第16話:黒猫様と、奇跡を買いに来た悪徳貴族
------------------------------
第一章:奇跡には、値段がある
------------------------------
王都には、金で買えないものなど存在しない。少なくとも――侯爵グレゴール・ヴァン・ベルツは、本気でそう信じていた。爵位。土地。名誉。忠誠。命。そして、奇跡。
「......欠損した手足すら再生し、不治の呪いさえ消し去る、か」
豪奢な馬車の中。グレゴールは報告書を閉じ、薄い笑みを浮かべた。最近、王都の裏側で囁かれている噂がある。ダンジョン最深部――地下100階層【奈落の淵】。そこには、世界を滅ぼすと恐れられる暗黒竜すら従える、一匹の黒猫がいる。その黒猫へ極上の食事を献上し、気に入られた者は、常識では説明できない奇跡を授かるという。
普通なら与太話と笑う。だがグレゴールは金を使って噂を調べた。重傷から生還した冒険者。不治の呪いから回復した者。欠損した身体を取り戻した魔族。失明から回復した付与術師。調べれば調べるほど、噂の中心には一匹の黒猫がいた。
「素晴らしい」
奇跡が本物なら、独占すればいい。病に苦しむ王侯貴族へ売る。老いた王も、死を恐れる大商人も、いくらでも金を出すだろう。
「たかが獣一匹で、これほどの富が生まれるとはな」
向かいには一人の青年が座っていた。名をノエルという。グレゴール家に仕える従者だった。二十代半ばほどだが、顔には年齢以上の疲労が刻まれている。頬は痩せ、手には無数の火傷と切り傷。右脚を僅かに引きずっていた。
「ノエル。例の餌は?」
「......こちらに」
ノエルが箱を差し出す。蓋を開けると、芳醇な香りが広がった。最高級の霜降り魔牛、希少な白レバー、香り高い山羊乳。それらを細かく挽き、何度も裏ごしし、低温でじっくり焼き上げた一口大のカリカリ。【王侯貴族御用達・霜降り魔牛のミルク焼きカリカリ】である。
「猫が食うのだろうな?」
「猫の好みについても調べました。塩分と香辛料は抑えてあります」
「ならいい。失敗したら、お前の給金から引いておけ」
「............はい」
三日三晩、ほとんど眠らずに作った。だがグレゴールにとってはどうでもいい。金を出したのは自分。ならば料理も、それによって得られる奇跡も、自分のもの。それが彼の常識だった。
--------------------------------
第二章:地下100階層の黒猫
--------------------------------
数時間後。グレゴール一行は、大金で集めた冒険者や魔道具を使い、強引にダンジョン深層へ潜っていた。最後は入手した情報をもとに転送罠を利用し――地下100階層【奈落の淵】へ到達する。
「こ、ここが......」
青白い発光苔。底知れぬ魔力。護衛たちが震える。
「何を怯えている」
グレゴールは鼻を鳴らした。
「お前が先へ行け」
「しかし旦那様、この先に何がいるか――」
「だから確かめるのだ。死んだところで代わりはいくらでもいる」
少し離れた岩陰。クロの寝床に敷く柔らかな苔を集めていたセリアが、その言葉に手を止めた。かつて自分も「商品」として扱われていた。セリアは何も言わない。ただ銀色の瞳が、ほんの少しだけ冷たくなった。
その時。ズズズズズ......。地面が震える。暗闇の奥で、二つの巨大な黄金の瞳が開いた。
『......何者だ』
山のような漆黒の巨体。SSSランク魔獣――深淵の暗黒竜ヴァルグ。護衛たちが次々と膝をつく。だがグレゴールは、恐怖に青ざめながらも目を輝かせた。
(本当だ)
この竜がいる。ならば噂も本物。
「猫はどこだ」
『............』
ヴァルグの瞳が細くなる。
『貴様、今なんと言った』
「噂の黒猫だ! 私はその黒猫に用がある!」
ヴァルグの周囲に凄まじい魔力が渦巻く。
『黒猫様を、そのように――』
「ニャ?」
小さな声。ヴァルグの魔力がぴたりと止まった。岩陰から、一匹の黒猫がとことこと歩いてくる。夜のような黒い毛並み。尻尾の先だけが白い。
「ニャー」
クロだった。グレゴールが固まる。クロを見る。ヴァルグを見る。もう一度クロを見る。
「......これが?」
「ニャ?」
(知らない人ニャ)
あまりにも普通の猫。だがヴァルグは、クロを見るなり巨大な頭を地面へ伏せた。
『黒猫様』
「ニャ〜」
クロは当然のように巨大な鼻先へ身体を擦りつける。グレゴールの目が輝いた。
(間違いない)
---------------------
第三章:所詮は獣
---------------------
「ノエル。例のものを出せ」
「はい」
ノエルが前へ出る。ヴァルグの黄金の瞳に見つめられ、足が震える。それでも料理の箱だけは傾けない。クロの前へ膝をつき、蓋を開けた。
ふわっ。
「......ニャッ!?」
クロの耳が立つ。鼻がひくひく動く。
「ニャニャッ!」
(いい匂いニャ!)
ノエルが小さな皿へカリカリを移す。クロが一粒を鼻先で確認し――ぱくっ。サクッ。
「............!」
(うまいニャ!!)
サクサク。はぐはぐ。噛むたびに魔牛の旨味と山羊乳の香りが広がる。
「ニャニャニャ!」
クロは夢中になった。グレゴールの口元が吊り上がる。
「ふん。所詮は獣か」
セリアの表情が曇る。ヴァルグの瞳がゆっくりとグレゴールへ向く。
『......貴様』
だが。
「ニャ!」
クロが顔を上げた。
(うまいニャー!)
『............』
黒猫様がお喜びになっている。ならば今は耐える。やがて皿が空になった。クロは最後の欠片まで綺麗に舐め取る。
「ニャ〜」
グレゴールが一歩前へ出た。
「さあ、来い」
「ニャ?」
「私がこの食事を用意した主人だ。噂通りなら、次は奇跡を授けるのだろう?」
クロは首を傾げる。
(何言ってるニャ?)
そして、とことこ歩き出す。
「そうだ。こちらへ――」
クロはグレゴールの前を素通りした。
「............は?」
そのままノエルのところへ。
「ニャ」
「......え?」
クロは鼻をひくひくさせる。
(この人から、さっきのカリカリの匂いがするニャ)
手にも。服にも。指先にも。
(これ作った人ニャ?)
「ニャ〜」
すりっ。ノエルの足へ身体を擦りつける。
「お、おい! そいつではない! 私だ!」
クロは聞いていない。ぺろ。ノエルの傷だらけの手を、一度舐めた。
---------------------------------
第四章:金を払ったのは私だ
---------------------------------
「............え?」
ノエルの身体が淡い光に包まれた。右脚の古傷。手の火傷。包丁傷。鞭の痕。身体に積み重なっていた傷が、淡い光の中で消えていく。
「脚が......」
ノエルは真っ直ぐ立った。痛くない。さらに、最深部に漂う香りが、これまでとは比較にならないほど鮮明に感じられる。発光苔。地下水。肉。乳。香草。どの素材が最も良い状態なのか。どの温度なら旨味を最大にできるのか。何と何を組み合わせれば香りが引き立つのか。食材そのものが語りかけてくるようだった。
ノエルの目から涙が落ちる。三日三晩、眠らず、殴られ、何度も作り直し、それでも最後だけは、食べる相手が美味しいと思ってくれるように手を抜かなかった。そして目の前の小さな黒猫は、作った人間まで見つけてくれた。
もちろんクロ本人は。
(おいしかったから、お礼ニャ)
それだけだった。
「ふざけるな!!」
グレゴールが怒鳴る。
「なぜそいつだ!」
「旦那様......」
「材料を買ったのは私だ! 金を払ったのも私だ! そいつは私の命令で作っただけだぞ!」
セリアが静かにグレゴールを見る。
「ならば、その奇跡も私のものだ!」
グレゴールがノエルへ手を伸ばす。だが、ノエルが一歩、後ろへ下がった。グレゴールの手が空を切る。
「......何?」
ノエル自身が一番驚いていた。今まで逆らったことなど一度もない。それでも、今は脚が痛くない。身体も重くない。ノエルは主人を見る。
「......旦那様」
「なんだ」
「私の料理を召し上がったのは、あの方です」
「だからどうした!」
「そして、お礼をくださったのも、あの方です」
ノエルはクロを見る。クロは何も知らない顔で前脚をぺろぺろ舐めている。
「あなたではありません」
静寂。
「き......貴様ァ!!」
グレゴールが腕を振り上げた。
ズンッ!!
空気が沈む。
『そこまでだ』
ヴァルグだった。声だけで、グレゴールの膝が床へ落ちる。
『黒猫様の御前で、これ以上騒ぐな』
「ひ......」
『次にその手を振り上げれば、腕ごと消す』
「............っ!」
グレゴールは何も言えなくなった。
------------------------------
第五章:買えなかったもの
------------------------------
やがてグレゴール一行は最深部を去ることになった。
「ノエル! 何をしている! 荷物を持て!」
「お断りします」
「............何?」
ノエルは初めて、はっきりと言った。
「私は、ここでお暇をいただきます」
「貴様......誰のおかげで今まで食えていたと思っている!」
「旦那様のおかげです。ですから、これまで働きました」
ノエルは頭を下げる。
「ですが、もう十分です」
「後悔するぞ!」
「そうかもしれません」
「私に逆らって王都で生きていけると思うな!」
「それでも構いません」
何を言っても、ノエルは戻らない。グレゴールは初めて理解した。金で雇った人間が、金を捨てて、自分から離れていく。
「くそっ......帰るぞ!」
残った護衛たちも慌てて後を追う。その背中へ。
「ニャー」
クロが鳴いた。グレゴールが振り返る。クロはただ座っている。
(カリカリの人、帰るのかニャ?)
クロにとってグレゴールは敵でも悪人でもない。ただの知らない人。美味しいカリカリを持ってきた一行の中にいた人。それだけだった。
「......覚えていろ。次は必ず、その奇跡を私のものに――」
『ほう』
ヴァルグの目が光る。
「............」
グレゴールは口を閉じ、逃げるように去っていった。
「ニャ?」
(変な人だったニャ)
------------------------------
終章:料理人ノエル
------------------------------
人々が去った後。ノエルだけが最深部に残っていた。
「......これから、どうするんですか?」
セリアが尋ねる。
「分かりません」
ノエルは苦笑した。
「勢いで辞めてしまいましたから」
王都へ戻れば、グレゴールが何をするか分からない。料理人として正式な修業をしたわけでもない。グレゴール家の従者として、主人の食事や夜食を作らされるうちに覚えただけだ。
「ですが」
ノエルは自分の手を見る。傷一つない。
「料理を......してみたいです」
「料理?」
「はい。今度は、命令されたものではなく」
クロを見る。
「食べてもらいたい相手のために」
「ニャ?」
ノエルはしゃがんだ。
「また、作ってもよろしいでしょうか」
「ニャ〜」
言葉など分からない。ただ、この人からさっきの美味しい匂いがする。だから――すりっ。クロはもう一度、ノエルの足へ身体を擦りつけた。
ノエルが笑う。その目から一滴だけ涙が落ちた。少し離れた場所で、セリアも小さく微笑む。ヴァルグは巨大な頭をゆっくりと伏せた。
『......黒猫様』
また一人、救われた。だが当のクロは、そんな大層なことなど何一つ考えていない。
「ニャー」
(さっきのカリカリ、もうないのかニャ?)
空になった皿を、ぺろぺろ。名残惜しそうに舐める。ノエルは涙を拭いながら笑った。
「......次は、もっと美味しく作ります」
クロの耳がぴくっ。
「ニャ?」
意味など分からない。けれど、なんとなく良いことを言われた気がした。クロは満足そうに尻尾の白い先を揺らすと、いつものようにヴァルグの巨大な頭へ登り、くるりと丸くなる。
数分後。
「すぴー......」
何事もなかったように眠り始めた。
奇跡を買いに来た男は、結局、奇跡を買うことができなかった。けれど、何一つ求めていなかった従者は、金では決して買えないものを、一匹の黒猫から受け取ったのである。
(第16話 完)
ご覧いただきありがとうございます!
「面白い!」「クロ様がかわいい!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、
ページ下部の【ブックマークに追加】や、評価欄の【★★★★★】で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!
ぜひブックマークしてお待ちいただけると嬉しいです。




