第15話:黒猫様、はじめてのお風呂(※神聖霊薬が生成されました)
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第一章:黒猫様の御毛に、異変あり
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地下100階層――【奈落の淵】。人類にとっては、一歩足を踏み入れただけで死を覚悟する絶望の最深部。かつては重苦しい魔気と死の気配に満ちていたその場所も、今ではすっかり様変わりしていた。
青白い発光苔が柔らかな光を落とし、磨かれた岩床の一角には、暗黒竜ヴァルグがクロのために整えたふかふかの寝床が置かれている。その中央で、一匹の小さな黒猫――クロが幸せそうに丸くなっていた。
「ふにゃぁ......」
クロは前脚をぺろぺろと舐め、その湿った肉球で顔をこする。右をぺろぺろ、左をぺろぺろと丁寧に洗い、続いて胸元へ顔を埋めた。
「............ニャ?」
クロの黄色い瞳が、すっと細くなった。
(なんか......ベタベタするニャ)
原因は、少し前に食べた東方の巫女ミコトの『至高の熟成蜂蜜焼きカリカリ』だった。黄金色に焼き上げられた、ほんのり甘く香ばしいビスケット風のカリカリを夢中で頬張った際、小さな欠片が胸元の毛に付着してしまったらしい。
クロはもう一度、念入りに舌を這わせた。ぺろぺろ、ぺろぺろぺろ。
「ニャァ......」
(取れないニャ......)
胸元の毛が、ほんの少しだけ束になっている。クロは気になって仕方がないらしく、何度も同じ場所を舐め続けた。
その異変に気づいたのは、銀髪のハイエルフ――セリアだった。奴隷の首輪から解放されて以降、セリアはこの最深部で暮らし、クロのブラッシングなど身の回りの世話をするようになっていた。
「......クロ様?」
彼女はクロの前に膝をつくと、白銀の髪を肩からさらりと流し、そっと胸元を覗き込んだ。
「ニャ?」
クロが顔を上げる。セリアは目を凝らし、そのまま固まった。
「............ヴァルグ様」
その声は、わずかに震えていた。
少し離れた場所にいた暗黒竜ヴァルグが振り返った。この時のヴァルグは人型ではなく、山のような漆黒の巨体を伏せ、クロがいつでも自分の頭へ登れるよう静かに待機していた。
『どうした、セリア』
地の底から響くような低い声に、セリアは青ざめた顔で告げた。
「大変です。クロ様の御毛に......汚れが」
『............なに?』
ずずずず……とヴァルグの巨大な頭部が動き、その動きだけで床が微かに震える。巨大な黄金の瞳が、クロの胸元へ向けられた。
『どこだ』
「胸元です。おそらく、先ほど召し上がった蜂蜜焼きカリカリの欠片が......」
『な、なんということだ......!』
ヴァルグの鱗が一斉に逆立った。
『我としたことが......黒猫様の神聖なる御毛が汚れるまで気づかぬとは......!』
「い、いえ! ほんの少しですから!」
『万死に値する......!』
「そこまでではありません!」
最深部を震わせるほど落ち込む暗黒竜。その目の前で、クロだけが不思議そうに首を傾げていた。
(ヴァルグ、なんで落ち込んでるニャ?)
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第二章:最高難度任務――黒猫様御入浴作戦
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しばらくして、セリアが言った。
「......洗って差し上げるのが、一番だと思います」
『洗う......?』
「はい。濡らした布で拭くだけでも落ちるとは思います。でも、せっかくですから一度きちんとお湯で御身体を綺麗にして差し上げてはどうでしょう」
ヴァルグの巨大な瞳が見開かれる。
『なるほど......御入浴か』
セリアが頷き、それから二人はクロのための湯浴みの準備を始めた。もっとも、人間が使うような巨大な浴槽ではクロには広すぎる。そこでセリアは、最深部に保管されていた滑らかな石を使い、クロがゆったり身体を浸けられる程度の小さな湯桶を用意した。
ヴァルグは巨大な爪の先を器用に使い、地下を流れる清水を汲み上げる。そこへ熱を加え、セリアが何度も指先で温度を確認した。熱すぎず、冷たすぎない、猫の身体にも優しいほんのり温かな湯に仕上げると、湯上がりに身体を包むための柔らかく乾いた布も重ねて用意した。
準備は完璧だった。白い湯気が、ふわりと立ち上る。
「クロ様」
セリアが微笑みながらクロを抱き上げる。
「少しだけ、お身体を綺麗にしましょうね」
「ニャ〜」
(セリアに抱っこされたニャ)
クロはご機嫌だった。温かな腕、優しく背中を撫でる指に、目を細めてゴロゴロと喉を鳴らす。だが、視界の先に湯桶が見えた瞬間――。
「............ニャ?」
喉の音が止まった。湯気。水面。ちゃぷん、と小さく揺れる水の音に、クロの瞳孔がすっと細くなる。
(............水?)
セリアが一歩近づくと、クロの耳が横へ倒れた。さらに一歩近づくと、尻尾がぶわっと膨らんだ。
「クロ様?」
セリアがクロを湯桶へ近づけようとした、その瞬間。
「フシャアアアアアアアッ!!」
「きゃっ!?」
最深部に響き渡る、黒猫様の怒りの咆哮。ヴァルグの巨体がびくりと震えた。
『な......なんということだ......!』
「ヴァルグ様!?」
『黒猫様がお怒りになられた......!』
世界を滅ぼすと恐れられた暗黒竜が、目に見えて狼狽する。
『この咆哮......まさか、我らは決して触れてはならぬ禁忌に......!』
違う。ただの風呂嫌いである。
(濡れるの嫌ニャアアアア!!)
クロはセリアの腕からするりと身体を抜くと、トンッと床へ着地し、ダダダダダッ!と黒い弾丸となって逃げ出した。
「クロ様!?」
ヴァルグが巨大な前脚を動かしかけ、すぐに止める。
『いかん! 黒猫様の御意思に逆らうことなどできぬ!』
「もちろんです! 無理やり入れるわけにはいきません!」
クロは少し離れた岩の上へ飛び乗ると、身体を低くした。尻尾はまだ膨らんだままだ。
「............ニャ」
(絶対入らないニャ)
セリアとヴァルグは顔を見合わせた。力ずくなど論外だ。そもそもクロには何者にも侵されない【絶対不可侵領域】があるし、何よりセリア自身、嫌がっているクロを無理やり湯へ沈めるつもりなどなかった。
『......どうすればよいのだ』
ヴァルグが絶望的な声を漏らした。地下100階層を支配してきたSSSランクの暗黒竜が、たった一匹の小さな猫を前に、完全に途方に暮れていた。
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第三章:セリアの小さな作戦
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しばらくクロを見つめていたセリアが、小さく声を上げた。
「......あ」
『何か思いついたのか?』
「うまくいくかは分かりません。でも......試してみます」
セリアは湯桶の前へしゃがみ、小さな木片を一つ手に取った。細い指先で魚のような形に整えると、ごく弱い風の魔法をまとわせる。ぽうっと木片が淡く光り、そっと水面へ置くと、ぷかりと小さな木の魚が浮かんだ。そして風に押され、すいーっと水面を横切っていく。
「............ニャ?」
クロの耳が立った。木の魚が右へ動けばクロの顔も右へ、左へ動けば顔も左へと釣られていく。お尻が、むずむずと揺れ始めた。
(なんだアイツ......動いてるニャ)
クロの黄色い瞳が、まん丸になった。身体が低くなり、後ろ脚が床を踏みしめる。尻尾の先だけが、左右へ小刻みに揺れ始めた。狩猟本能、点火である。
「ニャッ!」
先ほどまであれほど警戒していた湯桶へ、トトトトッと自分から近づいていく。
ヴァルグが息を呑んだ。
『おお......!』
「しーっ」
セリアが人差し指を口元へ当てると、ヴァルグは慌てて口を閉ざした。
木の魚が、水面をすいすいと泳ぐ。クロが湯桶の縁へ前脚を乗せた。
「ニャ......」
目の前を木の魚が通過した瞬間、クロの右前脚が上がった。ちょい、ピチャ――木の魚が逃げる。
「ニャッ!?」
(逃げたニャ!)
もう一度、ちょい、ピチャッ。また逃げられる。
「ニャニャッ!」
(こいつ!)
ピチャ、ピチャピチャ。いつの間にか、クロは水への警戒心をすっかり忘れていた。木の魚が少し遠くへ移動する。
「ニャッ!」
クロが身を乗り出す。あと少し、あと少し――つるっ。
「ニャ?」
ザブンッ!!
セリアが固まった。ヴァルグも固まった。そして、湯桶の中で、クロ自身も固まっていた。
「............ニャ?」
ちゃぷん。温かい。思っていたより、冷たくない。むしろ――。
(......あったかいニャ)
セリアはクロが飛び出さないことを確認してから、そっと背中へお湯をかけた。じんわりと温かな感触が全身を包む。
「ニャァ......」
横へ倒れていた耳が、少しずつ元へ戻っていく。セリアの指が首筋を、背中を、顎の下を、耳の後ろを優しく撫でていく。
「ふにゃぁぁぁ......」
クロの身体から力が抜けた。湯桶の縁へ顎を乗せ、すっかりくつろいでしまう。
(これ......意外と気持ちいいニャ......)
ゴロゴロゴロゴロ......。温かな湯気の中に、大きな喉鳴らしが響いた。
『おお......おおお......!』
ヴァルグの巨大な黄金の瞳に、感涙が浮かぶ。
『黒猫様が......自ら水へ御身を委ねられた......!』
「遊んでいるうちに落ちただけですけど......」
『セリアよ』
「はい?」
『力ではなく、御心を読み、遊戯によって御自ら決断なされるよう導くとは......見事である』
「い、いえ、そんな大げさな......」
『これほどまでに黒猫様の御心を理解するとは。さすが、日々御身の世話を任される者よ』
「ただ、動くものがお好きなのかなと思っただけなのですが......」
もちろん、ヴァルグの感動は止まらなかった。
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第四章:黒猫様より賜りし、謎の霊水
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やがて、クロの初めての入浴は無事に終了した。セリアは乾いた柔らかな布でクロを包み、わしゃわしゃと優しく水分を拭き取っていく。
「ニャ〜」
(さっぱりしたニャ)
濡れて細くなっていた漆黒の毛が、乾くにつれて少しずつふわふわと膨らんでいく。クロの毛並みは、入浴前よりもさらに柔らかく美しく整い、尻尾もふっさふさになった。
『......神々しい』
ヴァルグが呟いた。
『これが......清められし黒猫様......』
「ニャ?」
クロはそんな感想など気にも留めない。身体にまだ残っている湿り気が気になったのか、四本の脚を踏ん張ると――。
ブルブルブルブルッ!!
「わっ!?」
細かな水滴が周囲へ飛び散り、一滴がセリアの手の甲へ落ちる。
「......あれ?」
セリアが瞬きをした。そこには、先ほど木片を削った際につけた小さな擦り傷があった。放っておいてもすぐ治る程度の、ほんの浅い傷だ。
しかし、水滴が触れた瞬間――。
ぽうっと淡い光が走り、傷が消えていた。
「ヴァルグ様」
『どうした』
「傷が......」
セリアが手の甲を見せると、ヴァルグの黄金の瞳が細くなった。次の瞬間、二人が振り返った先――クロが浸かっていた湯桶の水面が、ごく淡い黄金色の光を帯びている。
『な......』
湯気がふわりと岩壁へ流れ、そこに生えていた弱りかけた発光苔に触れた瞬間、青白い光が強くなる。そして、ぽんと小さな白い花が一輪咲いた。
セリアとヴァルグは、無言でそれを見つめた。ヴァルグの巨大な身体が震え始める。
『まさか......』
「ヴァルグ様?」
『黒猫様は......このために......?』
「え?」
ヴァルグの瞳が、クロへ向けられる。
『御自身の神聖なる御身を水へ浸すことで、我らへ癒やしの水を授けられたというのか......!』
「いえ、最初はものすごく嫌がっておられましたけど」
『あれは我らを試されたのだ!』
「違うと思います」
『無理やり御身を水へ沈めるような愚か者には、この奇跡を授けぬという御試練......!』
「単純にお風呂が嫌だったのでは......」
『そしてセリアよ!』
「はい!?」
『そなたが慈愛をもって御心を理解したことで、黒猫様は御自ら聖水へ御身を委ねられた!』
「木の魚を追いかけて落ちただけです!」
しかし、ヴァルグはすでに聞いていなかった。巨大な頭を床へ伏せる。
『おお......黒猫様......! なんという慈悲......!』
その視線の先で、クロは自分の尻尾をぺろぺろと舐めていた。
(お風呂も悪くなかったニャ......でも疲れたニャ......お腹空いたニャ)
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終章:一滴の使い道
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数日後、ダンジョン街。エレナが営む、黒猫様への献上品を仕込む店――その地下に置かれた円卓を、異様な緊張が包んでいた。
ガルバ、エレナ、ヴァルザック、バラン、シルヴァ、ゴウガ。かつて黒猫様に救われ、今では献上品について本気で議論するようになった面々が、円卓の中央に置かれた一点を凝視している。
そこには、小さなガラス瓶が一本だけ置かれていた。中身は透明な液体。最深部から届けられた、クロが初めて湯浴みをした際の水――そのごく一部である。
ガルバの喉が鳴った。
「こ、これが......」
バランが髭を震わせる。
「黒猫様の御身体を清めたという......」
シルヴァが瓶を凝視する。
「傷を癒やし、弱った植物に花を咲かせた水......」
誰も手を伸ばさない。いや、伸ばせない。もし本当に聞いた通りの力があるなら、王侯貴族どころか、病に苦しむ者、傷を負った者、老いた者、権力者、商人――世界中の人間が欲しがるだろう。この小瓶一本を巡って、何が起きるか分からない。
「......どうする」
ゴウガが低い声で呟いた。沈黙。
「軽々しく使うわけにはいかねえな」
ガルバが腕を組む。
「当然だ」
ヴァルザックが険しい顔で頷いた。
「黒猫様より生じた奇跡を、我欲のために利用するなど言語道断」
「じゃが、保管しておくだけというのも......」
バランが唸り、全員が黙り込んだ。
その時。
「......決まっています」
静かな声が響いた。全員が振り返ると、そこにいたのはエレナだった。彼女は真剣な眼差しで、小さなガラス瓶を見つめている。
「この水が黒猫様より生じたものならば、黒猫様のために使うべきです」
エレナは両手を胸の前で組んだ。
「しかし、何に使う?」
ガルバが問う。
「カリカリを――」
ごくり、と全員が息を呑んだ。
「ふやかすのです」
一秒、二秒、三秒――沈黙のあと、ガルバの目が見開かれた。
「......それだ」
ヴァルザックが立ち上がる。
「それ以外にあるまい!」
バランが円卓を叩いた。
「黒猫様より賜った水を、黒猫様のカリカリへお返しする! 完璧な循環ではないか!」
「自然の理そのものじゃ......!」
シルヴァの目に涙が浮かぶ。ゴウガが静かに頷いた。
「異論はない」
「「「「「おおおおおおおおッ!!」」」」」
地下会議室が揺れた。
こうして、国家間の争いすら招きかねない謎の霊水は、黒猫様の夕食をふやかすために使用されることとなった。
その夜。地下100階層――【奈落の淵】。
「ニャニャッ!」
クロは、いつもより少しだけ香りの立った柔らかなカリカリへ、はぐはぐ、ぺちゃぺちゃと夢中で顔を突っ込んでいた。
「ニャ〜!」
(今日のカリカリ、なんかすっごく美味しいニャ!)
少し離れた場所では、セリアが嬉しそうに胸元で手を組んでいる。そしてその後ろで、暗黒竜ヴァルグが巨大な頭を床へ伏せ、感極まった様子でクロの食事を見守っていた。
『御自身が生み出された奇跡を、再び糧として御身へ還元なされるとは......』
「たぶん、そこまで考えていらっしゃらないと思います」
セリアが小声で呟く。クロは二人をちらりと見た。
「ニャ?」
(またヴァルグが感動してるニャ。まあいいか)
クロは尻尾の白い先端をゆらりと揺らすと、再び幸せそうにカリカリへ顔を突っ込むのだった。
(第15話 完)
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