は震える足でクロの前へ進み、深く頭を下げた。
「黒猫様……町を、鉱山を救ってくださり、ありがとうございます」
「ニャ?」
(また低い人ニャ)
クロはよく分からない。
ただ、外へ出たら風が気持ちよかった。
そして、お腹が空いた。
セリアがマルセルを見る。
「現地で、クロ様が食べられそうなものはありますか?」
マルセルは即座に鞄から冊子を取り出した。
「塩分と香辛料は避け、小さく、食べやすく、できれば楕円」
「講習の成果ですね」
「はい」
町長が慌てて言う。
「鉱山町には、鉱夫の携行食があります。硬めに焼いた麦と豆の薄焼きで、塩はほとんど使っておりません。山羊乳で少し柔らかくして、小さく焼き直せば……」
セリアが頷く。
「それなら、クロ様にもよさそうです」
『硬めの食感か』
ヴァルグが重々しく言う。
『黒猫様が御牙をもって山の恵みを味わわれるにふさわしい』
「普通に硬めのカリカリですね」
鉱山町の厨房代わりの小屋では、すぐに準備が始まった。
麦粉と豆粉を混ぜ、山羊乳をほんの少し加える。鉱夫用の携行食よりも小さく、猫の口に合うよう薄く整え、塩は使わない。
鉄板の上でじっくり焼くと、香ばしい匂いが広がった。
ぱち。
ぱちぱち。
表面が乾き、軽く硬くなる。
「ニャ……」
(いい匂いニャ)
クロの鼻がひくひく動く。
町の女が皿へ並べる。
【鉱夫風・麦豆堅焼きカリカリ】
小さな楕円の薄焼きが、皿の上に並んだ。
クロは近づく。
くん。
くんくん。
「ニャ」
前脚で一枚を触る。
ころ、とはいかない。薄いので、少しだけ滑った。
「ニャ?」
(転がらないニャ)
少し不思議そうにした後、ぱくり。
カリッ。
「…………」
硬い。だが、嫌な硬さではない。噛むと、麦と豆の香ばしさが広がる。山羊乳の柔らかな甘みが少しだけあり、ぽりぽりと噛むたびに楽しい音がした。
「ニャッ」
(ぽりぽりニャ!)
カリカリ、ぽりぽり、はぐはぐ。
クロは夢中で食べ始めた。
町人たちは息を呑む。
町長は手を合わせた。
「召し上がってくださった……」
『当然である』
ヴァルグが頷く。
『黒猫様は、この山の労苦と実りを受け入れられた』
「ぽりぽりが気に入ったんだと思います」
セリアが言う。
『そのぽりぽりに、山の歴史が宿る』
「ぽりぽりに背負わせすぎです」
クロは最後の一枚まで食べると、皿をぺろぺろ舐めた。
「ニャ〜」
(おいしかったニャ)
食後、クロは料理を作った町の女の手元へ近づいた。
麦と豆と山羊乳の匂いがする。それを作った人の手だ。
「ニャ」
ぺろ。指先を一度舐める。
淡い光が走り、長年の水仕事で荒れていた手が、すっと滑らかになった。
町の女は、ぽかんと自分の手を見つめた。
「あ……」
涙がこぼれる。
「ありがとうございます……」
クロはもう、前脚を舐めていた。
(ごはんのお礼ニャ)
それだけである。
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終章:転がる音の報告書
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数日後。
王城。
国王は新しい報告書を読んでいた。
一枚目。
グライム廃鉱の黒い結晶は、坑道内の黒く染まった鉱石片を引き寄せたり弾いたりし、転がる音で周囲の生物を誘引する性質を持つ呪核であった。
二枚目。
黒猫様は転がる黒く染まった鉱石片を追跡し、前脚による接触および打撃により複数破砕。
三枚目。
黒く染まった鉱石片の破砕後、固定を失った呪核本体が壁際から外れた。黒猫様はこれを遊戯対象として追跡、打撃し、転がしながら最終的に破砕。
国王は報告書から顔を上げた。
「宰相」
「はい」
「転がしながら、とは何だ」
「そのままの意味かと」
「なぜ急に報告書が硬い言葉で誤魔化そうとしている」
「現場も悩んだのでは」
国王は続きを読んだ。
四枚目。
呪核破砕後、坑道内の魔力灯が回復。坑木の腐食進行停止。坑道内魔力汚染は急速に低下。
五枚目。
現地にて【鉱夫風・麦豆堅焼きカリカリ】を献上。黒猫様は完食。食後、製作者の手を舐め、手荒れを癒やした。
国王は目を閉じた。
「また、完食か」
「はい」
「また、手を舐めたか」
「はい」
「また、救われた者が出たか」
「はい」
「……結果は出ている」
「はい」
国王は机の隅を見る。
二本の黒い毛。
その横に、リーベル村とグライム廃鉱の報告書が並んでいる。
「次は、井戸か、森か、廃鉱か」
「すでに次の報告が届いております」
「言うな。今は少し休ませろ」
宰相は静かに一礼した。
その頃、地下100階層【奈落の淵】では。
クロがヴァルグの頭の上で眠っていた。
「すぴー……」
夢の中で、白い尻尾の先が揺れる。
(ころころ……ぽりぽり……)
セリアはその寝顔を見上げ、微笑んだ。
「楽しかったんでしょうね」
『黒猫様は、闇に沈んだ山をお救いになられた』
「転がる石を追いかけて、ぽりぽりのカリカリを食べただけですけど」
『それで山が救われた』
セリアは少し黙った。
「……結果がすべて、ですね」
『うむ』
ヴァルグは満足げに目を細めた。
クロは何も知らない。
廃鉱を救ったことも、国王がまた報告書を読んで頭を抱えていることも、調査隊が「転がしながら」という言葉を報告書に書くかどうかで悩んだことも。
ただ、夢の中でころころ転がる黒い石を追いかけ、ぽりぽりしたカリカリをもう一度食べていた。
それだけで、クロは幸せだった。
(第23話 完)
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