存在しない十一階
そのオフィスビルには、十一階がない。
一階から十階までが低層テナント。
十二階から上は大手企業のオフィス。
建物の案内板を見ても、エレベーターのボタンを見ても、十一階という表示は存在しない。
けれど、終電後。
午前一時十一分。
誰も乗っていないはずのエレベーターが、勝手に動くことがある。
表示パネルに、存在しない数字が灯る。
11。
そのエレベーターに乗ってしまった人間は、降りるまでに必ず誰かの声を聞く。
昔、同じビルで消えた人間。
辞めた人間。
壊れた人間。
死んだ人間。
その声は、助けを求めるわけではない。
恨み言を並べるわけでもない。
ただ、最後に言えなかった言葉を、静かに繰り返す。
そして十一階で扉が開いた時。
そこには、その人が踏みつけて上へ行った誰かが待っている。
*
神崎美緒は、人事部の女だった。
年齢は三十八。
肩書きは、人事企画室マネージャー。
社内では、よくこう言われていた。
「神崎さんはバランス感覚がある」
「感情的にならない」
「会社側の事情も、社員側の気持ちも分かってくれる」
美緒は、その評価が嫌いではなかった。
むしろ、誇りに思っていた。
会社で生き残るには、正しさだけでは足りない。
声の大きな社員に振り回されてもいけない。
経営陣の言い分を丸呑みにしてもいけない。
その間に立ち、誰も完全には満足しないが、全員がギリギリ飲み込める線を探す。
それが人事の仕事だと、美緒は思っていた。
もちろん、それは綺麗な言い方だ。
本当はもっと濁っている。
揉め事を大きくしない。
会社の評判を守る。
上に報告する前に火を消す。
社員の訴えを聞きながら、どこまでなら握り潰せるか判断する。
美緒は、そういう仕事を何度もしてきた。
泣く社員もいた。
怒鳴る社員もいた。
退職していく社員もいた。
けれど、会社は回り続けた。
美緒の評価も上がり続けた。
だから、間違っていないと思っていた。
少なくとも、あの子が死ぬまでは。
*
あの子の名前は、相原菜月といった。
新卒三年目。
営業企画部。
小柄で、声が少し小さく、けれど資料の作り方が丁寧な子だった。
入社時の面談で、美緒は一度だけ菜月と話したことがある。
「緊張していますか?」
「はい。すごく」
菜月は正直に答えた。
「でも、頑張りたいです。まだ何ができるか分からないんですけど、この会社の商品、昔から好きだったので」
そう言って笑った顔を、美緒はよく覚えている。
最初は、普通の若手だった。
真面目で、少し不器用で、でも悪くない。
そういう印象だった。
問題が起きたのは、菜月が営業企画部の新規キャンペーンチームに配属されてからだ。
直属の上司は、黒川部長。
社内でも有名なやり手だった。
数字を作る。
上層部への根回しが上手い。
外部との折衝も強い。
ただし、部下には厳しい。
厳しいという言葉は、便利だった。
声を荒げる。
深夜まで修正をさせる。
会議で人格ごと否定する。
休日にも連絡する。
それでも成果が出れば、会社は「厳しい」で済ませた。
菜月は、その黒川の下で少しずつ痩せていった。
最初に相談に来たのは、雨の火曜日だった。
美緒はその日、三件の面談を抱えていた。
うち二件は退職希望者。
残り一件が菜月だった。
面談室に入ってきた菜月は、スーツの肩が落ちていた。
目の下に濃い影がある。
「眠れていますか?」
美緒が聞くと、菜月は少し笑った。
「最近、あんまり」
「業務量が多い?」
「それもあります。でも……」
菜月はそこで言葉を止めた。
「黒川部長のことでしょうか」
美緒が先に言うと、菜月は驚いたように顔を上げた。
そう。
美緒は知っていた。
黒川の下で若手が潰れやすいこと。
部内の空気が悪いこと。
過去にも何人かが異動を希望したこと。
けれど、黒川は数字を持っていた。
経営陣からの評価も高い。
多少の軋轢は、どこの部署にもある。
そう処理されてきた。
「何か、具体的に困っていることがあれば教えてください」
美緒はいつもの声で言った。
菜月は膝の上で手を握った。
「会議で、私だけ名指しで叱られます。資料を出しても、どうせ相原の資料は使えないって言われて。深夜に修正指示が来て、朝までに出せって」
「残業時間は記録していますか?」
「つけています。でも、黒川部長に、勉強時間は残業じゃないって」
「なるほど」
美緒はメモを取った。
なるほど。
便利な言葉だ。
自分の感情を挟まないために使える。
相手はその一言に縋る。
理解されたと思う。
美緒はそれを知っていた。
菜月は鞄から小さなノートを出した。
「言われたこと、書いてます」
「見せてもらっても?」
菜月は迷ったあと、ノートを差し出した。
そこには、黒川の発言が日付つきで書かれていた。
『お前の代わりはいくらでもいる』
『女だから甘やかされてきたんだろ』
『相原の顔を見るとプロジェクトが遅れる気がする』
『辞めたいなら辞めろ。ただし逃げた人間として記録に残るぞ』
美緒はページをめくりながら、胃の奥が重くなるのを感じた。
これは、まずい。
訴えられれば、会社は不利になる。
そう最初に思った。
菜月の心配より先に。
美緒はそのことを、今でも覚えている。
「証拠として預かってもいいですか」
菜月は顔を上げた。
「ちゃんと、対応してもらえますか」
「もちろんです。まずは事実確認をします」
「異動したいです」
その声は、小さかった。
けれど切実だった。
「もう、黒川部長の下には戻りたくありません」
美緒はうなずいた。
「分かりました。選択肢として検討します」
検討します。
それも便利な言葉だった。
*
美緒は黒川に事情を聞いた。
黒川は最初、笑った。
「ああ、相原ね。最近の若い子って打たれ弱いから」
「発言について、いくつか確認したいことがあります」
「神崎さんまで真に受けないでよ。あの子、注意されるとすぐ被害者顔するから」
黒川は余裕だった。
自分が守られていると分かっている人間の顔だった。
美緒は腹が立った。
腹は立ったが、それを表には出さなかった。
「相原さんは、異動を希望しています」
「今抜けられたら困るよ。新規キャンペーンのローンチ前だよ?」
「ただ、このままでは本人の体調面が」
「じゃあ休職させればいい」
黒川はあっさり言った。
「異動は困る。今のタイミングでパワハラ疑いで若手を異動させたら、俺に傷がつく」
「発言内容については」
「全部、指導の範囲。多少きつい言い方はしたかもしれない。でも成果を出すためだよ」
その言葉も、何度も聞いてきた。
指導の範囲。
成果のため。
期待しているから厳しくする。
そう言えば、暴力に似た言葉も少しだけ正当化される。
美緒は面談記録を書いた。
その後、上司に報告した。
上司は眉をひそめた。
「黒川か……」
「本人は異動を希望しています」
「今は難しいな」
「ですが、記録を見る限り、かなり危険です」
「分かるよ。でも、キャンペーン前に黒川のチームから人を抜くのは現実的じゃない。まずは黒川に注意して、相原さんには産業医面談を入れよう」
「本人は戻りたくないと」
「そこは神崎さんがうまく話して」
うまく話して。
つまり、飲み込ませろという意味だった。
美緒はうなずいた。
「分かりました」
あの時、分かりましたと言わなければよかった。
何度もそう思った。
けれど当時の美緒は、言った。
そのほうが波風が立たないから。
*
菜月との二度目の面談は、金曜日の夜だった。
菜月は期待した顔で来た。
その顔を見た瞬間、美緒は少しだけ視線を逸らした。
「結論から言うと、すぐの異動は難しいです」
菜月の表情が固まった。
「……どうしてですか」
「プロジェクトの時期的な問題があります。ただ、黒川部長には指導方法について注意をしました。産業医面談も設定します」
「戻れってことですか」
「段階的に環境改善を」
「戻れってことですよね」
菜月の声は震えていた。
「神崎さん、ノート見ましたよね」
「見ました」
「私、嘘ついてません」
「分かっています」
「だったら、どうして」
その問いに、美緒は正面から答えられなかった。
会社の事情。
組織のバランス。
影響範囲。
すべて、菜月には関係ない。
関係ないはずだった。
でも、美緒はそれを優先した。
「相原さんの安全は最優先で考えます」
自分で言いながら、空っぽな言葉だと思った。
菜月もそう思ったのだろう。
笑った。
泣くよりも痛い笑い方だった。
「安全って、どこにあるんですか」
美緒は何も言えなかった。
菜月は立ち上がった。
「ノート、返してください」
「これは、調査資料として」
「返してください」
「コピーを取ってから」
「原本を返してください」
美緒は少し迷った。
だが、原本を返した。
菜月はノートを鞄にしまい、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
その言葉が、最後だった。
翌週、菜月は会社に来なかった。
二週間後、休職扱いになった。
三か月後、退職した。
そして半年後、亡くなった。
自宅マンションから転落したと聞いた。
遺書はなかった。
黒川は厳重注意で済んだ。
新規キャンペーンは成功した。
美緒は、人事トラブルを最小限に抑えたとして評価された。
その翌年、マネージャーに昇進した。
*
あれから五年。
黒川は役員になった。
美緒は人事企画室の中心人物になった。
会社は成長した。
菜月の名前を出す人間は、もうほとんどいない。
社内データベースには退職者として残っている。
それだけだ。
その夜、美緒は久しぶりに終電を逃した。
役員会向けの資料修正。
人事制度改定の説明文。
若手社員の離職率をどう見せるか。
数字は、見せ方で印象が変わる。
嘘ではない。
ただ、痛みの輪郭をぼかす。
それも人事の仕事だ。
午前一時過ぎ、オフィスにはほとんど誰もいなかった。
美緒はノートパソコンを閉じ、肩を回した。
エレベーターホールへ向かう。
廊下の照明は半分落とされている。
受付の観葉植物の影が、壁に黒く伸びていた。
エレベーターのボタンを押す。
下向きのランプがつく。
しばらくして、扉が開いた。
中は無人だった。
美緒は乗り込む。
一階のボタンを押す。
扉が閉まる。
下降する感覚。
スマホを見る。
午前一時十一分。
その瞬間、エレベーターが止まった。
「え?」
表示パネルを見る。
11。
美緒は眉をひそめた。
このビルに十一階はない。
十二階の下は十階だ。
表示の故障だろう。
そう思った。
だが、背後で電子音が鳴った。
チン。
扉が開く。
そこに、廊下があった。
白い壁。
灰色のカーペット。
古い蛍光灯。
そして、見覚えのある面談室。
人事部の面談室だった。
五年前の。
美緒は動けなかった。
扉の外から、声が聞こえる。
「眠れていますか?」
自分の声。
続いて、菜月の声。
「あんまり」
美緒の喉が詰まった。
廊下の先の面談室の扉が、少し開いている。
行きたくない。
だが、エレベーターの扉は閉まらない。
戻るボタンを押しても反応しない。
廊下の空気が、ゆっくりとエレベーターの中へ流れ込んでくる。
湿った紙と、冷めたコーヒーの匂い。
美緒は一歩、外へ出た。
*
面談室の中には、五年前の美緒と菜月が座っていた。
過去の映像のように、こちらには気づかない。
テーブルの上に、菜月のノート。
若い菜月は、膝の上で手を握っている。
『異動したいです』
『分かりました。選択肢として検討します』
その言葉を聞いて、美緒は胸が痛くなった。
検討などしていなかった。
いや、した。
形式上は。
だが本気で菜月を逃がすつもりがあったかと言われれば、違う。
黒川を怒らせたくなかった。
上司に面倒だと思われたくなかった。
自分の評価を傷つけたくなかった。
若い美緒は、丁寧にメモを取っている。
その姿が、ひどく冷たく見えた。
「やめて」
今の美緒は呟いた。
すると、面談室の奥から声がした。
「何をですか」
菜月がこちらを見ていた。
過去の映像ではない。
今の美緒を見ている。
五年前と同じスーツ。
痩せた頬。
目の下の影。
けれど、その目だけが妙にはっきりしていた。
「相原さん……」
「やめてほしかったのは、私です」
菜月は静かに言った。
「戻さないでほしかった」
美緒は言葉を探した。
「私は、会社の中でできることを」
「しましたか?」
菜月の声は小さかった。
なのに逃げ場がなかった。
「本当に、できることをしましたか?」
「……黒川部長には注意を」
「私を戻すための注意ですか」
美緒は黙った。
「産業医面談も設定しました」
「私が壊れたあとに、壊れた証明をするための面談ですか」
「そんなつもりじゃ」
「じゃあ、どんなつもりでしたか」
菜月は首を傾げた。
「私は、助けてくださいって言いましたよね」
その言葉は、面談記録には残っていない。
美緒が書かなかったからだ。
菜月は確かに言った。
助けてください。
あの時、美緒は聞こえないふりをした。
記録に残しにくい言葉だったから。
感情的すぎると判断したから。
そして何より、残してしまえば本当に助けなければならなくなるから。
面談室の壁がゆっくり歪んだ。
ホワイトボードに、文字が浮かび上がる。
相原菜月。
相談履歴。
面談記録。
産業医面談。
休職。
退職。
死亡。
死亡の二文字だけが、赤く滲んでいた。
美緒は目をそらした。
「私は、あなたを殺したわけじゃない」
言ってから、自分でも嫌になった。
それは五年前から、心の中で何度も繰り返してきた言い訳だった。
私は殺していない。
直接突き落としたわけではない。
罵倒したのは黒川だ。
戻れと言ったのは会社だ。
美緒は調整しただけ。
それだけだ。
菜月はうなずいた。
「はい。神崎さんは、私を殺していません」
その素直な肯定が、美緒を余計に追い詰めた。
「でも」
菜月はテーブルの上に置かれたノートを指でなぞった。
「私は、神崎さんに助けてほしかったです」
美緒は顔を歪めた。
「ごめんなさい」
「その言葉も、記録に残しますか?」
菜月は少しだけ笑った。
美緒は何も言えなかった。
*
エレベーターの電子音が鳴った。
チン。
面談室の扉が消え、廊下の先に別の場所が現れた。
役員会議室。
黒川がいる。
当時の上司もいる。
美緒もいる。
菜月の件について話している。
『相原さんの件、外部に出るとまずいな』
『本人は退職希望で進めましょう』
『パワハラ認定は避けたい』
『黒川さんには口頭注意で』
『神崎さん、記録の表現を調整してくれる?』
過去の美緒がうなずく。
『はい。本人の体調不良と職務適応の問題を中心にまとめます』
今の美緒は目を閉じた。
覚えている。
その文言を作ったのは自分だ。
黒川の発言を薄めた。
菜月の訴えを「主観的な負担感」と書いた。
助けてください、という言葉を消した。
会社の責任を曖昧にするために。
そして、その書類は人事記録として残った。
菜月が壊れた理由を、菜月自身の弱さのように見せる書類として。
会議室の黒川が笑う。
『神崎さんは話が分かるから助かるよ』
その声を聞いた瞬間、美緒は吐き気を覚えた。
あの時は、評価されたと思った。
役員候補に貸しを作れたと思った。
自分が組織の中で一段上がった気がした。
菜月の訴えを踏み台にして。
「見たくない」
美緒は呟いた。
菜月は隣に立っていた。
「私は毎日見ていました」
「何を」
「自分が壊れていくところです」
菜月は廊下の先を見た。
「でも、会社では見えないことにされました」
表示パネルの数字がまた光った。
11。
エレベーターは動いていないはずなのに、落ちていくような感覚があった。
*
次に扉が開いたのは、屋上だった。
夜風が吹いている。
遠くに街の明かり。
足元には、菜月のパンプスが揃えて置かれていた。
美緒は息を止めた。
菜月が亡くなったマンションの屋上。
実際に来たことはない。
それなのに、なぜか分かった。
菜月は柵の近くに立っていた。
背中を向けている。
「相原さん」
呼ぶと、菜月は振り返った。
泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、疲れていた。
「神崎さん」
「やめて」
美緒は思わず言った。
菜月は少し困ったように笑った。
「もう、終わっています」
「でも、私は」
「助けられません」
その言葉が、冷たい風の中に落ちた。
「ここは、神崎さんが助けに来る場所じゃありません」
「じゃあ、何のために」
「見るためです」
「何を」
「神崎さんが見ないようにした最後を」
菜月は柵に手をかけた。
美緒は駆け寄ろうとした。
足が動かない。
床に縫いつけられたようだった。
「相原さん!」
「私、最後まで迷ってました」
菜月は街の明かりを見下ろした。
「死にたかったんじゃないです。ただ、明日会社に行かなくてもいい理由がほしかった」
美緒の喉から、声にならない息が漏れた。
「休めばよかった」
「休んだら、迷惑だと思いました」
「退職すれば」
「逃げたって記録に残るって、黒川部長に言われました」
「そんなの、気にしなくてよかった」
菜月は振り返った。
「気にしなくていいって、あの時言ってほしかったです」
美緒の胸が崩れた。
そうだ。
言えたはずだった。
逃げていい。
会社よりあなたの命が大事。
黒川の評価なんか気にしなくていい。
記録なんて、こちらで何とかする。
そんな当たり前の言葉を、なぜ言わなかったのか。
人事として中立でいるため?
会社の立場があるから?
違う。
言えば、自分が責任を負わなければならないからだ。
菜月の命を受け止めるほどの覚悟が、美緒にはなかった。
菜月は柵の向こうへ足をかけた。
「やめて!」
美緒は叫んだ。
だが、菜月は落ちなかった。
代わりに、屋上の床にスマホが現れた。
美緒のスマホ。
画面には投稿サイト「夜見帳」の編集画面が開いていた。
タイトル欄。
存在しない十一階。
本文欄には、カーソルが点滅している。
菜月は言った。
「今度は、記録してください」
「……何を」
「消した言葉を」
美緒は震える手でスマホを取った。
文字が勝手に入力され始める。
私は、人事の立場を使って、一人の社員の訴えを薄めました。
彼女は助けてくださいと言いました。
私はその言葉を記録に残しませんでした。
会社の評判と、役員の機嫌と、自分の評価を守るために。
彼女の訴えを、主観的な負担感と書き換えました。
上司の暴言を、指導上の強い表現としました。
異動希望を、本人の適応課題として処理しました。
美緒は涙を拭わなかった。
拭う資格がないと思ったからではない。
ただ、スマホから手を離せなかった。
文章は続いた。
私は彼女を殺していません。
けれど、彼女が生きるために必要だった逃げ道を、私は会社の都合で塞ぎました。
人事は人を守る部署だと語りながら、私は組織を守りました。
彼女の名前を、退職者一覧の一行にしました。
そして自分は昇進しました。
投稿ボタンの上で、指が止まった。
これを投稿すれば、終わる。
職も、地位も、信用も。
黒川を含む役員たちも巻き込む。
会社も動く。
自分だけでは済まない。
美緒は菜月を見た。
「投稿したら、あなたは許してくれるの」
菜月は首を横に振った。
「いいえ」
美緒は笑った。
ひどく弱い笑いだった。
「そうだよね」
「でも」
菜月は言った。
「誰かが、次に十一階で止まらなくて済むかもしれません」
美緒は目を閉じた。
投稿ボタンを押した。
*
気づくと、美緒は一階のエレベーターホールに倒れていた。
朝だった。
警備員に揺り起こされた。
「大丈夫ですか?」
美緒は返事ができなかった。
スマホを見る。
投稿は、すでに拡散されていた。
社名は伏せていた。
けれど、読む人が読めば分かる内容だった。
すぐに社内で騒ぎになった。
黒川から電話が来た。
上司からも。
広報からも。
法務からも。
美緒は全部出なかった。
その日の昼、社内チャットに一本の告発文が流れた。
菜月の同期だった社員からだった。
そこには、黒川の発言記録、当時のメール、未払い残業の証拠が添付されていた。
午後には、別の社員が声を上げた。
夕方には、退職者からも連絡が来た。
誰もが、少しずつ何かを持っていた。
消された言葉。
薄められた記録。
なかったことにされた面談。
美緒はそれを見ながら、初めて理解した。
十一階は、最初から存在しなかったのではない。
会社が、存在しないことにしてきた階だった。
潰れた人間。
辞めた人間。
声を上げられなかった人間。
彼らをまとめて押し込めて、案内板から消した場所。
それが十一階だった。
*
数週間後、投稿サイト「夜見帳」に掲載された「存在しない十一階」は、多くのコメントを集めた。
『怪談として怖いけど、会社の話としてもっと怖い』
『人事がこれをするの、リアルすぎる』
『相談窓口って本当に守ってくれるのか考えた』
『助けてくださいを記録に残さないって一番怖い』
『十一階、どこの会社にもありそう』
その中に、一件だけ、エレベーターの表示パネルのアイコンからコメントがついた。
『11階でお待ちしています』
そのコメントは、数分後に消えた。
会社は調査委員会を設置した。
黒川は役員職を退いた。
美緒も処分を受け、会社を去った。
それで何かが解決したわけではない。
菜月は戻らない。
美緒が消した言葉も、完全には戻らない。
それでも、社内のエレベーターにはしばらくの間、奇妙な貼り紙が出た。
十一階には停止しません。
もともと存在しない階なのだから、そんな貼り紙は必要ないはずだった。
けれど社員たちは、その貼り紙を誰も笑わなかった。
*
今でも、そのオフィスビルでは終電後にエレベーターが止まることがある。
表示パネルに、存在しない数字が灯る。
11。
扉が開いても、降りてはいけない。
そこには、あなたが忘れたことにした誰かがいる。
相談を受けたのに流した人。
苦しんでいると知っていたのに黙っていた人。
助けてくださいという言葉を、面倒な報告事項として処理した人。
もし、その階で誰かに名前を呼ばれたら。
どうか、聞こえないふりをしないでほしい。
十一階にいる人たちは、もう助からないかもしれない。
けれど、あなたがその声を記録すれば。
次にエレベーターへ乗る誰かは、十階から一階へ、まっすぐ帰れるかもしれないのだから。




