冷たい影
朝、目を覚ました瞬間、胸の奥に重たいものが沈んでいるのを感じた。
昨日の余韻が、まだ身体のどこかに残っている。指先についたペンキの白い染みは、薄くなっただけで完全には消えていなかった。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、どこか疲れて見えた。眠ったはずなのに、夢を見たような気がする。
けれど内容は思い出せない。
ただ、光の粒が揺れていたような、そんな曖昧な残像だけが胸に残っている。
リビングに行くと、母はすでに起きていた。テーブルの上には、食べかけのトーストと冷めたコーヒー。
母はそれを前にしながら、ぼんやりと窓の外を見ていた。
「おはよう」
声をかけると、母はゆっくりと振り返った。
その目は、どこか遠くを見ているようで、俺を見ていない。
「……おはよう」
それだけ言うと、また視線を窓に戻した。会話はそれ以上続かない。いつものことだ。父はすでに出勤したらしい。食卓の上に置かれた空のマグカップが、父の存在を示す唯一の痕跡だった。
家の中は静かで、冷たい。誰かがこの家の時間だけ止めてしまったみたいだ。
――あの夜から、ずっと。
胸の奥がじんわりと痛む。思い出そうとすると、記憶がざらつく。
光。
手。
泣き声。
誰かの影。
母の叫び。
父の怒鳴り声。
全部が断片で、繋がらない。繋げようとすると、頭の奥がじんじんと痛む。
「星凪、今日……帰り、遅くなるの?」
突然、母が言った。
珍しい。母のほうから俺に話しかけるなんて。
「……分からない。部活あるし」
「そう……気をつけて」
それだけ言うと、母はまた黙り込んだ。その横顔は、どこか怯えているようにも見えた。何に怯えているんだろう。
僕なのか。
父なのか。
あの夜なのか。
それとも――。
胸の奥がざわつく。昨日の弓月先輩の横顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
あの距離。
あの温度。
あの声。
どうして、あんなに心が揺れたんだろう。どうして、先輩を見ると、あの夜の光が蘇るんだろう。
答えは分からない。
でも、今日、先輩に会えば――何かが動く気がした。
学校へ向かう足取りは、いつもより少しだけ重かった。
けれど胸の奥では、何かが静かに脈打っていた。
まるで、あの夜がまた近づいているみたいに。
朝のホームルームが終わり、廊下に出た瞬間だった。
人の流れの中に、弓月先輩の姿が見えた。
昨日と同じ制服。昨日と同じ髪型。でも、昨日とは違う空気をまとっていた。
先輩は俺のほうを見ない。
視線を向ける気配すらない。俺がそこにいないみたいに。
胸がひゅっと縮む。
すれ違う距離まで近づいたとき、先輩の肩がわずかに揺れた。
ほんの一瞬、こちらを見た気がした。けれど、その目はすぐに逸らされた。
「……先輩」
声をかけた。
でも、先輩は歩く速度を落とさない。
むしろ、少しだけ速くなった。
すれ違いざま、先輩の髪がふわりと揺れ、微かな香りが残った。
昨日、あんなに近くにいたのに。
今日の先輩は、手を伸ばしても届かないほど遠い。
胸が痛い。
理由も分からないまま、ただ痛い。
「おいおい星凪、なんやその顔。朝から失恋でもしたんか?」
背後から聞き慣れた声がして振り返ると、進平がニヤニヤしながら立っていた。
「……失恋じゃないよ」
「ほな片想いの悪化か?お前、顔に全部出とるで。“好きな人に避けられました”って書いてあるわ」
「書いてない」
こいつは基本鈍感なのに急に鋭くなる時がある。
「書いとる書いとる。てか、さっき例の会長さんとすれ違っとったやろ?あれは避けられとったなぁ〜」
図星すぎて言葉が出ない。
進平は俺の肩に腕を回し、
「まぁまぁ、話してみぃや」
と促した。
「……昨日、ちょっと話したんだけど。今日はなんか……避けられてる気がして」
「ほぉん。昨日なんかあったんか?」
「いや……別に。ただ、ちょっと近かっただけで」
「近かった? どれくらい?」
「……指先が触れるくらい」
「お前それ“近かった”やなくて“近すぎた”やろ!!」
廊下に響くほどの声で叫ぶな。
「進平、声でかい」
「いやいや、そら避けられるわ。弓月先輩、照れとるんちゃう?」
「……そうかな」
「そうやろ。あの人、たまに影みたいな顔するけど、お前とおるときは柔らかいで。…知らんけど。」
「いつも寝てて昨日初めて知ったくせに。」
「うるせえ!お前もやろ!」
と言いながらも胸がざわつく。昨日の、あの距離の近さ。
あの温度。
あの表情。
そして今日の、あの冷たさ。
「……俺、何かしたのかな」
「お前が? ないない。お前、人に嫌われるようなことできへんやん」
「そんなことないよ」
「あるかい。むしろ気ぃ使いすぎて疲れるタイプやろ、お前」
図星すぎて言葉が出ない。
進平はため息をつき、俺の背中を軽く叩いた。
「まぁ、深く考えすぎんな。会長はんのほうに事情あるんかもしれんし」
「事情……?」
「うん。なんか抱えとる感じするやん、あの人。笑ってても、目が笑ってへんと思ったし。昨日。」
胸の奥がざわつく。
まるで、進平の言葉があの夜の断片を揺らしたみたいに。
光。
手。
泣き声。
誰かの影。
冷たい風。
母の叫び。
父の怒鳴り声。
全部がバラバラで、繋がらない。
繋げようとすると、頭の奥がじんじんと痛む。
「……星凪?」
進平の声で我に返る。
「大丈夫か? 顔色悪いで。考え事か?」
胸がはねた。
進平は僕が何かを抱えているには気づいている。
「……うん。でも、よく分からない」
「無理すんなよ。いつでも話は聞くからな。…ただーし、美術室でな。」
「……うん」
進平は優しい。だからこそ、言えないこともある。
弓月先輩のことも。
あの夜の光景も。
胸の奥のざわつきも。
「とりあえずさ、様子見や。落ち着いたら向こうから話してくるで」
そう言われても、胸のざわつきは消えない。
弓月先輩の背中が、廊下の奥で揺れていた。
その姿が、なぜかあの夜の影と重なる。
どうして。どうして、先輩を見ると、あの夜の記憶が揺れるんだろう。
答えはまだ分からない。でも、確かに何かが動き始めていた。
まるで、星の夜がまた近づいているみたいに。
「はい、席座りなさーい!」
灯の声が教室に響き、ざわついていた空気が少し落ち着いた。進平は「先生でもないのに偉そうやなぁ」とぼやきながら席に戻る。
僕も鞄を置き、椅子に腰を下ろした。けれど、頭の中はさっきからずっと同じところをぐるぐる回っている。
――空閑弓月。
生徒会長。
昨日、あんなに近かったのに。
胸の奥がざわつく。
「星凪、大丈夫?」
灯が心配そうに覗き込んでくる。その顔はいつも通り明るいのに、目だけが少し揺れていた。
「なんか元気ないよ? お腹痛い?」
「……いや、違うよ」
「そっか。ならいいけど」
灯は笑った。けれど、その笑顔はほんの一瞬だけ沈んだように見えた。
僕が気づく前に、灯はまたいつもの調子に戻る。
「でもさ、星凪ってさ、なんか考えごとするとすぐ顔に出るよね。分かりやすいっていうか、その……いや、なんでもない!」
最後の言葉を慌てて飲み込んだ。進平が「ん?」と眉を上げる。
灯は慌てて席に戻り、教科書を開くふりをした。
耳がほんのり赤い。
――灯、どうしたんだろう。
そう思った瞬間、教室の扉が開いた。
「失礼します」
静かな声。
一日来の付き合いのはずなのに聞き慣れた声。
弓月先輩だった。
教室の空気が一瞬だけ張りつめる。生徒会長という肩書きのせいか、彼女が入ってくるだけで場が整う。
昨日の距離の近さが嘘みたいに、今日は凛としていた。
僕の心臓が跳ねる。
先輩は担任と何か短く話し、プリントを受け取ると、こちらに向かって歩いてきた。
――来る。
僕の席の列に。
昨日のこと、何か言われるのか。
それとも――。
期待と不安が入り混じった瞬間、先輩の視線が僕のほうへ向いた。けれど。
目が合った瞬間、すっと逸らされた。
まるで、触れたらいけないものを見るみたいに。
「……」
胸がきゅっと痛む。先輩は僕の机の横を通り過ぎ、後ろの棚にプリントを置くと、そのまま何も言わずに教室を出ていった。
昨日の温度が嘘みたいに、今日は冷たかった。
「……おい星凪」
進平が小声で肘でつついてくる。
「今の、完全に避けられとったな」
「……言うなよ」
「いや言うやろ。友達やし」
その横で、灯は俯いていた。手元のノートをぎゅっと握りしめている。
「……星凪」
灯が小さく呼んだ。
「弓月先輩のこと、そんなに気になるの?」
その声は、いつもの明るさとは違っていた。少しだけ震えていた。
僕は答えられなかった。灯はすぐに笑顔を作り直した。
「ううん、なんでもない! 気にしないで!」
そう言って、また明るい灯に戻る。
でも、その笑顔の奥にあるものは、僕が想像しているものよりもずっと深い気がしていた。
胸の奥がざわざわして、落ち着かない。
弓月先輩のそっけなさ。灯の揺れた瞳。進平の茶化し。そして、頭の奥でまた揺れ始めるあの夜の断片。
光。
手。
泣き声。
誰かの影。
冷たい風。
全部が、どこかで繋がりそうで、繋がらない。
まるで、星の夜がまた近づいているみたいに。




