第20話:黒猫様と、王宮料理長の魚カリカリ外交
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第一章:これは外交である
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王城。
国王の執務机には、今日も書類が積み上がっていた。国境沿いの小競り合い。港町の税収。古い橋の修繕。貴族同士の面倒な揉め事。
そして、その書類の端に、一本の黒い毛が置かれている。
地下100階層【奈落の淵】で、クロが国王のマントに寝転んだ時に付着していたものだった。
「…………」
国王は書類に目を通す。しばらくして、黒い毛を見る。また書類へ戻る。数秒。また見る。
「……陛下」
控えていた宰相が、静かに声をかけた。
「なんだ」
「先ほどから、黒猫様の毛をご覧になっておられます」
「見ておらん」
「では、なぜ書類の上ではなく机の隅ばかりを」
「視界に入る位置にあるだけだ」
「移動させましょうか」
「ならん」
即答だった。
宰相は何も言わなかった。国王も何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた後、国王は咳払いをした。
「王宮料理長を呼べ」
「黒猫様への献上品の件ですね」
「外交の件だ」
「承知いたしました。黒猫様への献上品外交の件として伝えます」
「余計な言葉を足すな」
宰相は深く一礼した。表情は真面目だったが、どこか慣れた気配があった。
そのまま退出しかけた宰相が、ふと思い出したように足を止める。
「もう一点、陛下」
「なんだ」
「各地から、黒い結晶状の呪物に関する報告が届いております」
国王の目が、わずかに細くなった。
「黒い結晶?」
「はい。森、畑、古い井戸、廃鉱周辺などで発見されています。周囲の草木が枯れる、家畜が弱る、土地の魔力が濁る、といった被害が共通しております」
執務室の空気が変わった。
黒猫の毛を気にしていた時の、どこか言い訳めいた空気ではない。国を治める者の顔へ、国王の表情が戻っていく。
「ただの病害ではないのか」
「断定はできません。ただ、いずれの現場でも黒い結晶が見つかっております。通常の病害や瘴気溜まりとは異なる可能性が高いかと」
国王は机の上の報告書を一枚引き寄せた。そこには、黒い結晶の簡単な写し絵と、枯れた麦畑の記録が添えられている。
「……一つではないのか」
「少なくとも、報告が上がっているだけで五件。辺境からの伝令は遅れますので、実数はさらに増える可能性があります」
国王はしばらく黙った。
地下100階層の黒猫。暗黒竜。奇跡。献上品。どれも常識外れだが、半ば笑い話として扱える部分もあった。
だが、土地を枯らす呪物が各地に埋め込まれているとなれば話は別である。
「調査隊を出せ。魔術師、薬師、土地の管理に詳しい者を入れろ。見つけても不用意に触れさせるな」
「承知いたしました」
「それから、同様の被害が他にもないか調べろ。森、農村、水源、廃鉱。土地の魔力が急に濁った場所を洗い出せ」
「承知いたしました」
「不用意に触れた者は」
「隔離し、治癒術師をつけろ。呪物であるなら、持ち帰らせるな。現地を封鎖しろ」
国王は報告書を机に置いた。
「黒い結晶、か。嫌な話だ」
「そのように思われます」
「……ならば、調査を急げ。原因が人為的なものなら、放置はできん」
宰相が一礼する。
「各地の領主にも、同種の異変があれば隠さず報告するよう通達いたします」
「うむ。民が不安がる前に動け」
数分後、王宮料理長が執務室へ入ってきた。白い料理服を隙なく着込み、口髭を整えた壮年の男である。名はまだ本編では明かされていないが、王家の祝宴を何度も任されてきた腕利きだった。
「お呼びでしょうか、陛下」
「先日のカリカリだが」
「はい」
王宮料理長の眉が、ほんのわずか動いた。
王家特製・白金鶏と濃厚ミルクの黄金焼きカリカリ。
国王が地下100階層へ持参した、猫のための料理。いや、国王本人の言葉を借りるなら、外交上きわめて重要な献上品である。
「改良する」
「改良、でございますか」
「次は魚を使う」
「魚」
「そうだ」
王宮料理長は、しばらく沈黙した。
王家の宴席で魚料理を出したことは何度もある。香草蒸し、塩釜焼き、白葡萄酒煮、香味油を使った炙り。国賓を唸らせた皿も一つや二つではない。
だが、相手は猫である。
正確には、暗黒竜が仕え、国王が直接会いに行き、王国の上層部が扱いに困っている黒猫である。
「陛下」
「なんだ」
「焼き加減、香り、食感、塩分、脂の量。どの方向で攻めるべきでしょうか」
国王は腕を組んだ。
「猫の好みは分からん」
「私もでございます」
「だが、妥協は許さん」
「承知しております」
二人の空気は、なぜか軍議のように重くなっていた。
宰相が横から静かに言う。
「アルフレッド殿に助言を求めてはいかがでしょう」
王宮料理長の眉が、今度は明確に動いた。
「元宮廷料理長アルフレッドですか」
「そうだ」
国王が頷く。
「黒猫様に料理を召し上がっていただいた経験がある」
「……猫料理の先達、というわけですな」
「その言い方はどうなのだ」
「失礼いたしました。黒猫様への献上料理の先達、でございます」
「うむ」
国王は一瞬納得しかけ、すぐに眉間を押さえた。
「なぜ余は、猫の食事について国家規模で悩んでいるのだ」
宰相が答える。
「外交でございますので」
「……そうだ。これは外交である」
国王は机の隅の黒い毛をちらりと見た。
「外交である以上、失敗は許されぬ」
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第二章:王宮厨房、猫のために震える
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王宮厨房は、朝から妙な緊張に包まれていた。
磨き上げられた銅鍋。整然と並ぶ包丁。香草の束。氷室から運ばれた新鮮な魚。普段なら王侯貴族の晩餐を支える者たちが、今日は一匹の黒猫のためだけに動いている。
その中央に、王宮料理長が立っていた。
「脂の強い魚は避ける。香りが立ちすぎれば、かえって鼻につく可能性がある」
副料理人たちが真剣に頷く。
「塩は使うな」
「まったく、でございますか」
「まったくだ。猫に塩分を強くするなと、先日の報告にもあった」
「香辛料は」
「使わん」
「では、香草は」
「ごくわずかだ。主役は魚の旨味と食感。だが、人間用の魚料理とは違う。噛んだ時に軽く割れ、口の中でほぐれる形にする」
そこへ、扉が開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、アルフレッドだった。かつての宮廷料理長であり、クロへ【至高のズワイガニ&海老肉パテ仕立て】を献上した料理人である。
王宮料理長は、わずかに顎を引いた。
「久しいな、アルフレッド」
「お久しぶりです」
「まさか、猫の料理についてお前に意見を求める日が来るとは思わなかった」
「私もです」
アルフレッドは穏やかに微笑んだ。
「ですが、黒猫様への献上品となれば話は別です」
厨房の空気が、さらに重くなる。
「まず魚を見せてください」
アルフレッドが言う。
王宮料理長は白身魚を示した。
「今朝、王都北の清流から届いた白銀鱒だ。身は淡く、脂は控えめ。香りも強すぎない」
アルフレッドは身を確かめ、目を細めた。
「良い魚です」
「当然だ」
「ただ」
王宮料理長の眉が動く。
「ただ?」
「このままでは、少し上品すぎます」
厨房が凍った。
「上品すぎる、だと」
「はい。黒猫様は高貴な食材を召し上がるから喜ばれるのではありません。香りが分かりやすく、噛んだ時に楽しく、小さなお口でも満足できることが大切です」
王宮料理長は腕を組んだ。
「つまり、王宮料理として完成されすぎていると?」
「猫にとっては、少し遠いかもしれません」
「猫に遠い料理」
王宮料理長が、低く呟いた。
副料理人たちが息を呑む。
そこへ、もう一人、控えめに厨房へ入ってきた青年がいた。
ノエルである。
「し、失礼します」
王宮料理長が振り返る。
「君は」
「ノエルと申します」
アルフレッドが説明する。
「黒猫様が最近召し上がった、小粒の手作りカリカリを作った青年です」
「ああ、報告にあった者か」
王宮料理長はノエルを見た。立派な料理人の服ではない。王宮厨房で修行した者でもない。だが、その手つきには妙な静けさがあった。
「意見はあるか」
「私などが、王宮料理長様に申し上げることは……」
「黒猫様が食べた料理を作ったのだろう」
「はい」
「ならば言え。これは王家の料理人としての命令ではない。黒猫様への献上品をより良くするための確認だ」
ノエルは少しだけ迷い、それから魚を見た。
「……香りは、とても綺麗です。でも、焼くと少し早く抜けると思います」
王宮料理長の目が細くなる。
「なぜ分かる」
「身の水分が、外側と内側で少し違います。表面だけ先に乾くと、香りが閉じる前に逃げるかもしれません」
アルフレッドが静かに頷いた。
「私も同意見です」
王宮料理長は沈黙した。
副料理人たちも、誰も口を挟まない。
やがて王宮料理長は、短く言った。
「面白い」
ノエルがびくりとする。
「申し訳ありません」
「謝るな。今のは褒めた」
「褒めたんですか?」
アルフレッドが少し笑った。
王宮料理長は咳払いをした。
「では、どうする」
ノエルは魚と穀粉を見比べる。
「先に、清水をほんの少し含ませた穀粉で薄く包むのはどうでしょう。魚の香りを閉じ込めて、外側は軽くサクッと、中はほろっと」
「ふむ」
アルフレッドが続ける。
「香草は後から香らせる程度。焼く前に混ぜ込むより、仕上げにごく薄くまとわせた方がよいかもしれません」
王宮料理長は目を閉じた。
しばらくして、口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「よし」
厨房全体が身構える。
「作るぞ。王家の威信を懸けた、魚カリカリだ」
副料理人の一人が、小声で呟いた。
「猫の……」
王宮料理長の視線が飛ぶ。
「黒猫様への献上品だ」
「失礼いたしました!」
アルフレッドは深く頷き、ノエルは真剣な顔で袖をまくった。
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第三章:白銀鱒と香草ミルクのふわサク焼き
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厨房に、静かな熱が満ちていく。
白銀鱒の身を細かくほぐし、骨を丁寧に取り除く。濃厚な山羊乳は香りが強くなりすぎないよう薄め、魚の甘さを邪魔しない程度に整える。穀粉は清水を含ませ、薄く軽い衣にする。
王宮料理長の手は正確だった。
包丁が走るたび、魚の身が美しくほどけていく。火の前に立つ姿には、長年王家の厨房を預かってきた者の誇りがあった。
アルフレッドは横から火の入り方を見る。
「三秒、早く」
「まだ中心が」
「黒猫様のお口に入る大きさなら、余熱で届きます」
「……なるほど」
王宮料理長は火から下ろした。
副料理人たちが、驚いた顔をする。普段なら王宮料理長は、他人の火入れの指摘など簡単には受け入れない。
だが今日は違った。
相手は国賓ではない。大貴族でもない。王族でもない。
一匹の黒猫である。
それなのに厨房の誰もが、妙な緊張で息を詰めていた。
「ノエル」
王宮料理長が言う。
「はい」
「粒の大きさはどう見る」
ノエルは焼き上がる前の生地を見た。
「少しだけ楕円がいいと思います」
「楕円?」
「丸いと、転がりすぎます」
王宮料理長は、真顔で頷いた。
「重要だな」
「はい」
アルフレッドも真顔で頷く。
「黒猫様は転がるものに強く反応されます。遊戯性は残しつつ、食事場所から逃げすぎない形が望ましい」
「遊戯性」
王宮料理長が復唱する。
「魚料理に、遊戯性……」
彼はしばらく遠い目をした。王宮料理の長い歴史の中で、魚料理に遊戯性という観点を持ち込んだ料理人は、おそらくいなかった。
「よし。楕円だ」
こうして、小さな粒が一つずつ整えられていく。
外側は淡い黄金色。噛めば軽く割れ、中の魚がほろりとほどける。仕上げに、ごく薄く香草の香りをまとわせ、山羊乳の柔らかな甘みを奥に残す。
完成した皿を前に、王宮料理長は静かに息を吐いた。
「名は」
アルフレッドが問う。
「名か」
王宮料理長は腕を組む。
王家特製。白銀鱒。香草。山羊乳。ふわりと軽い食感。サクッとした表面。
「【王家特製・白銀鱒と香草ミルクのふわサク焼きカリカリ】」
ノエルが目を輝かせた。
「分かりやすくて、良いと思います」
アルフレッドも頷く。
「黒猫様にも香りが伝わりやすいはずです」
王宮料理長は、わずかに胸を張った。
「では、陛下へ届ける」
その時、厨房の入口から声がした。
「余が持っていく」
国王だった。
王宮料理長たちが一斉に頭を下げる。
「陛下自ら、でございますか」
「当然だ」
国王は皿を見つめる。
「これは外交である」
誰も反論しなかった。
ただ、ノエルだけが、少し不思議そうに首を傾げた。
「外交……なんですね」
アルフレッドが小声で答える。
「陛下は、今のところそういうことにしておきたいのです」
「なるほど」
王宮料理長は聞こえないふりをした。
国王も聞こえないふりをした。
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第四章:黒猫様、再び王を座布団にする
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地下100階層――【奈落の淵】。
国王が再び足を踏み入れると、青白い発光苔の光が、岩肌を淡く照らしていた。前回と同じように、山のような漆黒の巨体が奥で伏せている。
暗黒竜ヴァルグである。
『王か』
「そうだ」
『献上品は』
「持ってきた」
『ならばよい』
「前回から判断基準が変わっておらん」
ヴァルグの黄金の瞳が、国王の背後へ向く。護衛が抱える箱から、ほのかな魚の香りが漂っていた。
少し離れた場所では、セリアがクロの毛並みを整えている。クロは気持ちよさそうに目を細め、前脚をだらりと伸ばしていた。
「ニャ〜……」
(そこ気持ちいいニャ……)
セリアの指が首筋を撫でると、クロの喉がごろごろ鳴った。
「クロ様、お客様ですよ」
「ニャ?」
クロが顔を上げる。黄色い瞳が国王を見る。
「また会ったな」
「ニャ」
(前のふかふかの人ニャ)
クロの視線が、国王本人から、背後に流れる豪華なマントへ移動した。厚く、柔らかく、ふかふか。
「…………ニャ」
とことこ。
「待て」
国王が低く言った。
護衛たちが緊張する。
「陛下?」
「動くな」
クロは気にせず歩く。マントの裾まで来ると、前脚でちょいと触った。ふか。
「ニャ」
ぽすっ。丸くなった。
「…………」
国王は天井を見た。
ヴァルグの巨大な身体が震える。
『おお……!』
「言うな」
『黒猫様が再び、この者を御座として』
「言うなと言った」
セリアが口元を押さえている。
「セリア」
「はい」
「笑っておるな」
「いいえ」
「肩が震えている」
「少し寒くて」
「ここは地下100階層だが、今の顔は寒さではない」
セリアは視線を逸らした。
クロはマントの上で、満足そうに喉を鳴らしていた。
「ゴロゴロゴロ……」
(やっぱりここ、ふかふかニャ)
国王は深く息を吐く。
「……よい。外交には忍耐が必要だ」
『殊勝な心がけだ』
「なぜお前に褒められねばならん」
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第五章:魚カリカリ判定
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しばらくして、献上品の箱が開かれた。
ふわり。
白銀鱒の柔らかな香りが、最深部に広がる。強すぎない魚の甘み。奥にわずかな山羊乳の丸み。香草はほんの少しだけ、鼻先をくすぐる程度に留められている。
クロの耳が、ぴんと立った。
「ニャッ」
(魚ニャ!)
マントから降りる。国王はそっと裾を押さえ、クロを踏まないように動きを止めた。皿が床へ置かれる。
そこには、小さな楕円のカリカリが並んでいた。淡い黄金色。表面は軽く焼け、中からほのかに魚の香りが立っている。
クロが近づく。くん、くんくん。
「ニャ……」
(いい匂いニャ)
一粒を前脚で触る。ちょい、ころ。けれど、丸い粒ほど遠くへは逃げない。少しだけ転がって、皿の縁で止まる。
「ニャ?」
(逃げないニャ)
もう一度、ちょい、ころ。
「ニャッ」
(でも動くニャ)
セリアが小さく頷いた。
「楕円、成功ですね」
国王が眉をひそめる。
「楕円?」
「転がりすぎないようにしたそうです」
「誰がそこまで考えた」
「王宮料理長様と、アルフレッド様と、ノエルさんです」
国王はしばらく沈黙した。
「……王宮厨房は、どこへ向かっているのだ」
『黒猫様の御心へだ』
「やめろ。納得しそうになる」
クロは前脚で押さえた一粒を、ぱくっと口に入れた。
サクッ。
「…………」
噛んだ瞬間、外側が軽く割れた。中から白銀鱒の柔らかな旨味が、ほろりとほどける。山羊乳の丸みが後から追い、最後に香草の淡い香りがふわっと残った。
クロの目が、まん丸になる。
「ニャッ!」
(うまいニャ!)
ぱく、サクサク、ぱく、はぐはぐ。
「ニャニャニャッ!」
(魚うまいニャ! サクサクでほろほろニャ!)
クロは夢中で食べ始めた。
国王は腕を組み、表情を崩さないようにしていた。だが、口元がほんの少しだけ緩んでいる。
「……そうか」
セリアが見る。
「陛下?」
「なんだ」
「嬉しそうですね」
「外交成果を確認しているだけだ」
『黒猫様がお喜びである。光栄に思え』
「言われずとも、外交成果として評価している」
「やっぱり嬉しそうですね」
「違う」
クロは最後の一粒まで食べ終えると、皿をぺろぺろと舐めた。
「ニャ〜」
(もうないニャ)
そして顔を上げる。国王を見る。国王の背後のマントを見る。
「…………ニャ」
とことこ。
「まさか」
ぽすっ。またマントの上で丸くなった。
「…………」
国王は目を閉じた。
「余は、献上品を持ってきたのだが」
「はい」
セリアが頷く。
「お礼されているのでは?」
「これがか」
クロは満足そうに、国王のマントへ前脚を沈めている。
ふみ、ふみふみ。
「ニャ〜」
(ごはんの後のふかふかニャ)
ヴァルグの瞳が潤んだ。
『黒猫様が、食後の安息の場として再び王を』
「言うな」
『これ以上ない栄誉』
「言うな」
『二度選ばれたということは』
「言うな」
『もはや専用御座』
「言うなと言っておる!」
クロが耳をぴくりと動かした。
「ニャ?」
国王はすぐに声を落とす。
「……すまぬ」
セリアがついに小さく吹き出した。
その笑いが落ち着いた頃、国王はふと何かを思い出したように眉を寄せた。
「そういえば、妙な報告が上がっていたな」
「妙な報告、ですか?」
セリアが首を傾げる。国王はマントの上のクロを起こさないよう、声を少し落とした。
「各地で、黒い結晶状の呪物らしきものが見つかっている。周囲の草木が枯れ、家畜が弱り、土地の魔力が濁るという報告だ。献上品とは関係ない話だが……」
セリアの表情が変わった。
「黒い結晶……」
『どうした』
ヴァルグの黄金の瞳が、静かにセリアへ向く。
セリアは少し考え、それから答えた。
「以前、クロ様と妖精の森へお散歩に行った時、精霊樹の根元に似たものが埋まっていました」
「妖精の森?」
国王が眉をひそめる。彼はその話を知らない。
「はい。森全体が弱り、精霊樹も枯れかけていました。ヴァルグ様は、その黒い結晶を呪核だと」
『生命力と魔力を吸い上げ、土地を蝕む呪物だ』
ヴァルグが低く言った。
国王の顔が、王のものへ戻る。
「それで、どうなった」
セリアはクロを見る。クロはマントの上で前脚を伸ばし、何も分からない顔をしていた。
「クロ様が……遊んでいるうちに砕かれました」
「遊んでいるうちに」
「はい」
『邪悪なる呪いを御自ら打ち砕かれたのだ』
「遊んでました」
国王はしばらく沈黙した。
「……その話を、詳しく聞かせてもらえるか」
「分かりました」
「これは外交ではなく、国の問題だ」
『黒猫様の御前である。言葉を選べ』
「分かっている。だからこそ慎重に聞いている」
クロは、国王とセリアを見上げた。
「ニャ?」
(何の話ニャ?)
そして、もう一度マントへ顎を乗せる。
(ふかふかニャ)
国王はその様子を見て、深く息を吐いた。
「……本当に、何も分かっておらぬ顔だな」
『貴様』
「侮辱ではない。むしろ、その方が恐ろしいという話だ」
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終章:王宮厨房の新任務
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数日後。
王城の執務室。
王宮料理長は、国王の前で報告を待っていた。
「黒猫様は」
料理長の声は、普段よりわずかに硬い。
「召し上がった」
国王が答える。
「最後の一粒まで」
王宮料理長の肩から、力が抜けた。
「……そうでございましたか」
「皿も舐めていた」
「皿も」
「うむ」
王宮料理長は目を閉じた。
王侯貴族から賛辞を受けた時よりも、妙な達成感があった。だが、それを顔に出すわけにはいかない。王家の料理人としての威厳がある。
「では、次の改良案を」
「早いな」
「当然でございます。魚の種類を変えた場合、香りの立ち方も食感も変わります。白身、赤身、干し魚、軽い燻製。山羊乳を使わず、清水のみで仕上げる案も考えられます」
国王は宰相を見た。
宰相は静かに頷く。
「外交方針として、継続的な献上品開発は有効かと」
「お前まで言うか」
「陛下が外交と定義されましたので」
国王は額を押さえた。
「……よい。継続せよ」
「はっ」
王宮料理長は深く頭を下げる。
「ただし」
国王が言う。
「黒猫様の健康を損なうものは許さん。塩分、香辛料、量、すべて慎重に扱え」
「承知しております」
「それから」
王宮料理長が顔を上げる。
「粒は楕円を基本とする」
「……承知いたしました」
宰相が視線を落とした。肩が少し震えている。
「宰相」
「はい」
「笑っておるな」
「外交の成果を喜んでおります」
「便利な言葉にするな」
国王は溜息をついた。
そこへ、別の文官が静かに入室した。
「陛下。呪核調査隊の編成案でございます」
国王の表情が引き締まる。
「置け」
文官が書類を机へ置く。そこには、各地で確認された黒い結晶状の呪物の位置と、被害の概要が記されていた。
王宮料理長は事情を知らないまま、ただならぬ気配を察して口を閉じる。宰相もまた、先ほどまでの軽い空気を消していた。
「料理長」
「はっ」
「献上品開発は続けろ。ただし、今後は王国の調査隊が最深部へ情報確認に向かう可能性がある。黒猫様の機嫌を損ねぬことは、国の安全にも関わる」
王宮料理長は背筋を伸ばした。
「承知いたしました」
「これは外交であり、同時に危機管理でもある」
宰相が静かに頷く。
「今度は本当に国家案件でございますな」
「最初からそう言っておる」
机の隅には、あの黒い毛がまだ置かれている。
そして今日、その横に新しいものが増えていた。
地下100階層から戻った時、マントに付着していた黒い毛である。
一本目より、少しだけ長い。
「…………」
国王はそれを見た。捨てようとして、やめた。
「……害はない」
誰にともなく呟く。
その頃、地下100階層【奈落の淵】では。
クロがヴァルグの巨大な頭の上で、すやすやと眠っていた。
「すぴー……」
夢の中で、白い尻尾の先が揺れる。
(魚のカリカリ……また食べたいニャ……)
少し離れた場所で、セリアがその寝顔を見上げて微笑む。
『黒猫様は、王国との新たなる縁をお結びになられた』
ヴァルグが厳かに言う。
「魚カリカリが美味しかっただけだと思います」
『それが縁なのだ』
「まあ……そうかもしれませんね」
セリアは小さく笑った。
クロは何も知らない。国王が外交と言い張っていることも、王宮厨房が楕円の粒について真剣に議論していることも、ヴァルグがまた大げさに感動していることも。ただ、美味しい魚の香りと、ふかふかのマントの感触だけを覚えている。それで十分だった。
(第20話 完)
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