赤い傘の踏切
雨の日だけ、閉まる踏切がある。
もう十年以上前に廃線になった、町外れの小さな踏切。
線路は錆び、枕木の間には雑草が伸び、遮断機のバーは片方だけ折れたまま残っている。近くに駅はなく、周りには古い住宅と、閉店した喫茶店と、月極駐車場しかない。
けれど、雨の夜。
午前零時十二分。
そこを通ると、鳴るはずのない警報音が鳴るという。
カン、カン、カン、カン。
赤いランプが点滅し、折れた遮断機がゆっくり下がる。
そして、線路の向こうに、赤い傘を差した女が立っている。
女は顔を上げない。
ただ、傘の下からこう尋ねる。
「ねえ、あの人に何て言ったの?」
答えてはいけない。
嘘をついてはいけない。
もし、その女の前で過去の嘘を隠そうとすれば、次の朝、あなたが一番守りたかった場所に、その嘘が届く。
だから地元の人間は、雨の夜、その踏切を通らない。
誰かに言えないことがある人間ほど、絶対に。
*
篠原莉子は、結婚式を三週間後に控えていた。
相手は、大学時代の同級生だった藤堂雅也。
広告会社勤務。
背が高く、誰にでも穏やかで、仕事もできる。
友人たちからは、ずっと言われてきた。
「莉子って本当に勝ち組だよね」
「雅也くん、優しいし、見た目もいいし」
「大学の時からお似合いだったもんね」
そのたびに莉子は、少し困ったように笑った。
「そんなことないよ」
そう言いながら、内心ではその言葉を何度も味わっていた。
勝ち組。
お似合い。
選ばれた女。
莉子は昔から、そう見られたかった。
派手に目立つタイプではなかった。
成績も、顔も、家柄も、何もかも中の上。
悪くはない。
けれど、誰かの一番にはなれない。
そんな自分が嫌いだった。
大学で雅也と出会った時、莉子は初めて「この人に選ばれたい」と思った。
そして、雅也の隣にはいつも別の女がいた。
小野寺春奈。
莉子の親友だった。
春奈はよく笑う子だった。
綺麗というより、目を引く子。
人の話を聞く時、少し身を乗り出す癖があった。雨の日には必ず赤い傘を差していた。安物の傘なのに、春奈が持つと妙に絵になった。
雅也は、春奈が好きだった。
誰が見ても分かった。
春奈も、たぶん雅也が好きだった。
それでも二人はなかなか付き合わなかった。
友達のままでいる時間が長すぎて、一歩踏み出せないように見えた。
莉子は、ずっとその横にいた。
相談に乗る親友として。
雅也の話を聞く女友達として。
二人がうまくいくように応援している顔をして。
本当は、ずっと待っていた。
どちらかが傷つく瞬間を。
*
春奈が死んだのは、大学四年の梅雨だった。
あの日も雨だった。
場所は、町外れの古い踏切。
まだその頃は廃線ではなかったが、一日に数本しか電車が通らない寂れた路線だった。
春奈は夜、そこで列車にはねられた。
事故か、自殺かは分からない。
警察は事故として処理した。
傘を差したまま踏切に入ったところ、足を滑らせたのだろうと。
大学では、しばらくその話で持ちきりになった。
春奈はどうしてあんな場所にいたのか。
誰かと会う約束をしていたのか。
何か悩んでいたのか。
その時、莉子は泣いた。
たくさん泣いた。
葬儀でも、誰よりも泣いた。
周りは言った。
「莉子、本当に春奈と仲良かったもんね」
「一番つらいよね」
「雅也くんもショックだろうけど、莉子も無理しないで」
莉子はその言葉に縋った。
親友を亡くしたかわいそうな女。
その立場に隠れれば、誰も莉子を責めなかった。
雅也も、傷ついていた。
春奈の死後、雅也はしばらく大学に来なくなった。
莉子は何度も連絡した。
『大丈夫?』
『無理しないで』
『春奈も、雅也が自分を責めるのは嫌だと思う』
最初は返事がなかった。
けれど、少しずつ雅也は返信するようになった。
莉子は、雅也の悲しみに寄り添った。
春奈の思い出を一緒に話し、泣き、励まし、そばにいた。
一年後、雅也と莉子は付き合い始めた。
誰も何も言わなかった。
むしろ、よかったねと言われた。
春奈もきっと喜んでいるよ、と。
その言葉を聞くたび、莉子は胸の奥で何かが冷えるのを感じた。
喜んでいるわけがない。
そんなことは、莉子自身が一番よく知っていた。
*
結婚式の招待状を出し終えた頃から、莉子のスマホに妙な通知が届くようになった。
最初は、知らないアカウントからのメッセージだった。
アイコンは赤い傘。
ユーザー名は、H。
『結婚するんだね』
莉子は、見た瞬間に削除した。
悪戯だ。
大学時代の誰かかもしれない。
春奈のことを知っている誰かが、面白がっているのだ。
そう思った。
翌日、また届いた。
『雅也には言った?』
莉子は胸がざわついた。
何を。
何を言ったというのか。
いや、言っていないことはある。
たくさんある。
けれど、証拠はない。
もう十年近く前の話だ。
誰も覚えていない。
覚えていたとしても、今さらどうしようもない。
莉子はブロックした。
三日目。
今度は、結婚式場の担当者から電話が来た。
『篠原様宛に、お届け物がありまして』
「届け物?」
『赤い傘です』
莉子は言葉を失った。
『お心当たりはございますか?』
「……ありません。処分してください」
『ただ、メッセージカードが』
「読み上げなくていいです」
声が強くなった。
電話の向こうの担当者が少し黙る。
『かしこまりました』
切ったあと、莉子はしばらく動けなかった。
雅也には言えなかった。
最近、春奈の名前で変な連絡が来る。
そう言えば、雅也は必ず聞く。
どうして春奈が?
何か心当たりがあるの?
その問いに、莉子は耐えられる気がしなかった。
*
心当たりは、ある。
春奈が死ぬ二日前。
莉子は、雅也に嘘をついた。
『春奈、他に好きな人がいるみたい』
大学近くのカフェだった。
雅也は驚いた顔をした。
『誰?』
『名前は聞いてない。でも、就職先の先輩って言ってた』
『春奈が?』
『うん。雅也には言いにくいって』
雅也は黙った。
莉子は、そこでやめればよかった。
けれど、止まらなかった。
『春奈って、優しいから。雅也を傷つけたくなくて曖昧にしてるんだと思う』
それは、もっともらしい嘘だった。
春奈が言いそうな優しさを借りた、ひどい嘘。
雅也はその日から、春奈と距離を置いた。
春奈は困惑した。
莉子に相談してきた。
『雅也、何か怒ってるのかな』
『分からない』
莉子は知らないふりをした。
『私、何かしたかな』
『春奈は何もしてないよ』
その言葉だけは、本当だった。
春奈は何もしていなかった。
そして、春奈が死ぬ前日。
莉子は春奈にも嘘をついた。
『雅也、しばらく春奈と距離置きたいって』
大学の廊下。
雨の日。
春奈は赤い傘を持っていた。
『どうして?』
『分からない。でも、春奈に期待させるのがつらいって』
『期待?』
『春奈のこと、恋愛対象としては見られないって言ってた』
春奈の顔が、少しずつ白くなった。
莉子は見ていた。
自分の言葉が、春奈の胸に刺さっていくのを。
それでも続けた。
『ごめん。言わないほうがよかったよね。でも、春奈が傷つく前に知っておいたほうがいいと思って』
春奈は笑った。
泣く前の、無理に作った笑顔。
『ありがとう、莉子』
そのありがとうが、今でも耳に残っている。
春奈はその夜、雅也に電話をかけたらしい。
雅也は出なかった。
春奈から距離を置きたかったのだと、あとから言っていた。
翌日、春奈は死んだ。
莉子は誰にも言わなかった。
自分が二人の間に嘘を置いたことを。
*
式の打ち合わせの帰り道、雨が降り出した。
雅也は仕事で来られず、その日は莉子一人だった。
式場の担当者と最終確認をし、引き出物の数を調整し、席次表の修正をした。
幸せなはずなのに、帰りの電車で莉子はずっと落ち着かなかった。
スマホには、また赤い傘のアカウントからメッセージが来ていた。
ブロックしたはずなのに。
『今日、通るよね』
莉子は画面を閉じた。
何を。
どこを。
そう思った瞬間、車内アナウンスが流れた。
『次は、北町。北町です』
莉子の心臓が跳ねた。
北町。
春奈が死んだ踏切のある町。
今日は本来、そこで降りる予定ではなかった。
けれど、雨の影響で乗っていた路線が遅れ、乗り換え案内が変わっていた。
北町で降り、タクシーに乗ったほうが早い。
スマホの乗換案内は、そう表示している。
莉子は迷った。
次の駅まで行けばいい。
遠回りでもいい。
そう思った。
だが、車内は混んでいて、雨に濡れた人々の匂いがこもっていた。頭が痛い。早く帰りたい。明日も仕事がある。
春奈の踏切なんて、駅から離れている。
わざわざ通らなければいいだけだ。
莉子は北町で降りた。
タクシー乗り場には長い列ができていた。
雨は強くなる。
スマホの地図を見ると、駅の裏手を抜ける道が表示された。
古い踏切の近くを通る道。
そこを抜ければ、大通りに出られる。
莉子は傘を開いた。
白い傘。
結婚式の打ち合わせ用に買った、上品な傘だった。
雨の夜の町は、記憶より暗かった。
閉店した商店。
濡れたアスファルト。
点滅する街灯。
そして、踏切。
もう使われていないはずの線路。
錆びた警報機。
折れた遮断機。
莉子は足を止めた。
通らない。
別の道へ行こう。
そう思った瞬間。
カン、カン、カン、カン。
警報音が鳴った。
莉子は傘の柄を握りしめた。
赤いランプが点滅している。
折れているはずの遮断機が、ぎい、と音を立てて少しだけ下がった。
線路の向こう。
赤い傘を差した女が立っていた。
*
顔は見えない。
傘の下で、女はうつむいている。
雨が赤い傘を叩く音だけが、妙にはっきり聞こえた。
莉子は後ずさった。
踏切の警報音は鳴り続けている。
カン、カン、カン、カン。
女が言った。
「ねえ」
春奈の声だった。
「雅也に、何て言ったの?」
莉子は息を止めた。
答えてはいけない。
嘘をついてはいけない。
噂を思い出す。
でも、こんなのはありえない。
春奈は死んだ。
十年近く前に。
これは悪戯だ。
誰かが春奈の声を真似しているだけ。
「誰?」
莉子は震える声で言った。
「誰なの?」
赤い傘の女は、少しだけ首を傾げた。
「莉子」
その呼び方で、もう駄目だった。
春奈はいつも、莉子の名前を少し柔らかく呼んだ。
怒っている時も、困っている時も。
親友だったから。
「雅也に、何て言ったの?」
「何も」
反射的に答えていた。
赤いランプが一瞬、強く光った。
警報音が大きくなる。
カン、カン、カン、カン。
「嘘」
春奈の声は静かだった。
「また嘘」
「違う!」
「私には、何て言ったの?」
莉子の足元で、水たまりが揺れた。
そこに、十年前の自分が映った。
大学の廊下。
雨の日。
赤い傘を持つ春奈。
その前で、莉子が言っている。
『雅也、春奈のこと恋愛対象としては見られないって』
水たまりの映像が乱れる。
次に、カフェ。
雅也の前で莉子が言う。
『春奈、他に好きな人がいるみたい』
莉子は傘を落とした。
「やめて……」
「どうして?」
春奈の声が近づいた。
赤い傘の女は、線路の向こうにいるはずなのに。
声だけが耳元に来る。
「私、莉子に何かした?」
莉子は首を振った。
春奈は何もしていない。
何もしていなかった。
ただ、雅也に好かれていただけ。
ただ、莉子より先に選ばれそうだっただけ。
「莉子」
春奈が言った。
「私、本当に雅也のこと好きだったんだよ」
その言葉に、莉子の胸がひどく痛んだ。
知っていた。
知っていたから、壊した。
「でも、莉子のことも好きだった」
やめて。
そう思った。
責めてくれたほうがよかった。
恨んでいると言ってくれたほうが、まだ言い返せた。
「だから、分からなかった」
春奈の声は、雨に滲んでいる。
「雅也に避けられて、莉子にああ言われて、私、何を信じればいいか分からなかった」
踏切の向こうから、古い電車の音が聞こえた。
廃線なのに。
もう電車など来ないはずなのに。
遠くから、鉄の軋む音が近づいてくる。
莉子は叫んだ。
「私は殺してない!」
赤い傘の女は黙った。
「春奈が勝手にあそこに行ったんでしょ! 私は嘘をついただけ。そんなことで死ぬなんて思わなかった!」
言った瞬間、自分の声が雨の中に裸で落ちた。
嘘をついただけ。
そんなことで。
莉子は口を押さえた。
春奈は、ゆっくり顔を上げた。
傘の下にあったのは、血まみれの顔ではなかった。
潰れた顔でも、恨みに歪んだ顔でもない。
大学時代のままの春奈だった。
少し悲しそうで、少し困ったような顔。
「うん」
春奈は言った。
「莉子は、私を殺してない」
その一言が、莉子を救うことはなかった。
「でも、私が最後に信じていたものを、全部嘘にした」
莉子は膝から崩れ落ちた。
警報音が止まらない。
スマホが震えた。
画面には、投稿サイト「夜見帳」の編集画面が開いている。
開いた覚えはない。
タイトル欄には、すでに文字が入っていた。
赤い傘の踏切。
本文欄に、文字が入力され始める。
私は、親友に嘘をついた。
親友の好きな人に、親友には別に好きな人がいると嘘をついた。
親友には、その人があなたを恋愛対象として見られないと言った。
どちらも嘘だった。
理由は、嫉妬だった。
私は親友の隣にいる男がほしかった。
親友の明るさが嫌いだった。
親友が悪気なく人に好かれることが、許せなかった。
「やめて……」
莉子はスマホを叩いた。
画面は割れない。
文字は止まらない。
私は親友の死後、泣いた。
親友を失ったかわいそうな女として、彼のそばにいた。
彼の悲しみに寄り添いながら、本当はその悲しみを利用した。
私は、彼と結婚する。
でも彼は知らない。
自分がかつて好きだった人との間に、私がどんな嘘を置いたのかを。
莉子は泣きながら首を振った。
「お願い、春奈。結婚式だけは……」
春奈は、線路の向こうで静かに言った。
「私は、式に呼ばれてないよ」
莉子は息を呑んだ。
招待状。
春奈の名前はもちろんない。
当たり前だ。
死んでいるのだから。
けれど、大学時代の友人たちは何人も呼んだ。
春奈の思い出話をする人もいるだろう。
きっと誰かが言う。
春奈も喜んでるね。
その言葉を、莉子はまた黙って受け取るつもりだった。
スマホの画面に最後の一文が入力された。
春奈が喜んでいるかどうかなんて、私は一度も考えていなかった。
春奈がいない世界で、自分が選ばれた女として幸せになることだけを考えていた。
投稿ボタンが押された。
*
警報音が止まった。
赤いランプも消えた。
莉子が顔を上げると、踏切の向こうに春奈はいなかった。
赤い傘だけが、線路脇に落ちていた。
莉子は立ち上がり、ふらふらと歩いて傘を拾った。
濡れているのに、妙に軽かった。
その内側に、黒いマジックで文字が書かれていた。
莉子へ。
字は、春奈のものだった。
莉子は傘を放り出し、走った。
家に着いた時には、雅也から何度も着信が入っていた。
友人たちからも。
式場からも。
投稿は、すでに拡散されていた。
匿名掲示板にも、大学時代の友人グループにも、結婚式の出席者の間にも。
夜見帳の記事は、誰かがスクリーンショットを撮っていた。
削除できない。
スマホを震える手で開くと、雅也からメッセージが来ていた。
『本当なのか』
それだけだった。
莉子は何度も返信を書こうとした。
違う。
誤解。
昔のこと。
春奈の死とは関係ない。
どれも打っては消した。
嘘を重ねることだけは、もうできなかった。
やがて雅也から、もう一通届いた。
『春奈から、あの日電話が来ていた。俺は出なかった。莉子から聞いた話を信じていたから』
莉子は画面を見つめた。
『俺も、春奈に謝らなきゃいけない』
それを読んだ時、莉子は初めて、自分だけが悪者になることに耐えられないと思った。
まただ。
自分はまだ、罪の重さよりも、自分がどう見られるかを気にしている。
そのことに気づいて、吐き気がした。
*
結婚式は延期になった。
雅也とは、話し合いになった。
別れるかどうかは、すぐには決まらなかった。
雅也にも春奈への後悔があった。
莉子への怒りもあった。
自分が春奈の電話に出なかったことへの罪悪感もあった。
二人の関係は、式場の花のように簡単には片づかなかった。
大学時代の友人たちからは、ほとんど連絡が来なくなった。
何人かは、厳しい言葉を送ってきた。
『春奈の親友の顔してたのが一番怖い』
『雅也くんと結婚する前に分かってよかった』
『でも、私たちも何も知らずに春奈も喜んでるとか言ってた。ごめん』
最後のメッセージが、莉子には一番つらかった。
責められるよりも、誰かが自分の言葉を反省することのほうが痛かった。
自分だけが、ずっと反省しない側にいたのだと思い知らされるから。
*
数日後、投稿サイト「夜見帳」に掲載された「赤い傘の踏切」は、さらに読まれていた。
コメント欄には、さまざまな声が並んだ。
『恋愛ホラーかと思ったら人怖だった』
『こういう女、普通にいる』
『親友のふりして一番近くで壊すの怖すぎる』
『でも雅也も電話出なかったんだよな』
『春奈が最後まで怒鳴らないのがきつい』
『赤い傘ってだけでもう怖い』
その中に、一件だけ、赤い傘のアイコンからコメントがついた。
『雨の日は、本当のことがよく聞こえる』
そのコメントは、数分後に消えた。
北町の踏切は、今も残っている。
廃線の撤去工事は何度か計画されたが、そのたびに雨で延期になったという。
地元の人間は、今でも雨の夜にそこを通らない。
午前零時十二分。
カン、カン、カン、カン。
鳴るはずのない警報音が鳴り、赤いランプが点滅する。
線路の向こうに、赤い傘を差した女が立っている。
もし彼女に尋ねられたら。
「ねえ、あの人に何て言ったの?」
その時は、嘘をついてはいけない。
雨の日の踏切では、言葉は濡れて重くなる。
軽い嘘のつもりで投げたものでも、誰かの胸に沈んで、そのまま二度と浮かんでこないことがある。
そして、あなたが忘れたふりをしても。
赤い傘の下の誰かは、ずっと覚えている。




