第19話:黒猫様と、はじめて自由に作る料理人
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第一章:料理人ではなかった青年
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地下100階層――【奈落の淵】。人類にとっては、一歩足を踏み入れただけで死を覚悟する絶望の最深部。
だが今、その一角には、小さな調理台が置かれていた。
「…………」
その前に立つ青年、ノエルは、両手をじっと見つめていた。火傷の痕はない。包丁傷もない。鞭の痕も、右脚の古傷も、もう痛まない。
以前の彼なら、長く立っているだけで脚に鈍い痛みが走った。指先は傷だらけで、細かな作業をするたびに皮膚が裂れた。夜中に主人から呼び出され、食事を作り、失敗すれば怒鳴られ、殴られ、また作り直した。
それが、今は何も痛くない。
「……本当に、治ったんだな」
ぽつりと呟く。少し離れた場所では、銀髪のハイエルフ、セリアがクロの寝床を整えていた。
「お加減はどうですか?」
「はい。もう、どこも痛みません」
ノエルは微笑んだ。
「ただ……変な感じです。痛くないことに、まだ慣れなくて」
セリアは少しだけ目を伏せた。
「分かる気がします」
彼女もまた、かつて自由を奪われていた。首輪を外された後も、しばらくは何も命じられていないことが不思議だった。声を出してよいこと。眠ってよいこと。明日を考えてよいこと。その一つ一つに、少しずつ慣れていった。
「焦らなくていいと思います」
セリアはそう言った。
「ここでは、誰もノエルさんを急かしませんから」
「……ありがとうございます」
ノエルは頭を下げる。
その時、黒猫が、とことこと歩いてきた。夜のように深い黒い毛並み。尻尾の先だけ白い、小さな黒猫。クロである。
「ニャ〜」
「クロ様」
セリアが微笑む。クロは調理台の下まで来ると、くんくんと鼻を動かした。
「ニャ?」
(この人、カリカリの匂いの人ニャ)
ノエルの足元へ、すりっ。
「……っ」
ノエルの表情が揺れた。
以前、グレゴール侯爵が持ち込んだ献上品を、実際に作ったのはノエルだった。金を払ったのは侯爵。材料を用意させたのも侯爵。命じたのも侯爵。
けれどクロは、侯爵ではなく、ノエルのところへ来た。傷だらけの手を、ぺろりと舐めた。それだけで、ノエルの世界は変わってしまった。
「……クロ様」
ノエルはしゃがむ。
「今日は、あなたのために作らせてください」
「ニャ?」
(カリカリあるニャ?)
言葉の意味など分からない。ただ、なんとなく良い予感がする。クロの耳が、ぴんと立った。
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第二章:自由な料理は難しい
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ノエルの前には、いくつかの食材が並んでいた。
最深部の清水。エレナから分けてもらった、猫用の穀粉。アルフレッドが選んでくれた、癖の少ない白身魚。それから、セリアが地上の森で見つけてきた、ほんのり甘い香りのする香草。
昨日、セリアは地上の献上品仕込み処へ短く伝言を届けていた。ノエルが黒猫様のために初めて自分の料理を作りたいらしい、と。するとエレナは穀粉を包み、アルフレッドは黙って魚を選び、二人とも余計な口出しはしなかった。
「……これだけ、ですか?」
セリアが首を傾げる。
「はい」
ノエルは頷いた。
「もっと豪華なものも、用意しようと思えばできたのですが」
「たとえば?」
「霜降り魔牛、白レバー、山羊乳、王都の高級食材……」
そこまで言ったところで、背後から地の底のような声が響いた。
『不要だ』
ノエルが肩を跳ねさせる。
巨大な暗黒竜ヴァルグが、山のような漆黒の体躯を伏せたまま、黄金の瞳をこちらへ向けていた。
『黒猫様がそなたを選ばれたのは、食材の値ではない』
「ヴァルグ様……」
『そなたの手だ』
「手、ですか」
『そうだ』
ヴァルグの声が、やたら荘厳になる。
『金で買われた材料でもなく、命令でもなく、虚栄でもない。黒猫様は、そなたの手より生じた誠を見抜かれたのだ』
「…………」
ノエルは息を呑む。セリアは小さく頷きながらも、横からそっと付け加えた。
「匂いで分かったんだと思います」
『セリア』
「はい」
『余韻を壊すでない』
「でも事実です」
『黒猫様の御嗅覚による神聖なる選別である』
「言い方を壮大にしただけですね」
「ニャ?」
クロは、二人を交互に見た。
(まだカリカリじゃないニャ?)
ノエルは思わず笑った。笑えたことに、自分で少し驚いた。
「……実は、怖いんです」
セリアがノエルを見る。
「怖い?」
「はい。以前は、命令されたものを作っていました。旦那様が望むもの。怒られないもの。失敗しないもの」
ノエルは並べた食材を見る。
「でも、今は違います。誰も命令していない。誰も怒鳴らない。だから、何を作ればいいのか……急に分からなくなって」
自由。その言葉は、思っていたよりずっと広く、心細かった。失敗しても殴られない。けれど、誰のせいにもできない。
「アルフレッド様のような宮廷料理人でもありません。王宮料理長のような肩書もない。ただ、言いつけられて料理を作っていただけの従者です」
ノエルは拳を握る。
「そんな私が、黒猫様へお出ししていいものなのかと」
セリアはしばらく黙っていた。それから、クロを見た。クロは調理台の脚に身体を擦りつけている。
「ニャ〜」
(早く何か出てこないかニャ)
セリアは微笑む。
「クロ様は、肩書きで食べるものを選んでいないと思います」
「……はい」
「たぶん、美味しそうな匂いがするかどうかです」
「はい」
『そしてそこに魂があるかどうかだ』
「ヴァルグ様」
『なんだ』
「たぶん、クロ様は魂までは見ていません」
『分からぬぞ』
「分かります」
『なぜ断言する』
「今、調理台の下に落ちている小さな粉をずっと見ています」
見る。クロは、床に落ちたほんの小さな穀粉の粒を、じーっと見つめていた。
「ニャ」
ちょい。
ぺろ。
「ニャ〜」
(粉もうまいニャ)
『…………』
「魂より粉ですね」
『黒猫様は粉に宿る理を味わわれたのだ』
「粉です」
ノエルは、今度こそ声を出して笑った。
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第三章:小さな火と、小さな粒
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ノエルは手を洗い、調理台へ向き直った。
まず白身魚を丁寧にほぐす。脂は強すぎない。香りは柔らかい。クロの小さな口でも食べやすいように、細かく、けれど完全なペーストにはしない。噛んだ時に少しだけ繊維のほぐれる感触が残るように。
「……この魚、今朝届いたものより、少し水分が多いですね」
ノエルが呟く。セリアが目を瞬かせた。
「見ただけで分かるんですか?」
「分かる、というより……感じます」
ノエルは魚へ鼻を近づける。
「火を入れすぎると、香りが抜けます。でも弱すぎると、生臭さが残る。先に清水を少し吸わせてから、低い火で……」
手が動く。迷いはまだある。だが、食材の声のようなものは聞こえていた。
クロに舐められてから、ノエルの感覚は以前とは比べものにならないほど鋭くなっている。食材の鮮度。水分。香り。火の入り方。それらが、目に見えない線のように、頭の中で結ばれていく。
「すごいですね」
セリアが素直に言う。
ノエルは首を振った。
「まだ、すごくありません。分かるだけです。使いこなせているわけでは……」
『使えばよい』
ヴァルグが言った。
『黒猫様がそなたに与えられた力だ』
「与えられた……」
「お礼だと思います」
セリアが言う。
『神授である』
「お礼です」
『奇跡の神授である』
「美味しかったから、ぺろっとしただけだと思います」
『それが神授なのだ』
「話が戻りましたね」
ノエルは苦笑しながら、穀粉と魚を混ぜた。
そこへ、香草をほんの少し。多すぎてはいけない。猫の鼻は敏感だ。香りを主役にするのではなく、魚の甘さを後ろから支える程度でいい。
生地を指先で丸める。一粒、一粒。小さく。軽く。クロが噛みやすいように。
「ニャ……」
クロが、調理台の下から顔を上げる。焼く前の生地の匂いが届いたらしい。耳が立つ。鼻が、ひくひく。
「ニャッ」
(いい匂いニャ)
「まだですよ」
セリアがそっと抱き上げる。
「焼いてからです」
「ニャ〜」
(今でもよさそうニャ)
クロは前脚を伸ばした。調理台へ、ちょい。
「クロ様、待ちましょうね」
「ニャ」
ヴァルグの瞳が細くなる。
『ノエル』
「はい」
『急げ』
「はい?」
『黒猫様がお待ちである』
セリアがすぐに言った。
「急がせないでください。火加減が大事です」
『しかし』
「急いで焦がしたらどうするんですか」
『…………』
「黒猫様の献上品ですよ」
『ノエル』
「はい」
『慎重に焼け』
「急に変わりましたね」
セリアが呆れたように呟く。ノエルは笑いながら、粒を鉄板へ並べた。
火は弱く、じっくり。外側だけを軽く乾かし、中はほろりとほどけるように。
香りが、少しずつ広がる。魚の甘い香り。清水の澄んだ匂い。香草の柔らかな余韻。クロの尻尾が、ぴんと立った。
「ニャッ!」
(できたニャ!?)
「まだです」
「ニャ〜」
(まだニャ?)
「もう少しです」
「ニャッ」
(もう少しニャ!)
なぜか通じているようで、通じていない。ヴァルグは感動していた。
『黒猫様が完成の時を見極めておられる』
「匂いに反応しているだけです」
『黒猫様の御嗅覚は、すなわち神託』
「便利な言葉にしないでください」
やがて、ノエルは火を止めた。焼き上がった小粒のカリカリを、冷ます。焦げ目は淡い黄金色。派手さはない。豪華な飾りもない。けれど、香りは優しかった。
ノエルは深く息を吸う。
「……できました」
皿に盛る。名をつけるなら、【やさしい香草と清水仕立ての手作り小粒カリカリ】。
それが、ノエルが初めて自由に作った、クロのための料理だった。
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第四章:黒猫様の答え
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皿が床へ置かれる。クロが近づく。
「ニャ……」
くんくん。
一粒、鼻先で転がす。
ころ。
「ニャ?」
ちょい。
ころころ。
ノエルの顔が固まった。
「あ、遊んで……」
「形が転がりやすかったんですね」
セリアが冷静に分析する。
『黒猫様が料理との対話を始められた』
「遊んでます」
「ニャッ」
ぺし。
一粒が皿の外へ転がった。クロはそれを追う。
「あの……食べていただけないのでしょうか」
ノエルの声が小さくなる。セリアが少し慌てた。
「だ、大丈夫です。クロ様は気に入ったものでも、まず遊ぶことがありますから」
『うむ。黒猫様は戯れをもって祝福を示される』
「そこまでは分かりません」
クロは転がった一粒を前脚で押さえた。
くん、ぱく、サクッ。
「…………」
ノエルが息を止める。
クロが噛む。サク。ほろ。魚の甘さ。清水の柔らかさ。香草のかすかな香り。
「…………ニャ」
クロの目が、まん丸になった。
「ニャッ!」
(うまいニャ!)
皿へ戻る。ぱく。サクサク。ぱく。はぐはぐ。
「ニャニャッ!」
(これ、転がるし、うまいニャ!)
小さな粒は食べやすかった。口に入れると軽く割れ、中でほろりとほどける。魚の香りは強すぎず、けれど物足りなくない。
クロは夢中で食べ始めた。
「……食べてる」
ノエルの声が震えた。
「食べてくださっている……」
セリアが微笑む。
「はい。すごく美味しそうです」
『当然だ』
ヴァルグが重々しく頷く。
『黒猫様が選ばれし料理人の、魂の一皿である』
「だから魂までは……」
セリアは言いかけて、やめた。ノエルが泣きそうな顔でクロを見ていたからだ。今は、少しだけ大げさなままでもいいかもしれない。
クロは最後の一粒まで食べた。皿をぺろぺろと舐める。
「ニャ〜」
(もうないニャ)
そして、顔を上げる。ノエルを見る。
「……クロ様?」
クロは、とことこと歩いた。ノエルの足元へ、すりっ。
「ニャ〜」
それだけ。
光は出ない。奇跡も起きない。傷を治す必要も、呪いを消す必要も、そこにはなかった。
ただクロは、美味しかったから、匂いのする人のところへ行った。
「…………」
ノエルは、静かに膝をついた。クロがその膝へ前脚を乗せる。
「ニャ」
ぴょん、膝の上へ乗った。
「え」
ノエルが固まる。
クロは膝の上でくるりと回り、ちょうどよい場所を探す。
「ニャ……」
ふみ、ふみふみ。
「クロ様?」
ふみふみ。ふみふみふみ。ノエルの膝の布を、前脚で踏む。
やがて、ころんと丸くなった。
「ゴロゴロゴロ……」
喉を鳴らし始める。ノエルは、動けなかった。
「…………」
大きな涙が、一滴落ちた。
「……よかった」
声が震える。
「作って、よかった」
セリアはそっと目を細める。ヴァルグは巨大な頭を床へ伏せた。
『黒猫様が、膝を御座として選ばれた』
「ヴァルグ様」
『なんだ』
「今は静かにしてあげてください」
『……うむ』
少しだけ、最深部が静かになった。クロの喉の音だけが、柔らかく響く。
「ゴロゴロゴロ……」
ノエルは、恐る恐る手を伸ばした。触れていいのか分からない。セリアが小さく頷く。
ノエルは、クロの背をそっと撫でた。ふわり。柔らかい。温かい。
「ニャ〜」
クロは嫌がらなかった。ただ、眠そうに目を細める。
(お腹いっぱいニャ……あったかいニャ……)
そして数分後。
「すぴー……」
眠った。
ノエルの膝の上で。
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第五章:一皿の名前
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しばらくして。クロを起こさないよう、ノエルは身動き一つせず座っていた。背筋は固まり、脚も痺れ始めている。だが、顔は幸せそうだった。
「大丈夫ですか?」
セリアが小声で聞く。
「はい」
「脚、痺れていませんか?」
「痺れています」
「大丈夫じゃないですね」
「でも、動きたくありません」
ヴァルグが深く頷いた。
『分かるぞ』
「ヴァルグ様も、よく動けなくなっていますものね」
『黒猫様が我が頭上で眠られる時、我は呼吸すら慎む』
「呼吸はしてください」
『黒猫様の安眠のためならば』
「してください」
『…………善処する』
「してください」
ノエルは小さく笑った。その笑いで膝がわずかに揺れ、クロの耳がぴくりと動く。
三人が同時に固まった。
「…………」
「…………」
『…………』
クロは。
「すぴー……」
眠ったままだった。
三人が、そっと息を吐く。
「……あの」
ノエルが囁く。
「この料理、また作ってもいいでしょうか」
セリアが頷く。
「もちろんです。クロ様も気に入られたみたいですし」
『ただし』
ヴァルグの声が低くなる。ノエルが緊張した。
「はい」
『粒の形状は検討せよ』
「形状、ですか?」
『転がりすぎる』
セリアが瞬きをした。
「そこですか?」
『黒猫様がお戯れになるには良い。しかし、転がりすぎれば食事場所より逸脱する』
「たしかに一粒、かなり遠くまで転がりましたね」
「申し訳ありません」
ノエルが真面目に頭を下げる。セリアが慌てる。
「いえ、怒っているわけではないですから」
『次は、わずかに楕円にするがよい』
「楕円……」
『黒猫様が前脚で扱いやすく、なおかつ行方不明になりにくい形だ』
セリアがヴァルグを見る。
「妙に具体的ですね」
『当然だ。黒猫様の食事と遊戯の両立に関わる』
「遊戯も入れるんですね」
『入れる』
「入れるんですか」
ノエルは真剣に頷いた。
「分かりました。次は少し楕円にしてみます」
「ノエルさんも真面目に受け取るんですね」
「はい。クロ様が楽しそうでしたので」
セリアは少し困ったように笑う。
「まあ……それはそうですね」
ヴァルグが満足げに目を細める。
『名も必要だ』
「名、ですか」
『黒猫様へ捧げる献上品である。相応の名を持つべきだ』
ノエルは考えた。豪華な名前ではない。強い名前でもない。ただ、自分が込めたものを、そのまま言葉にするなら。
「……【やさしい香草と清水仕立ての手作り小粒カリカリ】」
セリアが微笑む。
「いい名前だと思います」
『長い』
「ヴァルグ様が名を持つべきだと言ったんですよ」
『うむ。だが長い』
ノエルが慌てる。
「では、短く……」
『いや』
ヴァルグは厳かに言った。
『長い名には、長い祈りが宿る』
「どっちなんですか」
『採用だ』
「決定権あるんですか?」
『我は黒猫様の御寝所を守る者である』
「料理名の決定権とは関係ないです」
クロはノエルの膝の上で眠っている。
「すぴー……」
すべてを知らない。自分のために料理の名前が決まったことも。ヴァルグがまた大げさに感動していることも。セリアがそれに律儀に突っ込んでいることも。
何も知らない。ただ、お腹がいっぱいで、膝が温かくて、今日のカリカリはなんだか優しい味がした。それだけだった。
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終章:次は、もっと美味しく
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その日の夜。
クロはいつものようにヴァルグの巨大な頭の上で眠っていた。
「すぴー……」
ノエルは調理台の前で、今日の分量を書き留めている。白身魚。清水。穀粉。香草。火加減。粒の大きさ。転がりやすさ。
「……楕円」
小さく書き足す。
セリアが横から覗き込んだ。
「本当に書くんですね」
「はい。大事なことだと思います」
「たしかに、クロ様は転がるものがお好きですから」
「でも、食べる前に遠くへ行ってしまうのはよくありません」
「すっかり黒猫様用の料理人ですね」
ノエルは手を止めた。
「……料理人」
その言葉を、自分の中で転がす。従者ではなく、命令された食事係でもなく、料理人。まだ胸を張って名乗れるほどではない。けれど。
「いつか、そう名乗れるようになりたいです」
セリアは頷いた。
「なれますよ」
「ありがとうございます」
ヴァルグが、眠るクロを見上げたまま言う。
『黒猫様が認められたのだ。すでに半ば成ったも同然』
「半ばなんですね」
『残り半ばは研鑽で埋めよ』
「そこはちゃんとしているんですね」
『当然だ。黒猫様の献上品に終わりはない』
ノエルは深く頭を下げた。
「はい。次は、もっと美味しく作ります」
その言葉に、眠っていたクロの耳が、ぴくりと動いた。
「ニャ……」
(カリカリ……)
夢の中で、白い尻尾の先が揺れる。ノエルはそれを見て、静かに笑った。
もう、誰かに命じられたからではない。怒られないためでもない。自分の価値を証明するためでもない。
ただ、食べてもらいたい相手がいる。美味しいと思ってほしい相手がいる。そのために、明日も火を入れる。明日も香りを確かめる。明日も、小さな粒を丸める。
自由は、まだ少し怖い。けれど今は、その怖さの先に、作りたいものがある。
「すぴー……」
クロは眠っている。何も知らない。だが、その寝顔を見ているだけで、ノエルは不思議と前を向けた。
『黒猫様はまた一人、道を示された』
「ただ美味しく食べて、膝で寝ただけですけどね」
『それで救われる者もいる』
セリアは少し黙った。そして、眠るクロを見上げる。
「……それは、そうですね」
最深部に、静かな夜が降りる。青白い発光苔が、淡く光る。クロの小さな寝息が、ヴァルグの頭上で柔らかく響く。
ノエルはもう一度、紙に書き足した。
――次は、もっと美味しく。
それは誰かに強いられた言葉ではない。彼が初めて、自分のために決めた約束だった。
(第19話 完)




