閑話:黒猫様、くしゃみをする
地下100階層――【奈落の淵】。
今日も最深部は平和だった。青白い発光苔が淡く光り、巨大な暗黒竜ヴァルグはいつもの場所で身体を伏せ、セリアはクロの寝床を整えている。
そして、当のクロはといえば――
「ニャ〜」
朝ご飯を食べ終え、満足そうに最深部を歩き回っていた。
くんくん、岩を嗅ぐ。ちょい、発光苔を前脚で触る。ひらりと舞った小さな苔の欠片を追いかける。
「ニャッ」
ぺし。
「ニャニャッ」
ぺしぺし。実に平和な朝である。
――その時だった。クロの鼻先に、ふわりと細かな埃が舞った。
「……ニャ?」
鼻が、むず。
「ニャ……」
むずむず。
「ニャ……ニャ……」
そして――
「くしゅんっ!」
小さなくしゃみが、最深部に響いた。
「…………」
セリアの手が止まった。
「…………」
ヴァルグの巨大な黄金の瞳が見開かれた。
クロは。
「ニャ?」
何事もなかったように前脚を舐め始めた。
沈黙。数秒。
『…………セリア』
「はい」
『今のを聞いたか』
「聞きました」
『今のは何だ』
「くしゃみですね」
『そうではない』
「くしゃみです」
『黒猫様が、くしゃみをなされたのだぞ!?』
「はい。ですから、くしゃみですね」
ズズズズズ……。ヴァルグが立ち上がった。最深部が震える。
「ヴァルグ様?」
『一大事だ』
「一回くしゃみしただけですよ」
『一回!?』
ヴァルグがセリアを見る。
『一回“も”だ!』
「そういう数え方するんですね……」
『これまで黒猫様が、このような苦しげな御声を上げられたことがあったか!?』
「苦しげでした?」
「ニャ?」
クロも首を傾げる。
『御病気かもしれぬ!』
「たぶん違います」
『なぜ断言できる!』
「今、普通に毛繕いしてますから」
見る。クロは、ぺろぺろと前脚を舐め、顔を洗っていた。
「ニャ〜」
『…………』
「元気そうですね」
『いや、まだ分からぬ』
「分かると思いますけど」
ヴァルグが低く唸る。
『治癒術師を呼ぶ』
「どこからですか」
『王都だ』
「ここ地下100階層ですよ」
『我が連れてくる!』
ヴァルグが翼を広げようとする。
「やめてください!」
『なぜ止める!』
「ヴァルグ様が王都まで飛んでいったら、クロ様のくしゃみより大事件になります!」
『だが黒猫様が――!』
「まず私が様子を見ますから!」
『…………』
ヴァルグは不満そうだった。だが、クロのお世話についてはセリアを信頼している。
『……任せる』
「最初からそうしてください」
セリアはクロの前にしゃがんだ。
「クロ様」
「ニャ?」
そっと抱き上げる。鼻――異常なし。目――異常なし。耳――いつも通り。毛並み――つやつや。肉球――ぷにぷに。
「……ニャ?」
セリアが身体を確認している間、クロはされるがままだった。
『どうだ』
「特に異常はありません」
『本当か』
「はい」
『熱は』
「ありません」
『呼吸は』
「普通です」
『御心臓は』
「元気に動いてます」
『食欲は』
「それなら――」
セリアがクロを床へ下ろし、カリカリの入った袋へ手を伸ばした。
カサッ。
「ニャッ!!」
クロの耳が立った。
ダダダダッ! 一瞬でセリアの足元へ。
「ニャ! ニャ!」
尻尾を立てて、目を輝かせる。
セリアがヴァルグを見る。
「食欲ありますね」
『…………』
「ものすごくありますね」
『……念のため、もう一袋』
「ただ食べさせたいだけですよね?」
『違う』
「本当ですか?」
『黒猫様の御身体の状態を確認するためだ』
「じゃあ一粒で十分です」
『…………』
「ヴァルグ様?」
『……三粒』
「一粒です」
『二粒』
「何の交渉ですか」
クロは二人を交互に見る。
「ニャ?」
(カリカリまだかニャ?)
結局、一粒だけもらった。
サクッ。
「ニャ〜!」
完食。
セリアが頷く。
「やっぱり元気です」
『…………』
ヴァルグは、まだ納得していなかった。
『では、なぜくしゃみを』
「たぶん埃か何かでしょう」
『埃……?』
二人は、クロが先ほど遊んでいた場所を見る。発光苔、小さな岩、そして――クロが前脚で叩いていた、少し古い乾燥した苔。
セリアが指先で触れる。ふわっ。細かな粉が舞った。
「これですね」
『…………これが』
「鼻に入ったんでしょう」
『黒猫様を苦しめたのか』
「苦しめたというほどでは……」
ヴァルグの黄金の瞳が、細くなる。
『許せぬ』
「苔に怒らないでください」
『塵一つたりとも残さん』
「だから大げさですって」
だが、ヴァルグは本気だった。その日の午後、地下100階層【奈落の淵】では、SSSランク魔獣・深淵の暗黒竜ヴァルグによる、史上最大規模の大掃除が始まった。
『セリア! そちらの岩陰は確認したか!』
「しました!」
『もう一度だ!』
「十分綺麗です!」
『黒猫様の鼻へ入る可能性が一欠片でもある以上――』
「掃除しすぎて逆に埃が舞ってます!」
『何!?』
「ほら!」
「ニャ?」
クロは少し離れたところで、ころころ転がる小石を追いかけていた。
「ニャッ!」
ぺし。ころころ。
「ニャニャッ!」
本人だけは、いつも通りだった。
翌朝。セリアが目を覚ます。
ザッ。ザッ。ザッ。
「…………?」
何か音がする。セリアがクロの寝床の方を見る。
「……ヴァルグ様?」
『起こしたか』
巨大な暗黒竜が、前脚の爪先を信じられないほど器用に使い、クロの寝床周辺を掃除していた。
「何してるんですか?」
『清掃だ』
「見れば分かります」
『塵一つ残さぬ』
「昨日あれだけ掃除したじゃないですか」
『一晩経った』
「一晩しか経ってません」
『新たな塵が生じている可能性がある』
「ありませんよ」
『断言できるのか』
「少なくとも毎朝SSSランク暗黒竜が掃除する必要はありません」
ヴァルグの手が止まる。
『昨日』
「はい」
『黒猫様は苦しまれた』
「くしゃみ一回です」
『二度と繰り返してはならぬ』
「だから、くしゃみ一回ですって」
『我は誓ったのだ』
「いつですか」
『昨日だ』
「誰にですか」
『我自身に』
「知らないですよ」
その時。
「ニャ〜……」
クロが起きた。寝床から、のそのそと前脚を伸ばし、お尻を高く上げる。尻尾の白い先が、ぴん。
「ニャ」
ヴァルグが掃除を止める。
『黒猫様。おはようございます』
「おはようございます、クロ様」
「ニャ〜」
クロが二人の方へ歩いてくる。その瞬間、ヴァルグが動いたことで、巨大な翼の下に残っていたほんの僅かな埃が、ふわっと舞った。クロの鼻先へ。
「……ニャ?」
むず。
「ニャ……」
セリアの目が、細くなる。
「まさか」
「ニャ……ニャ……」
『黒猫様?』
「くしゅんっ!」
「…………」
『…………』
「ニャ?」
「…………ヴァルグ様」
『…………』
「原因、ヴァルグ様じゃないですか」
『…………』
「掃除しすぎです」
『…………』
「昨日より大きなくしゃみでしたよ」
『…………我が』
「はい」
『我が黒猫様を……』
ヴァルグの顔が、絶望に染まる。
「そこまで落ち込まなくても」
『黒猫様……! 申し訳ございませぬ……!』
巨大な頭を地面へ――ズンッ!!
「だから大げさですって!」
「ニャ!?」
突然謝られたクロは、何のことか分からない。とりあえず、目の前に降りてきたヴァルグの巨大な鼻先へ、すりっと身体を擦りつけた。
「ニャ〜」
『…………!』
ヴァルグの黄金の瞳が見開かれる。
『黒猫様……我をお許しくださるのですか……!』
「たぶん何も分かってません」
『なんという慈悲……!』
「聞いてます?」
「ニャ?」
クロは、やっぱり何も分かっていなかった。ただ、朝ご飯はまだかニャ、と思っていただけである。
(閑話 完)
ご覧いただきありがとうございます!
「面白い!」「クロ様がかわいい!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、
ページ下部の【ブックマークに追加】や、評価欄の【★★★★★】で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!
ぜひブックマークしてお待ちいただけると嬉しいです。




