第21話:黒猫様と、枯れた麦畑の焼き麦カリカリ
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第一章:黒い石のある村
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王都から馬車で半日ほど離れた場所に、リーベルという小さな農村があった。
春には麦の若葉が風に揺れ、夏には黄金色の穂が村の外れまで広がる。村人たちは毎年、その麦を刈り、干し、粉にして、王都へ納めて暮らしていた。
だが今、その麦畑の一角だけが、黒く沈んでいた。
葉は乾き、穂は実る前に痩せ、地面には灰を混ぜたような黒い筋が走っている。その中心に、拳ほどの黒い石の先端が、土の中からわずかに覗いていた。
「……あれです」
村長の老人が、震える指で畑の中心を示した。
王国調査隊の隊長、マルセルは、革手袋をはめた手を上げて部下たちを制した。
「近づくな。陛下の命令だ。発見しても不用意に触れるな」
調査隊の魔術師が、距離を取ったまま杖を構える。淡い光が黒い石へ伸びかけ、触れる直前でじゅっと濁った。
「魔力が吸われます」
魔術師の顔色が悪くなる。
「ただの鉱石ではありません」
村長は喉を鳴らした。
「最初は、畑に変な石が出たと思っただけなんです。若い者が掘り出そうとしたら、近くにいた山羊が倒れましてな。それから麦が一気に枯れ始めて……」
村の外れでは、数頭の山羊が力なく伏せていた。井戸水も苦くなったという。村人たちは不安そうに畑を囲み、誰も黒い石へ近づこうとしない。
マルセルは膝をつき、枯れた土を指先で少しだけすくった。
ぱさり。乾いている。いや、乾いているだけではない。土そのものから、生命の匂いが抜け落ちているようだった。
「露出しているのは先端だけか」
「はい。掘ろうにも、近づくと気分が悪くなる者が多くて」
「周囲を封鎖する。村人は畑に入るな。井戸水も、しばらく飲用を避けろ」
調査隊の兵士たちが杭を打ち、縄を張る。
だが、それ以上は進めなかった。
黒い石の正体が分からない。触れれば何が起こるか分からない。持ち帰るなという命令もある。魔術師の測定は途中で吸われ、薬師も枯れた麦を調べながら首を横に振るばかりだった。
「隊長」
若い兵士が小声で尋ねる。
「本当に、猫が来るんですか」
マルセルは遠くを見る。
地下100階層【奈落の淵】。人が踏み入れれば死ぬとされる場所。そこに、暗黒竜が仕える黒猫がいる。さらに、その黒猫が似た呪物を遊びながら砕いたという。
王城でその報告を聞いた時、マルセルは自分の耳を疑った。今も疑っている。
「陛下の命令だ」
「ですが、猫ですよね」
「報告書にはそうある」
「猫が、呪物を?」
「報告書にはそうある」
マルセルは疲れた声で答えた。
その時、村の道の向こうがざわめいた。
「来たぞ」
誰かが言った。
マルセルが振り返る。
街道の先から、奇妙な一行が歩いてきた。
先頭を歩くのは、一匹の黒猫。夜のように深い毛並み。尻尾の先だけ白い、小さな黒猫である。
その後ろに、銀髪のハイエルフの少女。黒を基調とした服に白いエプロンを合わせ、クロを見失わないよう少し早足でついてくる。
さらにその後ろを歩くのは、漆黒の燕尾服をまとった長身の男だった。整った顔立ち。完璧な姿勢。どこからどう見ても、どこかの貴族に仕える美形執事。
ただし、マルセルは知っていた。報告書に書かれている。あれは、暗黒竜ヴァルグである。
「……本当に来た」
若い兵士が呟いた。
マルセルは背筋を伸ばす。
黒猫は、そんな人間たちの緊張などまったく気にしていなかった。
「ニャ〜」
(お外ニャ。風がいっぱいニャ)
クロは道端の草をくんくん嗅ぎ、揺れる麦の葉へ前脚を伸ばした。
ちょい。葉が揺れる。
「ニャッ」
(動いたニャ)
セリアが慌てて追いつく。
「クロ様、そちらは畑ですから、ゆっくり歩きましょうね」
『黒猫様のお歩みを妨げるとは、畑であろうと不敬』
「ヴァルグ様、畑は踏まないでください」
『無論だ』
「今、ちょっと踏みそうでした」
『踏んでおらぬ』
「踏みかけました」
クロは振り返る。
「ニャ?」
(何してるニャ?)
マルセルは、その光景を見て、しばらく言葉を失った。
王国の危機かもしれない呪物。
枯れかけた麦畑。
不安に震える村人たち。
そこへ現れたのは、畑の葉っぱに猫パンチする黒猫と、それを真面目に見守る暗黒竜と、冷静に突っ込むハイエルフ。
理解が追いつかない。
だが、王命である。
マルセルは深く頭を下げた。
「お待ちしておりました。セリア殿、ヴァルグ殿。そして……黒猫様」
「ニャ」
(知らない人ニャ)
クロは一度マルセルを見た。
そしてすぐ、風に揺れる麦へ視線を戻した。
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第二章:黒猫様、麦畑へ行く
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マルセルは、畑の中心を指し示した。
「問題の黒い石は、あちらです。露出しているのは先端だけですが、周囲の土地が明らかに弱っています」
セリアは表情を引き締めた。
「妖精の森で見たものと、似ているかもしれません」
『近い』
ヴァルグの黄金の瞳が細くなる。
人型を取っているため、今の彼は人間の姿をしている。だが、その声だけで、近くにいた村人たちは背筋を震わせた。
『呪核だ。完全に同じではないが、性質は近い』
「処理できますか」
マルセルが尋ねる。
ヴァルグは黒い石を見た。
『我が砕けば、この村ごと吹き飛びかねん』
村人たちの顔が青ざめた。
セリアがすぐに言う。
「砕かないでください」
『分かっている』
「今、少しやる気でしたよね」
『黒猫様に仇なすものを許せぬと思っただけだ』
「村ごと吹き飛ばさないでください」
マルセルは額に汗を浮かべた。
「では、やはり手は出せないと」
「ニャ?」
クロが、ひょいと顔を上げた。
黒い石の方から、変な匂いがする。湿った土とも違う。枯れた草とも違う。焦げた魚の骨のような、古い水たまりのような、鼻の奥がむずむずする嫌な匂い。
「ニャ……」
(変な匂いニャ)
クロは、とことこと歩き出した。
「クロ様?」
セリアがすぐに後を追う。
マルセルが慌てる。
「お待ちください! そこから先は危険です!」
『危険?』
ヴァルグの声が低くなる。
「い、いえ、黒猫様が危険という意味ではなく、周囲の者が不用意に」
『黒猫様の歩まれる先に、危険など存在せぬ』
「ヴァルグ様、そういう問題ではありません」
セリアが言いながらも、クロを無理に止めることはしない。
クロは黒い石の前まで行くと、鼻を近づけた。
くん。
「ニャッ」
(くさいニャ)
顔を少し引く。そして、もう一度近づく。
くんくん。
「ニャ……」
(ここニャ)
前脚を上げる。ちょい。黒い石の先端に、肉球が触れた。
「黒猫様!」
マルセルが叫びかける。
だが、何も起きなかった。
黒い石から伸びかけた濁った魔力は、クロの身体へ届く前に、ふっと消えた。【絶対不可侵領域】。クロ本人が理解するまでもなく、呪いはクロへ触れることすらできない。
クロは首を傾げた。
「ニャ?」
(動かないニャ)
もう一度、ちょい。石は動かない。
「ニャ」
(埋まってるニャ)
クロは石の周囲の土へ前脚を立てた。ざっ、ざっ。土が飛ぶ。
「クロ様、掘るんですか?」
セリアがしゃがむ。
「ニャッ」
(掘るニャ)
ざっ。ざっ。ざざっ。
小さな前脚が、思いのほか速く動く。土が左右へ飛び、黒い石の輪郭が少しずつ見えてくる。
マルセルと調査隊は、息を呑んで見守っていた。
「……本当に、掘っている」
若い兵士が呟く。
ヴァルグは厳かに頷いた。
『黒猫様が、邪悪の根を暴かれておられる』
「匂いが気になっただけだと思います」
セリアが小声で返す。
『邪悪の匂いを嗅ぎ分けられたのだ』
「くさいと思っている顔です」
クロは時々、顔をしかめるように鼻をひくつかせながら、なおも土を掘った。
ざっ、ざっ。やがて、黒い結晶の本体が姿を現した。拳ほどと思われていた先端の下に、さらに大きな塊が埋まっている。黒い根のような筋が、麦畑の土へ細く伸びていた。
村人たちが悲鳴を呑み込む。
「あんなものが、畑の下に……」
マルセルの顔も硬くなる。
「全員、下がれ」
兵士たちが村人を遠ざける。
クロは、むき出しになった黒い結晶を見た。
丸い、黒い、少しだけ転がりそう。
「ニャ」
前脚を上げた。
セリアが小さく息を吸う。
「また、遊ぶつもりですね」
『浄化の儀である』
「どう見ても遊ぶ前の顔です」
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第三章:黒猫様、黒い石と遊ぶ
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ちょい。黒い結晶が、ほんの少し揺れた。
「ニャッ」
(動いたニャ)
クロの耳が立つ。
もう一度、ちょい。ころ、とわずかに傾く。
だが、完全には転がらない。黒い根のような筋が土の中へ絡みつき、呪核を固定している。
「ニャ……」
(逃げないニャ)
クロの尻尾が、ゆらりと揺れた。
ぺし。呪核の表面に、細かな音がした。ぺし、ぺしぺし。
「ニャニャッ」
(かたいニャ)
妖精の森で砕いたものより硬い。クロは少し不満そうに鼻を鳴らした。
「フンッ」
『おお……』
ヴァルグの瞳が潤む。
『黒猫様が、邪悪の強度をお測りになっている』
「硬くて不満そうです」
セリアが言う。
マルセルは信じられないものを見る顔で、クロを見つめていた。
調査隊の魔術師が震える声で呟く。
「魔術を吸う呪物を、前脚で叩いている……」
薬師も呆然としている。
「しかも、何も起きていない……」
クロはさらに叩いた。ぺし、ぺし。しかし、呪核は割れない。
「ニャー……」
(つまんないニャ)
クロの興味が、少し離れた。
その視線の先で、乾いた麦の穂が一本、風に揺れていた。
ゆら、ゆらゆら。
「…………ニャ」
クロの目が丸くなる。
「クロ様?」
セリアの声が少し不安になる。
クロのお尻が、ふり、ふりふり。
「ニャッ!」
ダッ。
クロは呪核を放置して、麦の穂へ飛びかかった。
「ああっ!?」
マルセルが思わず声を上げる。
「黒猫様が、呪核を」
『待て』
ヴァルグが片手を上げた。
『黒猫様には、黒猫様のお考えがある』
「麦に飛びついただけでは」
セリアが言う。
『お考えがある』
「麦に飛びついただけだと思います」
クロは乾いた麦の穂を前脚で押さえ、くんくん嗅いだ。
香ばしい。枯れかけてはいるが、まだわずかに麦の匂いが残っている。
「ニャ……」
(いい匂いニャ)
ぱく。くわえた。
「クロ様、それは食べ物では……いえ、麦ですけど、そのままは」
セリアが手を伸ばしかける。
クロは麦の穂をくわえたまま、とことこと戻ってきた。
そして、呪核の前で落とした。ぽと。麦の穂が、黒い結晶の上に乗る。
「ニャ?」
(乗ったニャ)
クロは前脚で麦の穂をちょいと触った。麦の穂が呪核の表面を滑る。しゃり。その音が面白かった。
「ニャッ」
ちょい、しゃり、ぺし、カツン。麦の穂越しに、呪核が叩かれる。
小さな亀裂が、表面に走った。
「……割れた?」
マルセルが呟く。
セリアの目も見開かれる。
クロは音に反応して、耳を立てた。
「ニャ?」
(音したニャ)
もう一度。ぺし、カツン。亀裂が広がる。
「ニャッ!」
(これ、割れるニャ!)
クロの狩猟本能に、火がついた。
ぺしぺしぺしぺしっ。
麦の穂が跳ね、呪核の表面を滑り、クロの前脚が何度も振り下ろされる。
黒い結晶から、濁った魔力が噴き出そうとした。
だが、そのたびにクロの周囲でふっと消える。
『おお……!』
ヴァルグの声が震える。
『麦を媒介とし、土地の実りそのものをもって呪核を砕かれるとは……!』
「絶対そこまで考えていません」
セリアが即座に言う。
『枯れかけた麦に残る命を用い、土地を蝕む呪いを打ち返す。なんという御業』
「しゃりしゃり鳴るのが楽しいだけだと思います」
クロは夢中だった。
「ニャニャニャニャッ!」
ぺしぺしぺしぺし。
パキ。
パキパキ。
黒い結晶の亀裂が、全体へ広がっていく。
最後に、クロは少し後ろへ下がった。
お尻を振る。ふり、ふりふり。
「ニャッ!」
飛びかかる。両前脚で、ぺしん。
バキィン!!
呪核が砕け散った。
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第四章:麦畑に戻る色
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黒い靄が噴き出した。
村人たちが悲鳴を上げる。兵士たちが盾を構え、魔術師が結界を張ろうとする。
だが、黒い靄はクロの周囲に触れた瞬間、薄い煙のようにほどけて消えていった。
風が吹く。枯れた麦畑を、やわらかな風が撫でた。
最初に変化したのは、呪核のすぐそばの土だった。
灰のように黒ずんでいた地面が、少しずつ本来の茶色を取り戻していく。細く伸びていた黒い筋が薄れ、土の奥から湿り気が戻る。
次に、麦の葉が揺れた。
完全に枯れていた葉は戻らない。だが、根元に残っていた若い芽が、淡い緑を帯び始める。
「……麦が」
村長が膝をついた。
「麦が、戻って……」
山羊が一頭、弱々しく顔を上げた。
井戸のそばにいた村の女が、水桶を覗き込む。
「匂いが……苦い匂いが消えてる」
村人たちの間に、ざわめきが広がる。
マルセルは砕けた呪核の欠片を見た。先ほどまで濁った魔力を放っていた黒い結晶は、今ではただの焦げた石のように脆く崩れている。
「……処理、完了」
魔術師が呆然と呟く。
「魔術式なし。詠唱なし。浄化陣なし。前脚による打撃……」
「報告書にどう書けばいい」
若い兵士が小声で言った。
マルセルはしばらく黙った。
そして、諦めたように答える。
「見たまま書け」
「見たままですか」
「黒猫様、麦の穂を用いた遊戯により呪核を破砕」
「信じてもらえますか」
「信じるかどうかは、陛下の仕事だ」
セリアはしゃがみ、クロの前脚をそっと確認した。
「クロ様、お怪我はありませんか?」
「ニャ?」
(遊んだだけニャ)
肉球は無事だった。汚れた土が少しついているだけで、傷一つない。
セリアはほっと息を吐いた。
『セリア』
「はい」
『黒猫様の御手を清めねばならぬ』
「そうですね。あとで拭きましょう」
『聖水を用意するか』
「普通の濡れ布で大丈夫です」
『黒猫様が呪核を砕かれた御手だぞ』
「だから汚れているんです」
『なるほど』
「納得するところですか?」
クロは二人の会話を聞いていなかった。
目の前に、砕けた呪核の欠片がある。
ちょい、ころ。もう力を失った欠片が、土の上を転がった。
「ニャッ」
(まだ動くニャ)
「クロ様、それはもう終わりです」
セリアが欠片をそっと遠ざける。
クロは少し不満そうに尻尾を揺らした。
その時、村長が両手をついて頭を下げた。
「黒猫様……ありがとうございます。村を、麦畑を、救ってくださいました」
村人たちも次々と膝をつく。
「ありがとうございます」
「麦が戻る……」
「今年はもう駄目だと思っていたのに」
クロは村人たちを見た。
「ニャ?」
(みんな低いニャ)
よく分からない。ただ、たくさんの人がこちらを見ている。少し落ち着かない。
クロはセリアの足元へ戻り、すりっと身体を寄せた。
「ニャ〜」
(お腹空いたニャ)
セリアが微笑む。
「そろそろ、おやつにしましょうか」
その言葉は通じていない。けれど、セリアの声の柔らかさに、クロの耳がぴくりと動いた。
「ニャ?」
(おやつって何ニャ?)
村長が、はっと顔を上げる。
「でしたら、せめて何か……村にあるもので、黒猫様にお出しできるものを」
クロは村長を見た。
「ニャ」
(何かくれるニャ?)
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第五章:焼き麦の献上品
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村長の家では、急いで献上品の準備が始まった。
とはいえ、王宮のような高級食材はない。村にあるのは、麦と山羊乳、少しの蜂蜜、そして素朴な焼き菓子を作るための石窯だけだった。
「こんなもので、黒猫様にお出ししてよいのでしょうか」
村長の妻が不安そうに言う。
セリアは首を横に振った。
「クロ様は、豪華かどうかではなく、美味しそうかどうかで召し上がります」
『そして、捧げる心である』
ヴァルグが厳かに言う。
「それは少し大げさですが、丁寧に作れば大丈夫だと思います」
「大げさではない」
「大げさです」
村の女たちは顔を見合わせた。
暗黒竜に突っ込むハイエルフ。
その足元で、黒猫が山羊乳の匂いに鼻をひくつかせている。
不思議な光景だった。
麦は、枯れずに残っていた倉のものを使う。鉄鍋で軽く煎ると、香ばしい匂いが家の中に広がった。
ぱち。
ぱちぱち。
麦が弾ける小さな音に、クロの耳が動く。
「ニャ……」
(いい音ニャ)
山羊乳をほんの少し加え、蜂蜜は香りづけ程度に抑える。塩も香辛料も使わない。小さな粒に丸め、石窯の余熱でじっくり焼く。
外は軽く、内側は少しだけしっとり。
高級ではない。
けれど、焼き麦の香ばしさと山羊乳の柔らかな甘みが、素朴に立ちのぼる。
「できました」
村長の妻が、皿を両手で持ってくる。
【焼き麦と山羊乳の素朴な香ばしカリカリ】
皿がクロの前へ置かれた。
クロは近づく。
くん、くんくん。
「ニャ……」
(香ばしいニャ)
一粒、鼻先で触る。ころ。
「ニャ」
(動くニャ)
前脚で押さえる。ぱく。カリッ。
「…………」
焼き麦の香ばしさが、口の中に広がる。山羊乳の甘みは強すぎず、噛むたびにほろほろと崩れる。王宮の魚カリカリとは違う。ノエルの小粒カリカリとも違う。
素朴で、あたたかい匂いがした。
「ニャッ!」
(うまいニャ!)
カリカリ、ぽりぽり、はぐはぐ。
クロは夢中で食べ始めた。
村人たちは息を呑む。
村長の妻は、皿を持っていた手を胸元で握りしめた。
「召し上がってくださった……」
『当然である』
ヴァルグが重々しく頷く。
『黒猫様は、この土地の麦が再び命を取り戻すことをお認めになられた』
「焼き麦が美味しかったんだと思います」
セリアが言う。
『同じことだ』
「同じではないです」
クロは最後の一粒まで食べると、皿をぺろぺろと舐めた。
「ニャ〜」
(もっとあってもいいニャ)
村長の妻の目に涙が浮かぶ。
「すぐに、もう少し」
セリアが慌てて止める。
「少しだけで大丈夫です。食べすぎるとお腹に悪いので」
『黒猫様がお望みならば』
「ヴァルグ様」
『……少しだけだ』
「はい」
クロは、追加の小さな一粒をもらった。
カリッ。
「ニャ〜」
満足そうに目を細める。
そして食後。
クロは村長の妻の手元へ近づいた。
焼き麦の匂いがする。山羊乳の匂いもする。それを作った人の手だ。
「ニャ」
ぺろ。指先を一度舐めた。
「え……」
淡い光が走る。
村長の妻の指にあった古い火傷の痕が、薄く消えていった。長年、石窯で焼き菓子を作るうちに硬くなっていた指先が、少し柔らかさを取り戻す。
村長の妻は、言葉を失った。
「あ……」
涙がこぼれる。
「ありがとうございます……ありがとうございます、黒猫様……」
クロはもう見ていない。
セリアの足元で、前脚を舐めていた。
(ごはんのお礼ニャ)
それだけだった。
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終章:報告書に書かれた前脚
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数日後。
王城。
国王は、マルセルから上がってきた報告書を読んでいた。
一枚目。
リーベル村の麦畑で確認された黒い結晶は、大部分が土中に埋まった呪核であった。
二枚目。
呪核は周囲の生命力と魔力を吸い上げ、麦畑、井戸水、家畜に悪影響を与えていた。
三枚目。
黒猫様は呪核の先端を確認後、周囲の土を前脚で掘削。本体を露出させた。
国王の眉間に皺が寄る。
「前脚で掘削」
宰相が横で静かに言う。
「そのように記載されております」
国王は続きを読む。
四枚目。
黒猫様は乾いた麦の穂を用いた遊戯により、呪核へ複数回の打撃を加え、最終的に破砕。
「遊戯により破砕」
「そのように記載されております」
「報告者は正気か」
「調査隊全員の署名があります」
「ならば全員が同じものを見たのか」
「そのようです」
国王は額を押さえた。
さらに読む。
五枚目。
呪核破砕後、麦畑の魔力汚染は急速に低下。井戸水の異臭も軽減。家畜の体調にも改善が見られた。
六枚目。
村人より献上された【焼き麦と山羊乳の素朴な香ばしカリカリ】を黒猫様は完食。食後、製作者の手を舐め、古い火傷の痕を癒やした。
国王は長く沈黙した。
「……つまり」
「はい」
宰相が答える準備をする。
「各地の呪核対策に、黒猫様の散歩を組み込む必要があると」
「その可能性が出てまいりました」
「猫の散歩を、国家の災害対策に」
「はい」
「…………」
国王は椅子の背にもたれた。
「余の治世で、このような文言を見ることになるとはな」
「歴史に残りますな」
「残すな」
宰相は咳払いをした。
「しかし、陛下。実際に一村が救われました」
国王は報告書へ目を落とす。
そこには、村長からの礼状も添えられていた。黒猫様への感謝。王国調査隊への感謝。麦畑が完全に戻るには時間がかかるが、村人たちはもう一度種を蒔く気力を取り戻した、とある。
国王は小さく息を吐いた。
「……結果がすべて、か」
「どなたかのお言葉ですか」
「いや。余も、だんだん分かってきただけだ」
机の隅には、二本の黒い毛が置かれている。
国王はその横に、今回の報告書を置いた。
「調査隊を増やせ。ただし、黒猫様を酷使するな。あくまで散歩だ。献上品も、現地の者が無理なく用意できる範囲でよい」
「承知いたしました」
「それから、リーベル村には支援を出せ。種麦と井戸の浄化費用だ」
「すぐに手配いたします」
その頃、地下100階層【奈落の淵】では。
クロがヴァルグの巨大な頭の上で丸くなっていた。
「すぴー……」
夢の中で、白い尻尾の先がぴくぴく動く。
(麦のカリカリ……ぽりぽりだったニャ……)
セリアがその寝顔を見上げ、小さく笑う。
『黒猫様はまた一つ、民の暮らしをお救いになられた』
ヴァルグが厳かに言った。
「麦の穂で遊んで、カリカリを食べただけですけどね」
『それで救われた』
セリアは少し黙り、やがて頷いた。
「……まあ、そうですね」
クロは何も知らない。
畑を救ったことも、国王が報告書を読んで頭を抱えていることも、王国の災害対策に自分の散歩が組み込まれかけていることも。
ただ、今日の夢には、風に揺れる麦の穂と、香ばしい焼き麦の匂いが出てきた。
それだけで、クロは満足だった。
(第21話 完)
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